今年創立100周年を迎えた藤原歌劇団のシーズン幕開けの演目はグノーの「ロメオとジュリエット」だ。よく出来た美しい曲なのだが、我が国では上演機会は決して多くなく新国の舞台にも未だかかったことがない。しかし当団は2003年にサバッティーニとボンファデッリを迎えたトゥールーズ・キャピトル歌劇場との共同制作のプロダクションを上演して話題となったことが記憶にある。今回は”Teatro OPERA Collection”シリーズと銘打った新機軸で、舞台上にオケを上げたセミ・コンサート形式の上演である。この物価高のご時世経費削減の意味合いが強いであろうと想像するが、演奏会形式のオペラ公演は音楽に集中できて決して悪いものではないと思っている。今回はオケを舞台奥に配置し、前方を広くとってそこにそれぞれの場に応じた簡単な設を施す作り。それに両脇にバルコニーと地下の墓場のための階段がある。更に舞台奥の一段高いとことろに合唱が不動で並び、後ろのスクリーンには時々の雰囲気を醸成する映像が映るという具合。その映像は極めて素朴なもので今の技術なら更なる工夫が欲しいと思われたが、その分広くとった前方の舞台では時代的な衣装をつけた歌手達が十分な演技を行うのでストーリーの説明は十分に果たされた舞台になった。演出は重鎮の松本重孝で妥当な流れを作っていた。当初この初日にはロメオ役として先月びわ湖の「死の都」で名唱を披露した清水徹太郎がクレジットされていたのだが、急な病気治療のために降板するという知らせが事前に届いたのには大層驚いた。詳細は知る由もないが十分に療養し、復帰してまた力強い歌唱を聴かせたてもらいたいものだ。その代役ということで当初ティバルトにクレジットされていた渡辺康が急遽抜擢されたが、これが会心の出来だったと言って良いのではないか。決して力まずに低音から高音まで均等な声質で十分に歌い上げることのできる素直なスタイルがとても心地よい。対するジュリエットの光岡暁恵もよく練り上げられた美声と自然なテクニックでそれに応じた。メルキューシオの井出壮志朗とティバルトの工藤翔陽は血気盛んな両役を品格をもって歌い演じ、両家の争いの立ち回りなどはオペラの舞台では滅多にみられないような本気の大迫力だった。伊藤貴之のローラン修道士も確実に場を締め、坂本伸司のキャプレットも味があった。一方山川真奈のステファノはチョット軽やかさに欠けた印象もあった。園田隆一郎指揮するテアトロ・リージオ・ショウワのオケもとてもよかった。舞台上にありながら決して歌を邪魔せずに間延びなく表情豊かに進めてゆくところは流石劇場仕込みのマエストロである。カンタービレが多少イタリア的であったところはご愛嬌であるが、オケを舞台上に設置したこともあってか歌手達との呼吸はピタリと合っていて心地よかった。更に聴衆にとっては舞台がピットを隔てないので歌手達の歌と演技が近く感じられて迫力も直に伝わり、「セミ・コンサート形式」の長所が十分に引き出されたのではないか。悲劇の結末、二重唱に続き息も絶え絶えのジュリエットが息絶えたロメオににじり寄りこと切れる場面では涙を禁じ得なかった。グノーの美しく品格に満ちた音楽と100周年を迎えた藤原歌劇団の実力が作り出した稀に見る感動的な舞台だった。
1993年に鎌倉芸術館の開館記念委託作品として制作初演された三木稔の作品で台本はなかにし礼。今回は新鋭生田みゆき演出によるニュープロダクションだ。(当初は三浦安浩がクレジットされていたが一身上の都合とやらで変更された) 指揮は2019年3月に行われた本協会による再演でも指揮を執り、西洋物でも23年9月藤原歌劇団の「二人のフォスカリ」等で鮮やかな仕切りを見せている田中祐子。源義経と静の悲恋を描いたなかにし礼の脚本は流れが良く、さすがに歌詞もよく聞き取れて全くストレスがない。(今回は英語の字幕付き)三木の音楽は邦楽器や打楽器も多用したものだが、それらはオーケストラの中に自然に落とし込まれて違和感なく効果をあげ、華やかな群衆場面もアリアも盛り込まれた立派なグランドオペラ風作品に仕上がっている。当日の歌手陣は皆自然に歌い自然に演技できる歌役者が揃ったが、歌も容姿も美しい設楽和子の「静」には迫真の演技も相まって思わず感情移入せざるを得なかった。磯の禅師の城守香の存在感もドラマを盛り立て、政子の家田紀子の性格役者振りも舞台を引き締めた。このように概して女声側に目立った歌唱が多かったがそれは書き方のせいかもしれない。その他配役は義経に海道弘昭、頼朝に村松常夫、弁慶に杉尾真吾、大姫に別府美紗子、梶原景時に角田和弘等々。とりわけ印象に残った場面は第3幕第4場の静の自死の場面だ。ここでは沖縄風の五音階の美しいアリアと琉球風の波紋様の背景が不思議な明るさを醸し出し悲恋の結末としての「愛の死」を美しく描き切った。(為朝の沖縄伝説は知られているが、義経とはどういう関係なのかは不明)そして最後は声明が流れて幕となる。約3時間の大作ではあるが全く退屈することなく見通せたのは構成の上手さと、舞台の美しさと、そして当日の秀でた演奏のおかげだろう。名作と巡り合って「創作オペラ」の持つ力と可能性をあらためて感じた次第。
