当団芸術顧問広上淳一が挑戦する演奏会形式オペラのシリーズ「オペラの旅」の第一弾だ。選ばれたのはジュゼッペ・ヴェルディ中期の傑作「仮面舞踏会」である。私には日本フィルという楽団は在京オケの中でもオペラ経験がかなり少ない楽団だという認識がある。だから日フィルとオペラをやることが「育ててくれた日本フィルへの恩返し」だというプログラムに記載されている芸術顧問の言葉にはある意味で大層合点がゆく。つまり小澤征爾が度々言っていたように「オペラとシンフォニーは車の両輪」だからどちらも欠けてはならないということだろう。しかし一方で広上は小澤と同様に決して劇場から出た指揮者ではなくコンクール優勝からシンフォニー畑を歩んできた経歴を持っている。実はそんな彼にどこまでオペラが出来るのだろうというのが正直な印象だった。(2024年に大好評を博したという「道化師」には行っていない)今回オケは普通にサントリーホールの舞台上に配置され、歌手達はオケの前の空間と舞台後方に設置した簡易舞台の両方を行き来して演技する。そしてコーラス(東京音楽大学)をP席に配置。衣装は歴史的とは言わないまでもそれなりの雰囲気をもち、装置は最低限の簡素なものという作りであった。前奏曲が始まった時点でなによりもオケの雄弁さに舌を巻いた。これはヴェルディのオーケストレーションが如実にわかるこの形式(オケがピットを出た)だからこそである。しかしそれのみならずオペラの劇性を心得た広上の捌きがドラマをどんどん推し進めてゆくのである。それは単に伴奏が上手いというレベルを超越した実に立派なドラマ作りであった。そして随所にヴェルディのオーケストレーションの素晴らしさが見え隠れするのがシンフォニー畑の広上ならではの味である。(スケール感はいささか違うけれど、一昨年に”東京の春”で聞いたムーティのそれはそれは見事な「仮面」の演奏会形式を思い出した)今回の歌手陣は、中村恵理(アメーリア)、 宮里直樹(リッカルド)、 池内響(レナート)、 福原寿美枝(ウルリカ)、 盛田麻央(オスカル)、 高橋宏典(シルヴァーノ)、 田中大揮(サムエル)、 杉尾真吾(トム)という顔ぶれだが、そのほとんどは一昨年の宮崎国際音楽祭で同演目を共演している。だから歌手達との呼吸もピタリと合い、歌唱がヴェルディのシンフォニックな響のなかにスッポリと納まってドラマが悲劇的結末に向けてドンドンと展開してゆく心地よさはそうそう聞けるものではなかったろう。朗々と美声を聴かせた宮里、決してフォルムが乱れない最上の強弱コントロールで悲劇を見事に歌い上げた中村、堂々とスタイリッシュに決めた池内、おどろおどろしさを十二分に表現した福原、最高の切れ味を示した盛田等、皆が上出来だった。これだけの仕上がりで聞かせてもらうと次回が楽しみになる。
今年創立100周年を迎えた藤原歌劇団のシーズン幕開けの演目はグノーの「ロメオとジュリエット」だ。よく出来た美しい曲なのだが、我が国では上演機会は決して多くなく新国の舞台にも未だかかったことがない。しかし当団は2003年にサバッティーニとボンファデッリを迎えたトゥールーズ・キャピトル歌劇場との共同制作のプロダクションを上演して話題となったことが記憶にある。今回は”Teatro OPERA Collection”シリーズと銘打った新機軸で、舞台上にオケを上げたセミ・コンサート形式の上演である。この物価高のご時世経費削減の意味合いが強いであろうと想像するが、演奏会形式のオペラ公演は音楽に集中できて決して悪いものではないと思っている。今回はオケを舞台奥に配置し、前方を広くとってそこにそれぞれの場に応じた簡単な設を施す作り。それに両脇にバルコニーと地下の墓場のための階段がある。更に舞台奥の一段高いとことろに合唱が不動で並び、後ろのスクリーンには時々の雰囲気を醸成する映像が映るという具合。その映像は極めて素朴なもので今の技術なら更なる工夫が欲しいと思われたが、その分広くとった前方の舞台では時代的な衣装をつけた歌手達が十分な演技を行うのでストーリーの説明は十分に果たされた舞台になった。演出は重鎮の松本重孝で妥当な流れを作っていた。当初この初日にはロメオ役として先月びわ湖の「死の都」で名唱を披露した清水徹太郎がクレジットされていたのだが、急な病気治療のために降板するという知らせが事前に届いたのには大層驚いた。詳細は知る由もないが十分に療養し、復帰してまた力強い歌唱を聴かせたてもらいたいものだ。その代役ということで当初ティバルトにクレジットされていた渡辺康が急遽抜擢されたが、これが会心の出来だったと言って良いのではないか。決して力まずに低音から高音まで均等な声質で十分に歌い上げることのできる素直なスタイルがとても心地よい。