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東響名曲全集(2025年5月17日)

2025年05月14日 | 東響

日本各地のオケでこのスメタナの連作交響詩「我が祖国」を数多く手掛けている下野竜也の指揮である。読響、SKO、札幌、兵庫等。折しも彼の地では今年80周年を迎えた「プラハの春音楽祭」が開幕中の今日、今回は川崎でここを本拠地とする東響との共演となった。休憩なしの80分一本勝負のプログラムだ。流れ出たのは明朗闊達で極めて健康的な音楽である。チェコ音楽を得意とし読響ではドヴォルザークの交響曲チクルスもやっている。そんな下野だが殊更ボヘミヤ風を意識したところはなくごく自然にスコアを捉えて外連味なく音にしたと言った感じである。しかし意識的に堅固に隙なく組み立てるということはしないのでチョットした遊びが生じて楽しい瞬間が多々ある。そこが師匠格の高関健の作る音楽との違いであろう。オケは下野の解釈に対して共感に満ちた反応をしていてとても気持ちよかった。今回初めてミューザ川崎の1階席前方という場所で聞いたのだが、木管や金管が弦楽群の響に隠れて聞こえ難いという印象を持った。だから全体的な印象が弦主体で流麗闊達ではあるがアクセントに不足して聞こえた。基本的に下野はそういう音楽家ではないのでこれはきっと席のせいであろう。逆に東響の弦の強靭な美しさには惚れ惚れしたし、そんな中でもクラリネットの表現力は抜群、更にシンバルのニュアンスに満ちた多彩な響にはおおいに驚かされた。終曲ブラニークの大団円でテンポをあげて高らかにフィナーレに持ち込んだけれど、そのあたりはじっくり腰を据えて欲しかったと、これは個人的な趣味の問題だろう。というか今の下野にしてこれは当然の帰結かもしれない。そんな回想に満ちた落ち着きを求めるのはこちらが年寄りの証拠だろう。あと何回この全曲を聴けるのだろう等と、そんなことを考える歳になってしまった。


グリーンコンサート(2025年5月6日)

2025年05月06日 | 東響

「川崎・しんゆり芸術祭(アルテリッカしんゆり)2025」の一環で「東京交響楽団爽やかグリーンコンサート〜東欧ボヘミヤの風に乗って」と称された大型連休最終日のマチネーにやってきた。会場は新百合ヶ丘にある昭和音大のテアトロ・リージオ・ショウワ、指揮はキンボー・イシイで独奏がこの楽団の客演主席チェロ奏者の笹沼樹。そしてプログラムはオール・ドヴォルザークだ。まずはスラブ舞曲第1番ハ長調作品46-1で賑々しく開幕したが、イシイの音楽はとりわけボヘミア色を強調することのない明快で素直なものだった。定期演奏会でないのでエキストラの多い東響の音はいつもとは異なり幾分硬質な響なので尚更クールさが強調されていたのかもしれない。続いて笹沼をソリストに迎えたチェロ協奏曲ロ短調作品104。笹沼は日本人としては背が高くて大柄だが出てくる音楽は繊細で美しい。だから終楽章の聞かせどころ、コンサートマスターのニキティンとの掛け合いなどでは埋もれ気味なところもあったが、リリカルな部分の歌い回しの美しさはなかなかのもので印象に残った。大きな拍手に東響のチェロ・セクションとコンバスを従えて協奏曲の二楽章で引用されていたドヴォルザークの歌曲「私を一人にさせて」の弦楽八重奏編曲版がしとやかにアンコールされたが、そのセンスの良さには驚いた。メインの交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」もキリリと引き締まった率直な音楽で、強めのバランスで聞かせた木管楽器群のニュアンスがとびきり光った。しかしながらこの日のエキストラの多いホルン群はかなりの不調で大事なところでコケることが多くで残念だった。それでも大きな拍手にアンコールはスラブ舞曲第10番ホ短調作品72-2が郷愁を漂わせて奏でられしっとりとお開きになった。


東響第729回定期(2025年4月5日)

