慶應義塾大学の学生団体「慶應バロックアンサンブル」のOB&OGで主に構成されているアンサンブル山手バロッコが、小林恵(ソプラノ)、池田英三子(トランペット)、小野萬里(ヴァイオリン)、坪田一子(ヴィオラ・ダ・ガンバ)という3名の古楽器奏者をゲストに迎えて開催されたオール・バッハのマチネーである。開催場所は東神奈川駅に隣接した横浜市神奈川区民文化センターかなっくホール。このホールは単なる箱物に終わらず数々の企画を積極的に展開している。これはそんな主催公演の一つでこの日も満員の盛況だった。曲目はJ.S.バッハのブランデンブルグ協奏曲第6番変ロ長調 BWV1051とカンタータ第209番BWV209「悲しみのいかなるかを知らず」よりシンフォニアとアリア「不安や怖れを乗り切った舟人は」、そして休憩を挟んでブランデンブルグ協奏曲第5番ニ長調BWV 1051とカンタータ第51番BWV 51「全地よ、神に向かって歓呼せよ」だった。今回のメンバーはソプラノを含み全11人で、最小限の編成で奏されるピリオド風のブランデンブルグ協奏曲はとても新鮮だった。更にカンタータでの小林恵のよく伸びる、ノンビブラートの歌声は曲想と合致してとても耳に心地よかった。選ばれたカンタータはどちらも「歓び」を大らかに唄うもので、きな臭い時勢がらその明るさが切ない憧憬として心に響いた。
常任指揮者沖澤のどかが振る今年度2回目の定期演奏会だ。昨秋には出産のため予定されていた定期を欠場したが、晴れて出産を終えて復帰である。このプログラムを知った時からとても期待していたが果たして期待は裏切られることはなかった。まずは市響共同委託作品である藤倉大の「ダブル協奏曲ーヴァイオリンとフルートのための」の日本初演だ。ここではバイオリンの金川真弓と世界初演者でもあるフルートのクレア・チェイスが実に息の合った呼応を聴かせてとても大きな効果をあげた。名手に恵まれれば音楽的共感が得られる繊細にして美しい佳作だと言っていいだろう。そして待ちに待ったR.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」は予想通り圧巻だった。丁寧に扱いつつも強烈なドライブ感を感じさせる若々しく颯爽とした演奏で、京都市響がこれまで聞いたこともないように強靱に鳴りきった。沖澤はプレトークで今回は練習に同会場が使えたので音が変わったと言っていたが、たしかに音色にも表現にも一皮剥けた芯の強さが感じられたのである。巨匠の熟達した音楽も良いが、明るい未来を感じせるしなやかにして力感溢れる音楽に大いにエネルギーをもらった。先月の東京二期会による歌劇「カルメン」では、オペラティックな音楽造りも含めていま一つ冴えが足りない気がしたが、今回は現在の彼女の実力が最大限に発揮できた感がある。更に花を添えたのはコンマス会田莉凡のソロの見事さで、その表現力の豊かさは特筆すべきものだった。そんな訳でわざわざ京都に足を運んだ価値が十分にあった演奏会だった。
このオケの定期で初めての試みである演奏会形式のオペラに選ばれたのは、モーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」。指揮は首席指揮者のトレヴァー・ピノックだ。少し奥に下がったオケの前の空間とホール平土間通路を使った家田淳の演出は簡素ながら十分に立体的ドラマを表現した。何より気持ちよさそうに振るピノックの闊達な指揮がオケを沸き立たせ、そこに聴かれる多彩なオーケストレーションに天才の筆致を聞いた。この作品の特徴として重唱の美しさが挙げられることは多いがオケ伴も中々凄いことになっていて、単なる歌の伴奏にとどまらず歌以上にドラマを表現している箇所が沢山あったのだということに遅ればせながら気がつき、聴きながら嬉しくなってきた。