首席指揮者トレヴァー・ピノックの指揮する改修前の現紀尾井ホール最後の定期演奏会は、今年生誕150年を迎えたラヴェルの組曲「クープランの墓」(オーケストラ版)で始められた。いつものように闊達で躍動的なピノックの音楽は骨太なラヴェルを描く。それゆえ典雅さといった風情は幾分後退していた感がある。続いてピノックとは2022年のショパンの2番以来二度目の共演になるアレクサンドラ・ドヴガンを迎えたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番ト長調作品58である。何とも繊細な導入のピアノに続きドヴガンの世界は今回も深く深く進化してゆく。天才的な感受性に基づいた非凡な表現力と正確無比なピアニズムから生まれ出る驚くほど端正な音楽は、その純粋さ故に実に大きな説得力を持ち、この傑作の持つ類稀なベートーヴェン中期の傑作の世界を描き切った。これを表現するにもう見事と言う意外の言葉は無い。ピノックのピタリを寄り添った骨太なサポートはここでは功を奏した。それにしても1楽章のカデンツアは誰のものだったのだろう。アンコールはテンペストの終楽章。その完成度の極めて高い表現に全曲を聴きたい想いが募った。最後はメンデルスゾーンの交響曲第4番イ長調「イタリア」イ短調作品90だ。2023年9月の第2番「讃歌」の名演に続くメンデルスゾーンの交響曲第二弾になる。その躍動感に満ちた激しい音楽はとても79歳の老匠が紡ぎ出す音楽とは思えない。しかし逆にもう少し寛いだ雰囲気も欲しい気がした。終楽章のサンタレッロなどデモーニッシュな趣さえ帯びてきたのには恐れ入った。盛大な拍手にフォーレのドリー組曲から第一曲。これはもう文句なく美しかった。コンマスはアントン・バラホスキー。
沖澤のどかを追いかけて名古屋にやってきた。愛知県芸術劇場コンサートホールで開催された彼女が常任指揮者を務める京都市交響楽団の第15回の名古屋公演である。まずはウェーバー作曲の歌劇「オイリアンテ」序曲が軽快に奏でられた爽やかなスターターだった。続いてブラームスのハイドンの主題による変奏曲変ロ長調作品56。こちらも早めのテンポで美しくスッキリとした運びであったが、両曲ともにちょっとコクが足りないというか、重厚さがいささか不足して含みに欠ける感があった。メインはチャイコフスキーの交響曲第5番ホ短調作品64。この日の沖澤のテンポは早めでちょっと前のめりになる傾向が聞き取れて気になっていたのだが、チャイコフスキーになって腰が据わって安心して聞けるようになった。しかし煽るところ煽るので日頃聞かれないような激しい心の動きが聞き取れたのは曲がチャイコフスキーだったからだろうか。しかし逆に粘着的な粘りや爆発的な重量感のあるフォルテに起因する暗さはないのでロシア的な雰囲気は排除されている。ある意味純音楽的に格調高く演奏されたチャイコフスキーであったが、青白い炎のような熱を感じる峻烈な響きが心に迫ってくる演奏だった。ただフィナーレにシンバルの一撃を加えて効果を狙ったのはこの指揮者にしては意外であった。まあそれはともかく、多く詰めかけた外国人聴衆のスタンディングオベイションを含む盛大な拍手にアンコールはオネーギンからポロネーズ。これには更に会場は沸きに沸いて沖澤のソロ・カーテンコールとなった。