2025年04月05日 | 東響

2014年4月から11年の長きにわたって東京交響楽団の音楽監督をつとめたジョナサン・ノット。彼が音楽監督として最後のシーズン幕開けに選んだ曲は今回が二度目となるブルックナーの交響曲第8番ハ短調WAB108である。就任2年目の2016年7月定期で取り上げた時には実にスマートな力感に溢れた演奏で、所謂巨匠たちの堅固で厳かな演奏とは明らかに一線を隔したとびきりの新鮮さを感じたものだった。今回は初稿ノヴァーク版(1972)による演奏ということで、9年を経たノットの解釈と初稿使用という二つの「違い」を楽しみに桜満開のサントリーホールに足を運んだ。果たして演奏は前回とは全く趣を異にしたものだった。ノットといえばいつもは快速調なのだが開始からテンポが遅いことに驚いた。それはあたかも去る時間を慈しむようだった。初めは最後のシーズンに臨み11年間の自分のオケの進化を確かめているようにも聞こえたのだが、その丁寧な歩みによりこの第一稿の特徴である作曲家のナイーヴな感性が次々に浮き彫りにされ、今までに聞いたことのないような新鮮な世界が展開しだしたのには全く驚いた。丁寧にジックリと、しかし決して鈍重でなく柔軟に音符に向かい合うことで、周囲の助言により劇的効果が付け加えられる前の第一稿の極めて純粋な美しさが尊いまでに音化されたといったら良いだろうか。これまで実演をも含めて幾度か聞いて来たがどうしても馴染み難かったこの初稿の価値、ひいてはブルックナーの音楽の本当の価値を初めて思い知った貴重な時間だった。グレブ・ニキティン、小林壱成、田尻順のコンマス3人体制で臨んだこの日の東響は最適なバランスを保ちつつ、このノットの音楽にピタリを追従した美しい音でこの世界を描き尽くした。夢のような95分、前回のような突飛なブラボーの蛮声に妨げられることもなく美しく得難い印象として心に刻めて本当によかった。


東響第99回川崎定期(3月31日)

2025年03月30日 | 東響
東響初登場の指揮者オスモ・ヴァンスカがどんな音楽を聞かせてくれるか楽しみに出かけた今シーズン最終の定期である。ニールセンの序曲「ヘリオス」OP.17、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番ハ短調OP.37、そしてプロコフィエフの交響曲第5番変ロ長調Op.100というプログラム。不思議なプログラムではあるが、あえて言えばどの曲も肯定的な雰囲気に終わるということか。きな臭い今のご時世ではこれは大いに聴く者の心のなぐさみになる。まずは明快な音色にこの作曲家を強く感じるニールセンの序曲で気持ちよく始まった。この曲はデンマーク放送では新春を寿ぐ音楽だったそうだ。ヴァンスカの堅固で迷いのない音楽が心地よい。続いてピアノにイノン・バルナタンを招いたベートーヴェンのコンチェルト。これは正統的なベートーヴェンと明らかに異なる音楽だが、決して本道を外れていないとろが素晴らしい。力強い魂の入った音も、羽毛のような軽やかでしなやかで優しい音も自由に使いこなす自由闊達なピアニズムには全く恐れ入った。色彩感を落としてまるで後年のキース・ジャレットのような雰囲気まで醸し出しつつ新たなベートーヴェン像を提示したと言ったら大袈裟だろうか。オケはこの曲にだけピリオド系のティンパを使用して鋭角的なアクセントを添えるが、そのオケとの呼応も素晴らしく夢のような35分だった。いつまでも終わらない大きな拍手にアンコールはJ.S.BachのBWV208からアリアがしっとりと心を込めて、そしてちょっとクールに弾かれた。最後のプロコフィエフはヴァンスカの独壇場だった。なによりも明快で隈取のハッキリした迷いの一切無い骨太なプロコフィエフだった。振りは多少アマチュア的ではあるのだが、出てくる音楽は決してそんなことはない。強弱の対比を明らかにしつつオケを完璧にコントロールし、それが独特の奥行きを付け加えていた。東響の強靭な弦とニュアンス豊かな木管、力強い金管、強力な打楽器群が総力で立ち向かった演奏だった。この3月で退任するフルート首席の相澤政宏のソロがあらゆるところで光っていた。

東響オペラシティシリーズ第142回(11月15日)

