2011年以来6年振りの岩田達宗演出によるプロダクションの再演である。前回裏キャストで藤原本公演ロールデヴューを果たした光岡暁恵が堂々表キャストを張って成長振りを披露した。その美声とどんなパッセージでも安定的にこなす超絶技巧に加え、前半の歌唱ではスタイルギリギリの官能的な甘美な唄い回しまで表れてその熟達振りには目を見張るものがあった。対するエドガルドのジェイ・クォンは前半ではリリックな柔らかさが際立ったが、幕切れの大アリアでは芯のあるロブストな歌声を聞かせて感動を誘った。エンリーコのカルロ・カンのスタイリッシュな歌唱と舞台映えする大柄な演技は全体を引き締めた。出番は少なかったがアルトウーロの小笠原一規の混じり気のない美声は印象に残った。装置は抽象的で基本舞台は全幕を通して変わらず、舞台の枠組み及び照明の変化による光と陰、それに出演者の歌と演技によってドラマを描くのが岩田の姿勢だったように思うが、それは歌役者を揃えたことによって成功していた。開演前の総監督折江忠道のプレトークによると久しぶりの登場となる菊池彦典はもう80歳を迎えるということだが、そのオペラ職人的な運びにはオペラハウスに居る喜びを感じる。その中には今では滅多に聴くことのできなくなった往年のイタリアオペラの雰囲気を感じた。
2016年度の藤原歌劇団ベルカント・オペラ第三弾は、ベッリー二の「カプレーティ家とモンテッキ家」である。何とマリエッラ・デーヴィアを迎えた2002年の公演以来14年振りということだが、日本ではこの作曲家のオペラは何故かあまり上演されない。新国立劇場のこれまでの演目にもない。さて今回はダブルキャストでこの2日目は若手組と言って良いだろう。とはいえ(だからこそ)誠に充実した出来で満足して帰途に着いた。何よりロミオ鳥木弥生とジュリエット光岡暁恵のコンビが素晴らしかった。演技・歌唱ともにシャープな鳥木と、技の冴え渡る美声の光岡。ルックスも美男次女で申し分ない。ロミオが必死にジュリエットを説得する1幕2場やロミオの服毒から悲劇を知りジュリエットが自害するフィナーレの二人の場面は圧巻だった。デバルト所谷直生のスタイリッシュな歌唱も印象に残る。カッペリオの豊島雄一、ロレンツォの坂本伸司も役どころを押さえた立派な歌唱だった。自然な流れを作り自主的な動きを尊重した松本重孝の演出も、歌手陣のストーリー把握に助けられて良い結果を生んだ。装置も簡素ながら十分に説明力があって美しくシックに仕上がっていた。出番の多い男性合唱陣も輝かしく力強い声と演技で全体の出来に十分貢献した。指揮の山下一史は単なる伴奏に終わらない十二分な説得力をもった音楽作りでベルカント・オペラへの適正を示した。この週末は上野で二期会が「トリスタン」、そして初台で藤原がベッリー二だったわけだが、藤原はこの難しい作品を見事に舞台に乗せてイタリア物の老舗の力を十分に示したと言えるだろう。
日生劇場・びわ湖ホール・藤原歌劇団・日本センチュリー交響楽団の共同制作による公演である。秋にびわ湖ホールでの別キャスト公演があるが、それに先立って新装なった日生劇場で開催された。この日のキャストは大ベテラン折江忠道をタイトル・ロールに、他を藤原の若手で固め、合唱にびわ湖アンサンブルを加えたキャストである。劇場の規模・演出・舞台美術がこのドニゼッティの音楽と抜群の相性で、それを基盤に歌手陣が繰り広げる楽しい演技と素敵な歌唱が幸せの時間を運んでくれた。折江の老練な演技と歌唱はまさにこの役にピッタリ、そしてマラテスタの押川浩士、エルネストの藤田卓也、ノリーナの坂口裕子など、誰をとっても日本人離れした自然な演技と歌唱で申し分なかった。とりわけこれが本公演デビューの坂口裕子の切れ味には今後を期待させるものがあった。久しぶりに登場した菊池彦典(指揮)のまったくだれることのない推進力は全体の出来に大きく貢献した。ドニゼッティ劇場の元芸術監督だったフランチェスコ・べッロットの演出は行き届いたものだったが、ノリーナの平手打ちと同時に額縁で飾られた古典的な背景が崩れ落ちこれまでのドン・パスクワーレの世界が崩壊するという演出、決してわからないでもないがブッファとしてはちょっと大げさ過ぎるような気もした。とは言え日常を忘れる楽しい3時間にドニゼッティの新たな魅力を発見した。
新国の今シーズンの華の一つであるJ.P.ポネルの歴史的名演出の舞台である。主役にヴェッセリーナ・カサロヴァ、アントニオ・シラグーザという、この種の演目をやらせたら右へ出る者がない今が旬の歌手を招聘し、更に芸達者の脇役を揃えたのだから悪いわけがない。実はこのプロダクション、30年近く前にミュンヘンで見ている。その時はポネルのお洒落で美しい舞台を見て腰が抜けんばかりに感激したが、それが今回のサガロフのリアライゼーションでどのようの変化しているかはもう細部の記憶が定かでないので良くわからない。最後に記念撮影をするなどのアイデアは、その後色々な舞台で引用されるようになったと思うが、モノクロームな色調の素描的な背景にスポット的に鮮やかな色を配置したセンスや、伝統的な書き割り舞台による遠近法の挿入、そしてストップモーションの効果など、やはりその豊かな想像力には未だに見る者の心を捉えるものがあるように思う。アルマヴィーヴァ伯爵の名唱に続く新国再登場になったシラグーザは、芯がある軽やかな美声で終始余裕を湛えた安定的な歌唱。とりわけ2幕冒頭のアリアでは満場の喝采を受け、アンコールではオケの後奏の最後まで目一杯に高音を引っ張って会場を沸かせるサービス精神を披露した。一方のカサロヴァは、そのあまりにもドスの効いた声質はこの役には不似合いではあるが、アジリタが見事に決まり隈の濃さと躍動感が同居する不思議な歌唱であった。フィナーレのシェーナでは、そうした歌唱による作りこみが独特のチェネレントラ像を作りあげ、極めてドラマチックにメッセージに伝えることに成功し、不似合いの懸念は別の方向でみごとに払拭されたと言っていい。(とは言え、ちょっと最後だけが浮いてしまった感もあるが、それはもともとのこのシェーナの位置づけとも関連するだろう)D.サイラス指揮の東京フィルは終始安定的ではあったが、音色やダイナミズムに更なる洗練が欲しかった。ゼッダ爺が同じオーケストラからその度に引き出すあのロッシーニの悦楽があったならと恋しく思われた。