音次郎の夏炉冬扇

思ふこと考えること感じることを、徒然なるままに綴ります。

奥田英朗を読み解く その2

2006-02-11 23:27:36 | 本・雑誌
前回に続き、奥田英朗について。今や屈指の人気作家になった氏だが、何故あんなに面白い小説を次々と生み出せるのか?彼は何者なのだろう?という私の純粋なヒューマン・インタレストがこれを書かせている。どんな道のりで作家・奥田英朗が出来上がったのかを、自分なりに検証してみたかった。デビュー作『ウランバーナの森』は、世界的なポップスター「ジョン」が送った「隠遁生活」ともいえる空白の4年間に興味を持った著者が、空白をフィクションで埋めてみたいという願望から出発したものだという。「もちろん私は彼を知らないし、これが僭越な行為であることは充分承知している。本当のことは本人しかわからないし、天国の彼には迷惑な話だろう」とあとがきにも記している。私の拙文も同様に、非礼なものになるのかもしれないが、そこは読者の特権、勘弁してもらうしかない。

奥田英朗の軌跡をたどるには、幾つかのインタビューや寄稿文と作品をもって行うしか術はない。特に自伝風小説『東京物語』が作家になるまでの彼を読み解くための格好のテキストになろうかと思う。
作家の自伝的小説は面白い。先日ようやく終わった日経の連載小説で晩節を汚した渡辺淳一センセイも、初期の瑞々しい医学小説は好きだったので、自伝色の濃い「白夜」シリーズは高校時代から読み耽っていた。また清水義範の『青山物語』も、名古屋の教育大学を出て上京し、青山の小さな情報サービス会社に勤める主人公が作家として認められるまでを描いた青春小説である。まあ、読者はどうしても高村伸夫=渡辺淳一、平岡義彦=清水義範と読んでしまうし、それが間違っているとも思えない。

『東京物語』は、氏のファンサイトやブログ書評を覗いて見ると、奥田作品の中でも人気が高いようだ。それもそのはず、作家の自伝小説は、読者は主人公が最後にはサクセスすることを知っているので、安心して読むことができるからである。思うに、政治家や財界人の自伝は眉唾もので、相当割引いて読む必要があるが、エンターテイメント系の作家が過去を振り返って、肩の力を抜いて綴る自伝小説は、かなりの部分、事実に則していると読んで差し支えない。こういう小説が、あくまで「自伝的」とか「自伝風」と断っているのは、作者以外の実在する登場人物に迷惑をかけないようにという表向きの配慮だけであって、本人の話はほとんどそのまんま「実際にあった話」だと解釈しても的はずれではないと思うのだ。ということで、とりあえず田村秀雄=奥田英朗と読み換えをしながら、進んでいきたい。


鬼才奥田英朗は1959年に岐阜県岐阜市に生まれた。
まず1959年がどういう年だったのかというと、最大のトピックは何といっても現天皇と正田美智子さんのご成婚だろう。その他にもなかなか興味深い出来事がある。フジテレビと現TV朝日が本放送を開始したのもこの年なら、今に続く雑誌も創刊ラッシュだった。「週刊文春」「週刊現代」「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」もこの年に生まれたのだ。後にメディアを主な舞台にする彼だが、メディア史においても重要な年だったわけだ。同年に誕生した著名人は他に、山口百恵、赤井英和、田中美佐子にノーベル賞受賞の田中耕一(ノーベル賞)といった面々がいる。

岐阜県は名古屋文化圏として括られることが多く、梶原前知事が全国知事会会長として存在感を見せていたこと、昨年の衆議院総選挙でマドンナ対決が全国の注目を集めた話題くらいしか一般の人は思い浮かばないのではないだろうか。戦国時代はメインステージだったこの地域も、近年は地盤沈下が進み、パルコも撤退するなど、あまり良い話は聞かない。私も岐阜出張では、タクシーに乗るたびに、運ちゃんに景気の悪さを愚痴られる。柳ヶ瀬もあまり賑わっていないようだ。そんなぱっとしない岐阜県だが、出身の著名人を並べてみると、思わず興奮するような顔ぶれ。まさにキラ星の如く、錚々たる人材を輩出していることがわかる。量はともかく、質は東海3県で№1、私の個人的な好みでいうと全国屈指の陣容だと思う。