2024年11月15日 | 東響
音楽監督ジョナサン・ノットならではの、お馴染みリゲティを加えた何とも不思議なプログラムの演奏会だ。まずはこのホールの専属オルガニスト大木麻里の独奏によるリゲティの「ヴォルミーナ」。これがまるで大きな電気掃除機の中に頭を突っ込んでしまったのではないかと思われるような大音響で始まった。その後はオルガン的であったり、そうでなかったり。健康診断の聴音検査と思うような音も聞こえたり。比較的素朴で単純なトーンクラスターが定期的に変化してゆく。しかしどの音もどの響きもシンセサイザーのようでありながら決して無機質でなく、不思議と人間的な温もりを感じるところがオルガンを使った魅力だ。私は決して嫌ではなかった。どこまでが作曲者で、どこまでが演奏者で、どこまでが楽器なのかまったく区別はつかないが、とにかくハチャメチャでありながら奏者の体温を感じさせる興味尽きない15分だった。なるほど大木はノットが信頼するだけあるオルガニストだ。ノットのリゲティと言えば、これまで深く印象に残っているのは2015年11月の「ポエム・サンフォニック」だった。これは舞台に100台のそれぞれ異なる同期のメトロノームを並べただけの曲なのだが、その音響的なズレや重なりが独特の偶発的効果を生むという趣向だっだ。今回の曲は私の中ではそれに比肩する衝撃的な曲だった。続いては当団首席チェロ奏者の伊藤文嗣をソリストに迎えてヨーゼフ・ハイドンのチェロ協奏曲第1番ハ長調。弦楽器群はノンビブラードでスッキリと響き、そこに優雅で柔らかな伊藤のチェロが彩りを加える。オケ首席の独奏らしく自己を主張するというよりもオケの引き立て役を買って出たという趣で、良い意味で和気藹々の仕上がりだった。アンコールはバッハの無伴奏3番から珍しくクーラント。そして休憩を挟んでこの日のトリが何とモーツアルトのピアノ協奏曲第9番変ホ長調K.271「ジェノム」とは誠に珍しい。ソリストは若手人気ピアニスト務川彗悟。務川はペダルを極力控えめにして響きを抑えたフォルテ・ピアノ的な音色でモーツアルトを紡いだ。だからちょっと鄙びた味わいをも感じさせつつ、しかし繊細で軽やかなタッチから生み出されるニュアンス豊かな響き、そしてフレーズ間の絶妙な間合いに務川のセンスが光る珠玉のような演奏だった。お互いに高め合って行くノット+東響との一体感(静かな高揚感)も並大抵のものではなく、まったく夢のような時間を体感した。盛大な拍手に意外にもブラームスの間奏曲Op.117-1がアンコールされた。決して重厚ではなく透明感に満ち、しかしながら、しっとりと豊かな響きを際立たせモーツアルトの響きとの対照を心地よく聞かた。ブルックナーやマーラーの大曲で重々しく終わらないこんな爽やかなコンサートもたまには良いものだ。

東響第97回川崎定期(10月13日)

2024年10月14日 | 東響
クシシュトフ・ウルバンスキを迎えてメインはショスタコヴィッチの交響曲第6番ロ短調。その前にデヤン・ラツィックのピアノ独奏でラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調が置かれた全部で70分程度の比較的短いマチネだった。まずラフマニノフではラツィックの爽やかであると同時に繊細極まるピアニズムが聴く者を虜にした。一方でウルバンスキーは冒頭から怒涛のようなロマンティックな流れを作るものだから、1楽章ではテンポ的にも音響バランス的にも表現的にも、どうもシックリといかない居心地の悪い時間が続いた。しかし1楽章の最後の弦の音を引き延ばして続いて演奏された2楽章になり、独奏と木管を中心とするオケとの静謐な絡みが始まると雰囲気が一転した。ピアノとオケの距離がグット縮まり、そこで奏でられたえも言われぬ親密な音楽はこの日の白眉だったのではないか。フィナーレはオケとの息もピタリを合って、ロマンティックながら決して情に溺れないスタイリッシュなラフマニノフとなった。盛大な拍手にショスタコヴィッチの幻想的舞曲からの一曲が弾かれて後半への橋渡しとなった。ショスタコヴィッチは1楽章ラルゴではあまり重暗さを感じさせないちょっと湿り気を帯びた進行が興味深かった。ここでは緊張感を絶やさず音の綾を表現し続けたオケは見事だった。続く2楽章アレグロを経てフィナーレのプレストはまさにウルバンスキの独壇場で、狂気の乱痴気騒ぎの切れ味は彼ならではのパーフォーマンスだったであろ。それにしても作者自身がこの曲を「春、喜び、若さ」の雰囲気と語ったというが、私には作者の「屈折した心」以外のものは聞こえてこなかった。