対するジュリエットの光岡暁恵もよく練り上げられた美声と自然なテクニックでそれに応じた。メルキューシオの井出壮志朗とティバルトの工藤翔陽は血気盛んな両役を品格をもって歌い演じ、両家の争いの立ち回りなどはオペラの舞台では滅多にみられないような本気の大迫力だった。伊藤貴之のローラン修道士も確実に場を締め、坂本伸司のキャプレットも味があった。一方山川真奈のステファノはチョット軽やかさに欠けた印象もあった。園田隆一郎指揮するテアトロ・リージオ・ショウワのオケもとてもよかった。舞台上にありながら決して歌を邪魔せずに間延びなく表情豊かに進めてゆくところは流石劇場仕込みのマエストロである。カンタービレが多少イタリア的であったところはご愛嬌であるが、オケを舞台上に設置したこともあってか歌手達との呼吸はピタリと合っていて心地よかった。更に聴衆にとっては舞台がピットを隔てないので歌手達の歌と演技が近く感じられて迫力も直に伝わり、「セミ・コンサート形式」の長所が十分に引き出されたのではないか。悲劇の結末、二重唱に続き息も絶え絶えのジュリエットが息絶えたロメオににじり寄りこと切れる場面では涙を禁じ得なかった。グノーの美しく品格に満ちた音楽と100周年を迎えた藤原歌劇団の実力が作り出した稀に見る感動的な舞台だった。
1993年に鎌倉芸術館の開館記念委託作品として制作初演された三木稔の作品で台本はなかにし礼。今回は新鋭生田みゆき演出によるニュープロダクションだ。(当初は三浦安浩がクレジットされていたが一身上の都合とやらで変更された) 指揮は2019年3月に行われた本協会による再演でも指揮を執り、西洋物でも23年9月藤原歌劇団の「二人のフォスカリ」等で鮮やかな仕切りを見せている田中祐子。源義経と静の悲恋を描いたなかにし礼の脚本は流れが良く、さすがに歌詞もよく聞き取れて全くストレスがない。(今回は英語の字幕付き)三木の音楽は邦楽器や打楽器も多用したものだが、それらはオーケストラの中に自然に落とし込まれて違和感なく効果をあげ、華やかな群衆場面もアリアも盛り込まれた立派なグランドオペラ風作品に仕上がっている。当日の歌手陣は皆自然に歌い自然に演技できる歌役者が揃ったが、歌も容姿も美しい設楽和子の「静」には迫真の演技も相まって思わず感情移入せざるを得なかった。磯の禅師の城守香の存在感もドラマを盛り立て、政子の家田紀子の性格役者振りも舞台を引き締めた。このように概して女声側に目立った歌唱が多かったがそれは書き方のせいかもしれない。その他配役は義経に海道弘昭、頼朝に村松常夫、弁慶に杉尾真吾、大姫に別府美紗子、梶原景時に角田和弘等々。とりわけ印象に残った場面は第三幕第四場の静の自死の場面だ。ここでは沖縄風の五音階の美しいアリアと琉球風の波紋様の背景が不思議な明るさを醸し出し悲恋の結末としての「愛の死」を美しく描き切った。(為朝の沖縄伝説は知られているが、義経とはどういう関係なのかは不明)そして最後は声明が流れて幕となる。約3時間の大作ではあるが全く退屈することなく見通せたのは構成の上手さと、舞台の美しさと、そして当日の秀でた演奏のおかげだろう。名作と巡り合って「創作オペラ」の持つ力と可能性をあらためて感じた次第。
2021年7月に初演されたアレックス・オリエのプロダクションが3年振りに再演された。指揮はコロナ禍で外人指揮者の欠場が相次いだ時期に日本に残留して強い助っ人として活躍したことが思い出されるガエターノ・スピノーザだ。実は本舞台初演後に行われた「高校生のための公演」で、指揮沼尻竜典、カルメン山下牧子、ドン・ホセ村上公太、エスカミーリオ須藤慎吾、ミカエラ石橋栄実という顔ぶれで観ていたプロダクションだ。しかし今回はコロナ禍で動きに制限の多かった初演時とは別の舞台と考えたほうが良いだろう。設定は現代日本で、カルメンは来日したロックバンドの人気歌手、エスカミーリオはその警護にあたる警察官の一人。そしてこのバンドは実は密輸にも加担しているという話になる。決して読み替えではなく脚本の要点はきちんと踏襲した分かり易く退屈しないとても秀でたプロダクションだった。歌手も皆良く歌い演じて相対的にとても楽しい舞台によく仕上がっていた。外題役のサマンサ・ハンキーは美声で容姿も悪くないのだが、ロールデビューのせいか今ひとつ悪女になりきれずカルメンとして決まらずに物足りなさが残った。エスカミーリョのルーカス・ゴリンスキーは堂々とした美声を聴かせた。ドン・ホセのアタラ・アヤンは決して美声というわけではないが伸びもあり表現も豊かで説得力ある歌唱だった。私としてはこの日一番の出来はミカエラの伊藤晴だったと感じた。硬質で良く通る歌唱を駆使した楚々としつつも芯に強さを秘めた役作りは手紙をホセに渡す場面と母親が重篤な病であることを知らせる場面で涙を誘った。