ことばと学びと学校図書館etc.をめぐる足立正治の気まぐれなブログ

社会を正気に保つ学びとは? powered by masaharu's own brand of life style!

ともだち

2019年04月06日 | マミム・メモ

 

(いくつかの偶然が重なり、ふとしたことがきっかけとなって、なかなか更新できなかったブログを久しぶりに書きました。こんな夜中に…)

毎年、お花見の頃なると思い出す詩がある。「ともだち」と題するこの短い詩を作者の秋山基夫さんが朗読するのを最後に聞いたのは8年前のことだ。つい先日も秋山さんが自作詩を朗読するのを聞く機会があったが、この詩は読まれなかった。

      ともだち

   桜の枝にランタンを吊るし

   輪になってお酒をのんで

   この明るさをよろこびあおう

   どうせ暗い道を散っていくのだ

  ‐詩集「桜の枝に」秋山基夫(1992)より

この詩を聞くといつもよみがえってくるのは、楽しいひとときを過ごした仲間と別れて夜道をそれぞれの場所へともどっていくときの、あの温もりと侘しさがないまぜになった感じだ。そして考える。ともだちと宴を楽しんだあと、「散っていく」わたしは「暗い道」を通って、どこへいくのか?

ひとりになったわたしは自分の場所に帰り、自分の問題を自分で引き受けて生きるほかないだろう。しだいに衰えていく身体と知力、思い通りに動けないことへの苛立ちや喪失の悲しみといった負の感情をも受け入れながら自分らしさを失わないでどう生きるか。いまのわたしにとっては老いと孤独にどう向き合うかが大きな課題だ。そんなことを考えていた矢先に、偶然、2年前にわたしが投稿したツイートに「いいね」をつけてリツイートしてくださった方がある。すっかり忘れていたけれど、メイ・サートンの日記のことだ!

1912年にベルギーに生まれ、幼時に家族に連れられてアメリカに亡命した作家であり、詩人にしてエッセイストでもあるメイ・サートンは、三冊の日記を出版していている。
ニューイングランドでの生活をつづった『独り居の日記』(武田尚子訳)は メー・サートンが58歳の時に書かれた。

独り居の日記【新装版】
武田 尚子
みすず書房

メイン州の海辺に引っ越したメイ・サートンは70歳の誕生日を迎えた日から一年間にわたって『70歳の日記』(幾島幸子訳)を書いた。

70歳の日記
幾島幸子
みすず書房

そして、1994年8月1日(月)で終わる82歳の日記(中村輝子訳)を書き終えてまもなく、メイ・サートンは病床に伏し、やがて83歳でその生涯を終える。

82歳の日記
中村 輝子
みすず書房

三冊の日記は、いずれもみすず書房から翻訳出版されていて、わが国でも評判が高い。書かれた年代に応じて日々の生活のなかでつきつけられるさまざまな問題と向き合って自分らしく生きていく日常をつづった文章は、いい翻訳者をえて、美しく、読みやすい。そのためか、日記を読んで、高齢になってからのメイ・サートンの生き方に憧れる女性も多いと聞く。もちろん、ぼくのような老爺も大いにインスパイアされる。

メイ・サートンに倣って、世間の価値観におもねることなく、ひたすら自分らしく生きようと思う。それには、他人の目を気にせず、他者の評価に一喜一憂しないで、ひとりでいる時間を十分に確保することが必要だ。出会いと離別がくりかえされ、他者との過剰な関りに苛まれることの多い人生にあって、自分をととのえ自分を取り戻すために、自然と触れ合い自然とともにある自分を発見するために、また他者から受けた影響を自分の裡で熟成し、成長につなげるためにも、ひとりでいる時間が必要だ。家族やともだちはもちろん、何らかの形で関わりをもつことになった他者といい時間を過ごすことが自分を育んでくれることは言うまでもない。これから先、いろんな人のお世話にならないことも多くなるだろう。だからこそ、他者に過剰に寄りかからず、適度な距離感を維持しつづけることが必要だ。偏屈な奴だと思われてもいい。どうせ散っていくのだ。

