ことばと学びと学校図書館etc.をめぐる足立正治の気まぐれなブログ

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ジョン・デューイをどう読み、どう活かすか(3月の学校図書館自主講座へのお誘い)

2018年03月11日 | 「学び」を考える

  

 学校図書館に関わるメンバーが2015年から京都の町屋に集まってジョン・デューイの著作を読み合っている読書会の報告をします。これまでに読んできた『学校と社会』『経験と教育』『思考の方法』『論理学-探究の方法』『民主主義と教育』、さらに昨年翻訳刊行されたばかりの『デューイ・スクール―シカゴ大学実験学校:1896年~1903年』などをめぐって、それぞれのメンバーがジョン・デューイをどう読んだかを語り、日々の私たちの実践や、現代の教育課題にどのような示唆を得ることができるかを話し合います。
 読書会は、ひきつづき4月以降も『民主主義と教育』の下巻と『経験としての芸術』を読み進める予定です。

日時:3月18日(日)13:20―16:30

場所神戸市勤労会館 4階 会議室409 JR三ノ宮駅から東へ徒歩5分

語られる予定のテーマ
・『学校と社会』をどう読み、どう活かすか
・デューイの実験学校-学校の組織・構成員・評価など
・学校図書館学を学ぶ際にデューイをどう活かすか
・思考と表現、学習と教養、教育と学力
・思考の諸相-デューイのいくつかのキーワード再確認
・探究型学習とデューイ~論文指導における課題~
『経験と教育』をどう読み、どう活かすか
リフレクションについて

読書会のメンバー
足立正治(元甲南高等学校・中学校)、天野由貴(椙山女学園)、家城清美(元同志社女子中高)、梶木尚美(大阪教育大学附属池田高等学校)、中津井浩子(甲南高等学校・中学校)、平井むつみ(滋賀文教短期大学)、嶺坂尚(啓明学院中高)、山本敬子(小林聖心女子学院中高)

参加費は、500円です。

参加申込は、参加を希望される日と、氏名、所属、連絡先を明記の上、下記にメールで申し込んでください。holisticslinfo#gmail.com(#を@になおして送信してください)

  なお、当日は、この3月に出版されたばかりの『学校図書館はカラフルな学びの場』(松田ユリ子著、ぺりかん社、1500円プ+税)を著者割引(2割引き)でお求めいただくことができます。購入希望の方は、参加申し込みのメールに、その旨を書き添えておいていただけると有難いです。

学校図書館はカラフルな学びの場 (なるにはBOOKS)
 
ぺりかん社

 松田ユリ子さんは、神奈川県の学校司書として数多くの生徒たちや教師たちと関わって、学校図書館をかれらの学びと成長を促す場所とすべく、多彩な実践を重ねてこられましたが、その様子が本書にはイキイキと描かれています。それは、まさにジョン・デューイが『学校と社会』の中で描いた学校の中の図書室のすがたを、現代のわが国の学校において顕現させた一つの試みといえるでしょう。さまざまな立場から、なんらかのかたちで学校図書館に関わるわたしたちも、それぞれの学校や生徒や教師にとって欠くことのできない場所として、学校図書館の多彩な実践を生みだすヒントと勇気を本書から得ることができるでしょう。
「図書室は、子どもたちのさまざまな経験、さまざまな問題、さまざまな疑問、子どもたちが発見してきたいろいろな具体的な事実をもち込んでくる場所となるだろう。そこでは、以上のようなことについて議論がなされるとき、その議論の対象となるそれらのうえに新しい光が投げかけられるが、とりわけ他者の経験からくる新しい光、集結された世界の叡智-それは図書室に象徴されているものであるが―というものからの新しい光が、投げかけられる場所である」(ジョン・デューイ著・市村尚久訳『学校と社会・子どものカリキュラム』講談社学術文庫、1998、pp.151-152)

 

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自分の人生を自分で切り開いて生き抜く力を育む学習指導と学校図書館の在り方を考える(第5回「司書教諭資格付与科目」実践共有シンポジウムのご案内)

2016年11月15日 | 「学び」を考える

 

 今年の3月から立教大学と大阪教育大学で隔月に開いてきたシンポジウムの最終回「学習指導と学校図書館」が来る11月20日(日)に大阪教育大学(天王寺キャンパス)で開催される。

「人間にとって、とにかく一番重要なものは、自由なんだね。自らの判断で、自らの責任のもとで生きていく、それが大事なんだ。日本でも、もっと早い時期に、子供を一人前の大人とみなして、自らの意志で生きていくのが当然といったような、そんな社会になっていってほしいね」(「15年ぶりで三浦さんの歌声を聞いた時、風が優しく僕の頬を撫でていった。」山田博之、月刊 『Live Station』 Nov 1990)。

 これは、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーン、 レナード・コーエンなどの訳詞も手がけておられるフォークシンガー、三浦久さんのことばである。私はこれまで、折に触れて三浦さんの「うた」と「ことば」と「生き方」に魂を揺さぶられてきた。この一節は、カナダのシンガーソングライターで詩人、小説家としても知られるレナード・コーエンと三浦さんに触発されて2009年に書いた私のブログ「レナード・コーエン(Leonard Cohen):自分の人生は自分で生きるほかない引用したものだが、先日(2016年11月7日に)レナード・コーエンの訃報がもたらされたことで、あらためて思い返している。「私は、自分の人生を自分で切り開いて生きているだろうか。波風のたたない安易な生き方を求めていないか。無用な争いを避け、きまりを守り、世間の慣習にしたがうことばかりに腐心していないか。問題状況を安易に切り抜ける方法ばかりを考えていないか。そうしているうちに、しらずしらずのうちに生気を失っていないだろうか・・・この袋小路から抜け出す道は、ひたすら問いつづけること。いま見えている現実を問い直し、自分の考えや行動を問い直し、その前提となっているものを問い直すことだ」「私は教師として、子どもたちに自らの力で人生を切り開いて生き抜くことを教えているだろうか。失敗を恐れ、安全を求めて、手順やマニュアルを与えて、手とり足とり子どもの学びをコントロールしていないか。子どもたちが、大人の顔色に左右されないで、とことん自分の問題と向き合い、試行錯誤を重ねて自分の力で状況を切り開いていくのを、助けているだろうか」
 11月20日のシンポジウムでは、この問いを胸に刻みながら、学習指導において司書教諭が果たすべき役割を考えてみたい。

第5回:「学習指導と学校図書館」と全5回のまとめ

参加費は無料で事前申込も不要ですが、終了後の懇親会に参加を希望される場合は、あらかじめご連絡ください。

日 時: 11月20日(日)13:15-17:00

テーマ: 学習指導と学校図書館

報 告: 足立正治、家城清美、中村百合子

振り返り: 山本敬子さんに5回のシンポジウムを振り返っていただき、話し合いをします。

場 所大阪教育大学天王寺キャンパス 中央館416教室

懇親会: 今回は最終回でもあるので、会場近くのちゃんこ料理店(花さき じんの庵)で打ち上げを兼ねた懇親会をおこないます。17時30分から2時間程度、会費は5,000円です。懇親会に参加を希望される方は、11月16日中に下記のアドレスにメールで連絡してください。

holisticslinfo#gmail.com (送信される際には#を@に置き換えてください)

 

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第二回「学校図書館メディアの構成」に参加して(「司書教諭資格付与科目」授業実践共有シンポジウム)

2016年06月10日 | 「学び」を考える

 

 

二週間も前の話題で恐縮ですが、遅ればせながら報告させていただきます。

 先月末(5月28日)に行われた第二回「学校図書館メディアの構成」に参加した。自分がシンポジウムの企画にかかわっていなかったら、このテーマのために神戸から東京まで足を運ぶことはなかっただろう。いうまでもなくメディアの構成は図書館活動の核である。門外漢の自分は専門的な議論についていけないのではないか。それでも参加したいという魅力をこの科目に感じなかった、というのが正直なところである。そもそも図書館一般の議論には、一利用者として以上の関心がない。だが、この日のセッションで、そんな私の先入観は覆された。
 以下は、三人のパネリストのお話のなかから私が注目した部分を抽出して、まとめたものである。(実際に語られた記録は立教大学の”St. Paul’s Librarian”に掲載される予定なので、そちらをご参照ください)

 まず、吉田右子さんが、ご自身が所属しておられる筑波大学における教育実践の概要について、学部および講習における授業内容、授業方法、教材、さらにディスカッションやミニレポートのテーマとその扱い方などを、端的かつ明快に語ってくださった。この科目の全体像と教育方法を知ることができたことは、他の四科目と関連づけるための手がかりとなる。
 
つづいて、青山比呂乃さんは、千里国際学園におけるご自身の実践を紹介することで、学部の学生たちに学校図書館や司書教諭の役割と仕事を具体的に理解させようとしておられるという。一言でいえば「資料と利用者を結びつける」ということだが、これを青山さんは3つの観点から、それぞれ3つの要素、併せて9つの項目において捉えておられる。
 
まず、図書館の基本的な業務(サービス)として収集、整理、レファレンスを挙げ、これらの業務を遂行する過程で学校図書館専門職(司書や司書教諭)は、利用者を知る、資料を知る、情報リテラシーの育成を行うことが必要だ。総じて学校図書館メディアのコレクション(collection)は、コミュニケーション(communication)、カリキュラム(curriculum)とともに(3Cと呼ばれる)学校図書館活動の主たる要素を構成するというのである。
 
私は、十数年前の第一回のジャムセッションで千里国際学園の図書館を利用して資料探索をさせていただいたことがある。青山さんのお話を聞いていると、あのときの発見や気づきがよみがえってきて、実践の一貫性を再確認するとともに、語られる内容が深まりと広がりをもって伝わってきた。
 
三人目の中山美由紀さんのお話も、やはり実践に裏打ちされていて、具体的な事例をもとに授業を展開しておられる点で説得力がある。たとえば「選書から除籍まで」の一覧表は、実践者ならではの労作である。私は、かつて中山さんにいただいたこの表を「学校経営と学校図書館」の講習や授業で配布して、それぞれの作業過程を具体的に把握した上でマネジメントに活かしてほしいを伝えてきた。
 
また、中山さんは、コレクションの形成が提供の方法とも密接にかかわっていることから、「学校図書館メディアの構成」を「棚の作り方」や空間配置にまで広げてとらえようとしておられた。
 
三人のパネリストは共通して、分類の指導にあたっては、機械的に覚えさせるのではなく、何のために分類するのか、分類の意義や目的を分かって利用すること、利用をとおして理解を深めることを強調しておられた。
 