今年も恒例のさくらんぼコンサートがやってきた。今年はフィンランドの名匠オッコ・カムと神尾真由子を招いた豪華版だ。この楽団の創立名誉指揮者川村千秋がシベリウスを得意とするという縁もあり期待は膨らんだ。会場に入ると、今宵のプログラム冒頭に置かれた「鶴のいる風景」作品44-2と2曲目のバイオリン協奏曲ニ短調作品47が指揮者の希望で続けて演奏される旨の掲示があった。指揮者カムの今回のプログラムに寄せる唯ならぬ意欲が感じられ、期待は一層膨らんだ。柔らかな弦の醸し出す静謐な雰囲気の中、二人のクラリネット奏者が立ち上がり聞こえたのは鶴の鳴き声、CDで聴き馴染んでいるのとはかなり違うその大きさに驚いた。鳴き声は弱まり曲は静かにディミニエンドして協奏曲になだらかに繋がってバイオリンソロが立ち上がるというストーリーだったに違いない。しかし白鶴のごとき衣装に身を包んだソリストの神尾真由子が登場するや否やパラパラと拍手が起こってしまった。何たることか。残念としか言いようがない。これには神尾も苦笑いしながら定位置に着いた。そのソロは実に立派。超絶技巧も難なくこなしてゆくのだが、ちょっと歌が演歌的で、同時に音の磨きにも不足したので、私にはシベリウスの聞き心地として余りよいとは感じられなかった。盛大な拍手にアンコールは超瞬速のパガニーニのカプリース。これも確かに凄かったが、シベリウスの後のパガニーニはやはり私には居心地が悪い。指揮者のオッコ・カムは1969年のカラヤン・コンクールで優勝し、直後にベルリン・フィルを指揮したシベリウスの2番がドイツ・グラモフォンからリリースされて大層話題になったことが記憶されている。今回のメインもその交響曲第2番ニ長調作品43である。独学で身につけた指揮はいささか不器用ではあるが、弦は強靭で木管は大きめなバランスで鳴り、全ての表現には自然な興感が伴っていてとても好もしい。そして時折これまで山響からは聞いたこともないような峻烈なフォルテが心を抉るのである。妙に劇的に作り込まない自然な運びながらジワリジワリと感動的なフィナーレを築いてゆく腕前には誠に感服した。
都響とはほぼ初顔合わせになる沖澤のどかを招いた演奏会である。最初のドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」は明快に音の綾を聞き取れるクリアーにして暖い演奏。漠然とした印象だけで終わらずに情景が心に留まるのはこの指揮者の特徴である呼吸があるからに違いない。音楽が身体に染み込んでゆく感じがとても心地よい。独奏フルートに今一つの個性(華)があったら印象は更に深まったと思う。2曲目は師弟関係にあるフランク・ブラレイと務川彗悟を迎えてプーランクの2台のピアノのための協奏曲ニ短調。意表を突いたオリエンタルな雰囲気で始まり、モーツアルトのピアノ協奏曲のオマージュ風の2楽章を経て楽しげなフィナーレで終わる実に楽しく面白い佳作の秀演だ。鳴り止まぬ大きな拍手にアンコールは同じ作曲家の「仮面舞踏会」からカプリッチョでまた息のあったところを聞かせた。常に務川をたてる師ブラレイが印象的だった。そして休憩後は注目のストラビンスキーのバレエ音楽「春の祭典」だ。ピエール・モントーによる初演での「大騒動」のエピソードで知られるこの曲は野蛮で粗野なバーバリズムの権化のような印象があったが、今回の沖澤の演奏は実に洗練されていて細部のニュアンスに富んでいる。しかしシャープな音響を駆使した壮大なスケール感も十分に聞き取れるハイブリッドなもの。フィナーレの追い込みの部分では体が浮遊するような不思議な感覚に襲われた。そしてニュアンスに満ちた最後の決めには心を射抜かれた!初めてこの曲に接したのは何時のことだろう。それはブーレーズとORFによる1963年録音のコンサート・ホール盤だった。そして実演では1969年3月の荒谷俊治指揮による東フィル第123回定期だった。1980年のマルケヴィッチの2回目の日フィルとの共演も聞いた。その頃は多少ミスがあったってとにかく全曲がきちんと運べばそれで大喝采といった時代だった。そのうち日本のオケも機能性を身につけて難なく全曲を弾きこなす時代になったが、それと同時にこの曲を聴く側の特別感が薄らいで来た傾向もあると思う。しかし、昨日のような多面性を聞き取れる「春祭」は生涯で初めて聞いた感じがして実に鮮烈極まる印象を残した。全曲を完全に手中に収めた鮮やかな振りに見事に追従した都響も素晴らしかった。満場の大喝采にとても嬉しそうにソロアンコールに応じる「やり終えた感」満載の沖澤の姿が美しかった。