(人生はやはり短いな)ピノックの絶大な力量に負うところが大きいと思う。配役には歌役者が揃った。フィオルディリージ役のマンディ・フレドリヒのちょと憂いを含んだ声質はこの役に最適だったがいささか低音が弱かった。ドラベッラ役の湯川亜也子の大層アグレッシーヴな歌と演技は全体を強く牽引した。KCOとは二度目の共演となるデスピーナ役のラウリーナ・ベンジューナイデの小回りの効く歌と達者な演技はスパイスのよう、 そしてドン・アルフォンソ役の平野和は堂々たる美声で実力を発揮し全体を締めた。グリエルモ役のコンスタンティン・クリメルは素直な歌唱で好感が持てた。フェランド役のマウロ・ペーターもKCOとは二度目の共演になるが、前回は鮮やかだったが今回は不調なのか高音が苦しかった。臨時編成の紀尾井ホール室内合唱団は人数は少ないが歌唱力は絶大だった。通奏低音ペドロ・ベリソのアドリブが随所で効果を発揮して人選の巧みさを感じさせた。総じて演奏会形式のオペラの利点が最大限に発揮された、3時間半があっと言う間の楽しい公演だった。
都響とは初顔合わせになる80歳の老匠レナート・スラットキンを迎えた新春初の定期演奏会だ。一曲目は彼の奥方で作曲家のシンディ・マクティの「弦楽のためのアダージョ」。あの9.11をきかっけとして作られた曲だそうで、深い悲しみを音で表現するというよりも内省的な穏やかさが勝った美しい作品。メロディは常に下降して続くことなく途切れてゆく様が当時のアメリカ国民の心象を巧みに表しているように受け止めた。この方が悲劇を声高に語るよりもづっと説得力があるものだ。続いてはバイオリン独奏に金川真弓を迎えてウオルトンのバイオリン協奏曲である。滅多に聞かれることのない30分を要する大曲だ。ウオルトンというと個人的には大げさで賑々しい印象があったが、此の曲は深く内省的で情緒豊かな佳作だ。金川の独奏はじっくり深い叙情に根ざしていて曲想にベストマッチしており、完璧なバランスの伴奏に支えられてこの佳作の良さを最大限に開花させたと言って良いだろう。最後はラフマニノフの交響曲第2番ホ短調作品27。これは賛否両論ある演奏だったと思う。それは仄暗いロシア・ロマンティシズムを咽び泣くように謳い上げるのではなく、美しい旋律やハーモニーをスキッリとスタイリッシュに纏め上げた品格漂うある意味アメリカ的な演奏だった。さりとて60年代のアメリカのようなゴージャス感は綺麗に拭い取られているので、結果として内声部が透けて聞こえてくるから美しい旋律に酔いつつも新たな発見も多い実りある楽しい一時間だった。こういう演奏で聞くと一般的に長く感じられがちなカット無しの長尺版もあっと言う間だった。現在の都響の持つ機能性を十二分に開花させたスラットキンの指揮にこの楽団との相性の良さを感じた。
このびわ湖ホール座付きのアンサンブルは決して合唱団ではない。彼らはオペラ歌手・ソリストであると同時に合唱アンサンブルにも対応できるように日々研鑽を積んでいる歌手達であり、そうした意味では日本では他に類を見ない団体だと言って良いだろう。事実彼らは大ホールの本舞台での脇役として名を連ねるのみならず、彼らを主体とする中ホールでのオペラ公演も年に幾度かは開催されている。そうしたメンバーが本拠地びわ湖ホールで自主リサイタルを開催し、それと同時に東京でも同じ演目でリサイタルを開催した。今回はそうした定期的な公演の15回目ということになる。「4人の作曲家たち〜フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、プーランク」と題された今回のコンサートは、フランスを代表する4人の作曲家の合唱曲と歌曲を折り混ぜた滅多に聞くことにできないような興味深い内容であった。