今年生誕150年と160年を迎える英仏二人の作曲家を集めた興味深い一夜である。指揮は当団首席客演指揮者で英国音楽を得意とする藤岡幸夫だ。まずはひそやかにラルフ・ヴォーン=ウイリアムズの「トマス・タリスの主題による幻想曲」から始まったが、シティ・フィルの弦の音の美しさに度肝を抜かれた。この曲は弦楽四重奏と二つの弦楽合奏グループの三群から成る特殊な編成なのだが、舞台正面に高く設えられた9名の弦楽合奏群からはあたかもパイプオルガンのような響きが広がり、それが弦楽合奏の裏で静かに響くという何とも神秘的な時間は至福の時であった。続いてはピアノ・ソロに寺田悦子と渡邉規久雄を迎えて、同じVWの「2台のピアノのための協奏曲」という珍しい選曲だ。前曲とはうって変わった力感溢れるソリッドな音色の作品で、この作曲家としては異色の音楽だ。そもそも私はこの作曲家が苦手なのだが、音楽の色合いが非常にはっきりしているのでこれは大層面白く聞いた。決して固くならずにしなやかに運んだ出色の指揮だった。休憩後はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」と交響詩「海」の名曲揃い踏みだ。「牧神」ではソロ・フルート奏者の竹山愛の柔らかな音色とそれに呼応するホルンが印象的だった。他の木管アンサンブルの妙技もこの楽団の強みだ。スッキリとした仕上がりの「海」もよかったが、ここではトランペットにいつものキレと輝きが欲しかった。
今年の2月に続くバイオリン鈴木舞とピアノ福原彰美のデュオ・コンサートである。今回はCAP代表取締役の坂田廉太郎がプロデュースしているようで、標題のようなタイトルが与えられ、開演前に三人によるプレ・トークがあった。1曲目はストラヴィンスキーの「イタリア組曲」。この曲はバレエ「プルチネルラ」から7曲をピアノとヴァイオンのために作曲者自身が編曲した曲集で、軽やかで多彩なリズムに満ち溢れた曲達を二人は最初からハイテンションで弾ききった。続いては夭折の女性作曲家ブーランジェの「二つの小品」。豊かな叙情が漂った。前半の締めくくりはラヴェル最後の室内楽曲である「バイオリンとピアノのためのソナタ第二番」。鈴木の自在な表現にピタリと寄り添った福原のピアノ。この二人のアンサンブルは全く隙がなく実に見事だ。とりわけ遊び心満載の終楽章「無窮動」は圧巻で、弾き終わるや大きな掛け声がかかって前半を終えた。今回は二人の音楽が前回以上に濃密で、ここまででもう十分満たされた気分だった。そして後半は今回二人目の女性作曲家シャミナードの「カプリッチョ」で開始された。ここでは繊細な佳作ながら鈴木の音楽作りがいささか豊麗すぎて少し重たく感じる時もあった。そして締めくくりはフランクのバイオリンとピアノのためのソナタイ長調。今度は鈴木の大きな音楽作りがピタリとハマリ、夫婦の一生を表すかのようなストーリーを見事に歌い上げた。福原のピアノも決して伴奏の枠に止まらず、バイオリンと同じ方向を見据えつつも随所に自身の煌めきを見せつ見事な共演だった。まろやかに豊かに歌い上げられたアンコールのタイスの瞑想曲も心に染みた。
