「Maxのページ」は2025年11月18日のGooブログのサービス終了に先駆けて「はてなブログ」に引越しをいたしました。
今後も下記で「続マックスのページ」と題して、これまで通り備忘録としてコンサートの感想などを書き連ねて参ります。
ご興味ある方是非ともお立ち寄りください。
https://k0770057.hatenablog.com/
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ヴェルディの作品を上演することを目的として指揮者出島達夫によって2011年に立ち上げられた「アリドラーテ(黄金の翼)歌劇団」が世に問う11番目の演目はヴェルディ五作目のオペラ「エルナーニ」である。私自身語り草になっている若杉弘によるびわ湖ホールでのヴィルディ初期オペラシリーズを全演目制覇した身として、その懐かしさに昨年上演された「シチリアの晩鐘」に出向いたのがこの歌劇団との出会いであった。誠に失礼な言い方になるが、そこで思いの外の質の高さに驚き今年も初台の中劇場に出向いたというわけである。そして結果は期待通り、いやむしろ期待を大きく上回る感動をもらって帰路についた。その理由はまず何より生え抜きの歌手陣を揃えたことである。エルナーニ役の石井基幾、国王にしてエルナーニの政仇ドン・カルロ役の 井出壮志朗、エルナーニの恋敵シルヴェの加藤宏隆、シルヴァの姪にしてエルナーニの恋人エルヴィーラ役の中村真紀、その侍女ジョヴァンナ役の米谷朋子、王の従者リッカルド役の工藤翔陽、シルヴァの従者ヤーゴ役の奥秋大樹、この全員がヴェルディのスタイルをきちんと身につけた実に立派な歌役者だったという驚異的な事実があったのだ。これは歴史ある日本のオペラカンパニーの公演でも稀有なことである。そして指揮の山島達夫の丁寧な統率は昨年の「シチリア」を上回り、無難な交通整理を超えて本格ヴェルディを醸し出していた。 木澤譲の演出は装置こそ極めて限定的であったが、新国のステージエレベーション機構を存分に使い尽くし、さらには大人数の合唱や石井竜一振付のバレエを随所に登場させる等、大技小技を取り混ぜて少ない経費の中でイタリアを感じさせつつ最大限に説明効果を発揮させていたと思う。つまり賢い頭で引き算をしていった結果、そこにヴェルディが浮かび上がって来たのだ。大きな経費を投入して的を外した読み替え演出を繰り返す有名カンパニーに爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいである。プログラムに載せられたイラスト付きの筋書きは、装置の少なさを補って聴きての想像力を膨らませドラマへの没入を助けてくれた。ヴェルディの音楽を愛する者の一人として、様々な苦労の中でヴェルディ愛を強く貫き良い結果を出し続けている出島氏とその周りに集まるこの歌劇団の方々に心からの敬意を表したい。そして来年の「アッティラ」を楽しみにしたい。
首席指揮者トレヴァー・ピノックの指揮する改修前の現紀尾井ホール最後の定期演奏会は、今年生誕150年を迎えたラヴェルの組曲「クープランの墓」(オーケストラ版)で始められた。いつものように闊達で躍動的なピノックの音楽は骨太なラヴェルを描く。それゆえ典雅さといった風情は幾分後退していた感がある。続いてピノックとは2022年のショパンの2番以来二度目の共演になるアレクサンドラ・ドヴガンを迎えたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番ト長調作品58である。何とも繊細な導入のピアノに続きドヴガンの世界は今回も深く深く進化してゆく。