フランス・オペラのオーソリティである佐藤正浩の指揮によるフォーレの”ラシーヌ雅歌”で始まったコンサートは、メンバー14名と客演2名それぞれのソロによる歌曲と全員による合唱曲を織り交ぜながら、アンコールの”ラシーヌ雅歌”でしっとりと静かに幕を下ろした。単なる合唱団のメンバーではない彼ら一人一人の切々とした歌声を聞いて心から感動した。不慣れであろうフランス音楽を若干の差異はあるものの皆見事に自分のものにしていた。団員のそれぞれが極め高い技術と音楽性と訴える力持っていることは驚くべきことであり、こうしたメンバーが育ってゆくことはこれからの日本のオペラ界にとってどんなに心強いことだろう。佐藤正浩と共にピアノ伴奏を努めた下村景の伴奏者として秀でた音楽性も光っていた。今回の演奏曲目は、フォーレ:ラシーヌ雅歌、月明かり、マンドリン、夢のあと、マドリガル。ドビュッシー:星の夜、美しき夕べ、マンドリン、海な伽藍よりも、シャルル・ドルレアンの3つの詩。ラヴェル:3つの歌、ヴォカリーズ、花嫁の歌、ロマネスクな歌、夢。プーランク:美とそれに似たもの、マリー、王様の小さなお姫様、ヴァイオリン、パリへの旅、ホテル、愛の小径、平和への祈り。美しい秋の上野の杜で、フランスのエスプリ溢れる音楽と詩の世界を堪能した時間はかけがえの無いものだった。
このところオペラ畑で大活躍のフランスの指揮者ピエール・デュムソーを迎えたロシア物をフランス物2曲で挟んだプログラムだ。1曲目は珍しいアルベール・ルーセルの交響的断章〈蜘蛛の饗宴〉作品17。あまり馴染みのない作曲家なので交響曲しか聞いた事がなかったが、これはその即物的な印象とは随分に違うとても色彩的な音楽だ。ここではまず細密画のようなオーケストレーションを明快に描き分けてゆくデュムソーの手腕が見事で、初っ端から紀尾井の瑞々しい弦と秀でた木管アンサンブルからフランスの香が漂った。夜の帷(とばり)が降りる昆虫達の行き交う庭にポツンと一人落とされたような幻想的な雰囲気が醸出され、筆致の描写性も十二分に引き出された名演だった。続いて昨年2月のショスタコのコンチェルトに続いて2度目の登場になるニコラ・アルトシュテットのチェロが加り、セルゲイ・プロコフィエフの交響的協奏曲ホ短調作品125。まるでチェロが体の一部でもあるかのような極めて自然な弾き方なので、縦横無尽の運弓ながら音楽に微塵の無理も力みもなく、洞々と流れ出る音楽に身を託しているうちに全てが終わった。三楽章の単純な協奏曲形式ながら中はかなり複雑な構成だ。しかし抒情性や皮肉や激しさがないまぜになった不思議な魅力を持つ曲だ。オケの伴奏とチェロ独奏が混然一体と調和した見事な演奏がその魅力を引き出したということだろう。ソロ・アンコールはバッハの無伴奏組曲第1番よりサラバンドがシットリと奏され、熱演との落差がまた堪らなく感じられた。最後はビゼーの劇付随音楽〈アルルの女〉第1組曲&第2組曲。これは熱量の極めて多い演奏で、聞いていて思い出したのは、もう40年も前に上野で聞いたフランスの名匠ジャン=バティスト・マリと東フィルの爆演だ。燦々と降り注ぐ南フランスの夏の太陽のようなラテン的な明るさと活力に満ちたとても隈取の濃い演奏。それがドーデの悲劇を題材としたビゼーの曲にベストマッチする。もちろん当時の日本のオケと今のオケでは技量が格段に違うので、こちらはどんなに開放的にオケを鳴らしても美しさとスタイルを保って「爆演」にならないところは流石である。大歓声と大きな拍手に予定外のアンコールは再度「ファランドール」からフィナーレ。さすがに今度は一寸ハメを外し気味の演奏ではあったが、それもご愛嬌というところだろう。