ちなみに、詩集『桜の枝に』秋山基夫 (1992)には、ほかにも「この世」「雪」など、ぼくの好きないい詩がある。関心のある方は、このブログをご覧になってみてください。

「詩集『桜の枝に』秋山基夫 (1992)より」asianimprovのアジア系アメリカ雑記帖

 

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あけましておめでとうございます

2019年01月03日 | マミム・メモ

 

 

実り多い年になりそうな予感がします

新年の抱負

あけましておめでとうございます。 
昨年、12月31日の朝、いつものように眼鏡のレンズを拭こうとしたら、突然、チタンの針金でできたフレームがホロホロとくずれてしまった。前夜まで普段のとおりに使用し、つい先日も手入れと調整をしてもらったばかりだというのに、なんともあっけないこわれ方だ。しかも、よりによって大晦日の朝に…。
行きつけの眼鏡屋に駆け込んで新しいフレームをつくってもらったが、こんなふうにこわれたのは金属疲労によるのだという。そのとき、ふと心をよぎった思いは、自分の人生もこんな終わり方ができたらいいだろうなということだった。さっきまで元気にしていたのに、ふとしたきっかけでホロホロと崩れるように人生を終われれば最高だ。
一夜明けて、新年の抱負はおのずからはっきりとしてきた。いつか、いのちの火が消える、その瞬間まで、日々の仕事も学びも、出会いも別れも、友人や愛しい人との交わりも、そして異質な隣人や敵意ある人と関わるときも…、自分の想いを大切にしながら、ひたすら生きる。これまでにやってきたことに、つねに新鮮な気持ちで取り組む。

当面は、これまでにご縁のあった人たちと一緒に、以下のことに集中することにします。
朗読(朗読を始めて2年になりますが、今年も、いろんなジャンルの作品にチャレンジして、声による表現の可能性を追及します。活字になった文章を声に出して表現しようとするときに、黙読するだけでは得られない新たな発見があり、読みが深まっていきます)
読書会(ジョン・デューイの著作を読み進めています。昨年末に『民主主義と教育』を読み終えたので、今年は『経験としての芸術』を読み始めます)
学校図書館勉強会「探究的な学びと学校図書館」(アメリカ・スクールライブラリアン協会(AASL)が2007年に発表した「21世紀の学習者の基準」*をわが国の学校現場で実践する方策を考えています。とりわけ、探究の基盤となるクリティカル・シンキングの指導と、探究の過程と成果を共有するための論文の指導について検討します)
*「21世紀の学習者の基準」
1.疑問をもって調べ、批判的に考えて、知識を得る。2.結論を導き出し、情報にもとづいて意思決定をし、知識を新しい場面に適用して、新たな知識を生み出す。3.知識を共有し、倫理的・生産的に民主主義社会に参加する。4.人間的で美的な成長を追求する。

 

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「権狐」を読む ー 時代性・地域性・語り手の復権を

2018年10月17日 | マミム・メモ

 

台風の季節も過ぎて、このところ、めっきり秋めいてきましたね。
今回は、少し前にフェイスブックに投稿した内容をもう少し詳しく書いたものを、久しぶりにブログに掲載することにしました。