慶應義塾大学の学生団体「慶應バロックアンサンブル」のOB&OGで主に構成されているアンサンブル山手バロッコが、小林恵(ソプラノ)、池田英三子(トランペット)、小野萬里(ヴァイオリン)、坪田一子(ヴィオラ・ダ・ガンバ)という3名の古楽器奏者をゲストに迎えて開催されたオール・バッハのマチネーである。開催場所は東神奈川駅に隣接した横浜市神奈川区民文化センターかなっくホール。このホールは単なる箱物に終わらず数々の企画を積極的に展開している。これはそんな主催公演の一つでこの日も満員の盛況だった。曲目はJ.S.バッハのブランデンブルグ協奏曲第6番変ロ長調 BWV1051とカンタータ第209番BWV209「悲しみのいかなるかを知らず」よりシンフォニアとアリア「不安や怖れを乗り切った舟人は」、そして休憩を挟んでブランデンブルグ協奏曲第5番ニ長調BWV 1051とカンタータ第51番BWV 51「全地よ、神に向かって歓呼せよ」だった。今回のメンバーはソプラノを含み全11人で、最小限の編成で奏されるピリオド風のブランデンブルグ協奏曲はとても新鮮だった。更にカンタータでの小林恵のよく伸びるノンビブラートの歌声は曲想と合致してとても耳に心地よかった。選ばれたカンタータはどちらも「歓び」を大らかに唄うもので、きな臭い時勢がらその明るさが切ない憧憬として心に響いた。
常任指揮者沖澤のどかが振る今年度2回目の定期演奏会だ。昨秋には出産のため予定されていた定期を欠場したが晴れて出産を終えて復帰である。このプログラムを知った時からとても期待していたが果たして期待は裏切られることはなかった。まずは市響共同委託作品である藤倉大の「ダブル協奏曲ーヴァイオリンとフルートのための」の日本初演だ。ここではバイオリンの金川真弓と世界初演者でもあるフルートのクレア・チェイスが実に息の合った呼応を聴かせてとても大きな効果をあげた。名手に恵まれれば音楽的共感が得られる繊細にして美しい佳作だと言っていいだろう。そして待ちに待ったR.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」は予想通り圧巻だった。丁寧に扱いつつも強烈なドライブ感を感じさせる若々しく颯爽とした演奏で、京都市響がこれまで聞いたこともないように強靱に鳴りきった。沖澤はプレトークで今回は練習に同会場が使えたので音が変わったと言っていたが、たしかに音色にも表現にも一皮剥けた芯の強さが感じられたのである。巨匠の熟達した音楽も良いが、明るい未来を感じせるしなやかにして力感溢れる音楽に大いにエネルギーをもらった。先月の東京二期会による歌劇「カルメン」では、オペラティックな音楽造りも含めていま一つ冴えが足りない気がしたが、今回は現在の彼女の実力が最大限に発揮できた感がある。更に花を添えたのはコンマス会田莉凡のソロの見事さで、その表現力の豊かさは特筆すべきものだった。そんな訳でわざわざ京都に足を運んだ価値が十分にあった演奏会だった。