後半の質疑と討論では、件名や資料の配分比率も話題になった。
 
件名については、情報を絞り込むために使えることや、語彙指導と関連していることはわかるが、具体的に件名をどのように指導していくのかが知りたいところである。
 
資料の配分比率については、私は、かねてから「学校経営と学校図書館」の授業で取り上げてきた。実務者の直観だけでなく、数値を把握して、それがどのように形成されてきたものかを見なおし、具体的な資料と照合しながら経年的に観察・評価していくことでマネジメントに役立てることが必要ではないか。最後に、今回は話題に上らなかったが、学校図書館の予算(その請求と決定、執行のあり方)がコレクションの形成に影響していることも見逃せないだろう。限られた予算を学校図書館の目的を達成するために有効に活用するには、資料の購入計画と優先順位の決定、財産区分(消耗図書と資産図書の割合)などもふくめて、予算の立て方と執行方法に柔軟性をもたせ、その時々の現場の判断と裁量にゆだねられることが重要だろう。

 いま、こうして振り返ってみると、さまざまな問題が呼び起こされ、専門的な技術論に埋没することなく広く視点をひらく拡張性のある議論が展開されたという点で収穫が大きかった。さすがに研究や実践に裏打ちされた、専門家、専門職といわれる人の「目のつけどころ」は、生半可な知識の適用に頼ろうとする素人とは違う。

「これまで、図書館一般の議論を学校向けに適当にアレンジした程度のものだったこの科目を、全面的に学校図書館向けに再構成するべき」

 主催者の中村百合子さんには、そんな思いがあったそうだ。この日のセッションは、はたして「学校図書館の専門性」を確立するための一歩となったのだろうか。

 次回のシンポジウムは下記のとおりです。私は、もちろん参加します。

第3回:「読書と豊かな人間性」

日時:7月30日(土)13:15-16:00

発表予定:朝比奈大作、野口久美子、平井むつみ

場所:立教大学池袋キャンパス(7201教室)

 

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探究学習における省察(reflection)と協同(collaboration)-第8回学校図書館自主講座のご案内

2016年01月12日 | 「学び」を考える

 

 1月10日に行われた「学校図書館自主講座特別セミナーin神奈川」は、横浜の神奈川学園中高等学校図書館をお借りして、30名を超える参加者のみなさんとともに有意義で楽しいひとときをすごすことができました。休日にもかかわらず、朝早くから会場の準備をして私たちを迎えてくださった図書館スタッフの皆さんと、学校図書館とのコラボレーションによって組み立ててこられた教育実践について丁寧にお話しくださった先生方に心から感謝いたします。次回の自主講座では、この日のセミナーを振り返り、良かった点だけでなく、なぜ良かったのかを掘り下げ、さらなる疑問点や今後の課題についても考えたいと思います。
 ということで、盛りだくさんの第8回学校図書館自主講座(神戸)は下記のとおり行います。関心のある方は、おいでください。

日時:2016年1月31日(日)午後1時-4時30分

場所神戸市勤労会館 407号室

参加費:会場費その他の必要経費(参加者数によって異なりますが、一人300~500円程度)

問い合わせと参加申し込み:はじめて参加される方は下記までメールでお知らせください。

  学校図書館自主講座事務局 holisticslinfo#gmail.com (#を@に変更して送信してください)

プログラム:

はじめに:「省察とは何か」 足立 正治

 近年、ジョン・デューイの省察的(反省的)思考(reflective thinking)やドナルド・ショーンの省察的実践(reflective practice)が注目を集めています。古くは、ルネ・デカルトのMeditations on First Philosophyにも『省察』という訳語が充てられています。一方でreflectionには、反省、内省、熟考などといった訳語が充てられることもあります。いったい「省察(reflection)」とは何か。どうして、いま注目されているのか。家城先生のご発表に先立って、さまざまな活動分野で基本となる「省察」という概念を、クリティカル・シンキング(批判的思考)とも絡めながら整理したいと思います。

1.「探究学習に見られた反省的思考について-10年間の実践活動より」 家城 清美(同志社大学嘱託講師)

   -発表の概要と内容は下記をご覧ください-

(休憩)

2.「学校図書館自主講座特別セミナーin神奈川」を振り返る 参加メンバー

問題提起:「探究学習の成果をどのように評価するか」 足立 正治

 観察やポートフォリオによって探究のプロセスを評価するだけでなく、パフォーマンスや作品として発表された探究の成果をとおして、探究の目的やプロセス、取り組みの姿勢、学びの質などを評価し、今後の探究活動に活かす方法について、今後、皆さんの経験を持ち寄ってご一緒に考えたいと思います。(この問題提起は、時間の都合で次回に回すこともあります)


「探究学習に見られた反省的思考について-10年間の実践活動より」

Ⅰ 発表概要

 1998年の学習指導要領改訂により、同志社女子中学校・高等学校でも総合的な学習の時間が導入された。同志社女子中学・高等学校では図書・情報センターを活用した学習であった。高校3年を中心に以前より、探究学習には取り組んでいたが、中学1年から全校で、探究学習に長期期間取り組むのは初めてだった。2002年から2011年の10年間、全学年の総合的な学習の時間に司書教諭として参画し、担当教員と協働作業をしてきた中で、教員の想像を超えるような生徒の言動に巡り合うことがあり、印象深く今も記憶に残るものがある。当時どのように表現すればよいか戸惑ったものが、この自主講座の番外編としての読書会でJ・デューイの著書を読み進める中で、生徒たちの行動を言い表す言葉を見つけた。
 つまり、生徒の言動は反省的思考による結果だったと思い当たったのである。今回、10年にわたる総合的な学習の時間で、特に生徒の情報探索行動での反省的思考に焦点を当て、発表を試みる。

Ⅱ 発表内容

  1. はじめに 反省的思考と省察的思考―新たな訳語
  2. 同志社女子中学校・高等学校の総合的な学習の時間の概要
  3. 事例 中学2年
  4. 探究課題
  5. 授業計画―基礎から発展へ
  6. 担当教師と司書教諭の支援内容
  7. 生徒の授業中の様子
  8. 司書教諭のAssessmentに見られた問題となる生徒の情報探索行動と司書教諭による注意喚起
  9. 生徒の反省的思考による言動
  10. 他の学年に見られる反省的思考による言動
  11. 反省的注意を生み出す環境づくりとその要因
  12. まとめ

 

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次期学習指導要領とアクティブ・ラーニングをめぐって(第7回学校図書館自主講座のお知らせ)

2015年11月07日 | 「学び」を考える

 

 今年度の学校図書館自主講座(神戸)は、「探究的な学びと学校図書館の活用」をテーマとして、子どもの探究活動を促進する学校図書館、さらにはそのような学校図書館にかかわる専門職の学びの在り方について様々な側面から検討をつづけています。第7回目の自主講座は、文部科学省が次期学習指導要領への導入を目指しているアクティブ・ラーニングをとりあげて話し合います。


第7回学校図書館自主講座

日 時:11月29日(日)13:00~16:30

場 所新長田勤労市民センター
(JRまたは神戸市営地下鉄「新長田」駅下車南側すぐ)

プログラム:

報告と振り返り

1.大阪教育大学池田地区附属学校研究発表会」 報告者:梶木 尚美(大阪教育大学附属高等学校)

 11月21日におこなわれるこの発表会では、社会科教員と学校図書館員とのコラボによる小・中・高の公開授業と分科会があります。
 つながり、かさなり、ひろがる授業 ~「知」をはかる評価 ~

「問題解決力を磨くために何が必要なのか? パフォーマンス評価の導入によって、社会科的思考力や情報活用力はどのように獲得されるのか?教科のプロである社会科教員と、情報のプロである学校図書館員が、コラボレーションで取り組む探究型学習を提案します」
 参加申込(締切11月13日)はwebで行ってください。

2.「読書会 ジョン・デューイ『学校と社会・子どもとカリキュラム』第2回」 報告者:足立正治

 9月から京都でジョン・デューイの著作を読み合う読書会をスタートさせ、最初の2回は『学校と社会・子どもとカリキュラム』(講談社学術文庫)を取りあげました。次回は12月20日(日)に『経験と教育』(講談社学術文庫)を読みます。

発 表:

「次期学習指導要領とアクティブ・ラーニングについて」 話題提供者:浦井 康(奈良県教育委員会学校教育課)

 指導主事会における文部科学省の説明や研修会等で話し合われた内容などをもとに説明していただき、それをもとに、学校図書館の立場から、どのように関わっていけばよいのかを考える手がかりにしたいと思います。文科省の諮問などでよくわからないこと、導入にあたって危惧しておられることなどがありましたら、あらかじめお知らせください。

(参考)
初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について(諮問)

諮問の概要(PDF)
文科省の「用語集」におけるアクティブ・ラーニングの定義
学習指導要領改訂の方向性について(YouTube) 大杉住子(文部科学省教育課程課 教育課程企画室長)

以上、はじめて参加される方は下記までご連絡ください。
学校図書館勉強会(神戸)事務局
holisticslinfo#gmail.com (#を@に変更して送信してください)


第8回学校図書館自主講座の予定

 日程と会場は未定ですが、1月末か2月初めに神戸で下記のプログラムを予定しています。

・「総合的な学習の時間」における生徒の「反省的注意」の喚起について-同志社女子中学校での実践事例をもとに(家城清美)

・児童生徒の反省的思考を促す学校図書館専門職の省察的実践(足立正治)

 

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探究過程の可視化を考える:学校図書館自主講座「探究的な学びと学校図書館の活用」第6回のご案内

2015年09月19日 | 「学び」を考える

 

 下記のとおり第6回学校図書館自主講座を開催します。
今回は「探究過程の可視化」をめぐって、実践者と研究者それぞれの立場から話題を提供していただき、討議をします。

日 時 10月4日(日) 13:00~16:30

場 所 神戸市勤労会館 407号室

     市営地下鉄・JR・阪急・阪神・ポートライナー各三宮駅から東へ徒歩5分

テーマ 探究型学習の過程を可視化する意義とその課題

話題提供 嶺坂 尚(啓明学院中学校・高等学校)

     大作 光子(筑波大学大学院図書館情報メディア研究科) 


  学校図書館勉強会(神戸)では、今年度のテーマを「探究的な学びと学校図書館の活用」に設定して学校図書館自主講座を展開していますが、それと並行して随時、セミナーや読書会などもおこなっています。

