『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

家康公の“伊賀越えの大難”の時、穴山信君を討ち殺した『一揆の民』は、本当は・・・

2016-02-03 07:00:00 | 純野のつぶやき、あるいは趣味と妄想
天正十年(1582)五月二十一日、信濃平定が落着

した後、安土の信長公のもとへ参着していた徳川

家康一行(徳川家康、穴山信君ら)は、信長の

勧めにより、京都・大坂・奈良・堺を見物する

ために上洛します。信長方からは、長谷川秀一

が案内者として同行しました。

 信長から「織田信澄・惟住長秀は大坂で家康公

に振舞いを行うように」と命じられ、両人大坂

へと参着しました。本能寺の変が起きる六月二日

の少し前のことでした。

 六月三日、本能寺の情報を堺で聞いた徳川家康

一行と長谷川秀一は、六月四日宇治田原越えで

三河・駿河へ退ぞこうとします。世に言う“家康

公の伊賀越えの大難”です。穴山信君はここで

一揆に殺害され、家康一行は桑名から船に乗り

熱田の湊へ・・と信長公記では述べられています。


**純野の妄想プロット**

まず、“一揆”に殺害された穴山信君は、別名

玄蕃・梅雪。母は武田信玄の姉南松院、武田信玄

の女婿にあたり、穴山氏は武田氏の一族となります。

武田勝頼・信勝父子を信長公に売った人物として

有名になってしまいました。

 徳川家康は永禄三年(1560)五月十八日の“桶狭間の

戦い”のどさくさにまぎれて三河に居座り、
駿河に

勢力を伸ばす途中で隠れてやっていたつもりだった

のが武田氏との交易でした。家康は、何らかの戦乱

どさくさにまぎれて武田の金山が手に入らないか

と「究極のたなぼた」
を狙っています。これまでに

武田氏との関係をもみ消すため、天正七年(1579)の

九月十五日に嫡男信康を自刃に追い込んでしまって

います。「信康の死を無駄にしてはいけない!」

短気で自己中な家康も肝に銘じています。

 山道を歩きながら、「今後自分が武田氏と秘密の

交易を行ってきたことを暴露したがっているのは

誰か?」と考えた時、隣りを歩く穴山信君の姿が・・

ここは伊賀であって三河と伊賀で飼っている忍び

のものはいくらでもいる・・結果として徳川家康

は生き延び、武田家を裏切って織田家についた穴山

信君が“家康の庭”伊賀超えの峠で殺害される・・


誰が殺したか・殺させたかは明白です。


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