2021年7月に初演されたアレックス・オリエのプロダクションが3年振りに再演された。指揮はコロナ禍で外人指揮者の欠場が相次いだ時期に日本に残留して強い助っ人として活躍したことが思い出されるガエターノ・スピノーザだ。実は本舞台初演後に行われた「高校生のための公演」で、指揮沼尻竜典、カルメン山下牧子、ドン・ホセ村上公太、エスカミーリオ須藤慎吾、ミカエラ石橋栄実という顔ぶれで観ていたプロダクションだ。しかし今回はコロナ禍で動きに制限の多かった初演時とは別の舞台と考えたほうが良いだろう。設定は現代日本でカルメンは来日したロックバンドの人気歌手でエスカミーリオはその警護にあたる警察官の一人。そしてこのバンドは実は密輸にも加担しているという話になる。決して読み替えではなく脚本の要点はきちんと踏襲した分かり易く退屈しないとても秀でたプロダクションだった。歌手も皆良く歌い演じて相対的にとても楽しい舞台によく仕上がっていた。外題役のサマンサ・ハンキーは美声で容姿も悪くないのだが、ロールデビューのせいか今ひとつ悪女になりきれずカルメンとして決まらずに物足りなさが残った。エスカミーリョのルーカス・ゴリンスキーは堂々とした美声を聴かせた。ドン・ホセのアタラ・アヤンは決して美声というわけではないが伸びもあり表現も豊かで説得力ある歌唱だった。私としてはこの日一番の出来はミカエラの伊藤晴だったと感じた。硬質で良く通る歌唱を駆使した楚々としつつも芯に強さを秘めた役作りは手紙をホセに渡す場面と母親が重篤な病であることを知らせる場面で涙を誘った。伊藤は2020年8月の藤原歌劇団公演でも優しくも強いミカエラを歌い演じたが、今回はその方向性の完成版と言ってもよいだろう。その他の日本勢はスニガに田中大揮、モラレスに森口賢二、ダンカイロに成田博之、レメンダードに糸賀修平、フラスキータに冨平安希子、メルセデスに十合翔子という顔ぶれで、とりわけ女声陣は主役を食う程の充実した歌唱だったので五重唱や「カルタの歌」はとても聞き映えがした。この劇場の合唱はいつも充実しているが、今回はTOKYO FM少年合唱団をも含めてとても美しく輝かしかった。スピノーザの決して手抜きのない緩急自在のピットも極めて効果的でこの指揮者のオペラへの適性を強く感じさせた。
昨年の「ばらの騎士」に続くびわ湖ホール芸術監督阪哲朗プロデュース・オペラの第二弾はコルンゴルドの「死の都」である。とは言え今回のプロダクションは2014年3月8日に新国の初演に4日先立って日本初の舞台上演となった故栗山昌良によるプロダクションを岩田逹宗が再演出したものだ。初日の今日は何よりパウル役のびわ湖声楽アンサンブル出身清水徹太郎が声・演技ともに大層充実した出来栄えを示し全体を強く牽引した。対する友人フランクの黒田祐貴は渋い歌と演技で大きな存在感を示した。マリー/マリエッタ役の森谷真里は幕を追う毎に迫力を増してゆき、終幕で自分の恵まれぬ人生を語る件(くだり)以降は正に鳥肌の立つ程の絶唱だった。侍女ブリギッタの八木寿子は深い美声と冷静沈着な役作りで脇を固めた。その他ユリエッテに船越亜弥、ルシエンヌに森季子、ガストン/ヴィクトリンに晴雅彦、アルベルトに伯与儀功、それにびわ湖声楽アンサンブル、大津児童合唱団、京都市交響楽団という顔ぶれだ。阪の流麗な指揮はダイナミックにオケを駆り立てながらも完璧なバランスを保ちつつこの作曲家の音楽の秘める後期ロマン派の魅力を存分に届けてくれた。これこそカペルマイスターの仕事である。ただ問題は演出にあった。これは11年前の初演の時にも感じたことではあるが、まるで能舞台のように登場人物達が正面を向いてほぼ対峙しないスタティックな様式は、西洋のダイナミックな音楽作品には不釣り合いで全く説得力を持たないと私は感じる。夢を扱った部分だけをそのように非現実的に描いたのかなとも思ってみたが決してそんなわけでもない。今回再演出にあたった弟子筋の岩田逹宗はワークショップでそれを「表現主義」と解説していたが、私にとってそれでは視覚的リアリティを感じることができず、感じるのはストレスだけだった。折角素晴らしいキャストを揃え、素晴らしい装置と照明を用意し、風光明媚な立地的にも機能的にも世界に誇れる素晴らしい劇場がその舞台機構をフルに活用した公演だったにもかかわらず、これはたいへん残念なことであった。