伊藤は2020年8月の藤原歌劇団公演でも優しくも強いミカエラを歌い演じたが、今回はその方向性の完成版と言ってもよいだろう。その他の日本勢はスニガに田中大揮、モラレスに森口賢二、ダンカイロに成田博之、レメンダードに糸賀修平、フラスキータに冨平安希子、メルセデスに十合翔子という顔ぶれで、とりわけ女声陣は主役を食う程の充実した歌唱だったので五重唱や「カルタの歌」はとても聞き映えがした。この劇場の合唱はいつも充実しているが、今回はTOKYO FM少年合唱団をも含めてとても美しく輝かしかった。スピノーザの決して手抜きのない緩急自在のピットも極めて効果的で、この指揮者のオペラへの適性を強く感じさせた。
昨年の「ばらの騎士」に続くびわ湖ホール芸術監督阪哲朗プロデュース・オペラの第二弾はコルンゴルドの「死の都」である。とは言え今回のプロダクションは2014年3月8日に新国の初演に4日先立って日本初の舞台上演となった故栗山昌良によるプロダクションを岩田逹宗が再演出したものだ。初日の今日は何よりパウル役のびわ湖声楽アンサンブル出身の清水徹太郎が声、演技ともに大層充実した出来栄えを示し全体を強く牽引した。対する友人フランクの黒田祐貴は渋い歌と演技で大きな存在感を示した。マリー/マリエッタ役の森谷真里は幕を追う毎に迫力を増してゆき、終幕で自分の恵まれぬ人生を語る件(くだり)以降は正に鳥肌の立つ程の絶唱だった。侍女ブリギッタの八木寿子は深い美声と冷静沈着な役作りで脇を固めた。その他ユリエッテに船越亜弥、ルシエンヌに森季子、ガストン/ヴィクトリンに晴雅彦、アルベルトに伯与儀功、それにびわ湖声楽アンサンブル、大津児童合唱団、京都市交響楽団という顔ぶれだ。阪の流麗な指揮は、ダイナミックにオケを駆り立てながらも完璧なバランスを保ちつつこの作曲家の音楽の秘める後期ロマン派の魅力を存分に届けてくれた。これこそカペルマイスターの仕事である。ただ問題は演出にあった。これは11年前の初演の時にも感じたことではあるが、まるで能舞台のように登場人物達が正面を向いてほぼ対峙しないスタティックな様式は、西洋のダイナミックな音楽作品には不釣り合いで全く説得力を持たないと私は感じる。今回再演出にあたった弟子筋の岩田逹宗はワークショップでそれを「表現主義」と解説していたが、私にとってそれでは視覚的リアリティを感じることができず、感じるのはストレスだけだった。折角素晴らしいキャストを揃え、素晴らしい装置と照明を用意し、風光明媚な立地的にも機能的にも世界に誇れる素晴らしい劇場がその舞台機構をフルに活用した公演だったにもかかわらず、これはたいへん残念なことであった。
国内オケから引くて数多(あまた)の沖澤のどかをピットに迎えたビゼー作曲の歌劇「カルメン」である。なので期待に胸を膨らませて臨んだのだが、二幕終盤のホセとカルメンの二重唱(No.16)前までは全くつまらなかった。その原因は明確で、レチタティーボ、あるいは台詞を全く取り去るという、まるでハイライト版の音盤を聞いているようなその構成にあったのではないか。ここまでの音楽ではそれらを取り去るとアリアの背景にあるストーリーが分からず聞く側が音楽に感情移入しにくくなるのだ。それではオペラは成立しないのではないだろうか。だから正直これほど退屈に感じられたカルメンは初めてだった。しかしそれ以降は歌詞がストーリーを語る部分が出てくるのでようやくドラマが成立し、同時に舞台にも熱気が出て少しはオペラらしくはなった。しかし一方で歌唱が皆スケール感に乏しく、血湧き肉踊る「カルメン」にはなりようが無かった。そんな中ではミカエラを歌った宮地江奈の切々とした歌唱は印象に残った。カルメンの加藤のぞみは日本人離れした演技と無理のない歌唱で悪くはなかったが、決して特段の存在感を感じられるまでには至らなかった。注目の沖澤の指揮は丁寧で繊細なシンフォニックな音楽を作っていて、聞いたことのないような声部がピットから聞こえてきたりはしたが、非力な歌声とのバランスをとったためかいささか迫力に不足し、ドラマを十分には語り尽くしてはいなかった。イリーナ・ブルックの演出は、無国籍にしたりジプシー臭を避けたりした割には特段の主張もなく、色彩と変化に乏しい魅力のない舞台だった。こんなことなら、エーザー校訂版で普通にやってくれたほうがどれだけ良かったか。そうすれば歌手たちの歌もさぞ映えただろうと思う。どうも最近の東京二期会は時として凝り過ぎの感がある。