東響オペラシティシーリーズ第141回(9月28日)

2024年09月29日 | 東響
ドイツを中心に活躍する台湾出身のTung-Chie Chuangを指揮台に迎え、英国の若手ヴィオリストDimothy Ridoutをフューチャーした初秋のマチネである。スターターはバッハの管弦楽組曲第3番より「アリア」だ。今回はグスタフ・マーラー編曲のヴァージョンで演奏された。なのでさぞや色んな音がするのだろうと耳を澄ましたが、ほぼ原曲に忠実で、イントネーションが多少ロマンティックになっているくらいの差異しか私には聞き取れなかた。小編成で弦はノンヴィブラート奏法。なのでその清澄な音色とマーラーが加えた若干のロマンティックな味わいのミックスが不思議な雰囲気を醸し出していた。続くウォルトンのヴィオラ協奏曲はティモシー・リダウトの独壇場だった。3楽章構成で、第2楽章は短いスケルツオではあるものの、両端楽章はオーケストラの強奏とビオラを交えた繊細な部分の繰り返しで進むというような形式の聞きやすい曲だった。リダウトが名器ペレグリーノ・ディザーネットから繰り出す美音と絶妙な語り口、それとツアンが東響から引き出す俊烈な響きが曲の良さを鮮やかに印象づけた名演だったと言って良いだろう。盛大な拍手にこの曲の初演者ヒンデミットのビオラ・ソナタ第1番から超絶技巧の第4楽章とバッハの無伴奏パルティータ2番からサラバンドがソロアンコールされた。そしてメインはブラームスの交響曲第1番ハ短調作品68だったが、この演奏には私は共感し難かった。ツアンは比較的早いテンポで東響を駆り立て明るく良く鳴らすのだが、音の整理がついておらずブラームスの重層的なオーケストレーションがただ騒々しいだけになってしまっているように私には聞こえた。さらに全体的な構成感といったものも不足しているように聞いた。それでもその元気に触発されてか終演後は大きな拍手が送られていたので、これは私だけの極めて個人的な印象なのかもしれない。実は私にとってこの指揮者を聞くのは2回目だったようで、この印象記を見返したところ2018年10月に東京シティ・フィルで聞いている。そこには「ハイドンの交響曲第102番変ロ長調は、若さ溢れる溌剌とした音楽で、シティフィルの弦が爽やかに響いた。しかしウィーン古典派の様式感といったことには意が注がれておらず、落ちついた歩みと起承転結がない。結果、元気だけが目立って騒々しい印象が先立ってしまった音楽になってしまった。」とあった。結局私と反りが合わないということなのかも知れない。

東響オペラシティシリーズ第140回(7月7日)

2024年07月07日 | 東響
名誉客演指揮者の大友直人を迎えてバルトークとエルガーの不思議な組み合わせのマチネーだ。音楽的には何ら共通点はない二曲だが、今回はそれぞれがとても良い演奏だった。まずはバルトークのピアノ協奏曲第2番Sz.95だが、この演奏の成功は何よりもピアノ独奏のフセイン・セルメットの技量と音楽性に資するものだったと言って良いだろう。それは打楽器のような強靭な打鍵からからとろけるようなロマンティックな響まで、それはもうピアノを操ってあらゆることが可能だと思わせる程の見事さだった。東響もそれに呼応し濃厚にしてエネルギッシュな好演。とりわけティンパニとトランペットのアクセントに胸が高鳴った。割れるような盛大な拍手にアンコールはうって変わってショパンの練習曲作品25-7で、セルメットはバルトークとは正反対の静謐な世界をも見事に描いた。休憩を挟んで後半は大友が大得意とするイギリス音楽、それもエルガーの交響曲第1番変長調作品55だ。プログラムによると大友が東響とこの曲を演奏するのは26年振りだと言う。さらに第2番は昨年演奏されて実況CDも出ている。つまりスペシャリストによるエルガーの佳作の演奏だ。そんなわけでこれが悪い訳がない。「ノビルメンテ」というにはいささか刺激的過ぎる音色だったと個人的には感じたが、それは東響の機能性が十二分に発揮されていたということなのかも知れない。大友特有のスマした音楽なので決して情熱的にならない。しかし青白い炎にような熱量が十分感じられる内的に激しい演奏だった。フィナーレで一楽章の主題が戻ってきて高々と奏された時には胸が熱くなった。