・7月20日には、東京の日仏会館でフランスからお二人のドキュマンタリスト・教員をお迎えして特別セミナー「フランスにおける探究学習と学校図書館:現状と課題」をおこないました。

・9月13日には、京都でジョン・デューイの著作を読み合う読書会をスタートさせました。第一回目は『学校と社会・子どもとカリキュラム』(講談社学術文庫)を取りあげました。第二回目は10月25日(日)に開催します。引き続き『学校と社会・子どもとカリキュラム』の内容を総括し、以下のようなことを話し合う予定です。

今後の自主講座、セミナー、読書会などに関する問い合わせ及び、新たに参加を希望される方は下記までご連絡ください。
学校図書館勉強会(神戸)事務局
holisticslinfo#gmail.com (#を@に変更して送信してください)

2015年度 これまでの学校図書館自主講座

第一回 キックオフ 学校図書館で育む「本物の学び」

第二回 学力下位校における探究型学習と学習意欲

第三回 探究型学習でつけたい力

第四回 “探究的な学び”に必要なもの:学校図書館の読書教育の在り方を考える

第五回 1.探究(型学習)と学校図書館づくり 2.アクティブラーニングにおける高大連携とは?-今、大学生が本当に知りたいこと-

 

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学校図書館の読書教育の在り方を考える(自主講座「探究的な学びと学校図書館の活用」第4回のご案内)

2015年05月31日 | 「学び」を考える

 

 学校図書館勉強会(神戸)が主催する学校図書館自主講座「探究的な学びと学校図書館の活用」の第4回を下記のとおり行います。
 テーマに関心のある方は、どなたでも参加していただけますが、初めて参加される方は、あらかじめ下記までメールでご連絡ください。

学校図書館勉強会(神戸)事務局
holisticslinfo#gmail.com (#を@に変更して送信してください)

学校図書館自主講座「探究的な学びと学校図書館の活用」第4回のご案内

日時:6月7日(日)13:00~16:30

場所:神戸市勤労会館 307号室

プログラム:「“探究的な学び”に必要なもの:学校図書館の読書教育の在り方を考える」

話題提供:平井むつみ(滋賀文教短期大学)

平井さんのお話をもとに、参加者同士で話し合います。「探究的な学び」を支える読書教育について、皆さんの実践やお考えをお聞かせください。

平井むつみさんからのメッセージ

 今、学校においては、以前に比べて探究的な学習が行われる機会が増え、その学習を支援する方法についても知られるようになってきました。しかし、その一方で、資料を手にしても読みこなせない、また、子どもたちが「調べる学習」にならず、往々にして「調べさせる学習」になっている、という現実もあるように思います。
 「探究的な学習」は、そのもっとも基礎的な部分にあるのはリテラシーであり、それが前提となって成立する学習であると考えられます。そして、子どもたちがリテラシーを身につけるには国語教育と読書活動、ということは文科省の報告をはじめ、様々なところで述べられています。
 また、「自ら学ぶ姿勢」のありように関しては、1998年に発表された米国の学校図書館基準の中にある「児童生徒の学習のための情報リテラシー基準」の「自主学習」にも示されていますが、そこには「有能で、意欲的な読者である」という指標(基準5)が示されています。「自ら学ぶ姿勢」と「読書」とはどのように結びついているのでしょうか。
 学校において「読書」の扱われ方は、ここ十五年ほどの間にずいぶん変化しました。特に一斉読書や読み聞かせの普及状況などは二十年前には考えられなかったものであると思います。しかし、今までの学校における読書教育は、子どもたちがリテラシーや「自ら学ぶ姿勢」、あるいは生涯にわたる読書習慣を身につけるのに十分なものであったでしょうか。学校における読書活動が活発になったといわれるなかで学校教育を受けた人々がすでに成人になっている今、学校で行われてきた読書教育を再検討すべき時期に来ているのではないかと思っています。
 「探究的な学習」で子どもたちが身につけるものが、子どもたちがこれからの社会を生きるのに必要なものであり、その中心にあるリテラシーや自ら学ぶ意欲といったものを培っていく上で読書が重要な役割を果たすとするなら、どのような読書活動によってそれは培われるのでしょうか。そのことを検証し、今後、学校図書館として、どのような読書教育を提案、提供していけるのかを考えたいと思っています。

第5回のご案内

日時:7月26日(日)13:00~16:30

場所:神戸市勤労会館 307号室

プログラム:学校図書館で探究型学習をどう支えるか

話題提供:山本敬子

 環境づくり(ネット情報へのアクセスも含めたコレクションマネジメント)、生徒一人ひとりへの支援(レファレンス・インタビュー)、授業支援(グループを対象とした情報リテラシー育成プログラム)の三点を中心に、できれば教員へのレファレンスや情報提供についても。

これまでのテーマについては下記をご覧ください。

第1回(キックオフ):学校図書館で育む「本物の学び」

第2回:学力下位校における探究型学習と学習意欲

第3回:探究型学習でつけたい力

各回のまとめと資料はこのプログラムにご参加くださった皆さんに提供させていただきます。

なお、すべてのプログラムが終了したあと、総括したものを公表させていただく予定です。

 

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探究型学習でつけたい力(自主講座「探究的な学びと学校図書館の活用」のご案内)

2015年05月21日 | 「学び」を考える

 

 学校図書館勉強会(神戸)が主催する学校図書館自主講座「探究的な学びと学校図書館の活用」の第3回を下記のとおり行います。
 テーマに関心のある方は、どなたでも参加していただけますが、初めて参加される方は、あらかじめ下記までメールでご連絡ください。
   学校図書館勉強会(神戸)事務局
   holisticslinfo#gmail.com (#を@に変更して送信してください)

日時:5月24日(日)13:00~16:30

場所:新長田勤労市民センター 会議室1
(JRおよび神戸市営地下鉄「新長田」下車すぐです)

プログラム1:「探究型学習でつけたい力」

話題提供:河野隆一(関西学院中学部教諭)

 1.学校教育で求められている力

 2.探究型学習でつける力

 3.学校の特色に応じて

 皆さんの学校における探究型学習の取り組みの概要を紹介していただける場合は、A4用紙一枚程度にまとめたファイルをメールに添付して事務局まで送っていいただければ、ありがたいです。

プログラム2:「学校図書館ジャムセッションから専門職の学びを考える」

話題提供:足立正治(大阪樟蔭女子大学非常勤講師)

 2002年から2009年にかけて開催された6回のジャムセッションを振り返って、学校図書館と探究的な学びに関わる教職員の能力開発におけるワークショップの可能性について考えます。 

6月と7月の日程は下記のとおりです。

第4回

日時:6月7日(日)13:00~16:30

場所:神戸市勤労会館 307号室

プログラム:「“探究的な学び”に必要なもの:学校図書館の読書教育の在り方を考える」

話題提供:平井むつみ(滋賀文教短期大学)

 探究的な学習で子どもたちが身につけるものが、子どもたちがこれからの社会で生きるために必要なものであり、その中心にあるリテラシーや自ら学ぶ意欲といったものを培っていく上で読書が重要な役割を果たすとするなら、どのような読書活動によって、それは培われるのでしょうか。そのことを検証し、今後、学校図書館として、どのような読書教育を提案、提供して行けるのかを考えたい。

 第5回

7月26日(日)13:00~16:30

場所:神戸市勤労会館 307号室

プログラム:「学校図書館で探究型学習をどう支えるか」

話題提供:山本敬子

 環境づくり(ネット情報へのアクセスも含めたコレクションマネジメント)、生徒一人ひとりへの支援(レファレンス・インタビュー)、授業支援(グループを対象とした情報リテラシー育成プログラム)の三点を中心に、できれば教員へのレファレンスや情報提供についても。

第1回と第2回のテーマについては下記をご覧ください。

第1回(キックオフ):学校図書館で育む「本物の学び」

第2回:学力下位校における探究型学習と学習意欲

各回のまとめと資料はこのプログラムにご参加くださった皆さんに提供させていただきます。
なお、すべてのプログラムが終了したあと、総括したものを公表させていただく予定です。

 

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学校図書館自主講座「探究的な学びと学校図書館の活用」第2回のご案内

2015年03月29日 | 「学び」を考える

 

 下記のとおり学校図書館自主講座「探究的な学びと学校図書館の活用」の第2回を開催します。

日時:4月5日(日)13:00~16:30

場所:神戸市勤労会館 (講習室406)

プログラム:

1.「ぴっかり図書館って?」
話題提供:1月11日「場所としての学校図書館勉強会」の参加者&松田ユリ子

「場所としての学校図書館勉強会」では、1月11日に神奈川県立田奈高校図書館(愛称「ぴっかり図書館」)を訪問して、「ぴっかりカフェ」の報告を聞いて話し合いました。そこに参加された皆さんがどのように受けとめたかをフィードバックしていただきます。

2.「学力下位校における探究型学習と学習意欲」
話題提供:松田ユリ子(神奈川県立田奈高校図書館司書)

「ぴっかり図書館」を拠点として展開されている田奈高の探究型学習に関する事例研究について司書の松田ユリ子さんに報告していただき、生徒の学習意欲を高める要素について話し合います。

3.「ワークショップによる専門職の能力開発~学校図書館ジャムセッションを振り返る~」
話題提供:足立正治(大阪樟蔭女子大学非常勤講師)

2002年から2009年にかけて開催された6回のジャムセッションを振り返って、学校図書館と探究的な学びに関わる教職員の能力開発におけるワークショップの可能性について話し合います。

主催:学校図書館勉強会(神戸)

☆ テーマに関心のある関係者はどなたでも参加していただけます。はじめて参加を希望される方は下記までご連絡ください。
holisticslinfo#gmail.com (#を@に変更して送信してください)

5月以降のテーマは下記のとおりです。

☆5月24日(日)「探究型学習でつけたい力」話題提供:河野隆一さん(関西学院中学部教諭)

☆6月(日は未定)「自主的学習と読書」話題提供:平井むつみさん(滋賀文教短期大学講師)

*詳細は追ってお知らせします。

自主講座「探究的な学びと学校図書館の活用」のご案内

 自主講座では、「探究」をキーワードにして(1)、近年、活動理論との親和性も注目されているジョン・デューイの教育観を再検討し(2)、現代の教育課題に応える学びのあり方と学校図書館の関わりを、いくつかの側面から総合的に捉えて探究したいと考えています。たとえば、ひとつは、空間と資料と人が有機的に関わりあう学びの「場所」(知能環境あるいは学びの広場)として学校図書館をどのように整備するか、ふたつ目は、多様なリテラシーの基盤となる情報やメディアのリテラシー(あらゆる形態の情報やメディアを選択、評価、活用する力)をどのように育むか、そして、もう一つは、探究活動を進めていく思考と感性をどのように培っていくか。
 