毎夏の恒例になった草津の音楽祭に今年もやってきた。ノロノロ台風10号の来襲で生憎の天気ではあったがその分涼しい草津は酷暑に疲れた体には大層楽であった。今年のテーマは”モーツアルト〜愛され続ける天才”だ。28日は”ショロモ・ミンツが奏くモーツアルトの協奏曲”と題されたコンサート。一曲目にモーツアルトのアダージョとフーガハ短調K.546、二曲目はこの昨年9月に惜しくも逝去した前音楽監督の西村朗を引き継いで音楽顧問に就任した吉松隆の「鳥は静かに・・・」。それは朋友西村との死別に寄せる悲歌にも聞こえた。続いたバイオリン協奏曲第4番ニ長調K.218でのミンツの歩みは、通常の闊達なモーツアルトとは一味も二味も違うジックリと丁寧に噛んで含めるような独特なスタイル。そして打って変わってアンコールはH.W.エルンストの「無伴奏ヴァイオリンの為の重音双方の6つの練習曲」から第4番。これはもう超絶技巧満載で、ミンツの腕にかかると練習曲も立派なアンコールピースになってしまう。最後は交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」。指揮の飯森範親は得意のピリオド奏法を導入して群馬交響楽団を操ったが、全体的なスタイルは中道的で、スコア細部の音の綾も明快に響かせてつつ重厚さも兼ね備えた成熟した音楽を聴かせた。翌29日は”ピアノと室内楽/モーツアルトからベートーヴェンへ”と題されたコンサート。ここではハイドンの弦楽四重奏曲第78番変ロ長調作品76-4「日の出」とモーツアルトの弦楽四重奏曲題19番ハ長調K.465「不協和音」、そしてモーツアルトのピアノと木管のための五重奏曲変ホ長調K.452とベートーヴェンのピアノと管楽のための五重奏曲変ホ長調作品16という同時代の同種の楽曲の聴き比べが楽しかた。それは3人の作曲家の個性、音楽書法の進展の様子を耳で確かめる絶好の機会となった。演奏はクアルテット・エクセルシオ、クリストファー・ヒンターフーバー(ピアノ)、トマス・インデアミューレ(オーボエ)、四戸世紀(クラリネット)、水谷上総(ファゴット)、西條貴人(ホルン)という熟達の面々。最終日は午前中にアカデミーの優秀者によるステューデント・コンサートがあった。これから世界に羽ばたくであろう若い才能を見聞きできるのは本当に楽しい。今回とりで登場しサンサーンスの「序奏とロンドカプリチオーソ」を披露したバイオリンの星野花さん(指導ショロモ・ミンツ)は、最近イローナ・フェへール国際ヴァイオリン・コンクールで第二位を受賞したこの2022年以来のアカデミーの常連。こうした大向こうを唸らせる演奏も良いのだが、冒頭に登場した石井愛理さん(指導クラウディオ・プリッツ)によるチェンバロの自然な呼吸が誘う極めて流れの良いヘンデルの組曲ニ短調も心に残った。そしてその午後の”グラン・パルティータ〜トーマス・インデアミューレ”と題されたクロージングコンサートが今年の音楽祭の最後を飾った。ハイドンのディベルティメントニ長調、モーツアルトのディベルティメントヘ長調K.253、同じくセレナード変ホ長調K.375が前半でトマス・インデアミューレ、若木麻有(オーボエ)、水谷上総、佐藤由起(ファゴット)、西條貴人、松原秀人(ホルン)という演奏陣。後半はモーツアルトのセレナード第10番変ロ長調K.361「グラン・パルティータ」なのだが、これがアントニー・シピリのピアノ、トマス・インディアミューレのオーボエ、カリーン・アダムのバイオリン、般若佳子のヴィオラ、チェロのエンリコ・ブロンツイによる五重奏版で演奏された。編曲者はC.F.G.シュヴェンケという人だが、これが中々と良く書けた佳作で、小編成とは言え名人達の演奏のせいもあってか大層楽しく、この音楽祭のトリに相応しく盛り上がった。
