日本各地のオケでこのスメタナの連作交響詩「我が祖国」を数多く手掛けている下野竜也の指揮である。読響、SKO、札幌、兵庫等。折しも彼の地では今年80周年を迎えた「プラハの春音楽祭」が開幕中の今日、今回は川崎でここを本拠地とする東響との共演となった。休憩なしの80分一本勝負のプログラムだ。流れ出たのは明朗闊達で極めて健康的な音楽である。チェコ音楽を得意とし読響ではドヴォルザークの交響曲チクルスもやっている。そんな下野だが殊更ボヘミヤ風を意識したところはなくごく自然にスコアを捉えて外連味なく音にしたと言った感じである。しかし意識的に堅固に隙なく組み立てるということはしないのでチョットした遊びが生じて楽しい瞬間が多々ある。そこが師匠格の高関健の作る音楽との違いであろう。オケは下野の解釈に対して共感に満ちた反応をしていてとても気持ちよかった。今回初めてミューザ川崎の1階席前方という場所で聞いたのだが、木管や金管が弦楽群の響に隠れて聞こえ難いという印象を持った。だから全体的な印象が弦主体で流麗闊達ではあるがアクセントに不足して聞こえた。基本的に下野はそういう音楽家ではないのでこれはきっと席のせいであろう。逆に東響の弦の強靭な美しさには惚れ惚れしたし、そんな中でもクラリネットの表現力は抜群、更にシンバルのニュアンスに満ちた多彩な響にはおおいに驚かされた。終曲ブラニークの大団円でテンポをあげて高らかにフィナーレに持ち込んだけれど、そのあたりはじっくり腰を据えて欲しかったと、これは個人的な趣味の問題だろう。というか今の下野にしてこれは当然の帰結かもしれない。そんな回想に満ちた落ち着きを求めるのはこちらが年寄りの証拠だろう。あと何回この全曲を聴けるのだろう等と、そんなことを考える歳になってしまった。
「川崎・しんゆり芸術祭(アルテリッカしんゆり)2025」の一環で「東京交響楽団爽やかグリーンコンサート〜東欧ボヘミヤの風に乗って」と称された大型連休最終日のマチネーにやってきた。会場は新百合ヶ丘にある昭和音大のテアトロ・リージオ・ショウワ、指揮はキンボー・イシイで独奏がこの楽団の客演主席チェロ奏者の笹沼樹。そしてプログラムはオール・ドヴォルザークだ。まずはスラブ舞曲第1番ハ長調作品46-1で賑々しく開幕したが、イシイの音楽はとりわけボヘミア色を強調することのない明快で素直なものだった。定期演奏会でないのでエキストラの多い東響の音はいつもとは異なり幾分硬質な響なので尚更クールさが強調されていたのかもしれない。続いて笹沼をソリストに迎えたチェロ協奏曲ロ短調作品104。笹沼は日本人としては背が高くて大柄だが出てくる音楽は繊細で美しい。だから終楽章の聞かせどころ、コンサートマスターのニキティンとの掛け合いなどでは埋もれ気味なところもあったが、リリカルな部分の歌い回しの美しさはなかなかのもので印象に残った。大きな拍手に東響のチェロ・セクションとコンバスを従えて協奏曲の二楽章で引用されていたドヴォルザークの歌曲「私を一人にさせて」の弦楽八重奏編曲版がしとやかにアンコールされたが、そのセンスの良さには驚いた。メインの交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」もキリリと引き締まった率直な音楽で、強めのバランスで聞かせた木管楽器群のニュアンスがとびきり光った。しかしながらこの日のエキストラの多いホルン群はかなりの不調で大事なところでコケることが多くで残念だった。それでも大きな拍手にアンコールはスラブ舞曲第10番ホ短調作品72-2が郷愁を漂わせて奏でられしっとりとお開きになった。