「いかに教えるか」ではなく、子どもの学びに寄り添うことを軸にして(3)、皆さんの経験を持ち寄って、実際に生徒の意欲を掻き立て、気づきや学びをもたらした経験や、逆に生徒の意欲を削いだり、失敗した経験なども話し合いたいと思います。具体的な実践知を共有することで、探究的な学びに関わる教師及び学校図書館職員の能力開発や司書教諭のリカレント教育のプログラムを提案する(4)ことができればいいと考えています。職種や経験を問わず、私たちの試みに賛同して能動的に参加してくださる皆さんのお越しをお待ちしています。

メモ:
(1)「探究」は英語ではinquiry(問いをもって調査すること)だが、「問いをもって調べ、考え抜くこと」ととらえたい。ざっくりした定義だが、問題解決学習、プロジェクト学習、アクティブ・ラーニングばかりでなく、「問いをもって調べ、考え抜く」活動は、すべて「探究的な学び」の機会としたい。  
(2)「探究」「問題解決学習」「アクティブ・ラーニング」「反省的思考(熟考)」といった概念を、デューイの教育哲学とのかかわりのなかで考えたい。デューイは『学校と社会』で学校の中心に学校図書館を位置づけたが、その前提となる公教育の基本的な考え方が『民主主義と教育』の第一章にある以下のことばに凝縮されている。
「生存のために自己を変革する教育はコミュニケーションをとおして行われる。コミュニケーションとは、経験を分かち合って共通の財産とする過程であり、それに参加する双方の当事者の資質を変えるものである」(訳は足立)
(3)「教えない」ことは、何もしないことではない。ガイド、介入者(助言者)、触媒など・・・探究者のロールモデルとしての教師の存在意義も大きい。子どもたちは教師の態度を微妙に察知して学んでいる。探究的な学びに関わる指導者のあり方を考えたい。
(4)継続して1年くらいつづけて、話し合ったことをもとに学校図書館に関わる教職員の能力開発やリカレント教育のプログラムを提案することをひとつの目標としたい。

 

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「総合的な学習の時間」から考える「本物の学び」

2014年12月10日 | 「学び」を考える

 

(久しく学校現場を離れていると学校教育をめぐる昨今の状況が気になって仕方がありません。言わずもがなの議論ですが、老人の繰り言とご容赦ください)

「総合学習は私たちの本気を引き出してくれた」
 もう一か月も前のことだが、11月12日付け毎日新聞朝刊に掲載された「記者の目:総合学習のいま」の冒頭に目を見張った。今春から公立小学校の教壇に立つ女性教諭のことばである。小学校での「総合的な学習の時間」で自らの引っ込み思案を克服した経験をもつ彼女は、そのときに体験した「感動、達成感、生きた学び」を「今の子供にも伝えたい」と教師になったという。
 記事はつづいて、2014年度の全国学力テストの分析結果を取り上げている。総合学習で「自ら課題を立てて情報を集めて整理し、発表する」、いわゆる探究型学習に「取り組んだ」小学6年児童は、国語B問題(応用)の平均正答率が62・4%で、「取り組まなかった」児童の43・7%にくらべて約19ポイントの差がついた。算数Bも19ポイント差、中学3年の国語B、数学Bでも11〜13ポイントの差があった。この結果は、(総合学習によって学力が向上したとはいえないまでも)探究型学習を遂行する能力と全国学力テストのB問題が求めている学力との間に高い相関があることを示している。
(注:全国学力テストのA問題は主として基本的な知識・技能を問い、B問題では「知識・技能等を実生活の様々な場面に活用する力や,様々な課題解決のための構想を立て,実践し,評価・改善する力など」が問われる)
 記事はさらに、東京大学が16年度の文学部の入学者選抜から導入する推薦入試の応募要件に「総合学習の成果物の提出」を例示したことにも触れて、総合学習が、これからの学校教育で期待されるツールであるとしている。
 これまで「ゆとり教育」批判の中で学力低下の一因とされることが多かった「総合的な学習の時間」だが、その成果と意義に着目するこの記事に大いに励まされた。
 学びの結果として学力テストの点数が向上し大学入試に役立つのは悦ばしいことだ。だが、その一方で結果や成果ばかりに目を奪われて学び本来の目的を見失ってはいけないと思う。「総合的な学習の時間」は、上辺だけのおざなりな実践が批判の的になってきたことも事実だ。ただ子どもたちが体験し、調べて発表すれば、おのずから「生きる力」がつくのではない。子どもたちが学ぶ意味を実感できてこそ、強いインパクトをもって知識や技能を身につけることができるし、もっと学びたいという意欲も生まれる。そのために欠かせないものは何か。子どもたちが「感動、達成感、生きた学び」といった実感をともなって人間的に成長していく「本物の学び」(authentic learning)を経験するために、教師は指導にあたって何を大切にすればいいか。自分の教師経験を振り返ってみると、以下の3点に集約できそうだ。

「関わる」 まず、自分の身の回りの出来事にしっかりと触れる。社会生活や自然の営みのなかで起こっていることを自分との関わりにおいてとらえる。そこで気づいたこと、驚いたこと、不思議に思ったこと、矛盾を感じたこと、疑問をもったことなどが学びの原動力となる。自然に触れて、その神秘や不思議に目を見張る感性のことをレイチェル・カーソンは「センス・オブ・ワンダー」と呼んだが、自らの感受性を高めて環境から発せられる情報を感知し、ことばにならない感覚や感情を受けとめることがあらゆる学びの出発点となるだろう。

「考える」 自分がすでにもっている知識や手に入れることのできる情報を総動員して考える。結論や成果を急がず、広い視野に立って多様な観点から問題を掘り下げる。「よりよく問題を解決する」には、自己中心的・集団中心的な思考におちいらないことが大切だ。自分や自分の所属する集団の価値観や利害を守ることを最優先にしてものごとを考えない。そのためには対話が必要だ。対話は、ただ話し合うことではないし、説得や自己主張の応酬でもない。相手の話をよく聞いて自分の考えを深める。他者ばかりでなく自分を相手に対話することも必要だ。本を読み、自然や物に触れても、それらを相手に対話することができるだろう。対話をとおして自分の思考過程を省みながら、より良い方向に導いていくこともできる。クリティカル・シンキング(critical thinking)と呼ばれる、この思考法については、私が師事したリチャード・ポール(Richard Paul)とリンダ・エルダー(Linda Elder)による「思考の枠組み」が参考になる。(ちなみに、私が最初にクリティカル・シンキングに触れたのは、20世紀初頭にアルフレッド・コージブスキーが開発した「一般意味論」であり、今も多大な恩恵を受けている)

「超える・破る」 学習過程のあらゆる局面に立ちはだかる壁を打ち破り、乗り越える。身をもって関わることや深く考えることへの「抵抗感」。既成の概念や常識、自己中心的な考えへの「囚われ」。能力、気力、体力の「限界」。制度や社会慣習、人間関係などから来る「プレッシャーやストレス」など、さまざまな「行き詰まり」や「挫折」を乗り越えて局面を打開し、道を切り開くには、学び合う仲間と助言や励ましをあたえてくれる指導者の存在がこの上ない助けになる。現実社会の複雑な問題を解決するには、多様な個性と役割をもった人たちが参加して集団としてのパフォーマンスを向上させることが必要だ。他者と協力して壁を乗り越える経験を個人の資質や能力の向上に役立てることもできる。こうして学校の中に、失敗を許容しながらお互いの学びを支え合って壁を克服する「文化」を育んでいくことが、生涯にわたる学びの基盤を形成していくことになるだろう。

 子どもたちが日々の生活の中で身をもって感じとった疑問や問題を自分の力で考え抜き、さまざまな壁を乗り越えて、新たな気づきや発見をもたらし、新たな知識の構築や創造にいたる。そのためには、まず手もちの知識や技能を総動員して課題に立ち向かうことが大切だ。安易に誰かに解を求め、検索に走ることは、考えることを停止させ、学びを疎外することになりかねない。教師は、子どもの学びに寄り添って、その活動を見守り、子どもの話をよく聞いて、どの段階で、どのような介入をすべきかを判断しなくてはならない。そして、子どもたちが自ら行き詰まりを打開できるように、ただ励ますだけでなく、別の観点を提示し、良質な情報源につなぎ、対話を促すことが必要だ。
 では、子どもたちに「本物の学び」を促す「総合的な学習の時間」をつくるために学校は、どのような体制をとるべきか。カリキュラムにどのように位置づけて、どのような指導をおこなうか、教師の力量をどのように担保し、準備と実施にどれほどの時間と労力をかけるか、教科や職種を超えた教職員間の同僚性の構築と協働をどのように進めるか・・・課題は多いが、教師自身の能力開発が鍵になることは間違いないだろう。

次回は「総合的な学習の時間」における学校図書館の働きについて考えたい。

 

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『もりのなか』のなぞ("大人のための絵本サロンスペシャルin勝沼"を振り返る3)

2013年10月27日 | 「学び」を考える

 

遊びに満ちた、アートとしての学びを求めてpart3

 報告の続きです。今日は細かいところにこだわります。こうして、ふだんは見すごしてしまうようなところで立ち止まって考えていくと、いろんな気づきや発見があるものです。少し長くなりますが、お付き合いください。

 『もりのなか』の作戦が終わった後、青柳さんから、ひとつの問いかけがあり、それについて話し合った。

もりのなか (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)
マリー・ホール・エッツぶん・え、まさきるりこ訳
福音館書店(1963)

 この本の中ほどに、こんなページがある。見開きの左のページには、森の中の大きなテーブルを囲んで動物たちがおやつを楽しんでいる様子が描かれていて、

しばらくいくと、だれかが ぴくにっくをした あとが ありました。
そこで ぼくたちは、ひとやすみして、ぴーなっつや じゃむを たべました。
また、そこにあった、あいすくりーむや おかしを たべました。」

とある。
 右側のページでは、動物たちが輪になって遊んでいる。

それから、“はんかちおとし”を ひとまわり しました。」

 問題は、左側のページ。ピーナツやジャムは、自分たち(二匹のくまさん)がもってきたものなので、分け合って食べるのはいいとして、アイスクリームやお菓子は、先に来た人が「食べ残し」ていったものじゃないの? という子どもがいるというのである。絵をよく見るとケーキはまるごと置いてあるし、そばには樽型のアイスクリーム製造器が描かれていて、「食べ残し」には見えない。それでも、だれかがピクニックをしたあとに「残していった」(と思われる)ものを食べるのは抵抗があるのではないか?

