今年創立50周年を迎えるシーズン開幕である。常任指揮者高関健の薫陶を得てこの10年に目覚ましいばかりの実力をつけ、今や東京のトップオケを凌ぐ演奏さえ披露してくれている東京シティ・フィル。嘗ての「東京で7番目のオーケストラ」のいささかひ弱な雰囲気は今や微塵もない。この調子で快進撃を続けて東京の音楽シーンを大いに活気づけてもらいたいものである。同時に今年はショスタコーヴィチの没後50年に当たるということで、本年度最初のティアラこうとう定期の曲目にはこの作曲家の最初と最後の交響曲が並んだ。第1番ヘ短調作品10は発表当時「モーツアルトの再来」と言われただけに既に十分完成された作品である。何より後年の特色である極めてシニカルで辛辣な音楽の影はなく、裏のない全く健康的でストレートな明快な音楽である。ショスタコとは本来こういう音楽家だったのだと新ためて感じ入った。一方46年を経て死の4年前に書かれた15番イ長調作品141は、自らの生涯を描いたとも言われているが、摩訶不思議な引用を多用した謎めいた作品で様々な解釈の余地を持つ曲者(くせもの)だ。この全く性格の異なる二曲を高関はいつものように一切作為のない学究的な姿勢で、10年間自ら鍛え抜いたシティ・フィルの機能をフルに駆使して丁寧にそして骨太に描いた。その結果両曲の内面に潜む相違が実に明快に炙りだされ今回のプログラミングの意図が明らかになった。その相違とは「明」と「暗」。別の言い方をすれば「嘘」と「真」。それを生み出したのは共産主義体制下でこの作曲家に課せられた自己批判の生涯の苦渋に他ならない。終楽章の大詰め、だんだんと消え去ってゆく点滴の音とも臨終の床の心臓の鼓動ともつかぬ打楽器の響を聞きながら、激動の生涯を送り療養生活の中で死を4年後に控えた作曲者の心情に思いを寄せざるを得なかった。それにしても特別客演コンマス荒井英治のリードする当日のシティ・フィルの表現力は凄まじかった。強靭ながら同時に繊細な表現も柔らかにこなす弦、精彩に富む名人芸を披露した木管・金管、シャープな切れ味の打楽器群、全てが一丸となって誠実な高関の音楽に奉仕する姿は鮮烈極まるもので、それは50年の歴史が作り出した現在の晴れ姿だった。
思い返せば4年前の今頃はコロナ禍の中で多くの音楽会が中止されたり変更されたりしていた。そんな感染症の状況は未だ完全に払拭された訳ではないのだが、そんなことが遠い過去のことになり平常な生活が戻ってきているのが実に不思議だ。さてTCPの今年度最後の定期演奏会は、そんな折に大規模声楽曲を避けて曲目変更された2021年3月定期のリヴェンジ公演である。独唱陣は最初のアナウンスと変更なしという大きな拘りがこのオケらしい。(シティ・フィルは演奏会形式の「トスカ」の日程変更に際しても同様の拘りをみせた過去がある)指揮はもちろん常任指揮者の高関健である。何よりその拘りの独唱陣がとても良かった。ソプラノの中江早希の良く伸びるビブラートの少ない純粋な声はまさにレクイエムに相応しかった。メゾソプラノの加納悦子の深く掘り下げたドラマティックな歌には心震えた。笛田博昭の美声と大らかな歌いまわしにはイタリアを感じた。青山貴のノーブルな歌は全体を締めた。そして重唱でも笛田が若干目立ちすぎたきらいはあったものの心地良いアンサンブルが保たれ、正直この曲の独唱・重唱部分をこんなに楽しく聴いたことはこれまでになかった。多くのメンバーが暗譜で臨んだ東京シティ・フィル・コーアもダイナミックレンジを精一杯確保しつつよく歌っていた。そしてシティ・フィルは高関の棒の下、まるで青白い炎を感じるような乱れのない熱演で堅固なアンサンブルを披瀝しつつ中期ヴェルディの充実した音楽の魅力を十二分に伝えてくれて、この曲の稀有な名演に接した思いがした。