このオケの定期で初めての試みである演奏会形式のオペラに選ばれたのは、モーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」。指揮は首席指揮者のトレヴァー・ピノックだ。少し奥に下がったオケの前の空間とホール平土間通路を使った家田淳の演出は簡素ながら十分に立体的ドラマを表現した。何より気持ちよさそうに振るピノックの闊達な指揮がオケを沸き立たせそこに聴かれる多彩なオーケストレーションに天才の筆致を聞いた。この作品の特徴として重唱の美しさが挙げられることは多いがオケ伴も中々凄いことになっていて、単なる歌の伴奏にとどまらず歌以上にドラマを表現している箇所が沢山あったのだということに遅ればせながら気がつき聴きながら嬉しくなってきた。(人生はやはり短いな)この発見はピノックの絶大な力量に負うところが大きいと思う。配役には歌役者が揃った。フィオルディリージ役のマンディ・フレドリヒのちょと憂いを含んだ声質はこの役に最適だったがいささか低音が弱かった。ドラベッラ役の湯川亜也子の大層アグレッシーヴな歌と演技は全体を強く牽引した。KCOとは2度目の共演となるデスピーナ役のラウリーナ・ベンジューナイデの小回りの効く歌と達者な演技はスパイスのよう、 そしてドン・アルフォンソ役の平野和は堂々たる美声で実力を発揮し全体を締めた。グリエルモ役のコンスタンティン・クリメルは素直な歌唱で好感が持てた。フェランド役のマウロ・ペーターもKCOとは2度目の共演になるが、前回は鮮やかだったが今回は不調なのか高音が苦しかった。臨時編成の紀尾井ホール室内合唱団は人数は少ないが歌唱力は絶大だった。通奏低音ペドロ・ベリソのアドリブが随所で効果を発揮して人選の巧みさを感じさせた。総じて演奏会形式のオペラの利点が最大限に発揮され、3時間半があっと言う間の楽しい公演だった。
都響とは初顔合わせになる80歳の老匠レナート・スラットキンを迎えた新春初の定期演奏会だ。1曲目は彼の奥方で作曲家のシンディ・マクティの「弦楽のためのアダージョ」。あの9.11をきかっけとして作られた曲だそうで、深い悲しみを音で表現するというよりも内省的な穏やかさが勝った美しい作品。メロディは常に下降して続くことなく途切れてゆく様が当時のアメリカ国民の心象を巧みに表しているように受け止めた。この方が悲劇を声高に語るよりもづっと説得力があるものだ。続いてはバイオリン独奏に金川真弓を迎えてウオルトンのバイオリン協奏曲である。滅多に聞かれることのない30分を要する大曲だ。ウオルトンというと個人的には大げさで賑々しい印象があったが、此の曲は深く内省的で情緒豊かな佳作だ。金川の独奏はじっくり深い叙情に根ざしていて曲想にベストマッチしており、完璧なバランスの伴奏に支えられてこの佳作の良さを最大限に開花させたと言って良いだろう。最後はラフマニノフの交響曲第2番ホ短調作品27。これは賛否両論ある演奏だったと思う。それは仄暗いロシア・ロマンティシズムを咽び泣くように謳い上げるのではなく、美しい旋律やハーモニーをスキッリとスタイリッシュに纏め上げた品格漂うある意味アメリカ的な演奏だった。さりとて60年代のアメリカのようなゴージャス感は綺麗に拭い取られているので、結果として内声部が透けて聞こえてくるから美しい旋律に酔いつつも新たな発見も多い実りある楽しい一時間だった。こういう演奏で聞くと一般的に長く感じられがちなカット無しの長尺版もあっと言う間だった。現在の都響の持つ機能性を十二分に開花させたスラットキンの指揮にこの楽団との相性の良さを感じた。