(画像をクリックしてください)

 この問いかけについて山本敬子さんは、以下のように報告しておられる。(全文はこちら

「さて、今回は大人同士ならではの話し合いも加わりました。これは青柳さんが子どもたちの反応から深く考えるようになったことだといいます。
 本のなかで、だれかがピクニックしたあとがあり、主人公たちはそこにあったケーキやアイスなどを食べるという記述があるのですが、こどもたちはこの部分に違和感をもつのだそうです。確かに私も最初に読んだときに、食べ残しを食べたの!?という驚きがありました。他人のものを許可を得ずに食べるということに対する抵抗感があったこと、また自分ならケーキは全部食べて帰るぞと思ったのです。
 絵を見る限り、ケーキは完全なラウンド型を保っており、食べ残しには見えません。それに、本の展開のなかでこの部分だけが主人公以外のリアルな人間の存在を感じさせ、やけに生々しいのです。主人公たちを迎えてくれている森に、姿は見えねどすでに先客がいて、何かを食べ残していった…。主人公たちが森や大いなるものかから祝福されているという感覚が絵本全体から感じ取れるのですが、その感覚と相容れない「残念な感じ」があるのです。
 この違和感について参加者で話し合った後、青柳さんは原著を紹介します。なんと原文では、誰かのピクニックの後だなんて書かれていないのです…!」

In The Forest (Picture Puffins)
Marie Hall Ets
Penguin Books(2006)

 この本には、こんな風に書かれている。

We came to a place made for picnics and games
So we stopped and ate peanuts and jam-
And some ice cream and cake that were there.

 これを文字どおり日本語に直すと、おおよそ以下のようになる。

ぼくたちは、ピクニックやゲームをするのにちょうどいい場所にやってきました。
そこで、ぼくたちは一休みして、ピーナツやジャムを食べ、
そこにあったアイスクリームとケーキも食べました。

 最初の文のmade forは「~のためにつくられている」「~にうってつけの」という意味で、「だれかがピクニックをした後」にあたる表現は見あたらない。これでは、どうしてそこにアイスクリームとケーキがあったのか分からない。そこで、翻訳者は、誰か先客がいて、その人たちが置いていったと解釈するのが合理的だと考えたのだろうか? だが、非合理な世界で、さまざまな想像をめぐらすのもファンタジーの世界に遊ぶ楽しみではないか。ケーキやアイスクリームは、男の子のために、誰かが用意してくれていたと考えることもできる。森の精とか、神様とか、両親とか・・・誰かが男の子を祝福してくれている・・・と読むこともできる。
 青柳さんは、松居直さんの『絵本編集者の眼‐エッツ『もりのなか』を読む』 (かわさき市民アカデミー講座ブックレット、2003.4)も調べてくださったが、このページに関しては「アイスクリームが融けてしまうのではないか」という疑問にたいして、アイスクリーム製造器が描かれていることを指摘しておられるだけで、この訳にいたった経緯については書かれていないという。

 家に帰って調べてみたら『もりのなか』の中国語訳が出ていることが分かった。

In the Forest(中国語)
Marie H. Ets
Er Shi Yi Shi Ji/Tsai Fong Books(2008)

 さっそく調べてみると、

我们来到一片可以野餐和游戏的空地。
(ぼくたちは野外で食事とゲームができるスペースにやってきました。)
大家停下来、吃起了花生、果酱‐还有冰激凌和蛋糕
(みんなは一休みして、落花生とジャムを食べ始めました‐アイスクリームとケーキもありました)

とある。原文に即した訳で、「だれかがピクニックをした後」とはなっていない。本の帯には「日本絵本父松居直先生 最钟愛的经典之作」(日本絵本の父である松居直氏が最も愛する古典)」と大書してあるが、松居さんはこの中国語版をご覧になっただろうか?
 ひとつ気になるのは、日本語版の表紙が茶色なのに、英語版も中国語版も表紙は緑色であることだが、じつは1944年の初版はハードカバーで茶色だった。日本語版はこれに倣った。

In the Forest
Marie Hall Ets
Viking Juvenile(1944)

 ペーパーバックとは内容が違っているのだろうか? 初版は見ていないが、内容の一部が書き換えられたという記録は見あたらない。

In the Forest by Marie Hall Ets (by Marie Page)

 では、この部分は、原文に近くなるように「ピクニックやゲームをするのにちょうどいい場所」とか「ピクニックができるところ」、あるいは「ピクニックをするために用意された場所」とするべきだろうか? 一般的に翻訳は原文を文字通りに訳せばいいというものではないし、そもそも訳者の解釈を抜きにした訳というものはありえない。しかも、『もりのなか』の対象年齢は「読んであげるなら2才から、自分で読むなら小学低学年から」となっていて、その年齢層の子どもたちが耳できいただけで具体的な場面をイメージしやすいように、ことばの選び方や並べ方を工夫しなくてはならない。問題の箇所が「ぼくたちは、・・・にやってきました」ではなく「しばらくいくと、・・・が ありました」となっていたり、「ぴくにっくとげーむ」でなく「ぴくにっく」だけになっているのも、そういったことを考慮してのことだろう。いま考えると「けーき」は「おかし」に変えなくてもいいように思うが、この本が翻訳された1963年当時の子どもたちの感覚が反映されているのかもしれない。さらに、やっと平仮名を読めるようになった子どもが読みやすいように、分かち書きにしてあることも大事だ。意味のかたまりを一目で読み取れるように、どこで区切り、一区切りの長さをどれくらいにするか。このページでは一区切りが最大で8文字になっている。こうしたことを考え合わせると、「しばらくいくと、だれかが ぴくにっくをした あとが ありました」というのは、よく吟味された表現であることが分かる。これを凌ぐ代案を考えることは大きなチャレンジといっていい。それでも、原文の表現から大きく外れないで、しかも子どもたちに「食べ残し」をイメージさせないために、どんな表現が可能かを話し合ってみる価値はあるだろう。

 さて、こうして、われわれ大人が、この絵本に込められた原作者の意図を読み解き、翻訳の在り方を考え、より原文に近い適切な代訳を考えることとは別に、ぼくは個人的には、長く親しまれてきた日本語版の『もりのなか』は、そのままの形で受け継いでいってほしいと思う。そして、もしも子どもたちが「誰かが残していったものを食べるの?」という疑問をもったら、絵をよく見て、けっして「食べ残し」とは言えないことを確かめた上で、「じゃあ誰が用意してくれたのだろう?」と問いかけて、いろんな可能性を考えてみてはどうだろう?

 そして、誰か先に来た人が後から来る人のために残しておいてくれたと想像したとしても、子どもたちは、他者からの無償の贈与(純粋贈与)という、常に見返りを求める現代の交換経済(等価交換)とは異なる価値に触れることによって、温かく祝福に満ちた幸せな感じを受けるにちがいない。  

 

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現代の虚無に立ち向かうファンタージエン("大人のための絵本サロンスペシャルin勝沼"を振り返る2)

2013年10月22日 | 「学び」を考える

 

遊びに満ちた、アートとしての学びを求めてpart2

 早いもので、勝沼の「大人のための絵本サロンスペシャル」から1週間がすぎた。夢のような二日間だった。日常生活の連続から抜け出して、すっかりファンタジーの世界に入り込んでしまっていた。
 日常的に本を読む機会は多いほうだ。読んだ本について誰かと話し合ったり、一冊の本をじっくりと読むために読書会をすることもある。だが、絵本や児童文学を手に取ることは、めったにない。優れた絵本や児童文学が大人にとっても何か大切なものに気づかせてくれる働きがあることは知っていても、子どもも孫も成長して、日常的に子どもに接する機会がないと、わざわざ自分のために読もうとは思わない。おそらく、多くの大人にとって「絵本」は、非日常的なメディアだろう。
 青柳啓子さんが「大人のための絵本サロン」をやっておられると知ったとき、心が動いた。学校や家庭ではなく、街のイタリア料理店で大人が絵本を読んで語り合うという! 余暇を楽しむのにさえ寸暇を惜しまなくてはならないご時世に、なんという贅沢な時間の過ごし方だろう! ぜひ参加してみたいと思ったが、絵本サロンが開かれる日に神戸から甲府まで足を運ぶ余裕はなかった。
 アニマシオンの手法がもちいられていることが、一つの鍵になると思った。「読書へのアニマシオン」は、子どもの自発的な読書を促すために開発された知的な遊びである。75の作戦が用意されていて、本を読み解くために必要な、さまざまな力が鍛えられるようになっている。作戦は遊びのルールであり、いろんな作戦を重ねるうちに本を総合的に読み解く力が身につくようになっている。まず、アニマドール(アニマドーラ)と呼ばれる人が、本を選び、どの作戦をどんな風に展開するかを考えて、「この本で遊びたい人、この指とまれ!」と呼びかける。アニマドール(アニマドーラ)は、ただ活動を「仕掛け」たり指示を出して「やらせる」だけではない。読み手の思考と想像力を活性化する、いわば触媒のような働きをする。そのために作品を丁寧に読み込み、周到に準備をしなくてはならないが、同じ題材を同じ作戦でやっても、毎回、新たな気づきがあり、読みが深まるという。
 定年退職後に時間的な余裕ができたので、青柳さんにお願いして絵本サロンのスペシャル版をやっていただくことにした。その三回目に当たる今回は、青柳さんだけでなく、何人かが入れ替わってアニマドーラを引き受けてくださった。三回を通してスタッフに加わってくださった山本敬子さんは、今回の経験を、こんな風に振り返っておられる。(セッションの詳しい報告は、こちらでご覧ください)

「作戦の最後に本を見ると、絵に対する集中力が増し、それまで気づかなかったことが見えてきます。単に見落としていたものだけでなく、話の展開と合わせて絵を見ることでより内容を深く理解でき、疑問点も出てきます。なぜこの場面でこのアイテムが描かれるのか、どうして登場人物はこんな行動をとったのか、など」
「何より楽しい。自分ひとりでは気づかないことを知ることができる。同じものを見ていても感じ取ることが人によってちがうと体感できる。一人の発言に触発されて新しい気づきがさらに生まれる。それぞれのちがいを感じながら話題や気づきを共有しているという安心感と刺激がほどよくあわさる創造的な場。読解力向上に加えて、これがアニマシオンの魅力でしょうか」