国内オケから引くて数多(あまた)の沖澤のどかをピットに迎えたビゼー作曲の歌劇「カルメン」である。なので期待に胸を膨らませて臨んだのだが、2幕終盤のホセとカルメンの二重唱(No.16)前までは全くつまらなかった。その原因は明確で、レチタティーボあるいは台詞を全く取り去るというまるでハイライト版の音盤を聞いているようなその構成にあったのではないか。ここまでの音楽ではそれらを取り去るとアリアの背景にあるストーリーが分かりずらく聞く側が音楽に感情移入しにくくなるのだ。それではオペラは成立しないのではないだろうか。だから正直これほど退屈に感じられたカルメンは初めてだった。しかしそれ以降は歌詞がストーリーを語る部分が出てくるのでようやくドラマが成立し、同時に舞台にも熱気が出て少しはオペラらしくはなった。しかし一方で歌唱が皆スケール感に乏しく血湧き肉踊る「カルメン」にはなりようが無かった。そんな中ではミカエラを歌った宮地江奈の切々とした歌唱は印象に残った。カルメンの加藤のぞみは日本人離れした演技と無理のない歌唱で悪くはなかったが、決して特段の存在感を感じられるまでには至らなかった。注目の沖澤の指揮は丁寧で繊細なシンフォニックな音楽を作っていて、聞いたことのないような声部がピットから聞こえてきたりはしたが、非力な歌声とのバランスをとったためかいささか迫力に不足しドラマを十分には語り尽くしてはいなかった。イリーナ・ブルックの演出は、無国籍にしたりジプシー臭を避けたりした割には特段の主張もなく、色彩と変化に乏しい魅力のない舞台になってしまった。こんなことならエーザー校訂版で普通にやってくれたほうがどれだけ良かったか。そうすれば歌手たちの歌もさぞ映えただろうと思う。どうも最近の東京二期会は時として凝り過ぎの感がある。
今年創立90年を迎えた藤原歌劇団が年頭に放つ舞台はヴェルディ晩年の傑作「ファルスタッフ」のニュープロダクションだ。2015年1月のアルベルト・ゼッダ+粟國淳による名舞台以来10年ぶりの登場となる。”ニュープロダクション”を謳いながらも、実は昨年暮れに神戸文化ホール開館50周年記念として上演された同じく岩田達宗のプロダクションの舞台装置を流用し、照明と衣装はオリジナルという中々工夫された公演である。更に言えばその衣装に関しては我が国舞台衣装のレジェンド緒方規矩子氏がかつて「ウインザーの陽気な女房達」(たぶん藤沢市民オペラ)のために作ったものの再利用だという。(私の初めてのオペラ体験であった1969年の藤原「カルメン」の衣装も思い返せば緒方さんだったのだ!)これはある意味「使い回し」ではあるが、今回に関して言えばそれらは優れた質感を感じさせるものでむしろ歓迎したいとさえ感じさせた。本日二日目の配役はファルスタッフ押川浩士、フォード森口賢二、フェントン清水徹太郎、アリーチェ石上朋美、ナンネッタ米田七海、メグ北薗彩佳、マダム・クイクリー佐藤みほ、カイウス及川尚志、バルドルフォ川崎慎一郎、ピストーラ小野寺光、ロビン田川ちか、ピットは時任康文+東京フィル、演出は岩田宗逹という顔ぶれ。全体的な印象としては、よく作り込まれた岩田演出の下で、イタリア物の「藤原」の歌役者達が実に闊達に歌い演じて大変に見応えのある舞台を見せてくれたと言って良いだろう。何より快活とノーブルを合わせ持った押川の存在感、そして森口は直情的な歌唱と演技でそれに十分に対峙した。石上の押しの強い歌と演技は全体の華となりこの歌手の芸達者振りを感じさせた。そよ風のような米田と清水の爽やか歌唱もおおきなアクセントとなった。黙役ロビンをファルスタッフの分身としてバレエ(パントマイム)で演じさせ、ファルスタッフの心象を都度可視化してゆくアイデアは絶妙なしかけで、田川の秀でた表現力が効果を発揮してファルスタッフの心内を何倍にも表現して一本の柱となった。一方時任が率いるピットは全体を歯切れよくテキパキと運んで好感は持てたのだが、いささかニュアンスが一面的だったようにも聞こえ物足りなさもあった。ともあれ最初にも書いたように相対的には素晴らしい仕上がりだったことは確かだ。正直西洋の喜劇的作品を邦人キャストだけでここまで見事に違和感なく舞台に出来たということは、やはり90年の歴史が成せる技なのだなあと感慨深い想いで夕闇の東京文化会館を後にした。新しい監督の下この勢いで実り多い100年を目指していただきたい。