2014年4月から11年の長きにわたって東京交響楽団の音楽監督をつとめたジョナサン・ノット。彼が音楽監督として最後のシーズン幕開けに選んだ曲は今回が二度目となるブルックナーの交響曲第8番ハ短調WAB108である。就任2年目の2016年7月定期で取り上げた時には実にスマートな力感に溢れた演奏で、所謂巨匠たちの堅固で厳かな演奏とは明らかに一線を隔したとびきりの新鮮さを感じたものだった。今回は初稿ノヴァーク版(1972)による演奏ということで、9年を経たノットの解釈と初稿使用という二つの「違い」を楽しみに桜満開のサントリーホールに足を運んだ。果たして演奏は前回とは全く趣を異にしたものだった。ノットといえばいつもは快速調なのだが開始からテンポが遅いことに驚いた。それはあたかも去る時間を慈しむようだった。初めは最後のシーズンに臨み11年間の自分のオケの進化を確かめているようにも聞こえたのだが、その丁寧な歩みによりこの第一稿の特徴である作曲家のナイーヴな感性が次々に浮き彫りにされ、今までに聞いたことのないような新鮮な世界が展開しだしたのには全く驚いた。丁寧にジックリと、しかし決して鈍重でなく柔軟に音符に向かい合うことで、周囲の助言により劇的効果が付け加えられる前の第一稿の極めて純粋な美しさが尊いまでに音化されたといったら良いだろうか。これまで実演をも含めて幾度か聞いて来たがどうしても馴染み難かったこの初稿の価値、ひいてはブルックナーの音楽の本当の価値を初めて思い知った貴重な時間だった。グレブ・ニキティン、小林壱成、田尻順のコンマス3人体制で臨んだこの日の東響は最適なバランスを保ちつつ、このノットの音楽にピタリを追従した美しい音でこの世界を描き尽くした。夢のような95分、前回のような突飛なブラボーの蛮声に妨げられることもなく美しく得難い印象として心に刻めて本当によかった。
ミューザ川崎と東京芸術劇場主催によるジョナサン・ノット指揮のコンサート形式オペラ「コジ・ファン・トッテ」である。世界の歌劇場で活躍する旬の歌手達を集めた配役。フェランド役のショーン・マゼイが代役に替わることは暫く前からアナウンスされていたが、直前になってフィオルディリージ役のミア・パーションも急遽代役という不測の事態が重なった公演だった。しかしそんなトラブルはなんのその、実に充実した舞台が繰り広げられた。何といっても舞台監督でドン・アルフォンソ役のトーマス・アレンの存在感が凄い。この役にこれだけの大物を持ってくるといかに舞台が引き締まるかを実感させるまさに「要役」の好演だった。グリエルモ役マルクス・ウェルバの引きしまった美声には惚れ惚れ。またドラベッラ役のマイテ・ボーマンもザルツブルク・デビュー役とのことで実にピタリとはまった演技と歌だった。その蠱惑的な表現と甘い響きが役柄にピタリとはまった。デスピーナ役のヴァレンティナ・ファルカスの芸達者振りと美しい立ち姿も印象に残った。フェルナンド役のアレックス・シュレイダーは代役だったが、こちらもザルツブルク・デビューがこの役だったということで何の不足も感じさせない充実した歌唱。フィオルディリージに急遽代演したヴィクトリア・カミンスカイテは、空港から練習場に駆けつけたという裏話もあるが、途中譜面を見る時があったとは言え歌唱自体は役柄をとらえた素晴らしいもの。その強靭な声質が役に合っていた。新国立歌劇場合唱団はもうコシにしては立派過ぎる程のアンサンブル。こうした声楽チームが、本当にリラックスして自分たちでも楽しみながら歌い演じるものだから、舞台としての完成度はとてつもなく高くなる。椅子と机とワイングラスという最小限の舞台装置ながら、時にはオケの後方までも使った動きはオペラ舞台をも彷彿とさせるものがあった。むしろ歌手とオケと指揮者との極めて近しい位置関係が、オペラの本舞台よりも凝縮力ある全体を作り上げ、それはこの作品のような「アンサンブルオペラ」に相応しい結果を生んだようにも思う。それはまさにノット一座の舞台という感じであった。オケはビブラート控えめの準ピリオド奏法に金管とティンパ二にピリオド楽器も加えスッキリ軽快に全体を支える。出演者と呼吸を併せながら実に楽しげにハンマーフリューゲルを弾き振りするノットが終いにはモーツアルトに見えてきた。