  

  
画像をクリックしてください)

 アニマシオンの作戦を手順よく忠実にこなせば、このような経験ができるというわけではない。技術(テクニック)を超えた何かが必要だ。それが場所やスケジュール、参加者など、さまざまな要因の相乗効果によってもたらされるものであることは言うまでもない。とりわけ、そこに集う多様な参加者が、協力的(相互作用的)な関係の中で、快感と学びに向かう意思と呼吸を共有することができればいい。それにはアニマドール(アニマドーラ)の感受性とリーダーシップが求められるが、「先生」や「指導者」というより、ともに遊び、学び合う仲間といった存在であるほうが上手くいくようだ。
 今回はドイツ人のイーバルト・ラルフさんが参加してミヒャエル・エンデの『モモ』と使った作戦をやってくださったことも大きな要因になっている。ラルフさんはドイツ語版と日本語版の2冊の『モモ』を用意しておられたが、どちらにも、たくさんの付箋がついていて、メモがびっしりと書き込まれていた。ラルフさんは、アニマシオンの作戦をもちいて、この作品を私たちの生きている現実世界と関連づけて読み解くメディア・リテラシーの実践とする可能性を探っておられるのだという。
 イーバルト・ラルフ(Ibald Ralf)さんの名前を聞いたとき、ぼくは、ほぼ反射的にラルフ・イーザウ(Ralf Isau)を連想した。『暁の円卓』などの作品で知られる現代のファンタジー作家である。なかでも『ファンタージエン 秘密の図書館』は、ミヒャエル・エンデが『はてしない物語』の中でもちいた場面設定を借りて、二十一世紀の新たな「虚無」に立ち向かおうとした作品だという。そのイーザウ氏のことばを、ぼくは自分のブログに引用したことがある。(「読書へのアニマシオンはクイズか?」2006年8月21日)
 2005年に来日中のイーザウ氏に対する読売新聞のインタビュー記事は、すでにネットから削除されているが、別のサイトに転載されていたのを、ここに再々転載させていただく。

「エンデ氏は、商業主義や効率主義で人間の想像力が危機に瀕(ひん)していることを訴えた。現代の新しい虚無は、コンピューターの発達や情報の氾濫(はんらん)による創造力の危機だと思う。人間の魂に精気を吹き込む芸術や文化の創造力が衰えていると感じます」(読売新聞、2005年11月14日「IT社会の新たなる虚無」) 

 ぼくは、このことばに共感して、上記のブログに「読書へのアニマシオンは、いまや学校にも蔓延しつつあるそのような虚無に立ち向かう活動のひとつともいえるのではないか」と書いた。
 
何よりも、その場に身を置いているのが心地よい。新しい発見や気づきを楽しんでいるうちに、こわばった「こころ」と「からだ」をほぐれていく。そんな「大人のための絵本サロン」は、現代社会にファンタージエンを回復する、ささやかな試みなのかもしれない。ぼくにとって、勝沼の絵本サロンは「読書へのアニマシオン」が大人にとっても意味のある学びの場を生み出すことを再確認する機会になった。学校や企業、公共の団体といった組織によって提供される勉強や研修からは得ることのできない、「学びたいことを学ぶ場を自らつくる」楽しみと充実感を、これからも、いろんな人たちと分かち合いたいと思う。

 

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遊びに満ちた、アートとしての学びを求めてpart1(大人のための絵本サロンスペシャルin勝沼を振り返る)

2013年10月15日 | 「学び」を考える

 

 台風の影響で雨模様の今日とちがって、さわやかな秋晴れに恵まれた13日と14日に第3回大人のための絵本サロンスペシャルが開かれた。参加者は、勤務の関係で途中から合流された人も含めて18名。神戸、奈良、群馬、神奈川、地元の甲州市や甲府市、笛吹市から図書館や学校関係者、大学の教員など多彩な人たちが集まった。今回は日本在住13年のドイツ人、インバルト・ラルフさんが『モモ』を使った作戦をやってくださったこともあって、参加者のバリエーション、ロケーション、プログラムの充実度など、過去2回の絵本サロンスペシャルをしのぐものとなった。

今回の案内文にこんなことを書いた。

・・・わたしたちの「大人のための絵本サロン」は「読書へのアニマシオン」の手法を用いて、本を介して出会い、語り合う、大人のためのプレイフルな学びの場をつくることを目指しています。今回は、勝沼の自然や文化的風土とそこに参加されるみなさんが相互にかかわりあって生み出される場の全体をひとつのアートとして楽しもうと思います。(第3回大人のための絵本サロン-秋の勝沼でプレイフルな学びの場を一緒につくりませんか?

この短いフレーズに込めた想いを具体的なかたちにするために、青柳啓子さんがこんんなスケジュールをつくってくださった。

「大人のための絵本サロンスペシャル Vol.3 秋の勝沼編 日程表」

もちろん、すべてが予定通りにおこなわれたわけではない。最初と最後の列車の到着時間と出発時間をのぞいて、途中の時間配分は、大まかな目安に過ぎない。大幅に予定時間より遅れることはあったが、焦ることもなく、ゆったりとした時間の流れのなかで余裕と充実感をもってプログラムを終えることができた。

 この二日間で体験したことを一度に書くのは難しいので、今日は、まず全体の流れと各スポットの紹介をさせていただき、アニマシオンのセッションで考えたことは、後日に報告させていただくことにする。

甘草屋敷子ども図書館

JR中央線塩山駅を下車すると、すぐ眼の前に旧高野家住宅がある。甲州に現存する代表的な民家で、江戸幕府の命を受け漢方薬の原料「甘草」を栽培したことから甘草屋敷と通称される。その母屋の裏にある文庫蔵を改装して現在はこども図書館(甲州市立塩山図書館分館)として使われている。
 
ここでの体験をFBで山本敬子さんが以下のように報告してくださっている。

甘草屋敷と子ども図書館を見学。子ども図書館ではパークライブラリを実施中。敷地内の木陰などに椅子などが番号をふられて置かれていて、同じく番号のふられた絵本セットをその番号の場所で読んでみよう、というイベント。申し込むとスタンプラリーカードをもらえて、ぜんぶ制覇すると、ちょっとしたプレゼントがもらえるほか、参加者は100円で飲み物とクッキーを頂けます。私は4番、ちょっと分かりにくい場所でしたが、魔法をキーワードにした絵本が3冊入ってました。ハンモックやテントも用意されていて、場所の楽しさと自分では選らばない絵本の組み合わせという新鮮さがよかったです。読書後にコーヒーとともに頂いたクッキーは見た目もかわいくて美味♪これで100円とは…!
子ども図書館は、手作り小物の様子や、書架や全体の印象からも、愛情かけて手入れされているように感じられました。大型絵本が集められた小部屋もあり。

ぼくは5番、旧高野家住宅の縁側にざぶとんが敷いてあるところで柿をテーマにした本を読んだ。

 (画像をクリックしてください)
(ブログ甘草屋敷 子ども図書館には、2階内部の様子をパノラマ撮影したものが掲載されている)

勝沼図書館

 ワイナリーやブドウ畑に囲まれた勝沼図書館は甲州市の中央館で、全国一のワイン関連資料のコレクションを誇るという。児童コーナーの資料も充実していて子どもたちが快適に利用できるように工夫を凝らしたつくりになっている。ここは青柳さんの職場で、アニマシオンを通して本の世界を体験する、子どものためのカムカムクラブの拠点でもある。
 ちなみに10月30日まで下記の資料展が開かれている。
平成25年度ぶどうとワインの資料展『みつけよう!平成ワイン文化の芽!~ワイン文化と共に成長する勝沼~』

以下は山本さんのFBより。

その後、葡萄畑やワイナリーに群がる観光客を横目にしながら勝沼図書館へ移動。入口正面の展示コーナーではワイン特集!生産者のコメントも壁にきれいに掲示され、これだけでも読みごたえあり。掲示内容をまとめたオールカラーの手作り冊子も備え付けてあるという力のいれよう。勝沼図書館のワイン関連コレクションは日本一で、文献複写依頼なども多いそう。しかもワインについての記述の多い小説やマンガも収集されており、『美味しんぼ』のワインを取り上げた巻も書架に並んでいました。 

 (画像をクリックしてください)

大善寺

 今回の絵本サロンのメイン会場となる柏尾山大善寺、通称ぶどう寺に到着。養老2年(718年)行基が開いたと伝えられているが正確な創建年代は不明だという。薬師堂は国宝、本尊で平安時代の作風をもつ木造薬師三尊像、干支にちなんだ木造十二神将立像、木造日光・月光菩薩立像は国の重要文化財に指定されている。13日は、その宿坊で宿泊させていただき、広間を利用して、夕食とお茶の時間を挟んで延べ5時間以上にわたって絵本サロンを楽しんだ。

フットパスと縁側カフェやまいち

 翌14日は大善寺から次のセッションの会場となる縁側カフェやまいちに向かう。JR中央本線勝沼ぶどう郷駅の裏手に回ると大日影トンネル遊歩道がある。1999年に新トンネルの開通とともに廃線になったJR中央本線の二つのトンネルのひとつで、2005年に旧勝沼町が無償で譲り受けてフットパスとして活用。トンネルを抜けた先にある次の深沢トンネルはトンネルワインカーヴ(貯蔵庫)として活用している。ワインカーヴの手前200mは個人用、奥の900mはワイナリー各社のセラーになっているという。わたしたちは、その内部の20mほどを見せてもらった後、少し山道を登って下りたところにある、ぶどう農家の三枝喜久子さんのお宅を訪問。三宅さんは数年前から縁側カフェ「やまいち」として地元の産物を使った料理をふるまっておられる。
 
この旧家の仏間で『モモ』を使ったセッションをした後で、食事をいただく。一人1,500円で10数種のお惣菜に味噌汁とクルミごはん。デザートは葡萄のゼリーでした。とても食べきれないので、余った料理はみんなで手分けして残さず持ち帰らせていただいた。手つくりこんにゃくとほたてときのこの煮物。千切りにした人参にたらこがまぶした人参シリシリ(?)。たたきごぼうを素揚げしてカレー風味の甘酢に漬けた牛蒡のたたき揚げ、マヨネーズを使わないポテトサラダなどは、家族への格好のお土産となった。
 