東響オペラシティシリーズ第139回(6月1日)

2024年06月02日 | 東響
沼尻竜典指揮によるポーランドの音楽を並べたマチネーだ。メインは懐かしいヘンリク・ミコワイ・グレツキの交響曲第3番作品36「悲歌のシンフォニー」である。それにエリック・ルーを迎えてフレデリック・ショパンのピアノ協奏曲第2番ヘ短調作品21。前者は30数年前に英国のヒットチャートを飾って大ブレークし、その音盤が大売れしたという極めて珍しい「現代音楽」だ。何と1994年に日本初演を担ったのは、今回の指揮者沼尻と彼が当時常任指揮者を務めていた新星日響だったということだ。(私は当時このオケの定期会員だったが、その初演は特別演奏会だったので聞いた記憶はない)今回配布されていたチラシを観て、「悲歌」で終わるのは何とも気が重いので、ショパンを後に演奏してほしいなと思っていたのだが、残念ながら当日の順番はショパンが先だった。最初のエリックのショパンは実に楚々としたもので、余計な思い入れを排して美音で気品高く美しく音を連ねてゆく。沼尻が実に丁寧にそれに付けてゆくのでオケとの一体感が生まれた心地よさは十分にあった。しかし私としては今一つ物足りない印象だった。アンコールは「雨だれ」として知られる前奏曲集からの一曲。こちらは一音一音の響を大切にする繊細さが曲の持ち味を引き立ててなかなか聞かせた。休憩後はグレツキで、ここでソプラノの砂川涼子が加わったが、全身黒の喪服のような彼女の装束が今回この曲が選ばれた意味を多く語っていたのではないか。そもそもホローコストの犠牲者追悼のために1976年に生まれた曲であるが、ここでグレツキは決して声を荒げるのではなく、全てを心の中に押し込めて瞑想的な音楽の中で犠牲者を弔っている。楽章毎に添えられた三種の詞は子を失った母の哀れかつ悲壮な心情に貫かれていて、世界戦争の無い長い時代が明け何やらキナ臭さが漂う昨今、そこに居合わせる者が聞き、今一度向かい合っている世界を問い直すのに一番相応しい曲であることは確かである。砂川は静謐な音楽に乗せて切々と母の心を訴え、沼尻は一貫した流れの中でその心をいやがうえにも押し上げた。現代音楽としての音楽的価値はともかくとして、独特な手法により強烈なメッセージを感じさせる曲であることは確かであるし、それが音楽の価値であることも確かである。ヒットした時代とは世界の様相が変わってきた今、当時とは別の意味で我々の心に突き刺さるものを感じながら聞いた。

東響オペラシティシリーズ第138回(5月17日)