首席客演指揮者藤岡幸夫の指揮する不思議な取り合わせの演奏会。一曲目はフラームスの交響曲第3番ヘ長調作品90。4曲ある彼の交響曲の中では私は最も苦手としてきた曲だ。全4楽章が全て弱音で終わるので若い頃からその盛り上がりに欠ける音楽が心を掴まなかったのかも知れない。藤岡はプレトークでいつ振っても幸せを感じると言っていたが、そういう聞き方をすると今回は急に親しみが湧いてとても興味深く聞くことができたので、それは大きな収穫だった。この先この曲を取り出して聞く機会は明らかに増えるだろう。演奏の方は「言葉通り」ブラームス特有の渋さとか重厚感とかを全く感じさせないとても爽やかなものでシティフィルの弦が瑞々しく美しく響いた。一方期待したホルンの妙技は残念ながら聴かれなかった。2曲目は藤岡が強く望んだという伊福部昭の晩年の創作である交響頌偈「釈迦」。伊福部は若い頃から「釈迦」を題材とした作品を多く残したがこの曲はそうしたものの集大成だという。テクストはパーリー語なのだがプログラムには詳訳は示されていない。「決して宗教曲」ではないとか「合唱団にはエロティックに歌うことを求めた」とか期待させる前口上はあったのだが、聞き終わってみると特有の骨太な土俗感は感じるものの音楽は案外単純一面的で、私は特段の魅力を感じることができなかった。何よりも長尺40分を支えるだけの変化に不足していたように思う。とは言え世の伊福部ファンが多く詰めかけたせいか、合唱関係者が多く来場していたせいか、終演後の会場の盛り上がりは大変なものだった。
今年創立50周年を迎えた東京シティ・フィルの2025年最初の定期は、メインにグスタフ・マーラーの交響曲第7番ホ短調「夜の歌」を据えたプログラムだ。指揮はもちろん常任指揮者の高関健である。高関は2022年8月に開催された自身の「第50回サントリー音楽賞受賞記念コンサート」でも同団とこの曲を披露している。その時は1987年のサントリーホール開館時に国際作曲委嘱シリーズの一貫として委嘱されたルイジ・ノーノの曲を初演指揮者が再演するという意味を込めたスターターの選曲だったのだが、今回は新進気鋭の奥井紫麻をソリストに迎えたサン=サーンスのピアノ協奏曲第2番ト短調作品22が1曲目というなんとも不思議な幕開きだった。プレトークで高関が語るところによると、この二曲の関連性を紐解くキーワードは「バロック」で、これは全くの彼の思いつきだそう。確かにサン=サーンスの始まりはバッハのクラフィーア曲のようにも聞こえるしマーラーの開始のリズムも組曲のリズムを思わせるものが有りはするが。まあそれはともかくとして演奏の方は最初のサン=サーンスから実に見事だった。奥井は私は初めて聞くピアニストだったが力感と繊細さを併せ持った素晴らしい才能だ。淀みなく流れる伸縮自在な音楽が昨今は余り演奏されなくなった佳作の魅力を存分に引き出していた。アンコールのラフマニノフの前奏曲も洗練の極致だった。この協奏曲の名演は誰しもメインに期待する大曲プログラムのスターターにはいささか勿体無い感じで、贅沢を言えば意味を感じさせるプログラムの中にきちんと位置付けてほしかった。そして期待のマーラーは、これはもう「高関色」一色に染め抜かれた一点一角も疎かにしない大地に根をはやしたような綿密で堂々たる音楽だった。高関はテンポやバランスを刻一刻と目まぐるしく変化させるが、その微細な指示にピタリと追従するシティ・フィルは見事の一語に尽きた。その時系列的な変化は多角的で緻密な楽曲分析の末に考え抜かれたもので、それでこそ獲得された音楽の自然な流れ、謂わば「不自然な自然さ」こそがこの演奏全体を貫く堂々だる偉容の根源であるように聞いた。まさに多少冒険的な表現が特徴だった2022年の演奏の進化系だ。そんな中で最も印象に残ったのは第4楽章の「夜曲」だった。その精緻な美しさは官能の極みを尽くし、オブリガードのように纏わりつく谷あかねのホルンの音色と音量コントロールの見事さは当夜の白眉だった。バランス的に意表をつくようなロンド・フィナーレの大団円の、しかし美観を貫いた音の洪水を聞きながら、首都圏7つ目のプロ・オケとしての発足以来の当団の険しい道程と、昨今の、とりわけ高関が常任指揮者に就任して以来10年の目覚ましい躍進振りに思いを馳せつつひとしおの感動とともに会場を後にした。