このびわ湖ホール座付きのアンサンブルは決して合唱団ではない。彼らはオペラ歌手・ソリストであると同時に合唱アンサンブルにも対応できるように日々研鑽を積んでいる歌手達であり、そうした意味では日本では他に類を見ない団体だと言って良いだろう。事実彼らは大ホールの本舞台での脇役として名を連ねるのみならず、彼らを主体とする中ホールでのオペラ公演も年に幾度かは開催されている。そうしたメンバーが本拠地びわ湖ホールで自主リサイタルを開催し、それと同時に東京でも同じ演目でリサイタルを開催した。今回はそうした定期的な公演の15回目ということになる。「4人の作曲家たち〜フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、プーランク」と題された今回のコンサートは、フランスを代表する4人の作曲家の合唱曲と歌曲を折り混ぜた滅多に聞くことにできないような興味深い内容であった。フランス・オペラのオーソリティである佐藤正浩の指揮によるフォーレの”ラシーヌ雅歌”で始まったコンサートは、メンバー14名と客演2名それぞれのソロによる歌曲と全員による合唱曲を織り交ぜながら、アンコールの”ラシーヌ雅歌”でしっとりと静かに幕を下ろした。単なる合唱団のメンバーではない彼ら一人一人の切々とした歌声を聞いて心から感動した。不慣れであろうフランス音楽を若干の差異はあるものの皆見事に自分のものにしていた。団員のそれぞれが極め高い技術と音楽性と訴える力持っていることは驚くべきことであり、こうしたメンバーが育ってゆくことはこれからの日本のオペラ界にとってどんなに心強いことだろう。佐藤正浩と共にピアノ伴奏を努めた下村景の伴奏者として秀でた音楽性も光っていた。今回の演奏曲目は、フォーレ:ラシーヌ雅歌、月明かり、マンドリン、夢のあと、マドリガル。ドビュッシー:星の夜、美しき夕べ、マンドリン、海な伽藍よりも、シャルル・ドルレアンの3つの詩。ラヴェル:3つの歌、ヴォカリーズ、花嫁の歌、ロマネスクな歌、夢。プーランク:美とそれに似たもの、マリー、王様の小さなお姫様、ヴァイオリン、パリへの旅、ホテル、愛の小径、平和への祈り。美しい秋の上野の杜で、フランスのエスプリ溢れる音楽と詩の世界を堪能した時間はかけがえの無いものだった。
このところオペラ畑で大活躍のフランスの指揮者ピエール・デュムソーを迎えたロシア物をフランス物2曲で挟んだプログラムだ。1曲目は珍しいアルベール・ルーセルの交響的断章〈蜘蛛の饗宴〉作品17。あまり馴染みのない作曲家なので交響曲しか聞いた事がなかったが、これはその即物的な印象とは随分に違うとても色彩的な音楽だ。ここではまず細密画のようなオーケストレーションを明快に描き分けてゆくデュムソーの手腕が見事で、初っ端から紀尾井の瑞々しい弦と秀でた木管アンサンブルからフランスの香が漂った。夜の帷(とばり)が降りる昆虫達の行き交う庭にポツンと一人落とされたような幻想的な雰囲気が醸出され、筆致の描写性も十二分に引き出された名演だった。続いて昨年2月のショスタコのコンチェルトに続いて2度目の登場になるニコラ・アルトシュテットのチェロが加り、セルゲイ・プロコフィエフの交響的協奏曲ホ短調作品125。まるでチェロが体の一部でもあるかのような極めて自然な弾き方なので、縦横無尽の運弓ながら音楽に微塵の無理も力みもなく、洞々と流れ出る音楽に身を託しているうちに全てが終わった。3つの楽章から成る単純な協奏曲形式ながら中はかなり複雑な構成だ。しかし抒情性や皮肉や激しさがないまぜになった不思議な魅力を持つ曲だ。オケの伴奏とチェロ独奏が混然一体と調和した見事な演奏がその魅力を引き出したということだろう。ソロ・アンコールはバッハの無伴奏組曲第1番よりサラバンドがシットリと奏され、熱演との落差がまた堪らなく感じられた。最後はビゼーの劇付随音楽〈アルルの女〉第1組曲&第2組曲。これは熱量の極めて多い演奏で、聞いていて思い出したのは、もう40年も前に上野で聞いたフランスの名匠ジャン=バティスト・マリと東フィルの爆演だ。