2024年05月17日 | 東響
音楽監督ジョナサン・ノットが指揮する二つのヴィオラ協奏曲を重ねた極めて珍しいプログラムだ。まずは当団主席ヴィオリストの青木篤子をソリストに迎えてベルリオーズの交響曲「イタリアのハロルド」作品16だ。颯爽たるノットの指揮に触発された東響がまるでフランスのオケのように鮮やかに鳴り切った。泡立つリズム、鮮やかな色彩、しなやかなメロディ線、一発触発の切れ、それらが一体となった眩いばかりの音楽に聴衆は釘付けになり、終了後は大きな拍手と歓声がタケミツ・メモリアルホールに響いた。青木も精一杯のニュアンスで見事に弾き切った。それを支えるノットはバランスに苦慮したが、やはり何と言ってもベルリオーズの絢爛たるオーケストレーションの下ではソロが隠れがちになってしまうのは致し方なかろう。青木の美点はむしろオケの独奏楽器との掛け合いで、そこではメンバーとしての強みを多いに発揮していた。ここで休憩を挟んで二曲目はもう一人のヴィオリストであるサオ・スレーズ・ラリヴィエールを迎えて酒井健治(1977-)のヴィオラ協奏曲「ヒストリア」(2019年初演)である。現代曲でありながらメロディや音色やリズムに親和性があり、古典的な音楽語法にもある程度準拠した斬新ながら聴きやすく美しい曲である。これをラリヴィエールは飛びっきりの美音と技量で見事に弾き切った。決してメロディ豊かという訳ではない現代曲でありながら、わざわざ時間を費やして聞くべき音楽としての価値が十分にある傑出したヴィオラ・ピースだと言えるだろう。それゆえ現代曲でありながら終わった後は拍手と歓声で会場はまたもや沸いた。大きな拍手にヒンデミットの無伴奏ヴィオラ・ソナタからの楽章が無窮動の超絶技巧でアンコールされた。これはもう唖然たる技量だった!そして最後に置かれたのはイベールの交響組曲「寄港地」である。第一曲「ローマーパレルモ」、第二曲「チュニスーネフタ」、第三曲「バレンシア」の三曲から成る短い組曲だが、そこに展開する光満ちたラテン的でありつつ異国情緒に満ちた独特の雰囲気を、ノットはここでも一曲目同様の切れ味と颯爽たるドライブ感で見事に描いた。真ん中の酒井作品は例外であるが、今回のコンサートに於ける両端二曲の演奏は実にヨーロッパ的(騎馬民族的)な香りに包まれた仕上がりで、とてもほとんどが農耕民族の血を引く我が国のオケの演奏は思えないものだったのには驚嘆した。そんな演奏を東響が成し遂げられたのも、いまや蜜月を迎えた音楽監督ジョナサン・ノットとの10年間の絆あればこそなのであろう。残された2年でこの両者の間に更にどんな化学変化が起こるかを楽しみにしたい。

東響第720回定期(5月12日)

2024年05月12日 | 東響
今回の指揮者ジョナサン・ノットはこれまでも幾度か武満徹作品をプログラムに含めたことがあった。音楽監督就任の2014年にマーラー9番と「セレモニアル」を、2016年にドビュッシーの「海」+ブラームスの1番と「弦楽のためのレクイエム」を組み合わせた。他にもあるかも知れないが記憶にあるのはこれだけだ。どちらの演奏も私としては曲想との親和性を感じて興味深く聴いた記憶がある。今回一曲目の武満徹作曲「鳥は星形の庭に降りる」も、しなやかなで繊細な進行と透明な音感が曲想に合致していてとても心地よく聴いた。二曲目はソプラノの高橋絵里を加えてベルクの演奏会用アリア「ぶどう酒」。こちらはボードレイルの詩のドイツ語訳三篇に曲をつけたものだが、どうも多彩なテクストの内容に比較して曲調が変化乏しくノッペリと出来ていてあまり面白く聴けなかった。残念ながら高橋の歌唱もそんな曲調を反映していて単調に聞こえてしまった。休憩を挟んでテナーのベンヤミン・ブルンズとメゾ・ソプラノのドロティア・ラングを迎えてマーラーの「大地の歌」だ。こちらはかなりの名演だった。ブルンズの声質は明朗闊達で、I「酒興の歌」、Ⅲ「若さについて」Ⅴ「春に酔った者たち」にピタリと合っていたし、一方ラングの柔らかく温かい声質はⅡ「秋、孤独な男」、Ⅳ「美しいものについて」、Ⅵ「別れ」を包容力を持って描いた。つまり何よりノットの歌手選びの妙が功を奏したということだ。ノット率いる東響の音量的なバランスは実に見事で歌がかき消されることは無かった。(サントリー一階L側後部)そしてノットは繊細な感性で柔軟に東響を牽引し、どちらかと言うと室内楽的な密度の高い品格漂う演奏だった。それに貢献した東響の精度の高い弦楽、ニュアンス豊かな木管・金管セクションは正に会心の出来だったのではないか。ラングからより深い歌が聞ければなと、これは無い物ネダリで、十二分に感動したマチネだった。

びわ湖ホール「ばらの騎士」(3月2日)