秋のお話しといえば、「ごん狐」がよく知られていますね。
子どもたちに読んであげる機会も多いのではないでしょうか。
いたずら好きの子ぎつね「ごん」が、自らの行動を振り返り、反省を繰り返しながら一人前の大人として成長していくお話かと思いきや…思いがけない衝撃の結末が待っているという、お馴染みの作品ですが、内容に違和感があって、ぼくは、どうも好きになれませんでした。
周知のとおり、一般に流布され、教科書にも掲載されている「ごん狐」は、新見南吉が「紅い鳥」に投稿した「権狐」を、鈴木三重吉が近代文芸の作品として洗練された表現に書き換えて掲載したとされています。以前からそのことが気になっていたので、先日、近くの図書館に行ったときにたまたま目についた『校訂新見南吉全集』(大日本図書)の第10巻を借りてきて、「スパルタノート」に掲載されている原作を読んでみました。
すると、冒頭に茂助じいさんの人となりや筆者との関係など、物語の展開に直接的に関係がないと思われることが詳しく書かれていたり、「背戸口」や「ちがや」といった、今の子どもたちに馴染みのない風物も出てきて、たしかに、書き直された「ごん狐」のほうが子どもたちにも読みやすくなっていることが分かります。でも、その一方で、ぼくが「ごん狐」で腑に落ちなかった個所については、原作に書かれていなかったり、別の言い回しになっていて、ずいぶん違った印象を受けます。それに、書き言葉としては冗長と思われる文体も、これを口承という視点でとらえると、つまり目の前の聴き手に語っている場面を想定すると、かえって自然で、生きてくるようにも思えます。

そこで、ここでは「ごん狐」で違和感のあった個所をいくつか取り上げて、原作の「権狐」と比べてみようと思います。(一般に流布されている書き換えられた「ごん狐」は、青空文庫に掲載されています)

まず、兵十が捕った魚を川に捨てて逃げてきたごんが、首に巻き付いた「うなぎの頭をかみくだ」いてはずしたとか(一)、魚屋から盗んだいわしを兵十の家に投げ入れたごんが「うなぎのつぐないに」いいことをしたと思った(三)などといった表現は原作「権狐」には出てません。「うなぎの頭をかみくだ」かなくても鰻を首からはずすことはできたかもしれないのに、どうして、わざわざ原作にない内容を付け加えたのでしょう? 同じように、原作の権狐は、ただ、ばくぜんと「何か好い事をした様に思へ」ただけなのに、あえて「つぐない」をしたいと思ってやったように書き換える必要はあったのでしょうか。たしかに、ごんの気持ちは明確に伝わってきます。あいまいな表現を具体的でイメージしやすい表現に書き換えることで、めりはりのついた分かりやすい作品になっています。でも、それは、原作に対して、あくまでも一つの解釈にすぎません。このように「分かりやすく」するために、読者をひとつの解釈に導いていくのは、ぼくには「余計なお世話」のように思えます。
他にも、原作の「権狐」が兵十の家に栗や「きのこ」をもっていった個所は、「ごん狐」では「まつたけ」に書き換えられていて、(今のぼくたちから見ると)なにか特別に価値のあるものをもっていったような印象を受けますが、「栗ばかりではなく、きの子や、薪を」もっていった権狐の気持ちは、少し違うように思います。
また、その栗や「まつたけ」をごんがもっていってやっているのに、兵十が神様にお礼を言うなんて「おれは、ひきあわないなあ」(「ごん狐」)と思う場面も、原作では「権狐は、神様がうらめしくなりました」となっています。ここも、権狐は引き合うか引き合わないかといった損得勘定をしたとは言い切れないでしょう。もしかしたら、何もしていないのにお礼を言ってもらえる神様がうらやましくて嫉妬したのかもしれません。
さらに、ごんが最後に栗をもって兵十の家を訪れた場面では、「物置」で縄をなっていた兵十が気づいて、わざわざ「納屋」にかけてあった火縄銃をとってきて火をつけた(「ごん狐」)のは、いかにも不自然ではないでしょうか。兵十がもとから「納屋」で縄をなっていた原作のほうが、すんなりと納得できます。そして、きわめつけは、兵十に撃たれたごんが、「お前だったのか…、いつも栗をくれたのは」と気づかれて、「ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました」(「ごん狐」)という箇所です。原作は「ぐったりとなったまま、うれしくなりました」となっています。このときの権狐の気持ちについては、いろいろ考えさせられ、議論を生むところでしょうが、むしろ、それゆえに、ただ「うなづきました」とするよりも、権狐の心情にさまざまな想像を巡らせ、多様で深い読みを促されて、ぼくは好きです。