2018年6月以来およそ6年ぶりに指揮台に鈴木秀美を迎え、さながらウイーン古典派からロマン派への発展過程を示すような教科書的な選曲だ。とは言え演奏の方は「教科書的」という言葉から想像されるような味気ないものではなく、古典派ならではの音楽の喜びに満ち溢れた大層魅力的なものだった。冒頭に置かれたハイドンの交響曲第12番ホ長調は、作曲当時のエステルハージー家の楽団の規模に相当する20名にも満たない小編成で奏でられた。ビブラートを極力排した弦楽器の瑞々しい音色に、ニュアンス豊かな木管群が綺麗に調和し、ハイドンの魅力を十二分に感じさせる秀演だった。続く92番ト長調「オックスフォード」は、12番から26年の歳月を経て作曲された傑作だが、弦が増員されると同時にトランペットやティンパニも加わって、ぐっと厚く華やかな音色になった。しかし演奏に作為的なところが一切ない演奏なので、熟達した作曲家の筆致の変化が見事に浮き彫りにされ、ここでは比較の妙を楽しむことが出来た。休憩を挟んで、ロマン派への橋渡しと言えるようなベートーヴェンの交響曲第7番イ長調作品92が演奏された。これもこの大作曲家の姿を忠実に伝えるような良心的で爽やかな演奏だった。ピリオド・スタイルの演奏とは言いながら、余計な誇張や風変わりなイントネーションは一切ないので、曲自体の良さを安心して感じることができるのが何よりも嬉しいことだ。こうしたスタイルを聞くと、当初は物珍しさが目立っていた「古楽奏法」もずいぶんに熟してきたものだと感じさせる。演奏は楽章を追うごとに熱くなっていったが、決して一線を踏みはずすことなく「典雅な」美しさを維持して終わったのは流石である。ただおもしろかったのは、1楽章と2楽章をアタッカでつなげたことだが、どうせそれをやるなら3楽章と4楽章もつなげて欲しかった。いつまでも続く大きな拍手に指揮台に飛び乗って、何とアンコールはAlleglo con brioの最初の1小節だけ!何ともハイドンばりのウイットに会場は沸いた。
音楽監督ジョナサン・ノットの指揮で、まずはシェーンベルクの「5つの管弦楽曲作品16」。無調の作品で、それぞれ数分の5つのピースには〈予感〉/〈過ぎ去りしこと〉/〈色彩〉/〈急転回〉/〈オブリガード・レチタティーヴォ〉という表題が与えられているのだが、どれも私のような凡人にはイメージさえ湧かずに決して聞きやすい曲ではない。ゆえに正直のところ微睡を誘う15分だった。続く弟子筋にあたるウェーベルンの「パッサカリア作品1」は調性を感じることのできる小品で、師匠の前曲よりも相当に聞きやすい佳作だ。ここではノットの作り出すメリハリある美しい流れが作品を引き立てた。休憩を挟んでブルックナーの交響曲第2番ハ短調。今回はノヴァーク版第2稿(1877)使用とアナウンスされていたが、ノットの強い意向で初稿(1872)に準じた楽章順で演奏されるというビラがプログラムに挿入されていた。つまりは1楽章(モデラート)、2楽章(スケルッツオ)、3楽章(アンダンテ)、4楽章(フィナーレ)と、ベートーヴェンの第九のような速度感というわけだ。その他基本的に第2稿を採用しつつも、主観的に良いと判断される部分は初稿を参照したということだ。演奏の方は伝統的な堅固に聳え立つブルックナーとは異なり、スピード感ある流れが際立つ緩急自在の快演と表現したら良いだろう。楽章を追うごとにノットは熱を帯び、終楽章に至ってその気迫は最高潮に達した。そのノットに冷静に追従しつつ、決して爆炎にならず、しかし熱量の極めて多い感動的な演奏を繰り広げたこの日の東響は素晴らしいの一語に尽きる。まさに21年間に渡る深い信頼に基づく「絆」のなせる技であろう。