今年創立90年を迎えた藤原歌劇団が年頭に放つ舞台はヴェルディ晩年の傑作「ファルスタッフ」のニュープロダクションだ。2015年1月のアルベルト・ゼッダ+粟國淳による名舞台以来10年ぶりの登場となる。”ニュープロダクション”を謳いながらも、実は昨年暮れに神戸文化ホール開館50周年記念として上演された同じく岩田達宗のプロダクションの舞台装置を流用し、照明と衣装はオリジナルという中々工夫された公演である。更に言えばその衣装に関しては我が国舞台衣装のレジェンド緒方規矩子氏がかつて「ウインザーの陽気な女房達」(たぶん藤沢市民オペラ)のために作ったものの再利用だという。(私の初めてのオペラ体験であった1969年の藤原「カルメン」の衣装も思い返せば緒方さんだったのだ!)これはある意味「使い回し」ではあるが、今回に関して言えばそれらは優れた質感を感じさせるものでむしろ歓迎したいとさえ感じさせた。本日二日目の配役はファルスタッフ押川浩士、フォード森口賢二、フェントン清水徹太郎、アリーチェ石上朋美、ナンネッタ米田七海、メグ北薗彩佳、マダム・クイクリー佐藤みほ、カイウス及川尚志、バルドルフォ川崎慎一郎、ピストーラ小野寺光、ロビン田川ちか、ピットは時任康文+東京フィル、演出は岩田宗逹という顔ぶれ。全体的な印象としては、よく作り込まれた岩田演出の下で、イタリア物の「藤原」の歌役者達が実に闊達に歌い演じて大変に見応えのある舞台を見せてくれたと言って良いだろう。何より快活とノーブルを合わせ持った押川の存在感、そして森口は直情的な歌唱と演技でそれに十分に対峙した。石上の押しの強い歌と演技は全体の華となり、この歌手の芸達者振りを感じさせた。そよ風のような米田と清水の爽やか歌唱もおおきなアクセントとなった。黙役ロビンをファルスタッフの分身としてバレエ(パントマイム)で演じさせ、ファルスタッフの心象を都度可視化してゆくアイデアは絶妙なしかけで、田川の秀でた表現力が効果を発揮してファルスタッフの心内を何倍にも表現して一本の柱となった。一方時任が率いるピットは全体を歯切れよくテキパキと運んで好感は持てたのだが、いささかニュアンスが一面的なようにも聞こえ物足りなさもあった。ともあれ最初にも書いたように相対的には素晴らしい仕上がりだったことは確かだ。正直西洋の喜劇的作品を邦人キャストだけでここまで見事に違和感なく舞台に出来たということは、やはり90年の歴史が成せる技なのだなあと感慨深い想いで夕闇の東京文化会館を後にした。新しい監督の下この勢いで実り多い100年を目指していただきたい。
開館以来27年を経た新国立劇場だが、この間に本舞台で取り上げられたロッシーニは「セビリア」と「ラ・チェネレントラ」2演目のみという寂しい状態だった。しかし3演目目にまさかこの作曲家最後の大作「ウイリアム・テル」が選ばれるとはいったい誰が想像したことだろう。まさに大野和士オペラ芸術監督の快挙である。本格舞台初演は1983年の藤沢市民オペラによる邦語訳版だったが、今回は日本舞台初演となるフランス語版である。(2010年にアルベルト・ゼッタが東フィル定期でフランス語版を抜粋の演奏会形式で演ったことはあった。先般早逝された牧野正人さんがテルを朗々と歌っていたことを懐かしく思い出す。)今回は大野監督自ら指揮する東フィルがピットに入り、演出はヤニス・コッコスである。何よりもロッシーニの音楽が凄かった。感情の機微はあまり音楽に投影されず、アジリタの技巧中心に感情を表現するという典型的なロッシーニ・スタイルを完全に過去のものとし、メロディーとハーモニーが感情を切々と表現するロマン派の領域に入った音楽にほぼ全編が貫かれているのだ。ロッシーニの後期はとりわけこのようなスタイルに移行してゆくのだが、この演目はセリアではなく圧政に苦しむ民衆が自らの意志で自由を獲得するという人間ドラマなので、顕著にそうした性格が音楽に顕われることになるのだろう。ただオーケストレーションの厚みとかハーモニーの多様性というような部分ではまだまだ完全なロマン派になり切っていないのは事実だが、時代を超越した大きな進歩が聞き取れたことは大層の驚きであった。歌手で良かったのは何と言ってもまずアルノルド役のルネ・バルベラで、最後まで驚異的と言って良いほどの充実した歌唱を聞かせた。その恋人のマティルド役のオルガ・ぺレチャッコはいささか疲れがあったのか低い音が響かなかったし、この作品唯一のアジリタ・アリアでも歯切れの良さを欠いた。テル役のゲジム・ミシュタケは終始安定的で全く不安の無い立派なタイトルロールだった。そして彼を含めてその息子の安井陽子と妻の齊藤純子の「家族トライアングル」が良くバランスした充実した歌唱と演技だった。だから民衆を代表する家族にスポットがあたりドラマに大きな説得力を与えた。悪代官役の妻屋秀和とその家来役の村上敏明も憎々しく役を演じ、テルの同士フュルスト役の須藤真悟もいつもながらに実力を発揮した。