こうしてみると、ぼくが「ごん狐」が好きになれなかったのは、おせっかいな書き換えのせいではないかと思えてきます。分かりやすい表現にして子どもたちに興味をもってもらおうという意図は分かりますが、あえて原作にないものを付け加えて、一つの解釈に誘導するのではなく、子どもたちが権狐の複雑な心情に寄り添って、それぞれに想像力を働かせて多様な読みができるようにしておきたいというのが、ぼくの想いです。

というわけで、ぼくは、けっして一般に流布して定着している修正版の「ごん狐」を否定するわけではありませんが、新見南吉の原作「権狐」のほうを読み語る試みも、もっと行われるといいなと思った次第です。いずれにしても、このお話しを読み語るときのポイントは、中山という山里の秋の風情と権狐の心の動きを描き分けることで、どこまで聴き手の心に豊かな世界を創出できるかに尽きるでしょう。チャレンジする値打ちはありそうです。

追伸:
参考までに、「権狐」から「ごん狐」への改変の経緯を詳細に分析し、その意義を考察した論文がある。
新見南吉「権狐」論―「権狐」から「ごん狐」へ―(木村功)
掲載誌 岡山大学教育学部研究集録 / 岡山大学教育学部学術研究委員会 編 (通号 111) 1999.07 p.1~10

 この論文によると、改変の要点は、時代性・地域性の削除、語句の平易化、「語り手」の消去、「贖罪」の強調であり、それによって、現在、一般に流布している「ごん狐」は、口承の影響を残す新見南吉の「権狐」を、鈴木三重吉が近代的な物語性をもった文字テクストへと変換させたものである。その結果、「ごん狐」は、鈴木三重吉の意識とは別に、全国規模の出版網をとおして流通性を高め、不特定多数の読者によって物語が広く消費されることに貢献したという。これは、出版資本主義の趨勢の帰結するところであり、1904年に標準語が東京中流社会の言語であると規定されたことと相まって、共通性・普遍性を指向する「国語」の標準を保持する近代文芸テクストとして、新しい小国民の創出に関わったという。

 わたしは、この論旨に同意するとともに、こうして原作とは異なる価値をもつ作品へと改変された「ごん狐」が、いまだに新見南吉・作とされているところに、わたしは違和感を覚えるのである。正確には、「新見南吉・原作、鈴木三重吉・改編」と表示されるべきであろう。その上で、わたしは、あえて、地域性の削除、語句の平易化、「語り手」の消去、「贖罪」の強調とは異なる価値観をもつ、口承文芸としての「権狐」を、あらためて評価しなおし、「近代的な物語性をもった文字テクスト」である「ごん狐」とともに読み継いでいこうというのが、わたしの提案である。

  

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明けましておめでとうございます!

2018年01月02日 | マミム・メモ

  

    

 年の暮れには、あわただしくバタバタとしていたのに、大晦日から一夜明けると、なぜか落ち着き、威儀を正して新しい年を迎える。清々しく、まるで昨日までの自分がリセットされたようだ。截然と区切ることで気持ちを新たにする仕掛けが年越しの習わしなのだろう。初日の出、初詣、初…なんだっていいのだが、人それぞれのやり方で、昨年中にため込んできた要らぬものを捨てて、新しい自分を生きるきっかけになれば、こんなめでたいことはない。

 だが、近年は若い頃のように期待感や高揚感といったものをだんだん感じなくなっている。歳のせいだろうが、正月気分の世間には馴染まないし、年賀状も若い人はあまり書いてこなくて、圧倒的に小中高校時代の同級生や恩師からのものばかりだから、次世代につながる夢や希望に心を動かされることはめったにない。この歳になれば、高齢者の生き方を考え、終活につとめるべきなのかもしれないが、老人の枠に閉じこもりたくはない。