天才的な感受性に基づいた非凡な表現力と正確無比なピアニズムから生まれ出る驚くほど端正な音楽は、その純粋さ故に実に大きな説得力を持ち、この傑作の持つ類稀なベートーヴェン中期の傑作の世界を描き切った。これを表現するにもう見事と言う意外の言葉は無い。ピノックのピタリを寄り添った骨太なサポートはここでは功を奏した。それにしても1楽章のカデンツアは誰のものだったのだろう。アンコールはテンペストの終楽章。その完成度の極めて高い表現に全曲を聴きたい想いが募った。最後はメンデルスゾーンの交響曲第4番イ長調「イタリア」イ短調作品90だ。2023年9月の第2番「讃歌」の名演に続くメンデルスゾーンの交響曲第二弾になる。その躍動感に満ちた激しい音楽はとても79歳の老匠が紡ぎ出す音楽とは思えない。しかし逆にもう少し寛いだ雰囲気も欲しい気がした。終楽章のサンタレッロなどデモーニッシュな趣さえ帯びてきたのには恐れ入った。盛大な拍手にフォーレのドリー組曲から第一曲。これはもう文句なく美しかった。コンマスはアントン・バラホスキー。
嘗てシティ・フィルの指揮研究員を務めていた経歴のある松本宗利音(しゅうりひと)の東京オペラシティ定期デビューである。名前を聞いてあの名指揮者カール・シューリヒトを思い浮かべるのは私だけではないだろうが、父親が自らが敬愛する大指揮者の苗字にちなんで名付けたそうである。まあそれはともかく、ドヴォルザークの交響詩「英雄の歌」作品111とブラームスの交響曲第2番ニ長調作品73をアーチで結んで、その中にミヨーのスカラムーシュ作品165と逢坂裕のアルトサクソフォン協奏曲(上野耕平委託作品)を据えた長く堂々たるプログラムである。最初のドヴォルザークは珍しい曲で初聞きであったが20分を要する大曲である。さっぱりと美しく奏でつつ必要なときは明確に細部を際立てるこの指揮者の丁寧な音楽が最初から際立った。そしてボヘミヤの音感が聞くものを郷愁に誘う。曲自体ちょっと長すぎる感じはあったが、とても良いスターターだった。次に人気サクソフォン奏者上野耕平を迎えてミヨーと逢坂作品が続いて演奏された。ここでは上野の軽やかな技巧が爆発した。オケもそれに巧みにつけて最良のバランスで盛り上げた。洒脱なミヨーをアクセントとしつつ上野の委託作品がメインだったように聞いたが、これもストーリーを持った30分の大曲。ジョン・ウィリアムスばりの聴きやすいメロディで感性をくすぐるところはあるのだが、オーケストレーションや常に壮大な方向に向かうという展開がいささか一面的で冗長さを感じてしまった。そして最後に置かれたブラームスはなかなか良い演奏であった。明快でキレが良いのだが味気なさはまったく感じない。冷静さを装いつつ心は燃えている。そんなブラームスだった。オケの統率も実に見事で奏者から最良の音楽を引き出していた。そんな風に表現するとそのキリリとした清廉な音楽はどこかカール・シューリヒトの音楽とダブルようにも感じられたのだが、これは刷り込みゆえのことだろう。新たな才能の発見に勝る喜びはない。
沖澤のどかを追いかけて名古屋にやってきた。愛知県芸術劇場コンサートホールで開催された彼女が常任指揮者を務める京都市交響楽団の第15回の名古屋公演である。まずはウェーバー作曲の歌劇「オイリアンテ」序曲が軽快に奏でられた爽やかなスターターだった。続いてブラームスのハイドンの主題による変奏曲変ロ長調作品56。こちらも早めのテンポで美しくスッキリとした運びであったが、両曲ともにちょっとコクが足りないというか、重厚さがいささか不足して含みに欠ける感があった。メインはチャイコフスキーの交響曲第5番ホ短調作品64。この日の沖澤のテンポは早めでちょっと前のめりになる傾向が聞き取れて気になっていたのだが、チャイコフスキーになって腰が据わって安心して聞けるようになった。