
もう50年以上も前のことになるが、世界最大のレコードクラブと称する「コンサート・ホール・ソサエティ」という主にクラシック系のレコードクラブの広告を「芸術新潮」等の雑誌でよく見かけることがあった。当時30cmLPは一枚2,000円前後(今のCDとほぼ変わらない)だったが、この会社のLPは一枚1,350円だったので貧乏学生にはとても魅力があった。会費はなく、毎月自宅に送られてくる「音楽通信」という小冊子に紹介されている「今月のレコード」が自動的に届くシステムである。届いたら同封されている振り込み用紙で期限までに支払いを済ませるのである。もし記事を見て欲しくない場合は定められた期日までに同封のハガキで返信すればパスできる。小冊子には今月のレコード以外にも何枚かのレコードが紹介されていて、それをオプションで注文することもできるというわけである。もちろん貧乏学生は雑誌の広告記事を見て喜び勇んで入会したのである。そして手にした最初のレコード盤はフリードリッヒ・グルダのピアノとハンス・スワロフスキー指揮するウイーン国立歌劇場管弦楽団の演奏によるベートーヴェンの「皇帝」だった。当時の私はこの二人の名前など聞いたこともなく、それどころかベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」なんて有名曲だってこのレコードが初聞きだったのである。「デムス、パウル=スコダと並ぶウイーン三羽烏の一人のグルダは・・・」という解説は良く覚えているが全くのチンプンカンプンだった。(「三羽烏」という言葉を覚えたのはこの時だったなあ)今思い返すとこの一枚目は実に興味深い盤だった。若かれしグルダの佳演でこれは数あるコンサート・ホール・ソサエティの品揃えのなかでも名盤じゃないだろうか。そして入会のオマケとして17cmLPがついてきた。それはピエール・デルヴォーの指揮コンセール・ド・パリ管弦楽団によるウエーバーの「舞踏への勧誘」とピエール=ミシェル・ル・コントの指揮フランクフルト放送交響楽団によるベルリオーズの「ハンガリー行進曲」だったが、こちらの方はあまり印象がない。その翌月のレコードはブラームスの交響曲第1番ハ短調作品68でヨゼフ・クリップス指揮ウイーン音楽祭管弦楽団というものだったが、この時は丁度小遣いが枯渇していたか何かで泣く泣く断りハガキを投函して見送ったのだった。ところがそれ以降この盤のことが折ある毎に気になり続けていたのだ。二〜三年前にScribendumのクリップス廉価ボックス(14枚組)を購入したのだがそこにはこの演奏は入っていなかった。つい最近このボックスを取り出して聞いた折にも、また「あのブラ1」のことが思い出されたので試しにスマフォで検索をしてみたら、中古市場に比較的良い状態の盤が安価で出品されているのを見つけたのである。そこで喜び発注してついに念願の盤を手にすることが出来たのである。ジャケットは汚れと酸性劣化でくすんでひ弱になっているのだが、間違いなくあの特徴あるジャケット画家Miriam Schottlandによる薔薇と女性をあしらった淡いピンク系の何とも素敵な絵柄である。(この会社には彼女のジャケット画のLPが沢山あってそれも魅力の一つになっている)通針してみたらコンサート・ホールにしては案外バランスの良い音なので驚いた。(この会社の録音は年代に関わらずあまり良くないものが多い)ウイーンの名匠クリップスの音楽は、飛び抜けた特徴こそないが、伸びやかで懐が深く中々味わい深いブラームスでしみじみとした感動を届けてくれて満足した。私としてはボックスセットに入っていた有名なウイーン・フィルとの1956年のデッカ録音よりもむしろ好感が持てたくらいだった。この会社のレコードにはモントー、シューリヒト、ミュンシュ、ブーレーズ、マルケヴィッチ、マゼール、フルニエ、クラウス、ぺルルミュテール、グルダなんていう巨匠・名匠の名盤もあるが、中堅どころの凡演も結構あるので取捨選択がかなり難しい。だから初心者には選択が荷が重かったので、結果として今やほぼ聞かないような盤も数多く所蔵することになった。でもその中にはほとんど話題にならないような隠れた名盤もあるので奥が深いのである。私の最初の「カルメン」のレコードもその類だ。タイトル・ロールをコンスエロ・ルビオ、ホセをレオポルド・シモノー、エスカミリオをハインツ・レーフス、ミカエラをピエレット・アラリー、そしてピエール=ミシェル・ル・コント指揮のコンセール・ド・パリ管弦楽団とうものである。ドイツ系も交えた名のある歌手陣で脇を固めていて、ル・コントが職人的に仕切った爽やかで劇場的な演奏だ。そして私の最初の「マタイ受難曲」は極めて劇的なハンス・スワロフスキーの指揮が特徴的なまるでオペラのような演奏である。エヴァンゲリストのクルト・エクイルツのリズム良い説得力ある語りが全体を遅滞なく牽引し、ソプラノのヒーザ・ハーパーやアルトのゲルハルト・ヤーン、バスのヤコブ・シュテンプフリ、マウリス・リンツラー等の歌手陣も心を込めて良く歌っている。伴奏はウイーン国立交響楽団とウイーン・アカデミー合唱団+ウイーン少年合唱団である。多少ロマンティック過ぎるきらいはあるかもしれないが、この劇的な演奏が私のその後の「マタイ」への導入に大きな力があったことは間違えないと思っている。ともあれそろそろ終わりも見えてきた私のクラシック・リスナーとしての音楽人生の基礎を作ってくれた今は亡き「コンサート・ホール・ソサエティ」には大いに感謝しなくてはならないだろう。