 だからといって、希望に満ちた若い人たちについていけるわけではないが、彼らの姿を見失わないようにしたい。だから、これからも多様な人たちが交わって学びあう場を創りつづけることにしよう。ジョン・デューイの読書会や学校図書館自主講座はもちろん、みんなの気が合えばジャムセッションや絵本サロン、その他のシンポジウムなども再開できればいい。今月から朗読の勉強会もはじめることになった。久しぶりに竹内敏晴さんのレッスンなどを思い出しながら朗読の技術を磨き、表現や場の共有について体験的に学ぶ機会になるだろう。

といっても、何もかも一気にというのではなくて、風の吹くまま気の向くまま、気分が乗ればどこまでも、不定期につづけられるところまで…というのが、ぼくのスタイルだ。学ぶことは生きることであり、生きることは学ぶことにほかならない。参加する者ひとりひとりが学び合う喜びや探究する喜びを体感できる場、愉快な気が交流する交歓の場をつくっていきたい。

 ということで、これまでご一緒してくださった皆さん、そして、これから仲間に加わってくださる方々も、本年も、どうぞよろしくお願いします。

  

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息の共有(「源氏物語と枳殻邸大茶会」で思ったこと)

2017年10月09日 | マミム・メモ

  

 「源氏物語と枳殻邸大茶会」に行ってきました。「古典の日」制定五周年記念のイベントで、私は源氏物語が聞きたくて8月1日の受付開始と同時に申し込んでいたのですが、2・3日ほどで満席になってしまったそうです。
 「桐壺」「空蝉」「夕顔」「葵」の巻をアレンジし、「甦る千年の恋」と題して、原文と現代語訳を織り交ぜて朗読してくださったのは、「古典の日」朗読コンテストの歴代受賞者6名からなる朗読グループ「古都」の皆さんでした。香を焚きしめた京都渉成園・枳殻邸(きこくてい)の広間に雅な言葉が響き、ゆったりと聴衆を包み込んで展開する光源氏と女性たちの美しくも哀しい物語に、私は瞬く間に魅了されてしまいました。その秘密は、どうやら朗読者たちの深く安定した息遣いにあるようです。多彩かつ微細な声の表情の変化が、みごとにコントロールされていて、それに同期するように、聴いている自分の息もからだも整ってくる。演者が圧倒的な演技で聴衆を巻き込んだのではない。朗読者の呼吸と、それを受け止めようとするさまざまな聞き手の呼吸とが、たがいにせめぎ合いながら融け合っていくダイナミックなプロセス、そこに時間をともにできた喜びがともなう。そんな「芸術的」経験を意識したのは、ずいぶん久しぶりのように思います。
 第二部では、夕顔の巻を千年前の発音で読んでくださいました。最初のうちは、独特の発声法と聴きなれない音韻に戸惑い、現実離れしたAIの音声のようにも聞こえましたが、こまやかな情感をともなって広がる独特な声のひびきが、しだいに意味をもったことばとして聴きとれるようになってきて、ドラマチックでありました。
 その場に居合わせた他者と息を共有できてこそ、私たちは真に時間を共有したと言えるのでしょう。表現を微細にコントロールしてくれる深く安定した息、その息を整えてくれるのは、その場の状況の変化に柔軟に
対応できるからだであり、それを見守り適切に方向づけてくれるあたまである。さまざまな気づきを通して学ぶことが多く、自らの課題と出会って、心もとない我が朗読修行のためにも励みになったひとときでした。
 ちなみに、会場となった渉成園枳殻邸は、徳川家光が東本願寺に寄進されたものですが、その昔、光源氏のモデルと言われる河原左大臣・源融(みなもとのとおる)が暮らしていたところから、「源氏物語」ゆかりの屋敷とされています。
 「古都」の朗読会、次回は、来年の3月、芦屋で谷崎潤一郎の作品を中心に朗読する。11月から申込受付が始まります。

 

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あの日から20年がたち、神戸の街は鎮魂の祈りに包まれて静かな朝を迎えました。

2015年01月17日 | マミム・メモ

 