毎夏恒例フェスタサマーミューザKAWASAKI 2024に、いまや引っ張りだこの沖澤のどかが登場、さらに共演が人気ピアニスト阪田知樹だというから会場は満員御礼だ。まずはR.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」作品20で颯爽と開始された。沖澤の振りには迷いやブレが一切なく、オケが確信を伴って響くのでそれが実に快い。そしてダイナミックも大きくとられ読響の機動力に富んだ馬力が物を言う快演であった。続いて阪田が真っ黒な僧服のような出立で登場した。それはまるでフランツ・リストが写真帳から出てきたよう。演奏の方も強靭なフォルテと羽毛のような繊細で軽やかなピアニッシモを駆使していとも楽々とこの難曲を弾き切り、リストもかくやと思わせた。チェロの遠藤真理のソロも聞き映えがした。割れんばかりの盛大な喝采にアンコールは自ら編曲したフォーレの「ネル」。リストで聞かせた以上の繊細なピアニズムに心打たれた。最後はこのホールのオルガニスト大木麻里を迎えてサンサーンスの交響曲第3番ハ短調作品78「オルガン付き」。沖澤はドイツ物もフランス物もそれぞれに的確なスタイルで聞かせる秀でた手腕をもはや完全に身につけている。繊細さもあるがいざという時の強烈なフォルテも潔い。この4月に東響から移籍して来たオーボエの荒木奏子のリードする木管アンサンブルをはじめとしたこのオケの上手さを全面に押し出した、シャープな推進力を持ったサンサーンスに会場は大沸きだった。三日の間を開けて京都と川崎でこの沖澤のどかを聞いたが、この人は稀に見る逸材だと言って良いと思う。
2010-2017年のシーズンに首席客演指揮者を務めたヤクブ・フルシャが振る7年ぶりの演奏会である。チェコ音楽特集でスメタナ、ヤナーチェク、ドヴォルザークという王道が並んだ。スメタナ生誕200年、ヤナーチェク生誕170年、ドヴォルザーク没後120年の記念イヤーにちなんだプログラムか。まずは日本では滅多に演奏されることがないスメタナの歌劇「リブシェ」序曲だ。その愛国的な内容ゆえに冒頭のファンファーレはチェコの国家式典でしばしば奏されることがある。コロナ前2019年5月の「プラハの春音楽祭」でフルシャ指揮バンベルク交響楽団の「我が祖国」を聴いた夢のような体験が脳裏に浮かんで思わず胸が熱くなった。なんとも深い思いが指揮ぶりから感じられ、それを都響が見事に音にしていた。続いてヤナーチェクの歌劇「利口な女狐の物語」大組曲だ。一般にはターリヒやイーレクやマッケラスの編曲が知られているのだが、今回は95分のオペラ全曲を30分に凝縮したフルシャ版だ。これは実によく出来た編曲で、ピットで聴くよりも明快に響くのでヤナーチェック独特のオーケストレーションの面白さが実に良く聞き取れた。もちろん演奏も文句ないもので、都響がヤナーチェク独特の響を見事に再現していたのには驚いた。きっとフルシャの血がメンバー全員に漏れなく伝播していったのだろう。最後はドヴォルザークの交響曲第3番変ホ長調作品10。あまり演奏されないものをあえて取り上げたということだが、これはフルシャがいかに健闘しても、やはり曲の習作的な若さには限界がある。全三楽章でなかなか良いメロディがあるのだが、その展開が何とも物足りないので作品としての充実感がない。しかし真摯に対峙して精一杯の効果をあげていたことは確かで、実演を聞けた意味は大いにあった。