指揮の大野はほぼ過不足なく長丁場を停滞なく進めはしたが、私はRAI(イタリア放送協会)の放送終了の音楽にも使われている(いた?)第四幕のあの感動的なワーグナーを思わせるフィナーレのテンポにいささかの味気なさを感じてしまった。コッコスの舞台は美しく穏当なもので十分な説得力を持っていた。そして序曲の最中から描写的背景を舞台化することで、全体の中でしばしば違和感を禁じ得ない有名な序曲を本編と一体化して聞かせることに成功していた。ただバレエで女性蔑視的な表現が長々と繰り返されたことには、意図的だとは言え辟易とした。村人の解放を喜ぶべきフィナーレがそれだけでは終わらず、爆撃された廃墟が投影され消えていったのは、歴史は繰り返すという今でこその教訓的メッセージと受け止めた。ほぼ全曲にわたり大活躍した新国立劇場合唱団にも大きな拍手を送りたい。実はこのオペラは「オランダ人」や「ローエングリーン」や「タンホイザー」以上に合唱オペラだったのだ!ホアイエと5階情報センターで開催されていたロッシーニ研究家水谷彰良氏監修のとても充実した個人コレクションを中心とする展示は、貴重な初版楽譜や実筆書簡等の数々を閲覧できる絶好の機会を与えてくれて観劇の臨場感が大いに高まった。
この秋は私にとってベルカントオペラ満載の嬉しいシーズン開幕だ。新国の「夢遊病の女」に続いて、今日は日生劇場のドニゼッティ「連隊の娘」である。今回の粟國淳演出、イタロ・グラッシ美術、武田久美子衣装のプロダクションは、まるでおもちゃ箱をヒックリ返して出てきた人形達によって繰り広げられるファンタジーのような思いっきりキュートでポップなもの。世界各所で戦火が絶えないこの時代、リアルな軍隊や制服を一切登場させないこのアイデアは観る者に優しく、同時にとても効果的だったと思う。これにより連隊の中で一人の娘が兵士達によって育てられるといういささか現実離れした筋書きもすんなりと受け入れられる夢の中の物語と化し、観衆はストーリーに内在するほのかなペーソスと喜びを素直に受け入れられたのではないか。そうした一見ドニゼッティの古典的な音楽には場違いに感じられた設も、躍動感に満ちた舞台を観ているうちに何故か目に馴染んできたのは見事に仕組まれた粟國マジックだったのだろう。原田慶太郎+読売日響のピットは最初はいささか力み過ぎで、まるで交響曲を聞くように響きブッファの楽しさとは程遠いものがあったが、歌手たちの良い歌につられて次第に軽快で心楽しいものになっていった。今回がオペラデビューだというマリー役熊木夕茉の綺麗に良く伸びて繊細さも併せ持つ爽やか歌唱と演技や、トニオ役の小堀勇介の無理なく美しく伸びる高音は素晴らしかったし、シェルピス役町英和と侯爵夫人役鳥木弥生の性格的歌唱も良いアクセントとして光っていた。そして忘れてはならなのは兵士役のカレッジ・シンガースで、彼らも歌役者としても大活躍して舞台を大いに盛り上げた。今回あえてオペラ・コミックスタイルのフランス語上演にしたのは誠に快挙だったと言って良いであろう。しかし台詞の多い舞台は日本人歌手にとってはかなり過酷だったと思う。決して本場と比べることは出来ないが皆健闘していた。その中では小堀が流麗さでは群を抜いていた。小堀は一幕最後の有名なアリアでハイCを見事に輝かしく連発し会場を大いに沸かした。そしてこの日は指揮者に促されてアンコールのサービスまであったのには驚いた。一方聞かせどころの終幕のしっとりとしたロマンスではいささか安定を欠いてしまったのはとても残念だった。(アンコールで喉を消耗してしまったのではないかな)とは言えそんなことは些細なことで、全体として心楽しくちょっとしみじみした大人のファンタジーとしても良く纏まった秀逸な舞台だったと言えるだろう。この舞台は同時に「日生劇場オペラ教室」として中高生達にも公開されるのだが、こんな上質な舞台でオペラの初体験をすることができる生徒達は幸せである。彼らのうちの一人でも多くが「劇場」を支える将来のオペラファンになってくれることを期待したい。