 私はいま、静かに思い返しています。

 震災に見舞われた前の日に、こんなことがありました。夕方の5時頃だったと思いますが、明石海峡の方からドーンという地響きのようなものを感じました。お腹に響く重低音でしたが、地震のような揺れは感じませんでした。海峡を行き交う大型船が衝突したにしては衝撃が大きすぎるので、もしかしたら当時建設中だった明石海峡大橋の支柱が倒れたか、ロープが切れて橋が落ちたのだろうか。そう思って家を出て海峡を見わたしてみたのですが、橋にも海上にも異常はないようでした。周りの人たちに尋ねても、地響きに気づいたという人は少なく、気づいていても、あまり気にとめていないようでした。あの地響きは何だったのか、いま思うと不思議です。日の暮れかけた淡路島の上空がどんよりとした茜色に染まっていたことも印象に残っています。

 翌日の朝、ものすごい衝撃を受けて目覚めた私は、一瞬、何が起こったのか、まったく理解できませんでした。引き続いて起こった余震で、はじめて地震だと分かったのですが、その規模の大きさを把握することなどできませんでした。震源地の北淡とは目と鼻の先にありながら、運よく自宅も近所の家も見た目には大した損害を受けていなかったので、ただ「大地震が起きた」くらいにしか考えていませんでした。(実際には我が家は、屋根瓦がずれたり柱がずれていたりしていて、後の検査で半壊の判定を受けました。)ラジオで公共交通機関が止まっていることを知って、ミニバイクで職場の様子を見に行こうと街にでたときに、はじめて、その異常さに気づきました。神戸の街は不気味な静寂に包まれていました。いつもなら忙しく行き交う人たちの姿はなく、車も電車もまったく見あたりません。道路は陥没し、家屋や樹木が倒れていて、おびただしい瓦礫の山が行く手をふさいでいました。山手から海岸まで、まるで巨大な迷路で出口を探すように行きつ戻りつしながらジグザグに進んでいくと、ところどころで火の手が上がっていました。自分ひとり取り残されたような荒廃した街の風景には、どこか既視感がありました。50年前、大阪大空襲から一夜明けた尼崎の街も、不気味なほど静まりかえっていました。幸いなことに私の身内には、これらの出来事が直接の原因で命を落としたり怪我をした者はいませんでしたが、多少とも自分と関わる人たちの身辺で起きた数々の為すすべもない事態を目の当たりにして途方にくれたり考え込んだりして、私の人生観や生き方も大きく左右されることになりました。

 私たち一人ひとりが戦争や災害で経験したことを語り継ぎ、学び継ぐことによって、命をつなぐ営みをつづけていくことが大切だと思います。私は、自分の人生に運命的な影響をあたえた、この二つの経験について、これまでに何度も語ってきました。私は、まもなく震災後10年目を迎えようとしていた2004年の年末にこのブログを始めたのですが、その翌日にも震災に関する簡単なコメントを記しています。

生きている限り(2004年12月29日)

以下、このブログに書いた震災に関連する記事をいくつか拾っておきます。

諸行無常、それは生きる力の源(2009年01月18日)

15年の経験をどう生かすか。阪神淡路大震災の節目の日に寄せて。(2010年01月17日)

相棒との別れ(2010年03月29日)

16回目の祈り(2011年01月17日)

自らの命を守る教育を!(阪神淡路大震災から17年目をむかえて)(2012年01月17日)

1月17日の朝につぶやく(2013年01月18日)

 先の戦争や阪神淡路大震災、そして東日本大震災や福島原発の事故などをとおして、私たちはさまざまなことを考え、学びました。その過程で私は、とくに「正気で生きるための学び」に関心をもつようになりました。危機的状況や混乱の渦中にあっても正気を失わずに生き抜くには、まず、私たちの身体が環境の異常や危険を直観的に察知して生存行動をとることができる「野性」を維持していることが大切です。そして、そんな「野生の身体」の活動をとおして豊かな想像力を開花させ、的確な状況把握にもとづいて柔軟な思考や判断ができる力を私たちは身につけていく必要がある。そんな思いを抱いて、2011年9月から12月にかけて行われた連続公開講座「情報を評価し、判断する力をいかに育むか」のお手伝いをさせていただき、そのまとめとして以下の文章を書きました。