ウイーン・フィルのコンマスでもあるライナー・ホーネックに続いて、今シーズンから第3代首席指揮者に就任したトレヴァー・ピノックの就任記念コンサートである。今回のコンマスはおなじみのアントン・バラホスキーだ。本来4月に予定されていたのだがピノック本人が急病で来日できず延期されて今回となった。ピノックと言えばピリオド系バロック音楽の旗手というイメージだが、紀尾井には2004年の初共演以来度々登場し、決してそれに止まらない広いレパートリと柔軟の演奏スタイルを披露してくれている。そうした中でも意表をついたワーグナーのジークフリート牧歌でコンサートは開始された。スケール大きく際立って瑞々しく響く弦、そしてそれに名手揃いの管楽器群がニュアンスを添える名演だ。バラホスキーの積極的なリードがいっそうの活力の源であったようにも聞こえた。続いてはアレクサンドラ・ドヴガンを迎えたショパンのピアノ協奏曲第2番へ短調。ここではまずドヴガンのピアニズムに驚かされた。洗練された美しい音色と端正なフィンガリング。いかような表現さえ紡ぎ出せるであろうと思われるような楽器を自在に操れる技術をすでに十分持っているのだ。そこから紡ぎだされる弱冠15歳の無垢で純粋な音楽に強く打たれた。そしてピノックはこれまでショパンのオーケストレーションからは聞いたこともないような深い音楽でそれを支えているのだ。鳴り止まぬ拍手にアンコールはバッハ作曲ピロティ編曲の前奏曲ロ短調が静かに悲しげに流れた。考えすぎかも知れないが、凶暴な侵略行為を続ける祖国ロシアを悲しむドヴガンの心が映し出されているようにも聞こえた。休憩を挟んで最後は、明るく活力に満ち高らかに雄弁なシューベルトの交響曲第5番変ロ長調だった。大きな拍手にアンコールは「ロザムンデ」から間奏曲第3番がしっとりと奏でられた。バロックの狭い枠に止まらない音楽家ピノックのこの精力的な音楽作りはとても魅力的で今後がとても楽しみである。実は数日前に定期会員特典でシューベルトとワーグナーの公開リハーサルを見学させてもらったのだが、そこで見たのはコンマスや首席奏者の意見を聞きながら合意形成してゆくピノックの姿だったので、この雄々しい音楽がどうして作られたかは実に不思議である。
ソプラノの高野百合絵をソリストに迎え、首席客演指揮者藤岡幸夫が振るスペイン・プログラムだ。スターターは開幕に相応しいビゼーの歌劇「カルメン」から第一幕への前奏曲とスペイン色濃厚な”ハバネラ”。続いて煌びやかなシャブリエの狂詩曲「スペイン」。藤岡の作り出す音色は華やかながらいささかの重さがつきまとった。続いて珍しいドリーブの歌曲「カディスの娘たち」。スラリとした肢体を真紅のロングドレスに包んだ高野の歌唱は、誠に美しく伸びがあり、そのしなやかな振りともども仲々魅力的ではあったが、声質自体はけこう生硬なところもり、あの往年の名歌手ベルガンサの醸し出す「甘美さ」のようなものが加われば更に良かっただろう。そしてファリャのバレエ音楽「恋は魔術師」から”火祭りの踊り”とチャピのサルスエラ「セベデオの娘たち」より”とらわれ人の歌”と続いて前半を締めくくった。後半はファリャのバレエ音楽「三角帽子」全曲だったが、演奏に入る前に情景描写の説明がオーケストラを使ってあり、これがなかなか効果的で本演奏が楽しめた。藤岡のサービス精神に感謝である。後半は前半の重さは払拭され演奏は白熱した。とは言え決して乱れがないのが昨今のシティ・フィルだ。つまりは昨今のこのオケが備えた機能性が十全に発揮されたということだ。とりわけ木管と金管の名手たちのソロは惚れ惚れするほど見事で、ワクワクしながら聞き進むことが出来た。全体に解放的なスペインの音楽ということもあっただろうが、藤岡の個性が十二分に発揮された実に楽しいプログラムだった。