燦々と降り注ぐ南フランスの夏の太陽のようなラテン的な明るさと活力に満ちたとても隈取の濃い演奏。それがドーデの悲劇を題材としたビゼーの曲にベストマッチする。もちろん当時の日本のオケと今のオケでは技量が格段に違うので、こちらはどんなに開放的にオケを鳴らしても美しさとスタイルを保って「爆演」にならないところは流石である。大歓声と大きな拍手に予定外のアンコールは再度「ファランドール」からフィナーレ。さすがに今度は一寸ハメを外し気味の演奏ではあったが、それもご愛嬌というところだろう。
毎夏の恒例になった草津の音楽祭に今年もやってきた。ノロノロ台風10号の来襲で生憎の天気ではあったがその分涼しい草津は酷暑に疲れた体には大層楽であった。今年のテーマは”モーツアルト〜愛され続ける天才”だ。28日は”ショロモ・ミンツが奏くモーツアルトの協奏曲”と題されたコンサート。1曲目にモーツアルトのアダージョとフーガハ短調K.546、2曲目はこの昨年9月に惜しくも逝去した前音楽監督の西村朗を引き継いで音楽顧問に就任した吉松隆の「鳥は静かに・・・」。それは朋友西村との死別に寄せる悲歌にも聞こえた。続いたバイオリン協奏曲第4番ニ長調K.218でのミンツの歩みは、通常の闊達なモーツアルトとは一味も二味も違うジックリと丁寧に噛んで含めるような独特なスタイル。そして打って変わってアンコールはH.W.エルンストの「無伴奏ヴァイオリンの為の重音双方の6つの練習曲」から第4番。これはもう超絶技巧満載で、ミンツの腕にかかると練習曲も立派なアンコールピースになってしまう。最後は交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」。指揮の飯森範親は得意のピリオド奏法を導入して群馬交響楽団を操ったが、全体的なスタイルは中道的で、スコア細部の音の綾も明快に響かせてつつ重厚さも兼ね備えた成熟した音楽を聴かせた。翌29日は”ピアノと室内楽/モーツアルトからベートーヴェンへ”と題されたコンサート。ここではハイドンの弦楽四重奏曲第78番変ロ長調作品76-4「日の出」とモーツアルトの弦楽四重奏曲題19番ハ長調K.465「不協和音」、そしてモーツアルトのピアノと木管のための五重奏曲変ホ長調K.452とベートーヴェンのピアノと管楽のための五重奏曲変ホ長調作品16という同時代の同種の楽曲の聴き比べが楽しかた。それは3人の作曲家の個性、音楽書法の進展の様子を耳で確かめる絶好の機会となった。演奏はクアルテット・エクセルシオ、クリストファー・ヒンターフーバー(ピアノ)、トマス・インデアミューレ(オーボエ)、四戸世紀(クラリネット)、水谷上総(ファゴット)、西條貴人(ホルン)という熟達の面々。最終日は午前中にアカデミーの優秀者によるステューデント・コンサートがあった。これから世界に羽ばたくであろう若い才能を見聞きできるのは本当に楽しい。今回トリで登場しサンサーンスの「序奏とロンドカプリチオーソ」を披露したバイオリンの星野花さん(指導ショロモ・ミンツ)は、最近イローナ・フェへール国際ヴァイオリン・コンクールで第二位を受賞したこの2022年以来のアカデミーの常連。こうした大向こうを唸らせる演奏も良いのだが、冒頭に登場した石井愛理さん(指導クラウディオ・プリッツ)によるチェンバロの自然な呼吸が誘う極めて流れの良いヘンデルの組曲ニ短調も心に残った。そしてその午後の”グラン・パルティータ〜トーマス・インデアミューレ”と題されたクロージングコンサートが今年の音楽祭の最後を飾った。