政治家は大野伴睦、誰もが我田引水という言葉で連想する、東海道新幹線の岐阜羽島駅を引っ張ってきた党人派の実力者である。法曹界では元東京地検特捜部長で、最近ライブドア問題でTVに出まくっている熊崎勝彦。芸能・文化人もすごい。まずは日本を代表する名優、田中邦衛。「恋愛ドラマの神様」脚本家の北川悦吏子。箱根駅伝の2区も走ったことのある大監督、篠田正浩。世界的デザイナーのやまもと寛斎、芸術家の日比野克彦、スポーツではシドニー五輪金メダリスト、あの高橋尚子がいる。ウッドからパターまでミズノで揃えるフリークの私にとって涙モノなのは、「ミズノ」創業者の水野利八も岐阜県出身であること。なんといっても「水野」でなく「美津濃」ですから。
作家というと、90歳を超えてなおも現役作家、「抱擁家族」の小島信夫。金融ミステリーの俊英(私も実は愛読者)『果つる底なき』の池井戸潤という渋いラインナップ。

そんな異才たちも育った岐阜県の岐阜市内で、父が小さな商事会社を経営する家に生まれた奥田少年は、四方を山と長良川の自然に囲まれて健やかに育った。姉や近くに住むたくさんのいとこたち、大好きな学校の友達と一緒に牧歌的な少年時代を過ごした。

『サウスバウンド』発売直後のインタビューで、「主人公の二郎は学校が好きで、友達に会うのが日々の楽しみという身近にいそうな小学生ですけれども。どうしたら子供の気持ちをこんなにリアルに書けるんですか?」というインタビュアーの質問に対して「自分の少年時代を思い浮かべて書いたんですけどね」と答え、さらに「僕が小学校5年生から6年生の頃って、たぶん一番まっすぐだったし、正義を信じていた。周りにヒネたこと言うような子もいなかったですね。まあ、田舎だったせいもあるんでしょうけども」と語っている。本人がいうように屈託のないこどもだったのだろう。『サウスバウンド』の二郎で気付くのは、よく腹を減らす子だということ。お腹がすいたというセリフが頻発するし、食べるシーンが本当によく出てくる。普通の食事はご飯4杯当たり前の食欲旺盛な少年時代だったんだ、と思いきや、『東京物語』でもやたらと空腹の描写が出てくる。「あの日聴いた歌」の経費で出前を取ってもらったカツ丼や「春本番」のハンバーガーのエピソードなど、食べることには大いに執着する傾向がみてとれる。若い頃はたいがい皆ハングリーだが、特に奥田少年は食べることが大好きで優先順位が最上位だったのかもしれない。

奥田少年は、本はあまり読まなかったらしい。梶原一騎原作の「巨人の星」や「あしたのジョー」などの劇画を読み耽るが、活字に耽溺していたわけではない。中1の時目覚めた洋楽は、その後6年間で百枚のLPレコードをためるまでになっており、将来の夢は「音楽評論家」になりたいという漠然としたものだった。

奥田英朗が通ったのは、岐阜県立岐山高校。比較的新しい県立の進学校だったが、百々ヶ峰という山のふもとの風光明媚な学舎で多感な高校時代を過ごした。校舎の写真を見ると、本当に山が迫っていて、思わず私の母校を思い出してしまう。地元の岐阜大学のロケーションもこんな感じだ。