ウズベキスタン出身の俊英アジス・ショハキモフの指揮、ノルウェイの若手トランペッター、ティーネ・ティング・ヘルセットをソリストに迎えた演奏会である。1曲目はドビュッシーの管弦楽のための「映像」より第2曲「イベリア」。若々しく颯爽とした指揮ぶりでとても楽しげで爽やかな音楽だ。ここでは東響の熟達の木管群が大活躍した。2曲目はソリストを交えてトマジ作曲のトランペット協奏曲。トマジは管楽器の協奏曲を沢山作っているフランスの作曲家で、この曲自体はコンクールの課題曲などになっているそうだが私は今回初めて聞く。期待のヘルセットだが、正直吹き始めはあまり冴がなかった。そして途中でもちょとかすれた音が混じったりで、決して本調子ではなかったように聞いた。とはいえ2種のミュートを使い分けた繊細で滑らかで伸びやかな音色はこの人ならではの魅力であろう。あとで調べて分かったことだが、今回は病気治療から復帰後の間もない舞台だったようだ。勢いがあまり感じられなかったのはそんな所に理由があったのかも知れない。しかし逆にピアニッシモの表現力には素晴らしものがあったことも確かである。大きな拍手にアンコールはノルウェイの作曲家オーレ・ブルの「ラ・メランコリー」。美しく、儚く、悲しげな音楽を聴いていたら何故かウクライナの美しい風景が脳裏に浮かんできた。休憩後はそのウクライナ出身の大作曲家プロコフィエフが「人類の精神の勝利」をテーマに書き上げた交響曲第5番変ロ長調作品100。闊達なショハキモフの音楽性はこの曲にピタリとハマり、最後は生き生き、伸び伸びとテーマを歌い上げた快演だった。ただ、これは無いものねだりなのだが、曲中のトランペットソロを聴いていると、もちろん難なく立派に吹いていたのだけれど、これをヘルセットが吹いたらどんなに素敵だっただろう、などとあらぬ想像をしてしまった。それほどヘルセットが素晴らしかったという証拠だ。
東京シティ・フィルのオータム・シーズン幕開けは、ヨーロッパの北に生まれた二人の作曲家の1911年に初演された作品を並べた一晩である。とは言え曲調は正反対で、一方は分厚いハーモニーに彩られたロマンティックな作品だが、他方は風通しよく全てを削ぎ落としたような厳しい作品だ。まずはすっかりベテランの域に入った竹澤恭子を独奏に迎えてエルガーのヴァイオリン協奏曲ロ短調作品61、指揮はもちろん常任指揮者の高関健だ。その長さと超絶技巧から滅多に演奏されることはないが、これは名曲である。そして今回の竹澤の演奏は、まさに名曲の名演奏!何の不安定さもなく、堂々とこの大曲に対峙して一切怯まず、余裕さえ見せながら深くそして健全な音楽と円やかで伸びのある美音で50分を見事に弾き切った。そこにはいつまでも聞いていたいと思わせるような居心地の良さがあった。高関とシティ・フィルの合わせの名技も決して劣らずに立派だった。いつまでも続く盛大な拍手にまさかのアンコールはオケ伴による表情タップリな「愛の挨拶」。恋人への愛と奥方への愛を並べたステージというわけなのだろうか。そんな推測はともかく、休憩を挟んではシベリウスの交響曲第4番イ短調作品63。厚いハーモニーに長時間晒されていた耳は、今度は細やかな音色やフレーズの変化や交わりを聞き分けなければならなくなる。緊張の強いられる40分の中で三楽章の終盤だけに心が動く長いメロディがあり、それに向かって進み、そしてその後はまた混沌に向かって収束してゆくような時間経過を体感した。正直言ってこの曲はやはりいつになっても苦手である。ただ何時もよりもつかみ所はあった演奏だったようにも思う。ただ残念ながら「名曲」の所以は未だに私には理解できない。このところ毎度のことであるが、シティ・フィルは機能的にはとても素晴らしかった。