ウェーバー作曲の歌劇序曲と言えば、「魔弾の射手」だって「オベロン」だって、勿論今晩の一曲目の「オイリアンテ」だって、ドイツ臭に満ちていて、分厚く重厚でロマンティックでドイツ音楽好きには堪らないナンバーであると思うのがクラシック音楽界の”一般常識”ではないだろうか。しかしトレヴァー・ピノックの手にかかると、それがクリアーで風通しの良いメチャメチャ明るい音楽に変身するから不思議である。勿論キリリと仕上がるためには紀尾井の精緻なアンサンブルの力量が大きく貢献していよう。とにかく明快極まりないウェーバーで、ここまでやってくれれば文句の言いようがない。二曲目はラトヴィア生まれの新鋭クリスティーネ・バラナスを迎えてドヴォルジャークのバイオリン協奏曲イ短調作品53。ピノックもバラナスもとりわけボヘミヤ風を意識することなしに純音楽的に捉えた演奏。ここで聞く限りバラナスのバイオリンは技は十分で美音ではあるが、取り立てた個性を感じることはなかった。しかしアンコールのBachの無伴奏第3番のAllegro assaiに至ってその繊細にして滑らかな運弓から夢のような音楽が溢れ出して、これには聞き惚れた。休憩を挟んでシューマンの交響曲第1番変ロ短調「春」作品38。これも推進力に満ちたピノック流の明快にして闊達な演奏。彼も今年で78歳になるというが、老いの影は舞台に登場する姿にも音楽にも皆無である。
すっかりこの夏至の時期の初台恒例になった山形交響楽団の東京公演である。今年は常任指揮者阪哲朗の指揮だ。スターターは管楽器やティンパニも含めてピリオド様式によるモーツアルトの二曲。まずは歌劇「魔笛」序曲 K.620、そしてミサ曲ハ長調「戴冠式ミサ曲」 K.317。スッキリ爽やかに、音を大切に紡いだ純正な演奏が実に快く心に響いた。ミサ曲には老田裕子、在原泉、鏡貴之、井上雅人ら四人のソリストと山響アマデウスコアが加わった。阪がプログラムに寄せた「エッセイ」に書いているように、一晩のコンサートの真ん中に「ミサ曲」を埋め込んだプログラムは現代では珍しい。後半はこれも極めて珍しいベルリン・フィルの首席指揮者として知られるあのアルトウール・ニキシュ作曲の「ファンタジー」。これは当時大ヒットしたV.E.ネッスラー作曲の歌劇「ゼッキンゲンのトランペット吹き」の中の魅力的なメロディを紡いだポプリだ。まるでオペレッタでも聞いているような美しくロマンティックな雰囲気が会場に漂った。(このオペラ全曲は山響により2006年に日本初演されたそう)音楽史上の有名人ながらその片鱗にはなかなか接し得ないニキシュの思いもよらない魅力に興味が掻き立てられた。最後はバイオリンに辻彩奈、チェロに上野通明を迎えてブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調作品102だ。ピタリと息の合った若い二人による何とも瑞々しいブラームス。決して重くならない、風通しの良いキレキレの阪の合わせが彼らの若さを美しく引立てる。重厚で渋いというブラームスの既成概念とは正反対の演奏だったが、こんなのも有りかなと思いつつとても気持ちよく聞いた。盛大な拍手にアンコールは「魔笛」に戻ってパパゲーノのアリアがバイオリンとチェロのデュオでチャーミングに奏され楽しくお開きになった。
共にフィンランド出身の指揮者サカリ・オラモとソプラノのアヌ・コムシを迎えたお国物を中心としたコンサートである。エイノユハニ・ラウタヴァーラの「カントウス・アルクティクス」(鳥とオーケストラのための協奏曲)作品61である。自ら収録したフィンランド中部の湿地帯に生息する鳥たちの鳴き声をソリストとするユニークな「協奏曲」だ。2chで収録された鳥の声のテープ音がホール天井から舞台に降り注ぐ中、オケがそれに呼応する3つの楽章から成る佳作だ。幾種類かの鳥の声とオケが北国の自然風景を描き、最後はフィンランドの国鳥オオハクチョウの群れが春を告げる。まことにシーズン幕開けに相応しいスターターではないか。続いてはカイヤ・サーリアホの「サーリコスキ歌曲集」(管弦楽版)の日本初演だ。ペンッティ・サーリコスキの詩集から採られた人生と自然についての詩をコムシが独特の歌声で歌い上げたが、それは声を超越してオーケストラと同化し大きな感動を誘った。休憩を挟んでシベリウスのソプラノ独唱付きの交響詩「ルオンノタル」作品70だ。