46章前半12節には、君主と民が神殿で礼拝をする場合のことが出ている。安息日と新月には、内庭の東門が終日開かれる(1-2節)。祭司が祭壇に犠牲を捧げる光景を見てそこに額ずき礼拝する。君主はその傍らに立っている。南門から入った民は北門から、北門から入った民は南門から出なければならない(9-10節)。
真向かいの門から出て行く。
何故だか判らないが、出入り自由なら混乱しよう。一つの秩序を定め、これに従って礼拝の民の流れが出来る。出会いから互いの安否を知ることになるとすれば、読み込みかもしれないが、礼拝による一致と交わりがある。「君主は彼らの間にある」という(10節)。
榎本保郎著「一日一章」に、来た時と違った道から帰るのは、礼拝に来て変えられ、新しくなって帰ることを示唆しているという。
確かにそうであろう。
真向かいの門から出て行く。
何故だか判らないが、出入り自由なら混乱しよう。一つの秩序を定め、これに従って礼拝の民の流れが出来る。出会いから互いの安否を知ることになるとすれば、読み込みかもしれないが、礼拝による一致と交わりがある。「君主は彼らの間にある」という(10節)。
榎本保郎著「一日一章」に、来た時と違った道から帰るのは、礼拝に来て変えられ、新しくなって帰ることを示唆しているという。
確かにそうであろう。