開場以来27年を経た新国立劇場の本舞台についにベッリーニが初登場した。これは驚くべきことで、日本のオペラ界がモーツアルトとヴェルディとワーグナー一辺倒でいかに「ベル・カント・オペラ」を軽視してきたかという証だと言って良いだろう。しかし一方で藤原歌劇団は1979年以来3回も「夢遊病」を上演し続け、その時々での最良の舞台を届けてくれているという事実もある。だからこれは、「日本のオペラ界」ではなく「新国立劇場」と言い直した方が良いかもしれない。しかし大野和士オペラ芸術監督の下でこうした日を迎えたからには、今後は毎シーズンに1演目くらいはベルカント物を組み入れてもらいたいと願うばかりである。(参考までにこれまで新国の本舞台にはドニゼッティは「愛の妙薬」(4シーズン)、「ルチア」(3シーズン)、「ドン・バスクアーレ」(2シーズン)の3演目、ロッシーニは「セビリアの理髪師」(8シーズン)、「ラ・チェネレントラ」(2シーズン)の2演目しかかかっていない)さて今回の待望の「夢遊病の女」だが、バーバラ・リュック演出のプロダクションでマドリードのレアル劇場、バルセロナのリセウ劇場、パレルモのマッシモ劇場との共同制作である。今回の演出上の特色は主人公アミーナの「夢遊病」発病の原因に立ち返り、ストーリーに病理学的観点を組み入れたことであろう。彼女はその孤児という出自から常に村人から阻害されて育った人間として描かれる。そして本来そんな境遇の慰めとなるべき愛人のエルヴィーノからも一度は捨てられて自暴自棄になりそれらが原因で夢遊病を患うという設定なのだと考えられよう。つまりスイス・アルプスの麓の山村におけるハッピーエンドのたわいないお話という単純な仕立てとは全く違う、極めて深刻な社会問題がそこに提示されるのである。常にアミーナにつきまとう舞踏集団の怪しげな動きは彼女の心の内面を表すのだろうし、常に鉄仮面を被ったような無表情で威圧的な村人達の存在(合唱団)は阻害の象徴だろう。そして普通ならば村人達から祝福されて終わる華やかな大団円ではついに自死の結末が暗示されることになる。代役の若手クラウディア・ムスキオはまさにアミーナに相応しい優しく繊細で美しく伸びやかな歌唱で聴衆の心を掴んだ。ベテランのアントニーノ・シラクーザは還暦を迎えたとはとても信じられない美声で見事な高音を聞かせた。お馴染み妻屋秀和も朗々たる伸びやかな美声で外国勢に立派に対峙した。伊藤晴のリーザはちょっと力が入り過ぎて伸びやかさに欠けたが、それは役作りのせいだったのかも知れない。谷口睦美のテレーザは役どころを締め、アレッシオの近藤圭もスタイリッシュな美声できめた。ベルカント・オペラのベテランであるマウリツイオ・ベニーニのピットは東フィルから繊細極まる表現を引き出し職人的な手腕で歌手達を支えた。出番の多かった新国合唱団はあえて無表情な唄を歌うという困難を見事にやり遂げた。そんな意味で音楽的にはとても満足できる仕上がりではあったのだが、2幕フィナーレの喜びの絶頂を歌うアミーナによるカヴァレッタの鮮やかな装飾音が暗澹たる舞台に虚しく響き渡るのを聞くのは大層辛かった。ストーリーを深堀りするも結構だが、私にはベッリーニの珠玉のような音楽が置き去りにされてしまっているように思えた。
東フィルの定期演奏会には毎年名誉音楽監督チョン・ミョンフン指揮するオペラが組み込まれるのがこのところの定番となっている。今年はヴェルディの「マクベス」(1865年パリ改定版)である。「ファルスタッフ」、「オテロ」とここ二年程連続でヴェルディのシェークスピア物をやっていて今年がその最後の年ということになる。結果として一番若書きのこの作品が最後になったが、シェイクスピアを熱愛したヴェルディが満を辞して世に問うたこの力作の音楽史的意味は、「トリ」を努めても良い程に大きいであろう。声楽陣はマクベスにセバスティアン・カターナ、マクベス夫人にヴィットリア・イェオ、バンクオーにアルベルト・ベーゼンドルファー、カウダフにステファノ・セッコ、マルコムに小原啓楼、侍女に但馬由香、それに新国合唱団という十分な布陣。毎度のことだが、全体として厳しい集中力で遺憾無くドラマを紡ぎ出すミョンフン独特の運びが、歴史上の命題である権力欲の結果の陰惨な結末をヴェルディの音楽から見事に描き出した。それは露骨な権力欲が世界戦争への発展を予感させるようなこの時代にはとりわけ強く聴衆の心に響いたはずだ。演奏会形式ではあったが歌手達は舞台の下手から上手までを使って縦横に動き回って視覚的なドラマ性も十分に担保され、むしろ凡庸な演出の舞台を見るよりも余程説得力があった。ただミョンフンの運びについて言えば、第二幕のアンサンブル・フィナーレのような所では、音楽があまりにもサクサクと前へ進んで行ってしまうものだから、重層的なスケール感のようなものがいささか乏しくなってしまった気もした。歌手達は適材適所の布陣で皆良かったが、あえて言えばイェオには明らかに低音の響きが不足していた。声楽的に中々難しい声域なので高音と低音の両立は難しいであろうが、激しい高い声だけの勝負では中々この役には辛いところがある。セッコの4幕のアリアは良かった。この歌は新々の若手が歌うケースも良くあるが、さすがベテランが歌うと名曲が一段と輝く。