食事の後、お料理を作ったくださった三枝貴久子さんに先祖代々受け継いでいるという30もの三枝家の年中行事などについて話していただいた。お話の途中でぴ~という、長い鳴き声が何度か聞こえたが、あれは鹿の鳴き声ですと言われて、あらためて、このあたりの山の深さを知った。
 この三枝家のしきたりについては、かつてNHKが一年間にわたって取材をして、1時間半の番組を制作、放映されたという。

 (画像をクリックしてください)
 (わたしたちと同じコースを辿った写真がネット上にありました)
勝沼の大日影トンネルと農家で食事

 

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図書館を使いこなす力

2012年11月23日 | 「学び」を考える

 

 以下の文章は、学校図書館問題研究会の機関紙「学図研ニュース」編集部の依頼に応じて寄稿した文章に若干の加筆と修正をほどこしたものである。依頼されたテーマは「学校図書館で育む『力』」。(9月1日号に掲載されるとのことだった。)しかし、学校現場を離れて久しく、図書館や情報学の専門家でもなく、司書・司書教諭としての実務経験もない部外者の私がどれほどの現実性をもって学校図書館のことを語れるのか、はなはだ不安ではあったが、せっかくの機会なので、学校と社会をつなぐ学校図書館の存在意義について私なりの想いを綴ってみた。

 学校図書館で育まれる力は、図書館を使いこなす力である。トートロジーともいえるこの事実は、あまりにも自明であるために、いまさら語られるべきことではないのかもしれません。もちろん、学校図書館は、読書をしたり、調べものをしたり、レポートや論文を書いたり、そのほか、さまざまな力を育む場として活用できます。でも、そういった力は必ずしも図書館を使わなければ育てることができないというわけではありません。それにたいして、図書館を使いこなす力は、実際に図書館を使うことによって身につけるほかありません。学校に学校図書館があって、ふだんから、さまざまな目的のために役立てる経験を重ねているうちに、いつのまにか図書館を使いこなす力がつき、それにともなって図書館にたいする理解が深まり、図書館を見る目も養われてきます。的確な評価眼をもった利用者が世の中に増えれば、図書館は鍛えられて進化するでしょうし、その時々の社会に生きる市民の生活を支え、豊かにする活動をとおして、民主主義社会における情報基盤としての機能も高まるでしょう。そのことの社会的な意義を、図書館にかかわる人たちばかりでなく教師や一般市民が、もっと認識すべきだと思います。

 「図書館を使いこなす力」といっても、単に図書の分類に関する知識や資料の探し方といったテクニカルな図書館利用術のことを言っているのではありません。子どもたちは、日常の生活で起きるさまざまな問題に向き合うときや、自分の殻を破って新しい世界に飛び出そうとするときなど、さまざまな場面で、周りの大人や友人たちなど自分以外の人たちとのかかわりの中で自分の世界を組みかえていきます。これまで自分が生きてきた世界とは異なる価値や基準によって生きている人たちの経験に触れることができれば、さらなる成長のチャンスになるでしょう。そうした子どもたちの学びと成長のために、家庭や学校における限られた人間関係では触れることのできない世界や他者と出会う場として図書館があるのだと思います。子どもたちは、図書館を使って自らの問題に取り組む過程で自分のもっている読書力や情報活用力やコミュニケーション力をせいいっぱい発揮し、洗練させ、高めていきます。つまり、図書館を使いこなす力は、異質なものを受け入れて成長する営みの中で総合的に育まれるものだと思うのです。この理路(目的と手段)を切り離したり、逆転させてしまうと学校図書館の存在意義が極端に薄れてしまうのではないでしょうか。

 残念ながら、いまの学校教育に、そのような学校図書館の働きを十全に開花させる素地ができているとは言えません。日本の多くの学校では、知識と技能を効率的に身につけて上級学校に送り出すことに追われて、子どもの社会的成熟を助け、民主主義社会の担い手を育てることが手薄になっているか、あるいは、そうした視点がすっぽりと抜け落ちているのではないかとさえ思います。大学や高校は入試のための偏差値によって序列化され、小中学校の教育もその影響を受けています。多くの学校は、建前はともかく実態として、そんな一元的な学力階層の上位を占めることを目指しているように見えます。そういうシステムの中に学校図書館も組み入れられています。しかし、学ぶことの意味が個人的利益の追求という側面だけをとらえて過剰に強調されるようになると、子どもたちは、ますますテスト結果への依存を強め、学校は卒業と進学、そして競争に勝ち抜いて成功するための単なる通過点になっていくでしょう。

 そんな状況のなかで、教師や子どもたちは、学力向上に効果の上がる学習手段を求めています。だから、大学入試がマークシートの試験だけでなく、小論文などの記述式の問題が出されるようになり、AO入試が採用され、PISA型学力が導入されるようになれば、そういった入試に対応できることを学校図書館の付加価値としてアピールすれば喜ばれるでしょう。読書の意義についても「よく本を読む子どもは学校の成績も良い」とか「将来の成功のために役に立つ」「集中力がついて、落ち着いて勉強できるようになる」などと語られます。こうして学校図書館が使われる機会が増えれば、それはそれで喜ばしいことかもしれませんが、大学入試の動向によって教育内容が左右されるという構造は変わることなく、学びや読書の本来の意義が見失われたまま、これまでのように子どもたちは次々とふるいにかけられていきます。

 私たちは、学校図書館が可能性としてもっている、さまざまな学びの回路を閉ざしてはいないだろうか、と問うてみる必要があるのではないでしょうか。たとえば、何らかの理由で学校が提供する学びの回路に乗っていけない子どものことを考えてみましょう。障害があるとか、文化的背景が異なるというだけでなく、子どもは、さまざまな要因によって学校の勉強につまづくことがあります。子どもは感受性も知識の獲得のしかたも一人ひとりちがっているので、ひとつのやり方についていけない子どもがでるのは当然のことです。そんなとき、子どもの個人差をできるだけ尊重する学びの場を提供してあげることも、学校図書館の大切な役割ではないでしょうか。一人ひとりの子どもが抱える問題や欲求に柔軟に対応しながら、その子たちが自分なりのやり方で学べる機会を提供できることは、学校図書館の大切な特性です。そんな環境では、さまざまな条件や要因が絡み合って、教師も子どももまったく意図していなかった思いがけない学びが起きる可能性が高まります。そんな一人ひとりの内面から自動的に発動される「意図されない学び」が、場合によっては人生を左右するきっかけになったりすることもあります。

 そういったことから、私は、図書館を使いこなす力を育むにあたって何よりも「自発性」を大切にしたいと考えています。自発性は、あらゆる学びの原動力ですが、昨今の学校教育では疎んじられているのではないでしょうか。たしかに学習指導要領でも教師の研修会でも「主体的な学び」や「自主的な学び」が盛んに謳われています。しかし、主体性や自主性ということばは、単なる「積極性」といった意味で使われている場合も多く、かならずしも自発性と同義ではありません。「自発」とは「自己の内部の原因によって自然発生的に行われること」で、他者からの強制や同調によるものでないだけでなく、「べき」「べからず」といった自らの意志によるものでもありません。ですから、教師の指示や意図を的確に察知して自ら積極的に動き出す、いわゆる「優等生」や「いい子」の行動は自発的とは言いません。「レポートはこういう手順で書きましょう」と教えられて、さっさと課題を決めて、要領よく調べて発表するまでのプロセスをこなしてしまう子どもも、ただ先生の言いつけを守って、それを実行しているだけであれば自発的に動いているわけではありません。図書館を使う授業をたくさん経験しても、自らの必要や欲求に応じて学ぶことなく、ただ積極的に受け身の姿勢をとりつづけているだけでは、その場でどれだけ楽しくやっていても、生涯にわたって生活のさまざまな局面で図書館を使いつづけるようにはならないでしょう。かといって、子どもに「自発的に学べ」というのは矛盾していて、そう言われて自発性が育つものではありません。自発的な学びを促すには、むしろ「指導」という網をかぶせないほうがいいのかもしれません。だからといって放っておくのではなく、子どもの自発性の芽をつみとらないで、しっかり育てることを心がけるべきでしょう。図書館では、多様な情報源が身近にある環境に身を置くことで触発される一人ひとりの子どもの心の動きを大切にしたいものです。図書館の利用法を限定するようなルールや注意はできるだけ少なくして、さまざまな子どもたちの自由な発想を触発し、お互いに交感できる仕掛けが必要だと思います。だから、学校図書館の実務に携わっておられる皆さんは、図書館を子どもの興味や好奇心を引き出す場にしようと日頃から取り組んでおられるのでしょう。「分からない」「困った」「どうしよう」と思ったとき、「そうだ!図書館に行ってみよう」と思う子どもが増えればいい。そう思って、子どもたちのさまざまな問題を察知して親身になって向き合っておられるのでしょう。そんな志をもった皆さんの実践が先生方を動かし、一元的な学力観で動いている学校のシステムを見なおして多様な学びの場を生み出すきっかけになればいいのですが、私の知るかぎり、そういう学校は、けっして多いとは言えません。

 学校図書館の実践が学校教育全体に浸透するのを難しくしていると思われる一つの事例を取り上げて考えたいと思います。

 昨年(2011年)の10月に文部科学省が小中高校生向けに放射線に関する副読本を作成したとき、ある新聞に「文部科学省が作成したものなので、安心して授業で使える」という校長先生のことばが出ていました。まとまった談話の一部を切り取ったものなので校長先生の真意を反映しているかどうかは分かりませんが、自ら内容を検討たうえで、それを妥当とする根拠を示すことなく、ただ「文部科学省が作成したものなので安心」というのは、子どもの現実と向き合う教育者の論理ではありません。このような校長先生のもとで「子どもたちの思考力と判断力を育てる」という学習指導要領の理念は実現できるのだろうか?というのが、この記事を読んだときに私が抱いた率直な疑問です。さらに、この校長先生が放射線副読本のことを「中立的」と評価しておられることにも違和感を覚えました。教育という場で「中立的」であるということは、偏った考えを押し付けないということです。この副読本は「放射線のメカニズム」を解説してくれていますが、子どもたちが3.11以後に自分たちの身の回りで現実に起こっていることを考えるのに直接的に役立つ知識は示してくれていません。ものごとをひとつの観点からしかとらえていなければ「中立」とは言えません。客観的な「事実」とされていることも、その選択と配列(=編集)のしかたしだいで、特定の立場に誘導することだって可能だからです。私たちがやるべきことは、まず、子どもたちに問題を直視するために必要な基本的事実を教えて、解釈や見解が分かれる場合には、さまざまな立場の考え方を「公平に」検討したうえで、自分なりの考えや意見をもたせることだと思います。学習指導要領は「多様な情報を活用し、異なる視点から考え協同的に学ぶ」(学習指導要領解説)ことを求めています。放射線のように専門家の間でも議論の分かれる複雑な問題については、結論を教えることよりも、子どもの発達段階に応じて、問題の構造をできるだけ広く深く把握できるように導いてあげることが大切でしょう。学校は、子どもたちが、自分の存在にかかわる事態に真っ向から取り組む真の学び(authentic learning)の実現を遠ざけるべきではありません。