家業を継ぐ気は端から無く、とにかく花のお江戸に出たいというのが唯一の願望。東京の大学であれば、坊さんの大学でも良かった。そもそも大学に行くことよりも退屈な田舎を脱出して自立したいという気持ちの方が強かったので、結局、唯一受かった滑り止めの地元私大を蹴って、東京の予備校に通うべく、勇躍上京することになった。東武東上線で池袋から1つ目の北池袋に居を構えた彼は、代々木の予備校に入校した。これはもちろん、名にし負う代々木ゼミナールだろう。彼女も出来ずに、仕方ないので勉強ばかりしていたら、1浪でお茶の水に校舎のある大学の文学部に潜り込むことができた。

このお茶の水に校舎のある大学とは何処だろう。奥田英朗はプロフィールに、中退した大学を一切記載していないが、普通に想像するなら、これは明治大学か中央大学のどちらかだ。ただ、彼が大学に入学した年は1979年4月。中央大学はその前年に、文系学部全てが八王子に移転している。『東京物語』の「レモン」では、「大学の移転阻止を謳う活動家たちが、試験ボイコットのためにバリケードを張るという噂なのだ。頑張ってほしい。久雄は陰ながら応援している。」という箇所があるのがよくわからない。明治にしても、1~2年の一般教養課程は杉並の和泉校舎であり、駿河台ではない。ただ、彼が入学早々に門を叩いた演劇部では、先輩達が「唐十郎の状況劇場を神様のように崇めていた」とあるから、部室のたたずまいの描写と相まって、どちらかというと明治大学のイメージに近い。唐十郎は同大学の文学部演劇学科卒業なのだ。

演劇部では毎日のように酒を飲み、同期の女子学生とちょっと照れくさい恋などしながらも、大学生活を送っていた彼に転機が訪れた。父の会社の倒産である。中退を余儀なくされた彼は、元々アカデミックな性質ではなく、上京したのも、大学に行くためというよりも、自立志向が強かったことによるもので、一も二もなく、すぐに社会に出ようと考えた。最初に入社した会社は従業員50名くらいの規模だったが、Tシャツ姿を見咎められ、スーツ着用を命じられたことに嫌気がさし、3日で辞めた。その後、どうにか2社目の恵比寿にある総勢6名の弱小広告代理店に潜り込んだ。ここで生来のセンスと文才を発揮して、コピーライターとしていっぱしに仕事をこなし、社長にも頼りにされるようになる。(「名古屋オリンピック」)

次の「彼女のハイヒール」編では25~26歳になっている奥田青年は、2年前に会社を辞めていて、フリーランスのコピーライターとして独立している。同年代は入社3年目くらいのひよっ子だろうが、彼はこの時点で社会人歴7年目くらいのキャリアがあり、まさに脂ののった時期である。生活水準も年々向上し、愛車プレリュードを乗り回すようになっていた。

そして、その3年後、「バチェラーパーティー」編の89年、30歳を目前にした奥田青年、時はバブル経済真っ盛り、フリー仲間3人で共同事務所を構え、住まいは恵比寿の家賃15万円のマンションに、5万円の駐車場を借りて、車もルノー5にランクアップを遂げるほど羽振りがいい。好況に法人は広告宣伝費を増やし、企業イベントも花盛り、コピーライター、イベントプランナー、空間プロデューサーなど幾つもの顔を持ち、仕事も熟練の境地に達している奥田英朗は引っ張りだこだっただろう。仕事仲間からは「田村ちゃん」などと呼ばれて、すっかり業界人である。地上げ屋の社長にも妙に見込まれ、年商は数千万円。フリーランスとして、内面はともかくとしても、外観は我が世の春を謳歌しているように見える。そして、ようやく仲間の結婚前祝いの宴で、自らの長い青春時代が終焉を迎えることを否応なく自覚する。

かの清水義範も、自伝小説『青山物語』で、何気なくワンシーン登場した女性が、今の奥さんであることを、文庫版の解説で友人に暴露されていたことを思い出す。それと同じに、この最終章で出てきた理恵子というステディーな彼女は、今も奥田英朗の傍にいるのかもしれないと思ってみたりもする。

〈敬称略〉

「奥田英朗を読み解く その3」につづく




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