ルオンノタルは「カレヴァラ」に登場する大気の精で、空虚のはざまで激しい風や波と交わり受胎の末に水の乙女となり700年もの歳月孤独に海を漂流する話が題材である。詩は禁欲生活の中で絶望した作曲者が共感した自然も超越した峻厳な内的世界を描くが、ここでもコムシは他の誰にも達し得ないような共感でその世界を浮き彫りにした。いったい彼女以上に説得力を持ってこの曲を歌える歌手はいるのだろうかと思わせるほどの絶唱に会場は大いに沸いた。シベリウスはこの作品を「間違いなく私の最良の作品の一つだった」と語ったそうだが、この演奏はその言葉を裏付けるものだった。そして最後に置かれたのはアントン・ドヴォルザークの交響曲第8番ト長調作品88である。ここまでは峻厳な自然を描く趣の曲を連ねておいて、ここで郷愁を誘うドヴォルザークを締めに置いた意味はどうしても不明であるが、演奏自体は、所謂ボヘミアの哀愁のようなものとはハッキリと訣別した、極めて闊達明快な秀でたものだった。オラモの強力な統率力の下でオケもその機能を十二分に発揮し、胸の空くような輝かしく爽快な演奏を展開した。それでもやはり連続性の謎は聞きながらも脳裏を行き来していたのだが、「ドヴォ8冒頭のフルート・ソロとラウタヴァーラとの鳥繋がり」というのが今の所辿り着いた唯一の答えである。
2021年11月定期以来二度目の登場となるピアニストのピョートル・アンデルシェフスキ迎えた2024/25年シーズン開幕公演である。スターターは指揮者無しでグノーの小交響曲変ロ長調だ。名前は「交響曲」だが、木管7本のアンサンブルの滅多に演奏されない曲である。私も生で接するのは多分生涯二度目だと記憶するが、今回は紀尾井の名手達の卓越した表現力がグノーの魅力を十全に引き出した。フルート相澤政宏、オーボエ神農広樹・森枝繭子、ファゴット福士マリ子・水谷上総、クラリネット有馬理絵・亀井良信という顔ぶれ。続いてアンデルシェフスキの弾き振りでモーツアルトのピアノ協奏曲第23番イ長調K.488。のっけから水際だった玉井菜採率いる弦の美しさに心を奪われたが、どうしてか肝心のピアノの方は余り印象に残らず。もちろん均整がとれた心地よく美しい響きなのだが、前回の来日時のようなアゴーギクは影を潜めていた。ここまでが前半で後半はルストワフスキの「弦楽のための序曲」で始まった。全体にバルトークを感じさせる雰囲気の漂う音楽だが、ピチカートも多いこんな曲を指揮者無しで演るのは無謀じゃないかというのが正直な感想だ。さすが鉄壁のアンサンブルを誇る紀尾井なので、目立った乱れこそ聞き取れなかったが、表現に物足りなさを残した。最後はベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15。これは実に面白く聞いた。アンデルシェフスキーのアグレッシーヴな音楽の魅力がピアノにも指揮にも表れた最高に楽しい時間だった。とりわけ「ラルゴ」での弱音表現の掛け合いの素晴らしさには息を飲んだが、一方で両端楽章で聞かせたオケのシャープな音も印象的だった。聴衆に背を向けてオケを煽りながら弾き振りする姿を観つつ、ベートーヴェンもこんな風に演奏していたんじゃないかと「妄想」を巡らせた。大拍手にアンコールはハイドンのピアノ協奏曲第11番ニ長調からの緩徐楽章。ここでも特上のピアニッシモが静謐な音楽空間を作り出していた。