ハイドンのディベルティメントニ長調、モーツアルトのディベルティメントヘ長調K.253、同じくセレナード変ホ長調K.375が前半でトマス・インデアミューレ、若木麻有(オーボエ)、水谷上総、佐藤由起(ファゴット)、西條貴人、松原秀人(ホルン)という演奏陣。後半はモーツアルトのセレナード第10番変ロ長調K.361「グラン・パルティータ」なのだが、これがアントニー・シピリのピアノ、トマス・インディアミューレのオーボエ、カリーン・アダムのバイオリン、般若佳子のヴィオラ、チェロのエンリコ・ブロンツイによる五重奏版で演奏された。編曲者はC.F.G.シュヴェンケという人だが、これが中々と良く書けた佳作で、小編成とは言え名人達の演奏のせいもあってか大層楽しく、今年の音楽祭の最後に相応しく盛り上がった。
毎夏恒例フェスタサマーミューザKAWASAKI 2024に、いまや引っ張りだこの沖澤のどかが登場、さらに共演が人気ピアニスト阪田知樹だというから会場は満員御礼だ。まずはR.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」作品20で颯爽と開始された。沖澤の振りには迷いやブレが一切なく、オケが確信を伴って響くのでそれが実に快い。そしてダイナミックも大きくとられ読響の機動力に富んだ馬力が物を言う快演であった。続いて阪田が真っ黒な僧服のような出立で登場した。それはまるでフランツ・リストが写真帳から出てきたよう。演奏の方も強靭なフォルテと羽毛のような繊細で軽やかなピアニッシモを駆使していとも楽々とこの難曲を弾き切り、リストもかくやと思わせた。チェロの遠藤真理のソロも聞き映えがした。割れんばかりの盛大な喝采にアンコールは自ら編曲したフォーレの「ネル」。リストで聞かせた以上の繊細なピアニズムに心打たれた。最後はこのホールのオルガニスト大木麻里を迎えてサンサーンスの交響曲第3番ハ短調作品78「オルガン付き」。沖澤はドイツ物もフランス物もそれぞれに的確なスタイルで聞かせる秀でた手腕をもはや完全に身につけている。繊細さもあるがいざという時の強烈なフォルテも潔い。この4月に東響から移籍して来たオーボエの荒木奏子のリードする木管アンサンブルをはじめとしたこのオケの上手さを全面に押し出した、シャープな推進力を持ったサンサーンスに会場は大沸きだった。3日の間を開けて京都と川崎でこの沖澤のどかを聞いたが、この人は稀に見る逸材だと言って良いと思う。
2010-2017年のシーズンに首席客演指揮者を務めたヤクブ・フルシャが振る7年ぶりの演奏会である。チェコ音楽特集でスメタナ、ヤナーチェク、ドヴォルザークという王道が並んだ。スメタナ生誕200年、ヤナーチェク生誕170年、ドヴォルザーク没後120年の記念イヤーにちなんだプログラムか。まずは日本では滅多に演奏されることがないスメタナの歌劇「リブシェ」序曲だ。その愛国的な内容ゆえに冒頭のファンファーレはチェコの国家式典でしばしば奏されることがある。コロナ前2019年5月の「プラハの春音楽祭」でフルシャ指揮バンベルク交響楽団の「我が祖国」を聴いた夢のような体験が脳裏に浮かんで思わず胸が熱くなった。なんとも深い思いが指揮ぶりから感じられ、それを都響が見事に音にしていた。続いてヤナーチェクの歌劇「利口な女狐の物語」大組曲だ。一般にはターリヒやイーレクやマッケラスの編曲が知られているのだが、今回は95分のオペラ全曲を30分に凝縮したフルシャ版だ。これは実によく出来た編曲で、ピットで聴くよりも明快に響くのでヤナーチェック独特のオーケストレーションの面白さが実に良く聞き取れた。もちろん演奏も文句ないもので、都響がヤナーチェク独特の響を見事に再現していたのには驚いた。きっとフルシャの血がメンバー全員に漏れなく伝播していったのだろう。最後はドヴォルザークの交響曲第3番変ホ長調作品10。あまり演奏されないものをあえて取り上げたということだが、これはフルシャがいかに健闘しても、やはり曲の習作的な若さには限界がある。全三楽章でなかなか良いメロディがあるのだが、その展開が何とも物足りないので作品としての充実感がない。しかし真摯に対峙して精一杯の効果をあげていたことは確かで、実演を聞けた意味は大いにあった。