昨年に続いて今年もアドリア海に面したイタリアのリゾート地Pesaroで毎年開催されているロッシーニ・オペラ・フェスティバルにやってきた。今年は滞在期間中にオペラ5演目とリサイタル1つを大いに楽しんだ。まず到着の翌日8月17日の午後は、昨年「パルミラのアウレリアーノ」で素晴らしい歌唱を披露してくれたスペイン出身のメゾ・ソプラノSara Blanchのリサイタルだった。曲目はロッシーニ、ベルリーニ、ドニゼッティの歌曲とオペラ・アリアで構成されていた。その自然体で流麗な歌唱は甘美な香りを会場一杯に漂わせ聴衆を魅了した。最後に置かれた「イタリアのトルコ人」からのフィオリッラのアリアは来年のこの役での登場を予想させるものだった。(考え過ぎか?)続いてこの日の夜は、後年の傑作「エルミオーネ」の新プロダクションだった。A.バルトリ(エルミオーネ)、V.ヤロヴァヤ(アンドローマカ)、E.スカーラ(ピッロ)、J.D.フローレンス(オレステ)等の名歌手による声の饗宴は正に夢の様。M.マリオッティの指揮するRAI(トリノ)のオケの間然とするところのない伴奏に導かれ、ヴェルディの「オテロ」をも先取りしたような天才ロッシーニの筆致が舞台に響いた。J.アラースの演出には多少解りにくいところもあったが、この名演の前ではそんなことはどうでも良かった。翌18日は名匠P.L.ピッツィによる2018年のプロダクションによる美しくスタイリッシュな「セビリアの理髪師」の再演である。J.スワンソン(伯爵)、A.フロンチク(フィガロ)、C.レポーロ(バルトロ)、M.ペルトゥージ(バジーリオ)等による若く活気に満ちた舞台は動きが溌剌としていてとても楽しかったし、ピッツィの舞台の隙のない美しさにはイタリア美学の粋を感じた。しかしロジーナ役のM.カタエヴァの歌唱が私にはスタイルを外しているように聞こえたし演技にはいささか品が無かった。それにL.パッセリーニの指揮のOrchestra Sinfonica G.Rossiniが余りにもガサツな伴奏ぶりでとても残念だった。翌19日の午前中は恒例のアカデミーの生徒17人による「ランスへの旅」だった。2001年以来続いているE.Sagiによる衣装も装置も真っ白な舞台は、これから様々な色を獲得して世界に羽ばたくであろう未来ある生徒たちを象徴するのだろう。この日は二回ある公演の二日目で、同じ生徒達が役を変えて登場する仕組みなのだ。生徒達は皆若々しく活き活きと良い歌を唄っていた。中にKilara IshidaそしてNanami Yonedaという二人の日本人と思しき名前がクレジットされていた。そしてこの日の夜は待望の我が脇園彩がファッリエッロ役でロールデビューする「ビアンカとファッリエーロ」だった。これはJ.L.グリンダによる美しく周到に考えられた新プロダクションである。名匠R.アッバード指揮するRAIのオーケストラがピットに入り、J.プラット(ビアンカ)、D.コルチャック(コンタレーノ)、G.マノシュヴァリ(カッペリオ)という布陣は全く文句のない秀でた歌唱と演技。彼らの美声による見事なアジリタの応酬を聞かされると、そのロッシーニ独特のスタイルに強い説得力を感じることが出来た。そんな中で脇園は良く健闘したと言って良いだろう。他の名歌手に比較してしまうと多少声の突き抜けには不足したとはいえ、余裕を持ってアジリタを展開し、そのずば抜けた技術力と堂々たる舞台姿は感動的であった。このロッシーニの本場に集ったロッシーニ好きの聴衆からの大喝采の中に一緒に身を置き、日本人としてこちらの胸も熱くなるのを感じた。そして21日に最後に観たのは2019年にROFプリミエの若書きの作品「ひどい誤解」の再演だった。前回はVitrifrigo Areneという体育館に仮設された横長大舞台で上演されたのだが、今年はこじんまりとTeatro Rossiniでの上演になり、ぐっと凝縮された舞台は楽しく観ることが出来るものだった。エルネスティーナにM.バラコヴァ、ガンベロットにN.アライモ、ブラリッキオにC.パチョン、エルマンノにP.アダイーニと配役に人を得、M.スポッティ指揮のFilarmonica G.Rossiniのピットも秀で、M.レイザーとP.コリエのいささか下品で卑猥な脚本をきれいにリファインした気の利いた演出ともどもブッファの真髄を感じさせる秀でた舞台となっていた。こうして今回もあっと言う間に夢のような五日間が過ぎ去って行って、明るく軽やかでキラやかな響きだけが心と耳に残っている。来年のオペラは「ツェルミーラ」(新作)、「アルジェのイタリア女」(新作)「イタリアのトルコ人」の3演目だそうだ。今から待ち遠しい。