しかし煽るところ煽るので日頃聞かれないような激しい心の動きが聞き取れたのは曲がチャイコフスキーだったからだろうか。しかし逆に粘着的な粘りや爆発的な重量感のあるフォルテに起因する暗さはないのでロシア的な雰囲気は排除されている。ある意味純音楽的に格調高く演奏されたチャイコフスキーであったが、青白い炎のような熱を感じる峻烈な響きが心に迫ってくる演奏だった。ただフィナーレにシンバルの一撃を加えて効果を狙ったのはこの指揮者にしては意外であった。まあそれはともかく、多く詰めかけた外国人聴衆のスタンディングオベイションを含む盛大な拍手にアンコールはオネーギンからポロネーズ。これには更に会場は沸きに沸いて沖澤のソロ・カーテンコールとなった。
今年も恒例のさくらんぼコンサートがやってきた。今年はフィンランドの名匠オッコ・カムと神尾真由子を招いた豪華版だ。この楽団の創立名誉指揮者川村千秋がシベリウスを得意とするという縁もあり期待は膨らんだ。会場に入ると、今宵のプログラム冒頭に置かれた「鶴のいる風景」作品44-2と2曲目のバイオリン協奏曲ニ短調作品47が指揮者の希望で続けて演奏される旨の掲示があった。指揮者カムの今回のプログラムに寄せる唯ならぬ意欲が感じられ、期待は一層膨らんだ。柔らかな弦の醸し出す静謐な雰囲気の中、二人のクラリネット奏者が立ち上がり聞こえたのは鶴の鳴き声、CDで聴き馴染んでいるのとはかなり違うその大きさに驚いた。鳴き声は弱まり曲は静かにディミニエンドして協奏曲になだらかに繋がってバイオリンソロが立ち上がるというストーリーだったに違いない。しかし白鶴のごとき衣装に身を包んだソリストの神尾真由子が登場するや否やパラパラと拍手が起こってしまった。何たることか。残念としか言いようがない。これには神尾も苦笑いしながら定位置に着いた。そのソロは実に立派。超絶技巧も難なくこなしてゆくのだが、ちょっと歌が演歌的で、同時に音の磨きにも不足したので、私にはシベリウスの聞き心地として余りよいとは感じられなかった。盛大な拍手にアンコールは超瞬速のパガニーニのカプリース。これも確かに凄かったが、シベリウスの後のパガニーニはやはり私には居心地が悪い。指揮者のオッコ・カムは1969年のカラヤン・コンクールで優勝し、直後にベルリン・フィルを指揮したシベリウスの2番がドイツ・グラモフォンからリリースされて大層話題になったことが記憶されている。今回のメインもその交響曲第2番ニ長調作品43である。独学で身につけた指揮はいささか不器用ではあるが、弦は強靭で木管は大きめなバランスで鳴り、全ての表現には自然な興感が伴っていてとても好もしい。そして時折これまで山響からは聞いたこともないような峻烈なフォルテが心を抉るのである。妙に劇的に作り込まない自然な運びながらジワリジワリと感動的なフィナーレを築いてゆく腕前には誠に感服した。
都響とはほぼ初顔合わせになる沖澤のどかを招いた演奏会である。最初のドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」は明快に音の綾を聞き取れるクリアーにして暖い演奏。漠然とした印象だけで終わらずに情景が心に留まるのはこの指揮者の特徴である呼吸があるからに違いない。音楽が身体に染み込んでゆく感じがとても心地よい。独奏フルートに今一つの個性(華)があったら印象は更に深まったと思う。2曲目は師弟関係にあるフランク・ブラレイと務川彗悟を迎えてプーランクの2台のピアノのための協奏曲ニ短調。意表を突いたオリエンタルな雰囲気で始まり、モーツアルトのピアノ協奏曲のオマージュ風の2楽章を経て楽しげなフィナーレで終わる実に楽しく面白い佳作の秀演だ。