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異質な「他者」との関係を築く(小玉重夫さんに学ぶシティズンシップ教育)

2011年12月25日 | 「学び」を考える

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1217日、連続講座第4回「情報リテラシーとシティズンシップ」で、講師の小玉重夫さんは、政治教育の立場から情報リテラシーを政治的リテラシーと重ね合わせて話してくださった。

イギリスでは、政治哲学者バーナード・クリックらが1998年に政府に答申した「学校における民主主義教育とシティズンシップの教育」(通称クリック・レポート)にもとづいて、2002年からシティズンシップ教育が学校のカリキュラムに取り入れられている。クリック・レポートでは、シティズンシップの構成要素を「社会的道徳的責任」「共同体への参加」「政治的リテラシー」とし、なかでも「政治的リテラシー」を養うことが重要だとされている。そのために学校教育では、論争的な課題について子どもたちが争点を明確にして活発な議論を行うことが求められる。教師はコーディネーターとして、以下の3つのアプローチを偏りなく組み合わせて子どもたちの議論を活性化することが奨励されている。

・中立的なチェアマンとしてふるまう

・少数派の立場に立つことによってバランスをとる

・教師自身の意見を明確に述べる

 このあと、小玉さんは、日本におけるシティズンシップ教育の流れを概観し、国家(官僚・行政・立法)と国民を(いわゆる「お上」と「下々」という)上下関係に位置づけて義務の遂行や権利の保証が行われてきた従来の公共性から、「市民」と国家が対等な関係を築いてゆく新しい公共性への転換が必要だと話された。そのような新しい公共性(市民性)を養うには「科学・技術・情報の市民化」にむけたカリキュラム・イノベーションが必要である。「科学の市民化」とは、アカデミズムの世界に閉じこもって自らの仕事の意味について自律的な判断ができない専門家の知見を市民の立場から社会的な文脈のなかで読み解くことであり、それは、たとえば原発の是非や放射能汚染の危険についての判断を専門家の権威にゆだねるのではなく、市民=素人が対等の立場で議論と判断に加わることを意味する。そのような市民を育てる学校は専門性の批評空間となり、教職員は専門家の知見と市民の知性を橋渡しするコーディネーターの役割を果たす。
参考図書:バーナード・クリック著『シティズンシップ教育論 政治哲学と市民』(関口正司訳、法政大学出版局、2011)

シティズンシップ教育論: 政治哲学と市民 (サピエンティア)
クリエーター情報なし
法政大学出版局

小玉さんのお話は明快で納得のいくものだ。しかし、新しい公共性の育成に向けた政治的リテラシーの教育をどのようにして現実化していくのかということになると、状況は決して楽観できないのではないだろうか。小玉さんご自身は、中央教育審議会の動向などをふまえて希望的な見通しをもって実験的なプログラムを組織しておられるそうだが、実際の教育現場で、それを押しとどめようとする目に見えない力や教師の問題意識といった現実的な課題を乗り越えることは容易ではないだろう。何よりも政治教育の普及と一般化にともなう形骸化を回避するための方法論もプログラムに組み込んでおく必要があるだろう。

私が小玉さんの著書『シティズンシップの教育思想』(白澤社、2003を手にしたのは、1994年から2002年まで携わってきた学校図書館経営から離れて、その間に知り合った人たちと新たな活動を始めようとしていた頃であった。その頃、刈谷剛彦さんによる書評が朝日新聞に掲載されたのを切り抜いて今も大事にとってあるのだが、その見出しには「異質な「他者」との関係を築くために」とある。当時の私にとって、この本は、ユリア・エンゲストロームの『拡張による学習』(山住勝弘ほか訳、新曜社、1999)とともに、学校教育における学校図書館の役割について自分の実践を振り返り、これからの方向性を考える手がかりを提供してくれたのである。

シティズンシップの教育思想
クリエーター情報なし
白澤社

つまり、こういうことだ。教科書を中心に展開される学校教育にあって、現実世界に開かれた窓として機能すること。資料・情報を提供するだけでなく、それを批判的に読み解き、一人一人の子どもが自分の意見をもてるように情報活用のプログラムを編成し実施すること。情報や人が行き交うことによって相互の変容と知的創造を促す場を生み出すこと。こうした学校図書館の活動は、まさに異質な「他者」との関係を築くことにつながるものであり、それを誰の目にもみえるように展開することが、8年間の任期中に私が取り組んできたことであった。学校を従来の公共性や専門性にたいする批評空間として位置づけるとするならば、学校図書館は、社会に閉ざされた従来の学校文化にたいする批評空間として学校の内側から「新しい公共性」に向かう教育を支えていくことができるのではないか。1217日の小玉さんの話を聞いて、その想いを新たにした。

 

こうした学校図書館にたいする私の想いの原点にあるのは、現代の社会や教育の動向に対する危機感である。よくも悪しくも「戦後教育」をまともに受けてきた私の記憶に残っているのは、戦前の教育を清算し新しい時代に対応できる人間を育てようと必死で取り組んでいた小・中学校時代の教師たちの姿である。そこには民主主義も体罰も能力別編成も混在していたが、それらを一体として受け止めて育ってきた私の裡に凝縮されて残っているのは、全体主義の脅威をいち早く察知して、抜け出そうとする・・・感受性とでもいえばいいだろうか。その点で私は小玉さんがハンナ・アレント(政治哲学)をよりどころにしていると語られたことに共感を覚える。アレントの代表的な著作に『人間の条件』(志水速雄訳、中央公論社, 1973年/筑摩書房[ちくま学芸文庫], 1994年)があるが、松岡正剛氏(千夜千冊)によれば、アレントが指摘する世界危機は次の5つにまとめられるという。

(1)戦争と革命による危機。それにともなう独裁とファシズムの危機

(2)大衆社会という危機。すなわち他人に倣った言動をしてしまうという危機

(3)消費することだけが文化になっていく危機。何もかも捨てようとする「保存の意志を失った人間生活」の危機

(4)世界とは何かということを深く理解しようとしない危機。いいかえれば、世界そのものからも疎外されているという世界疎外の危機

(5)人間として何かを作り出し、何かを考え出す基本がわからなくなっているという危機

人間の条件 (ちくま学芸文庫)
クリエーター情報なし
筑摩書房

振り返ってみると、この5つの危機は、互いに関連しあって新たな状況を生み出しながら、さまざまに形をかえて、いまも私たちのすぐそばにあるように思えてならない。
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