今年で42回目を迎えるこのアカデミー&音楽祭だが、一昨年はコロナ禍で全面中止、昨年はアカデミーは無くコンサートだけで変則的に開催された。しかし今年は海外からの講師の招聘も含めて平常の形に戻ったことは幸いである。とは言え長く常連だったヴェルナー・ヒュンクやパオロ・フランチェスキーニの顔が見えないのはいささか寂しい気もする。さて今年のテーマ「ロッシーニとその時代のヨーロッパ」には次のような「こじつけ」がある。1792年生まれのロッシーニが、彼のオペラが旋風を巻き起こしていた音楽の都ウイーンを初めて訪れたのが1822年、つまりそれから200年。更に今年はロッシーニ生誕230年なのだそうだ。そしてロッシーニと共に今年のプログラムに頻繁に登場するのがサンサーンスだが、こちらの方は没後100年ということになる。まあ毎年テーマはあっても、それ以外にもウイーン音楽を中心に幅広い選曲が常のこのフェスティバルなので、「テーマ」はご愛嬌と思いつつ色々と楽しんだ4日間だった。さて今年は27日の「モーツアルト:クラリネット五重奏曲とロッシーニの歌」、28日の「タマーシュ・ヴァルガのチェロ・リサイタル」、29日の「シューベルトとイタリア/シューベルト」、30日の「さらばロッシーニ、さらばサン=サーンス」の4つの本公演と、最終日30日の午前中に開催されたスチューデント・コンサートを聞いた。その中で印象に残ったのは、まず27日ではクラリネット五重奏でのウイーン・フィルの2nd.クラリネットのヨハン・ヒンドラーの慎み深いがウイーンを感じさせるソロ、そして三楽章で1st.バイオリンのカリン・アダムスとViolaの吉田有紀子(エクセルシオSQ.)が奏でだ密やかな音楽。またソプラノ天羽昭惠とメゾ・ソプラノ日野妙果による「小荘厳ミサ」から「グロリア」の二重奏の絶妙なアンサンブルも良かった。そして同じく天羽とメゾ・ソプラノのアンゲリカ・キルヒシュラーガーによる「ヴェネツイアの競艇(2声の夜想曲)」においての両人の切れ味もロッシーニらしい悦楽だった。28日のブラームスに先立つバッハのチェロとクラフィーアのためのソナタ2曲(BWV1028 & 1027)では、クラウディオ・プリツィのチェンバロとコルネリア・ヘルマンのピアノという2種の鍵盤楽器による伴奏の違いを楽しめた。ピアノ伴奏だとヴァルガの独奏がどんどんロマンティックになっていった。またブラームスの「2つの歌」作品91では、キルヒシュラーガーのメゾにつき従うピアノとチェロによる陰影に富む伴奏が興味深かった。29日のオーケストラコンサートは、矢崎彦太郎の指揮する群響弦楽アンサンブル&草津フェスティバル・オーケストラによるシューベルトの交響曲第5番変ロ長調がメインであったが、もちろんそれも流れの良いタップリとした音楽で楽しめたが、ベートーヴェンの珍しい初期のバイオリン協奏曲ハ長調(断片)では、ソロを弾いたカリーン・アダムスの粘りある美音が習作的な未完の作品を聴き映えのある作品に変身させていた。若き日の習作と言えどもベートーヴェンはベートーヴェンだ!30日のクロージングコンサートでは、A.シェーンベルグが4手のためのピアノに編曲した歌劇「セビリアの理髪師」からの3つのアリアが面白かった。クリストファー・ヒンターフーバーとコルネリア・ヘルマンが演奏したが、ヘルマンのピアノが歌唱のようによく歌った。最後はエクセルシオSQ.とヒンターブーバーによるサンサーンスのピアノ五重奏曲。この曲が名曲であることを発見した。毎回最終日の午前中にはアカデミーで優秀だった生徒によるステューデント・コンサートが開催されるが、これが音楽好きには実に楽しい。今年西村音楽監督賞に輝いたのは、オーボエの吉川隼介、ピアノの佐野瑠奏、チェロの石田沙羅、クラリネットの白井宏典の4名であったが、私個人的には、スクリアビンのピアノ・ソナタ第9番「黒ミサ」を流麗に弾き切った佐野とヴィドールの序奏とロンド作品72で表現の幅を鮮やか示した白井の名技と音楽性が印象に残った。