2024年03月03日 | 東響
新型コロナの影響で2018年以来途絶えていた「びわ湖ホール・プロデュースオペラ」の本格舞台上演が、新音楽監督阪哲朗の指揮の下で5年ぶりに復活を果たした。今回の演目はR.シュトラウスの「ばらの騎士」である。結論から言って、それはこの日本の地で、すべて日本人の手で作り上げられた舞台とは到底思えぬほどの驚異的な仕上がりだった。その一番の要因はもちろん歌手達の歌唱と演技の完成度なのだが、それを導き出したのはまったくむらの無い敵材適所の配役だったような気もする。元帥婦人の華やかさと威厳と哀愁を見事に表現した森谷真理、美声と軽妙な演技で独特の存在感を発揮したオックス男爵の妻屋秀和、ズボン役でありながら女性の変装をするという複雑な立ち位置を歌唱・演技の両面でピタリと決めたオクタビアンの八木寿子、出会いのときめき、そしてその後の失望と喜びを鮮やかに歌い分けたゾフィーの石橋栄美など、その他端役の方々に至るまで、一人一人が最高の実力を発揮できた舞台だったように聞いた。そしてそれらを音楽の面で、流麗に繊細に陶酔のうちにまとめ上げた阪哲朗の手腕と京都市響の実力は並々ならぬものだったと称賛して良いだろう。中村敬一の演出は音楽を引き立てる全く無理のない自然なもので、安心してシュトラウスの円熟した筆致に身を任せることができ、それが全体的な感動に結びついたことは言うまでもない。舞台作りは今どき珍しいくらいに確りと具体的に作り込まれた美しいもの。とりわけ終幕の元帥夫人&オクタビアン&ゾフィーの三重唱からオクタビアン&ゾフィーの二重唱に移ってゆく場面の心を映すプロジェクトマッピングによる色合いの変化の美しさが印象に残った。久方ぶりにこうした装置で舞台を観ることで、あらためてオペラの醍醐味を実感することができた。そしてほぼ満席の会場が、幕を追うごとに熱気を帯びてゆく中に身を置きつつ、舞台芸術を一生の友として生きてきた幸せを心から感じた時間だった。

東響第717回定期(12月16日)

2023年12月18日 | 東響
桂冠指揮者ユーベル・スダーンが久しぶりに登場し、ドイツの編曲物を集めた興味深いプログラムだ。まず最初はぐグスタフ・マーラーが編曲を施したシューマン作曲交響曲第1番変ロ長調作品38「春」である。稚拙と云われているシューマンのオーケストレーションの弱い部分に手を入れた基本的に原曲に忠実な編曲なのだが、この曲のトレードマークでもある春を告げるかのような冒頭のファンファーレは聞き慣れたメロディではない。なんでもこれがシューマンが最初に構想したメロディだそうだが、いささか違和感があると同時にそこに華やいだ春の喜びは感じられない。まあそれはともかく全体の印象としてマーラーの筆を尽くして手入れのために大層密度の濃い響きになっている。そしてそれをスダーンは輪をかけて緻密に、そして力感豊かに響かせるので、ロマンティックというよりも、黒光りする鋼のような隙のない堅固な、とても立派なシューマンが出来上がった。続いてはアーノルド・シェーンベルクが大オーケストラ用に編曲したブラームスのピアノ四重奏曲第1番ト短調作品25だ。編曲の基本路線は弦楽部分は弦楽、ピアノ部分が管楽器ということなのだが、決して其れだけに留まらないアイデア満載の華やかな曲に仕上がっている。圧巻は作曲家自身が「ジプシー風ロンド」と名付けた終楽章で、様々な打楽器が醸し出すジプシー風音楽の熱狂はシェーンベルクの独壇場だ。スダーンはそうした曲に真正面から真面目に対峙し、まるで聳え立つ大伽藍のような立派な音楽に仕上げた。

東響第93回川崎定期(10月14日)