鳴り止まぬ大きな拍手にアンコールは同じ作曲家の「仮面舞踏会」からカプリッチョでまた息のあったところを聞かせた。常に務川をたてる師ブラレイが印象的だった。そして休憩後は注目のストラビンスキーのバレエ音楽「春の祭典」だ。ピエール・モントーによる初演での「大騒動」のエピソードで知られるこの曲は野蛮で粗野なバーバリズムの権化のような印象があったが、今回の沖澤の演奏は実に洗練されていて細部のニュアンスに富んでいる。しかしシャープな音響を駆使した壮大なスケール感も十分に聞き取れるハイブリッドなもの。フィナーレの追い込みの部分では体が浮遊するような不思議な感覚に襲われた。そしてニュアンスに満ちた最後の決めには心を射抜かれた!初めてこの曲に接したのは何時のことだろう。それはブーレーズとORFによる1963年録音のコンサート・ホール盤だった。そして実演では1969年3月の荒谷俊治指揮による東フィル第123回定期だった。1980年のマルケヴィッチの2回目の日フィルとの共演も聞いた。その頃は多少ミスがあったってとにかく全曲がきちんと運べばそれで大喝采といった時代だった。そのうち日本のオケも機能性を身につけて難なく全曲を弾きこなす時代になったが、それと同時にこの曲を聴く側の特別感が薄らいで来た傾向もあると思う。しかし、昨日のような多面性を聞き取れる「春祭」は生涯で初めて聞いた感じがして実に鮮烈極まる印象を残した。全曲を完全に手中に収めた鮮やかな振りに見事に追従した都響も素晴らしかった。満場の大喝采にとても嬉しそうにソロアンコールに応じる「やり終えた感」満載の沖澤の姿が美しかった。
待望したイタリアの名匠ミケーレ・マリオッティ2度目の来日である。2023年9月定期の「ザ・グレート」での名演はもちろんのこと、ペーザロのROFでも2019年に「セミラーミデ」、2024年に「エルミオーネ」で最良の指揮に接しその音楽性と統率力に心酔して心待ちにしていた日だ。最初のモーツァルトの交響曲第25番ト短調が予想もしないような空前絶後の厳しく研磨された硬質な響で開始されたのには驚くと同時に身が引き締まった。その後も厳しい音楽が続くのだが、正確にコントロールされた弱音との対比が益々音楽に奥行きと深みを加えてゆく。続く決して嫋々としない厳しさが秘められたアンダンテはなんたることだろう。装飾音を織り交ぜた素敵なトリオとの見事な対比を聞かせたメヌエットを経て最後は文字通りの疾風怒濤の超快速のアレグロで鮮やかに締めくくられた。もうこれだけでも良いと思わせるほどの充実感に満ちた小ト短調だった。そして迎えたロッシーニ晩年の大作「スタバート・マーテル」だ。今回何よりロッシーニを歌わせるための理想の「声」が揃ったことが驚異的だ。(当初アナウンスされたアブラハミアンの代役がバルチェッローナだというのも流石マリオッティの采配ではないか)演奏の方はもう言うことのない「奇跡的」と言って良いような完成度の仕上がりだった。2度目の共演でその棒を信頼し切った東響の充実はもちろんで、隅々まで完璧にコントロールされているが同時に十分な呼吸感を持っているので音楽がふくよかに流れる。声楽陣に耳を転じると、第2曲でのマキシム・ミロノフの歌唱は柔らかく細めの声質が特色だったが、むしろここではあまりオペラティックでなく上品に仕上げたという意味で良い方に転じていたのではないか。第3曲のソプラノとメゾの二重唱ではその純音楽的な美しさに涙が流れた。マルコ・ミミカの第4曲と第5曲での滋味豊かな癖のない歌唱は出色だった。ダニエラ・バルチェッローナは第7曲での貫禄に満ちた深々とした歌唱が印象に残った。