2018年度のサントリー音楽賞受賞者高関健を迎えその受賞記念コンサートが開催された。曲目はサントリーホール国際作曲委託シリーズNo.8のルイジ・ノーノ作曲「『2)進むべき道はない、だが進まねばならない・・・アンドレ・ラルコフスキー』7つのグループのための」とグスタフ・マーラーの交響曲第7番ホ短調「夜の歌」の2曲である。前者は1987年に高関本人によって初演された作品、後者は校訂版の楽譜出版に高関自身が校訂者から請われて関与した作品ということで、誠に今回の記念コンサートに相応しい選曲だったと言えるのではないだろうか。高関の学研的で地道な指揮活動が日本のオーケストラ・シーンに及ぼしている影響は極めて大きい。そうした姿勢を持ってエポック・メーキングな演奏活動を実現しているだけでなく、オーケストラの指導の上でも卓越した手腕を発揮し、受賞年の2018年以降も自ら深く関与する各地のオケの実力アップに大きく貢献し続けている。一例を挙げれば、彼が2015年以来常任指揮者を務めている東京シティ・フィルの昨今の充実振りには驚くべきものがあり、今やシティ・フィルは音楽都市東京を代表するオケの上位にランクアップされて良い実力を得たと言っても決して過言ではないだろう。そうした意味で今回の受賞は誠に妥当なことであり、共にこの慶賀を喜びたいと思う。さて舞台の方だが、まずは演奏前にシティ・フィルでの慣例で高関一人が登場してプレトークが始まったのだが、今回の受賞に対するコメントなどは一切なく、曲目解説、そしてマーラーの改訂に関してのエピソードが淡々と語られていたのはいかにも高関らしかった。最初のノーノの曲は、7つのグループのオケを会場の各所に配置し、その音響のパースペクティブを体感することが主眼の曲のように聞いた。それはそれで面白くもあるのだが、同じ調子でそれが30分も続くと、聞く方としてはいささか辟易としてしまったというのが正直な感想である。演奏の困難さの割に効果の上がらない曲であった。休憩を挟んで大きく勢いよいテナーホルンで始まったマーラーの7番は、最初から聞きなれない表現があり高関版の効果が聞き取れた。日頃どちらかと言えば守りの姿勢の着実な音楽を作る高関だが、今回は攻めの姿勢に転じて、強い積極的な音楽作りでオケを強く牽引した。その結果私には比較的わかりにくかったこの曲がメリハリの効いた名曲に聞こえたのは何よりもの収穫だった。第4楽章の夜曲の官能美や、終曲の様々が入り乱れた混沌からカウベル&ベルチューブが鳴り響く大団円までの経緯がこんなに面白く聞けたことは今までになかった。オケは東京シティ・フィルということではあったが、とりわけコンマスや首席を中心に弦楽器には見慣れない顔が多く揃い、日頃の端正な音色がいささか荒いものになっていたように聞こえた。とは言えその力強さは今回は良い方向に作用したともいえよう。その反面管楽器には首席が顔を揃えとりわけ大活躍するホルンの鮮やかは特筆すべきものだった。