2023年10月15日 | 東響
音楽監督ジョナサン・ノットが登場して、自らドビュッシーのオペラから編曲した交響的組曲「ペレアスとメリザンド」とヤナーチェクの「グレゴル・ミサ」を並べたプログラム。一曲目はこのオペラのペレアス、メリザンド、ゴローの3人の登場場面に焦点を絞った15曲で構成された40分を超える大組曲だ。聞く前は曲柄もあるのでさぞ冗長になるのではと懸念されたが、幸いなことにそれは全くの杞憂だった。それは選曲の妙、演奏の妙だ。曖昧模糊とした基調にドラマチックな場面も適宜織り交ぜながら極めて柔軟に作曲者の持つ独特な色合いを描いたノットも素晴らしいし、東響の惚れ惚れするような木管群(竹山・荒木・吉野)のニュアンスと鮮やかな弦にも感心した。続いてのヤナーチェクはノットの気迫に貫かれた演奏だったと言って良いだろう。とは言いつつ決して固くならないところがノット流だ。今回の特筆すべきはWingfieldのユニヴァーサル版を使ったことで、これにより3拍子と5拍子と7拍子が入り乱れる第二曲(序奏)がとりわけ効果を聞かせることになったはずだ。私自身は一般に流通している版さえ良く知らない状態なのでお恥ずかしながら違いを実感できなかったのが残念だ。今回も東響コーラスは古代スラブ語を全曲暗譜で純度高く熱唱した。部分的にはよりコントラストが欲しかった気もしたがそれはノットの指示だったのだろう。とにかく天を突き刺さんばかりの気迫に満ちた歌声がミューザ川崎に響き渡った。第八曲のオルガン独奏はこのホールのオルガニスト大木麻理(どこにもクレジットされていない)が担当したが風格のある素晴らしい演奏だった。ここでも東響は充実した響きで、とりわけ冒頭の弦の響きにヤナーチェクを心から感じた。

東響「コジ・ファン・トゥ ッテ」(2016年12月11日)

2016年12月12日 | 東響

ミューザ川崎と東京芸術劇場主催によるジョナサン・ノット指揮のコンサート形式オペラ「コジ・ファン・トッテ」である。世界の歌劇場で活躍する旬の歌手達を集めた配役。フェランド役のショーン・マゼイが代役に替わることは暫く前からアナウンスされていたが、直前になってフィオルディリージ役のミア・パーションも急遽代役という不測の事態が重なった公演だった。しかしそんなトラブルはなんのその、実に充実した舞台が繰り広げられた。何といっても舞台監督でドン・アルフォンソ役のトーマス・アレンの存在感が凄い。この役にこれだけの大物を持ってくるといかに舞台が引き締まるかを実感させるまさに「要役」の好演だった。グリエルモ役マルクス・ウェルバの引きしまった美声には惚れ惚れ。またドラベッラ役のマイテ・ボーマンもザルツブルク・デビュー役とのことで実にピタリとはまった演技と歌だった。その蠱惑的な表現と甘い響きが役柄にピタリとはまった。デスピーナ役のヴァレンティナ・ファルカスの芸達者振りと美しい立ち姿も印象に残った。フェルナンド役のアレックス・シュレイダーは代役だったが、こちらもザルツブルク・デビューがこの役だったということで何の不足も感じさせない充実した歌唱。フィオルディリージに急遽代演したヴィクトリア・カミンスカイテは、空港から練習場に駆けつけたという裏話もあるが、途中譜面を見る時があったとは言え歌唱自体は役柄をとらえた素晴らしいもの。その強靭な声質が役に合っていた。新国立歌劇場合唱団はもうコシにしては立派過ぎる程のアンサンブル。こうした声楽チームが、本当にリラックスして自分たちでも楽しみながら歌い演じるものだから、舞台としての完成度はとてつもなく高くなる。椅子と机とワイングラスという最小限の舞台装置ながら、時にはオケの後方までも使った動きはオペラ舞台をも彷彿とさせるものがあった。むしろ歌手とオケと指揮者との極めて近しい位置関係が、オペラの本舞台よりも凝縮力ある全体を作り上げ、それはこの作品のような「アンサンブルオペラ」に相応しい結果を生んだようにも思う。それはまさにノット一座の舞台という感じであった。オケはビブラート控えめの準ピリオド奏法に金管とティンパ二にピリオド楽器も加えスッキリ軽快に全体を支える。出演者と呼吸を併せながら実に楽しげにハンマーフリューゲルを弾き振りするノットが終いにはモーツアルトに見えてきた。