第8曲ではハスミック・トロシャンの強靭な突き抜ける美声に心が張り裂けた。驚くべきは4人のソリストによって歌われるのが常の第9曲を東響コーラスのみで歌わせたことだ。これはマリオッティのコーラス(指導辻裕久)への信頼感がそうさせたのだろう。これは勿論文句のない感動的な出来栄えで、終曲の目眩く対位法に綾どられた世界に美しくなだれ込み大きな感動を巻き起こした。終演後の大拍手と大歓声はこのホールでは滅多に聞かれない程で、マリオッティは嬉しそうにソロアンコールにも応じていた。是非再度招聘してもらいたいものだ。
首席指揮者の藤岡幸夫を迎えて、このきな臭い昨今全ての人の思いを代弁するかのようなレイフ(ラルフ)・ヴォーン・ウイリアムスのカンタータ「我らに平和を与え給え」をメインに置いたプログラムである。といは言えその前に演奏されたベートーヴェンのバイオリン協奏曲ニ長調作品61は、実にジックリと演奏されたので演奏時間では前半が長かったかも知れない。そのソリストは今年でこのオケのコンマス30周年を迎えた戸澤哲夫である。当日のプログラムによるとこの曲を初演したクレメントは柔和な演奏をした人だったようでベートーヴェンの作風もそれに合わせたというような話もあるようだが、戸澤のソロも実に柔和な美音で繊細に綿々と歌い上げてゆく風情で独特なものであった。しかしそれは一方で線の細さでもあり、オケはそれとのバランスを取ることになるのでダイナミックな側面は削がれて全体に小ぶりな印象を与える仕上がりになっていた。用いられたカデンツは珍しくシュナイダーハン編曲のもので、目等貴士のニュアンス豊かなティンパニーとの長い掛け合いはとても面白く聞いた。30年の労いをも込めた盛大な拍手にバッハの無伴奏ソナタ第3番からラルゴが弾かれたが、これが繊細極まる弱音の美に溢れた見事な出来で本曲以上の聞き物だった。メインのカンタータはラテン語の聖句と英語の詩が織りなす構成がどこかブリテンの「戦争レクイエム」を思わせる先駆的な作品と言えよう。平和を希求するという全曲を貫く思想は今の世界情勢の中で演奏されると一際大きな意味を持つ。ここでは藤丸崇浩指揮の東京シティ・フィル・コーアが渾身のアンサンブルを聞かせた。そしてとりわけ"Donna nobis pacem"と繰り返す 天の声のような安川みくの清らかな歌声は心に刺さった。
首都圏の大学オケのOBによって構成されるこのオーケストラ、名前の通りボヘミヤ音楽好きによって構成されているという変わり種である。曲はスメタナ作曲の連作交響詩「我が祖国」全曲である。指揮は2023年に急遽代役で東京シティ・フィル定期に登場し、吉松隆の交響曲を振ってプロ・デビューを飾った山上紘生だ。二週間前に下野+東響のスメタナ「我が祖国」全曲を聞いて以来スメタナ熱が冷めやらずに来てしまったという次第。失礼ながら聞ければいいやくらいにしか思わずに足を運んだのだが、これがとても良かった。もちろんアマチュアの限界はあるのだが、皆がスメタナ好きとなるとやはり「熱」が違うのだ。どこを切っても共感に満ちた響で本当に感動した。まあ木管の音の美しさなんていうところはやはり限界があるのだが、弦などなかなか良い音で鳴っていて、何より後ろのプルトからも均一に音が聞こえてくるのには驚いた。山上の棒は決して煽らず、しかし締めるところは締め十分な思い入れもあり、更にはチェコ流のイディオムも確り聞き取れてとても見事な仕上がりだった。正直こんな感動的な演奏会になるとは思ってもみなかった。堂々たるフィナーレの仕上がりなど二週間前の東響以上かとも思った次第。次回は10月にドヴォルザークの4番と7番だそうで、こうなるとこれにも是非足を運ばねばなるまい。