この宮本亜門のプロダクションは、残されたピンカートンの息子が、父であるピンカートンの重篤な病床で、それまでの蝶々さんとの顛末を記した手紙を遺書として渡されるところから始まるのだが、そのプロダクションの2019年のワールド・プリミエが余りにも素晴らしかったので、その感動をもう一度という思いで出かけた。ドレスデン、サンフランシスコの舞台を経て、それなりに進化した舞台は納得できるものだった。しかし今回は歌手の力不足が目立った。東京文化会館の2階右で聞く限り、全員声量が全く不足しているのが極めて残念だった。蝶々夫人の高橋絵里は演技はとても良いのだが、声は張り上げると聞こえるがそうでないと力が急に減衰してほとんど聞こえない。何より声に響きがないのが致命的だ。ピンカートンの古橋郷平は常に非力で歌唱も演技も精彩に欠ける。(終幕の松葉杖の使い方などは論外。誰か指導しなかったのだろうか。)そしてピンカートンの与那城敬は重厚感に欠けるので、シャープレスの重要な役割が欠損するという具合なのだ。更にスズキの小泉詠子も説得力に乏しい歌唱。このように歌唱的・演技的にそれぞれの役割がきちんと果たせていないので、オペラとしてのドラマがなかなか成立しない結果になった。だからエッティンガー+東フィルの感情豊かな伴奏だけが虚しく響く誠に残念な公演となった。若手の実力を聞きたくてあえて裏キャストを選んだのだが、こんな仕上がりを許すことで東京二期会は大丈夫なのだろうか。
2000年9月のプリミエ公演以来、ほぼ四半世紀に渡って幾度となく新国の舞台にかかり続けているアントネッロ・マダウ=ディアツの名物舞台である。私自身、その初演及び翌々年5月のノーマ・ファンティーニの舞台以来3回目となる実に久方ぶりの参戦である。この日もほぼ満員の入りでオペラパレスは賑わっていた。細部まで写実的に確りと作り込まれた舞台は、新国の舞台機構を存分に使った変化に富んだ舞台転換の動きも伴って、視覚的にはゼッフィレッリの「アイーダ」に決して負けないゴージャスなプロダクションなのではないか。だから歌手と指揮者に人を得れば、これぞオペラという大きな感動が約束されたようなものなのだが、今回はいささか不満の残る仕上がりであった。カヴァラドッシ役のテオドール・イリンカイの高音は他を圧する力強さで響き渡るのだが味わいに乏しく、私にはいささか喧しくさえ聞こえた。そしてトスカ役のジョイズ・エル=コーリーの声質はちょっとくぐもっていて明瞭さを欠き、同時に歌唱にあまり感情が乗ってこないのである。だから聞かせ所のデュエットもこちらの心にあまり響かない。スカルピアを演じた青山貴は代役のハンディがありながら健闘し、三役の中では一番のスタイリッシュな美声を聞かせはしたが、歌も演技もいささか一面的だったのが残念だった。何より栗山昌良演出よろしく正面を向いて歌うことが多く、それではトスカとの緊張感を持った責めぎ合いを含む二幕のドラマが上手く成立しない。一方アンジェロッティ役の妻屋秀和を含む日本人脇役は安定的な出来で主役連を支えた。そんな訳で今回最も良くドラマを伝えたのは名匠マウリツイオ・ベニーニ率いる東フィルだったのではないか。プッチーニのオーケストレーションの繊細さを見事に引き立たせると同時に、ダイナミックな部分では重くならずに十分鳴らしながら、しかし決して歌唱を邪魔しない実に見事な職人技には恐れ入った。
ヴェルディをひたすら愛する山島達夫氏により創設されたヴェルディ上演専門のアリドラーテ歌劇団によるヴェルディ作曲「シチリアの晩鐘」の”バレエ〈四季〉完全版を伴う東日本初演”である。全5幕の「グランドオペラ」で、当日の演奏時間は4時間半を超えた。配られたプログラムにはカラーイラスト付きの懇切丁寧な筋書きが添えられていて山島氏の「ヴィルディ愛」をひしひしと感じた。主要配役はエレナに石上朋美、モンフォルテに須藤慎吾、アッリーゴに村上敏明、プローチダにデニス・ビシュニャと、藤原歌劇団のベテラン勢で固められ、それに大規模な合唱とバレエが加わった。とにかく重鎮の須藤と村上が全体を牽引、とりわけ第三幕のモンフォルテが孤独を歌うアリア「腕には富を」とそれに続く二重唱は聞き物だった。石上も最初はビブラートの多様が気になったが後半には改善されていった。バレエを考慮してか新国中劇場の舞台を一杯に使ったが装置がほぼ無いので、ビジュアル的には散漫でとても寂しい印象を与えたが、最後のドンデン返しの大反乱の結末のためにも大スペースが必要だったのかもしれない。創設者の山島達夫指揮のオケ伴にはもう少し精緻な音楽を望みたかったが、ここまで「愛」を貫いた大作上演には心からの敬意を表したい。しかし2003年びわ湖ホールでの若杉弘による日本初演の時も感じたことだが、結末があまりにも唐突すぎる。今回も突然の大反乱と殺戮に呆気に取られているうちに幕が降りた。ヴェルディさんどうにかならなかったのだろうか。