2024年の聖金曜日にタケミツ・メモリアルホールで開催されたBCJによるJ.S.バッハ作曲マタイ受難曲の演奏会である。指揮は主席指揮者の鈴木優人。エヴァンゲリストはベンヤミン・ブルンス、ソプラノはハナ・ブラシコヴァと松井亜季、アルトはアレクサンダー・チャンスと久保法之、テノールは櫻田亮、バスは加耒徹とマティアス・ヘルムという声楽陣だ。私はキリスト教者ではないけれど、やはりこの曲を聞くとなれば襟を正して聞かざるを得ない。前回は2015年のラ・フォル・ジュルネだったと思う。プログラムによるとその時が今回の指揮者鈴木優人のマタイ初振りだったということだ。まあそれはともかくとして、キリスト受難の3時間を超える大曲の中に身を置くことは決して楽なことではないので、これが生涯最後の生マタイになるのかなと思いつつ席についた。生き生きとしていて俊烈な響き、しかし決して禁欲的でなく心地よく自然な音楽は、一瞬にして私の心を鷲掴みにし、3時間はアッ言う間に大きな感動のうちに過ぎ去った。それはもちろん声楽のパートにも器楽のパートにも最高の演奏者を揃えたBCJの成せる技ではあるのだが、それにしても鈴木が各コラールに与えた表現の多彩さは何ということだろう。この曲に於いてコラールは民衆の心を代弁する役割を果たすが、このように歌われると聞く者は否応なしに受難のストーリーに引き込まれるのである。これまで聞いてきたコラールとは異次元の音響世界で、こんなに心に染み入るコラールは受難曲で聞いたことがない。そしてブルンズの語り部としての秀でた歌唱も極めて大きな牽引力となった。こうした全体的な感動の中でははなはだ微視的なことになるが、第42曲のバスのアリアに寄り添った若松夏美のオブリガード・バイオリンの鮮やかさは、この厳粛な時間の流れの中で一服の清涼剤として深く印象に残った。いや〜言葉にし難い実に貴重な、そして有り難い時間だった。
今年度で開館25周年を迎えたびわ湖ホールの活動を支える専属の声楽アンサンブルの東京公演である。前日には本拠地びわ湖ホールでの初日公演があったのでこの日が二日目ということになる。今回は初代音楽監督若杉弘氏へのオマージュということで「The オペラ!」と題され、その若杉が「青少年オペラ劇場」として幾度も上演を重ねたブリテン作曲の歌劇「小さな煙突掃除屋さん」のセミ舞台上演がメインであった。この45分ほどの小オペラは「オペラを作ろう」という3幕仕立ての舞台作品の一部で、最初の二つの幕では背景がドラマとして語られ、この作品はその第3幕という位置付けになる。そして今回それに先立って演奏されたのは何と演奏時間90分を要するヴェルディ作曲の「レクイエム」なのだ。これは世界的にもほとんど顧みられることのないヴェルディの初期オペラ8作品の舞台を、オール日本人ダブル・キャストで立て続けに上演し成功に導いた若杉の快挙に敬意を表した選曲なのだろうと想像するが、それにしても何とも驚きを禁じ得ない無謀とも言える選曲ではないか。しかしその企画の破天荒な自由さは、このアンサンブルならでは、あるいはびわ湖ホールならではと言って良いのではないか。さて演奏の方は、この劇場と座付きの演出家と言えるほど関係の深い中村敬一の要領の良い構成・演出が功を奏した後半が圧倒的に面白かった。アンサンブルの一人一人の生き生きした歌と芝居が作品を大いに盛り立て楽しませてくれた。そうした特質はびわ湖ホールでの大オペラとの共演や、中ホールでの自主オペラ、更には70回を超える定期公演や地域を中心とした幅広い活動で培われたものだろう。聴きながら1960年代初めの若き日々から日本のオペラ界を影で支え牽引し続けた初代音楽監督若杉弘のオペラへの強い愛と心意気が、現在のびわ湖ホールにしっかりと根付いていることを強く感じて胸が熱くなった。一方前半のヴェルディは17名のメンバーと河原忠之の指揮・ピアノ伴奏だけという小編成の演奏。(誰の編曲なのかは明らかにされていない)こちらは小編成なので声楽的には各声部が良く聞き取れてとても興味深いものだった。ただし本来オーケストラが圧倒的に物を言う作品だけに、ピアノ一台の寂しさを克服することはできなかったというのが正直な感想である。