 もちろん、私は、この校長先生ひとりを責めているのではありません。教職に身を置いていた自分自身を振り返ってみて、このような考え方はよくありがちではないか、つまり日本の学校システムに特徴的な思考パタンではないかと思うのです。こうした上意下達型の思考と行動が教職員の間に定着し、日々の教育活動の中で子どもたちのあいだに浸透していけば、やがて学校は、柔軟性と広がりを欠く硬直した組織となり、学校内でのいじめや突発的な災害といった危機的状況に直面したときに、教師も子どもたちも、生命を守ることを最優先にして状況に応じた的確な判断と行動ができなくなるのではないかと危惧しているのです。

 放射線の人体への影響といった、情報の評価に専門的知識が求められる問題に関しては、まず教師自身が学ばなくてはならなりません。そして、子どもの問題意識をどのように掘り起し、どこに焦点をあてて、どのように教えるかを検討し、授業研究を積み重ねていくことが必要です。そんな教師の学びの場に学校図書館職員も参加して多様な資料や情報にもとづく調査結果を提供し、一緒に学び合うことができれば、教師にとっても有難いことです。といっても、問題の多い争点について、唐突にそんな提案をされても教師は戸惑うばかりなので、日常的にさまざまなレベルでお互いのコミュニケーションや学び合いの場を確保しながら、学校図書館の理念が受け入れられる土壌をつくっておくことが大切なのでしょう。私は、かならずしも学校図書館の理念や方法論を学校全体で共有・実践しなくてはならないと言うつもりはありません。学校図書館は、独自の立場から学校教育の弱点を補うことで全体として調和のとれた教育を可能にする、いわば従来の学校教育に対する批評的空間として存在することにも意味があると思うからです。

 「図書館を使う力」をめぐっていくつかの観点から考えてきましたが、公教育の場としての学校の目的を実現するためには、さまざまな局面で学校図書館を使いこなしていく力が、子どもばかりでなく教師にも、そして学校図書館職員自身にも求められるといえるでしょう。そのために大切なことは、学校の中に多様性を包み込んで協働できる土壌をつくりだすことではないでしょうか。

 

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それは、まさにホリスティックな出会いの場だった(古山明男さんの講演を振り返る)

2012年10月27日 | 「学び」を考える

 

 強いインパクトを受けた直後に自分の中で起こっていたことを整理して言語化するのは、とてもむずかしい。アタマだけで理解されることを拒み、感情や身体をとおして私たちの奥深いところを揺さぶる経験も、少し時間をおいて振り返ってみると、さまざまなことに気づかされることがある。それでも、ことばにすると何か肝心なことがするりと逃げていく。いくら追いかけて、ことばの網ですくい取ろうとしても獲物は逃げてしまい、網に残るのは一緒にすくい上げた藻だったりする。そんなものを見せられて、獲物はこんなに大きかったと興奮しながら語られても、その場に居合わせなかった者は戸惑うばかりだ。そんな直接経験と言語表現との乖離を承知していながらも、この前の日曜日(10月21日)に聞いた古山さんの講演については、ほんの断片でも語らずにはいられない。(獲物のしっぽでも捕まえることができればいいのだが・・・)

 その日、私たちは整然と並んでいた机を動かして、いびつなひし形のように並べて準備していた。会場に入ってこられた古山さんは、(おそらく、だれもが暗黙のうちに「講師席」と思い込んでいたであろう)壁と白板を背にした席ではなく、広い窓を背にした角の席に座られた。「ホリスティックな知は定義できません。皆さん、あの青空をご覧なさい。」開口一番、古山さんはそう言って、窓の外を指さされた。それで、私たちは、背景に(壁と白板ではなく)外の世界を眺めながら話を聞くことになった。ことばの海に溺れそうになったら(実際はそうならなかった)、いつでも爽やかに晴れわたった秋の空に視線を移すことができる。(仕事など、何かに忙殺されたり、行き詰まったりしたときに、目を向ける対象を変えて気分転換をはかるのもいいが、対象に向き合いながら、その背後に広がる世界に視線を向けておくのもいいものだ)

 こうして古山さんは、クリシュナムルティとシュタイナーの学校のつくり方の違いを、ご自身の塾での子どもたちの様子なども引き合いに出しながら、自分の感覚に引きよせて話してくださった。丁寧にことばを選び、ゆっくりとした物静かな語り口だった。ふと声が途絶えて視線を戻すと、身振り手振りで身体の動きを表現しておられる。後の質問にも、その人の気持ちを受けとめて丁寧に応えておられたのが印象的だった。(そういえば、ふだんの私は話のナカミばかりに注目して、相手と自分の全体に向き合うことがおろそかになっているなあ)

 人間の全体性を深く見つめて独自の教育を創りあげたシュタイナーとクリシュナムルティは、共に時代に対する危機意識をいだいて自由で愛に満ちた人を育てることが真の社会変革をもたらすとして、それぞれの学校をつくったが、そのつくり方は大きく異なっていた。シュタイナー学校では、カリキュラムから経営までの方式をシュタイナー自身が創って教師教育を徹底したのに対して、クリシュナムルティ・スクールは、方式に依存せず、学校ごとに大きな違いがある。クリシュナムルティは、教育や学校のあるべき姿を語ったが、具体的な実践は現場の教師たちに任せたのである。その学校づくりの理念は、以下の文章に集約されている。

「校内の自治は後々の人生における自治のための準備である。もし児童が学校にいる間に、日々の問題に関する議論において思いやり深くし、私情を交えず、英知を働かすことを学べば、後年、人生のよりおおきなより複雑な試練に効果的かつ冷静に対処できる」(10月21日のレジュメによる)

 これからの時代を生き抜く子どもを育てる場としての学校と学校図書館の姿を考えている人なら、だれもが納得できるだろう。この理念を教師集団が共有し、実践をとおして学ぶ姿勢をもちつづけることができれば、ふつうの学校でも実りある教育ができるのではないか。そんな期待さえ抱くことができる。問題は具体化への道筋だが、古山さんは、メールでの私の問いに応えて、こうおっしゃっている。

「シュタイナーの言っていることは比較的理解しやすいのですが、それを自分の血や肉にして、実践の場で生かすには、そうとうな苦労がいります。いっぽう、クリシュナムルティは、いったい何を言いたいのか理解するのに一苦労なのですが、もし理解できれば、それはそのまま実践的な知でして、即座に効果があります」

 クリシュナムルティの理念を現実化するカギは「見る」という行為にあるのではないか。かねてから私はそう思っている。だから、前回のセミナーで菊地栄治さんが「生徒を見る」という表現を多く使われていたことについても、10月3日のブログで次のようにコメントしていた。

「次回の講演のテーマにもなっているクリシュナムルティも、既知のものを注意深く「見る」こと、あるがままのものを「見る」ことが対象の全体を把握するために大切だと言っています」

 レジュメには「観察者なしに観察すること」とあった。見る者と見られるものを分離しない。見る者の価値判断を停止して見る。それは、傍観することでも分析することでもない。対象(他者)と向き合う関係の中で自己知に至るプロセスといえばいいだろうか。その場に自らを投入し、対象(他者)との関係を変えることによって世界(社会)を変えていく契機になりうるだろう。

 古山さんには『変えよう!日本の学校システム 教育に競争はいらない』(平凡社)という著書がある。「古山さんの本を事前に三分の二ぐらいまで読んでいたのですが、認識があれば、ホリスティックな観点から書かれていることが伝わるように描かれているのだと、話を聞いていて思いました」。講演の後に寄せられたコメントの中に、この一文を見つけて古山さんは「これを読み取っていただけるとは・・・」と感激しておられた。

変えよう! 日本の学校システム 教育に競争はいらない
クリエーター情報なし
平凡社

(じつは、この本が出版されて間もなく、ささやかなコメントをブログに書かせていただいている。いま読み返してみるとお恥ずかしいかぎりだが・・古山明男著『変えよう!日本の学校システム 教育に競争はいらない』(平凡社)

 ちなみに、古山さんは「ベーシックインカム」に関する論客でもあるが、そこにもホリスティックな観点から社会のありようを具体的な形で考えておられることを読み取ることができる。

古山明男さん講演録(2009年7月12日 於:青山学院大学)

「ベーシック・インカムのある社会―労働と教育の根本的転換―」第1部

「ベーシック・インカムのある社会―労働と教育の根本的転換―」第2部

 

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HERE COMES EVERYBODY (HCE From Finnegans Wake by James Joyce)

いま、ここに生きているあなたと私は、これまでに生きたすべての人、いま生きているすべての人、これまでに起きたすべての事象、いま起きているすべての事象とつながっていることを忘れずにいたいと思います。そんな私が気まぐれに書き綴ったメッセージをお読みくださって、何かを感じたり、考えたり、行動してみようと思われたら、コメントを書いてくださるか、個人的にメッセージを送ってくだされば嬉しいです。

正気に生きる知恵

すべてがつながり、複雑に絡み合った世界(環境)にあって、できるだけ混乱を避け、問題状況を適切に打開し、思考の袋小路に迷い込まずに正気で生きていくためには、問題の背景や文脈に目を向け、新たな情報を取り入れながら、結果が及ぼす影響にも想像力を働かせて、考え、行動することが大切です。そのために私は、世界(環境)を認識し、価値判断をし、世界(環境)に働きかけるための拠り所(媒介)としている言葉や記号、感じたり考えたりしていることを「現地の位置関係を表す地図」にたとえて、次の3つの基本を忘れないように心がけています。 ・地図は現地ではない。 (言葉や記号やモデルはそれが表わそうとしている、そのものではない。私が感じたり考えたりしているのは世界そのものではない。私が見ている世界は私の心の内にあるものの反映ではないか。) ・地図は現地のすべてを表すわけではない。 (地図や記号やモデルでは表わされていないものがある。私が感じたり考えたりしていることから漏れ落ちているものがある。) ・地図の地図を作ることができる。 (言葉や記号やモデルについて、私が感じたり考えたりしていることについて考えたり語ったりできる。)