『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長公が信濃出馬の時に“高野山”を異常に気にした真の理由は・・・

2016-02-01 20:12:11 | 純野のつぶやき、あるいは趣味と妄想
織田信忠が信濃攻略の大部分のお膳立てを

行い、信長公がいよいよ出馬という天正十年

(1582)の二月九日のこと、信長公は「条々御書出」

を触れ廻して、京諸口の守備を含めて指示を

出していますが、以下の通り異常に“高野口”

を気にしています。

①大和の軍勢は筒井順慶が引きつれ出立する

 よう準備。高野方面に少し軍勢を残し、吉野口

 を警固すること。

②河内の諸勢は、烏帽子形・高野・雑賀方面

 の守備をすること。

③泉州の勢は紀州へ押し向けておくこと。


これは、少しさかのぼる天正九年(1581)の八月に、

・高野山が攝津の牢人たちを多数抱えており、

 その中から1~2名召しだしたいものがおり、

 それを朱印状つきで使いを向かわせたところ、

 高野山側が使いの十人ほどを切り殺してしまった

 ため信長が対抗して高野聖数百人を成敗した!

という事件はあったものの、果たしてそれだけ

でここまで配慮する必要があったかどうか・・


**純野の妄想プロット**

弘治三年(1557)十一月、信長は清洲城の北やぐら

の居所へ舎弟勘十郎信行をおびき寄せ、河尻与兵衛

秀隆・青貝に命じて謀殺した・・と信長公記には

述べられています。

 実はこの謀殺のきっかけとなったのが、信行の

家臣から信長の家臣へと寝返った柴田権六勝家

その人ですので、「柴田権六勝家が、新しい主君

信長に命じられた旧主君信行の謀殺を実行する

ことができず、河尻秀隆・青貝に殺害させた形に

しておいて実は剃髪させ、早桶に乗せて“死者”

として高野山に向かわせた・・」
と考えると、

途中から権六勝家にそのことを伝えられた信長

が高野山に対して“攻め込まないが防御はする”

という姿勢でいたことがガテンが行く気がします。


織田勘十郎信行は生きて高野山におり、

本能寺の変で舎兄信長が壮絶な最期を遂げるのを

真言を唱えて呪詛していた!
というプロットも

ありうると考えています。


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