ウェーバー作曲の歌劇序曲と言えば、「魔弾の射手」だって「オベロン」だって、勿論今晩の一曲目の「オイリアンテ」だって、ドイツ臭に満ちていて、分厚く重厚でロマンティックでドイツ音楽好きには堪らないナンバーであると思うのがクラシック音楽界の”一般常識”ではないだろうか。しかしトレヴァー・ピノックの手にかかると、それがクリアーで風通しの良いメチャメチャ明るい音楽に変身するから不思議である。勿論キリリと仕上がるためには紀尾井の精緻なアンサンブルの力量が大きく貢献していよう。とにかく明快極まりないウェーバーで、ここまでやってくれれば文句の言いようがない。二曲目はラトヴィア生まれの新鋭クリスティーネ・バラナスを迎えてドヴォルジャークのバイオリン協奏曲イ短調作品53。ピノックもバラナスもとりわけボヘミヤ風を意識することなしに純音楽的に捉えた演奏。ここで聞く限りバラナスのバイオリンは技は十分で美音ではあるが、取り立てた個性を感じることはなかった。しかしアンコールのBachの無伴奏第3番のAllegro assaiに至ってその繊細にして滑らかな運弓から夢のような音楽が溢れ出して、これには聞き惚れた。休憩を挟んでシューマンの交響曲第1番変ロ短調「春」作品38。これも推進力に満ちたピノック流の明快にして闊達な演奏。彼も今年で78歳になるというが、老いの影は舞台に登場する姿にも音楽にも皆無である。
すっかりこの夏至の時期の初台恒例になった山形交響楽団の東京公演である。今年は常任指揮者阪哲朗の指揮だ。スターターは管楽器やティンパニも含めてピリオド様式によるモーツアルトの2曲。まずは歌劇「魔笛」序曲 K.620、そしてミサ曲ハ長調「戴冠式ミサ曲」 K.317。スッキリ爽やかに、音を大切に紡いだ純正な演奏が実に快く心に響いた。ミサ曲には老田裕子、在原泉、鏡貴之、井上雅人ら四人のソリストと山響アマデウスコアが加わった。阪がプログラムに寄せた「エッセイ」に書いているように、一晩のコンサートの真ん中に「ミサ曲」を埋め込んだプログラムは現代では珍しい。後半はこれも極めて珍しいベルリン・フィルの首席指揮者として知られるあのアルトウール・ニキシュ作曲の「ファンタジー」。これは当時大ヒットしたV.E.ネッスラー作曲の歌劇「ゼッキンゲンのトランペット吹き」の中の魅力的なメロディを紡いだポプリだ。まるでオペレッタでも聞いているような美しくロマンティックな雰囲気が会場に漂った。(このオペラ全曲は山響により2006年に日本初演されたそう)音楽史上の有名人ながらその片鱗にはなかなか接し得ないニキシュの思いもよらない魅力に興味が掻き立てられた。最後はバイオリンに辻彩奈、チェロに上野通明を迎えてブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調作品102だ。ピタリと息の合った若い二人による何とも瑞々しいブラームス。決して重くならない、風通しの良いキレキレの阪の合わせが彼らの若さを美しく引立てる。重厚で渋いというブラームスの既成概念とは正反対の演奏だったが、こんなのも有りかなと思いつつとても気持ちよく聞いた。盛大な拍手にアンコールは「魔笛」に戻ってパパゲーノのアリアがバイオリンとチェロのデュオでチャーミングに奏され楽しくお開きになった。