桂冠指揮者のダン・エッティンガーが久方ぶりに東フィルに戻ってきて振った「午後のコンサート」だ。最初のワーグナーの歌劇「ニュルンベルグの名歌手」の第一幕の前奏曲から筋肉質の引き締まった音で、「エッティンガー節」が炸裂した。重厚さより金管の華やかさが目立った音色だったが、要所では踏ん張ったような独特なリズムを求めるので、やはり古風なドイツ感は満載だった。続いてシックな黒いドレスを纏い髪に真っ赤なバラをあしらったバイオリンの服部百音が登場して、ワックスマンの「カルメン・ファンタジー」。超絶技巧が見事に決まり、エッティンガーのバックもそれにピタリと寄り添った。盛大な拍手にアンコールはオケ伴でパガニーニの「常動曲」を鮮やかに、そしてニュアンス豊かに弾き切った。休憩を挟んでフィナーレはリムスキー=コルサコフの交響組曲「シエーラザード」。エッティンガーは東フィルを煽って、オケの機能を十全に発機させ壮大な絵巻物を描いた。そんな中コンマス三浦章宏の繊細でしなやかなソロが光った。アンコールはロッシーニの歌劇「ウイリアム・テル」より”スイス軍の行進”。強弱のダイナミクスを大きくつけた迫力満点な演奏に会場は大きく沸いた。
バイオリニストの和波孝禧氏が音楽監督として毎年主催するサマー・コースの冒頭を飾る講師等による土曜午後のマチネー・コンサートである。場所は山梨県の長坂駅前にあるコミュニティステーションに併設されている中規模のホールである。まずはサマーコンサートらしい幕開けでモーツアルトの喜遊曲ニ長調K.136。1stバイオリン和波孝禧、2ndバイオリン山本大心、ビオラ田島高宏、チェロ荒庸子による演奏。2曲目は土屋美寧子の独奏でショパンの夜想曲作品9-2。作曲者が加えた装飾を生かした版で弾かれたのが興味深かった。そして田島のバイオリン独奏でチャイコフスキーの瞑想曲作品42-1。朗々とした美音が心に沁みた。続いて荒のチェロ独奏でフォーレのエレジー作品24。前半の最後は和波のバイオリン独奏でクライスラー編曲による「ロンドンデリの歌」と同じくクライスラー作曲の「シンコペーション」。和波は若々しく見えるがすでに喜寿を迎えたというから驚きだ。そのせいか音に芯というか、圧がなくなり気味のように思えるのだが、その分メロディの歌い回しに独特の滋味が感じられて心打つ演奏だった。休憩後は全員が登場してブラームスのピアノ五重奏曲へ短調作品34。ここでサマーコンサートらしからぬ大曲が据えられて、演奏者達の唯ならぬ意気込みが感じられた。和波の力感は不足しているとは言え、このコースの受講生でもあった山本がそこを巧みにカヴァーし、全体に纏まったアンサンブルで楽章を追って白熱する熱演であった。とりわけ土屋のピアノの牽引力が大きな支えとなっていたと思う。最後はハンガリー舞曲第5番のアンコールがあって和やかに終演となった。
アバドの薫陶を得たマーラー・チェンバー・オーケストラの初代コンマスを務め、昨今指揮者としても注目されれいるアントネッロ・マナコルダを指揮に迎えた演奏会である。1曲目のシューマンの「序曲、スケルツオとフィナーレ」では紀尾井のオケから重厚で円やかな響きを引き出し、しかしそれなのに決してもたれない切れ味があるのが特徴で、期待は大きく膨らんだ。続いてはこのアンサンブルのメンバーとしても活躍する池松宏の独奏で、トウビンのコントラバス協奏曲。あたかもチェロのように椅子に座って抱弾く池松の弾きぶりは極めて鮮やかで雄弁だ。楽器の大きさを忘れるような、不自由さを全く感じさせない弓捌きにはまったく感嘆した。アンコールはハープの早川りさこを交えて、マイヤーズの「カヴェティーナ」。ダイナミックレンジを広くとった奥深い響きの名演だった。このアンサンブル、毎回こんなバス奏者が全体を支えているのだから悪いはずはない。休憩を挟んでは、ポツダムのオケとCDも録音しているメンデルスゾーンの交響曲第3番イ短調「スコットランド」だったが、こちらは私にはいただけなかった。たいそう溌剌とした演奏なのだが、そこから来る直線的な刺激は私には余りにも整理が行き届いていなくて騒々しかった。頻出するティンパニーの強打などまるで戦場のバズーカ砲のようで、ついぞメンデルスゾーンの奥深い浪漫を感じることが出来ず、拍手も早々に切り上げてそそくさと会場を後にした。
2014年春の9番から始まった音楽監督ジョナサン・ノットとのマーラー交響曲シリーズ第9弾である。まずはラヴェルのピアノ曲集「鏡」より「海原の小舟」(管弦楽版)。ドビュッシーの「海」が冬の海ならば、さしずめ太陽に光り輝やく色彩感豊かな夏の海を描いたようなキラキラと眩い佳作だ。繊細でしなやかなノットの表現が効果的かつ印象的だった。続いてソプラノのユリア・クライターが登場して、ベルクの「7つの初期の歌」。修行時代の歌曲から7つを選んで自ら1928年に伴奏部をオーケストレーションした曲集。どれも「愛」がテーマになっていて、その意味で最後のマーラーと共通した題材というわけだ。クライターは清澄な美声で癖のない秀でた歌唱だったようだが、いかんせん私の席(2階正面中程)では声がオケに埋もれて聞き取りにくく十分に味わうことができなかったのがとても残念だった。そして注目のマーラーの交響曲5番嬰ハ短調だが、冒頭のトランペット・ソロが鮮やかに決まらず、それが最後まで尾を引いてトランペットは絶不調。それを挽回しようとしてか、他のパートは力一杯の力演をするのだが、それがまた空回りしてアゴーギクを多用した獅子奮迅のノットの采配にも関わらず焦点の定まらない演奏となってしまった。個々のパートの頑張りは相当で、とりわけホルン群の雄叫びは凄まじいものだったが、それもかえってバランスを崩した印象で、私がこれまで経験したノット+東響の実演のなかでは一番共感できない演奏だった。しかし、いささかフライングぎみで始まった盛大な拍手はいつまでも鳴り止まず、ノットはソロ・カーテンコールに応えていた。
このオケの華であるフルート首席の竹山愛をソリストに据えた演奏会。指揮は常任指揮者の高関健。最初のバルトークの舞踏組曲は、6曲から成る20分弱のマジャール色豊かな佳作で、高関は毎度のことながら的確な指示を細かく出しながら見事に捌いて楷書的な快演だった。続いて期待の竹山が登場してモーツアルトのフルート協奏曲第1番ト長調。薄い水色の何とも涼しげなドレスを纏った竹山の登場で舞台は途端に華やかになったが、演奏の方はどちらかと言うと控えめでギャラントな味わいには乏しい着実な表現で拍子抜けしてしまったというのが正直な感想だ。オケにおける日頃のバランスが抜けきらないのかなとも思わせたが、もちろんその範囲では的確なテクニックに裏付けられた流麗な申し分ない音楽であったことは確かだ。一方ここで注目に値したのは高関の伴奏の方で、協奏曲の中でもとりわけ充実した作曲家の筆致を感じさせる立体的な音楽を引き出したのは見事だった。トリはブラームスの交響曲第3番へ長調作品90。こちらもきちっとした構成を全面に押し出した楷書的で丁寧な演奏だったが、絶好調のこのコンビだけに唯それだけでは終わらなかった。とりわけ二楽章の木管群のアンサンブル、それにホルンが加わるくだりの見事さなどそう滅多に聞ける演奏ではなかったし、三楽章のホルンソロも見事の一語に尽きた。そして終楽章では弦楽器の冴え冴えした音に心がときめいた。クライマックスに上り詰めるに従ってオケは益々一体となって白熱し、そして安らぎの中に静かに全曲を閉じた。