「混沌を生きるリテラシー」(”St. Paul’s Librarian” pp.53-56 No.26 2011、立教大学 学校・社会教育講座司書課程)

 あの日から20年がたち、神戸の街は鎮魂の祈りに包まれて静かな朝を迎えました。昨夜は、神戸市中央区東遊園地内に設置されている「交流テント」に震災を経験した人たちと震災を知らない若者たちが集まり、行政やメディアに関わる人たちも加わって「阪神淡路大震災21年への決意」というテーマでディスカッションが行われていました。
『1月17日を過去を悲しむだけではなく、未来につなげていく日にしたい』
そんな思いを抱いて震災の経験を未来につなげる活動をつづけている人たちの輪が広がっているようです。

認定特定NPO法人阪神大震災1.17希望の灯り

ご参考までに、あの日の様子を伝える映像をいくつか紹介しておきます。
阪神・淡路大震災「1.17の記録」
【特集】阪神・淡路大震災 - 神戸新聞
1995 阪神・淡路大震災 - YouTube

【追記】

 災害時の図書館や情報に関する記事もいくつか書きました。

災害と図書館(2005年02月26日)

シンポジウム「災害復興に役立つ情報活動とは」(2005年03月19日)

ふたたび「災害復興に役立つ情報活動とは」(2011年03月19日)

災害と学校図書館(2011年03月25日)

公開連続講座「情報を評価し、判断する力をいかに育むか」に寄せて(2011年08月28日)

 以下は、震災を契機として私が取り組んだ学校図書館再生に関する記事です。

つながりを活かす学校図書館(震災復興を契機として学校図書館の再生をめざす)(2005年05月22日)

1.17 阪神淡路大震災を契機として学校図書館をどう再生したか(2006年01月17日)

 

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これからの「場所としての学校図書館」勉強会

2014年09月09日 | マミム・メモ

 

 前稿でご案内させていただいた9月7日(日)の勉強会は、新学期が始まったばかりでお忙しいところを11名の方が参加してくださいました。昨年まで「現代の教育課題に応える学校図書館」をテーマにして続けてきた学校図書館自主講座をいったん終了し、新たに「場所としての学校図書館」勉強会として3月に第1回の勉強会を開いてから、すでに4回目になります。午前中は、この夏休み中にSLA(全国学校図書館協議会), IFLA(国際図書館連盟), IASL(国際学校図書館協会)などの大会に参加された方々の報告、前ALA(米国図書館協会)会長のバーバラ・ストリプリングさんの大阪での講演「インフォプロと図書館の新たな役割:米国図書館協会の新たな取り組み」や熊本での学校図書館関係者との懇談会の報告、JLA(日本図書館協会)学校図書館部会での坂本旬さんの講演「メディア情報リテラシー教育~ユネスコの新たな取り組み」の報告など盛りだくさんの内容でした。午後は、松田ユリ子さんから高校生の昼休みの来館行動に関するご自身の研究を披露していただきました。研究の過程で直面しておられる問題点を投げかけてくださったのを受けて、参加者の間で活発な意見の交換が行われました。

 次回と次々回の勉強会の日程がすでに下記のように決まっていますので、関心のある方は予定に入れておいて、ぜひご参加ください。

第5回勉強会

日時:11月24日(月・祝)13時~16時30分

場所神戸市勤労会館(三宮)の304号室

第6回勉強会

日時:1月11日(日)12時~16時30分(昼食を持参してください)

場所神奈川県立田奈高校図書館

 プログラムは調整中ですが、お問い合わせ及び参加申込は下記にメールでお問い合わせください。
 holisticslinfo#gmail.com (#を@に変えて送信してください)

「場所としての学校図書館」勉強会について

 「場所」とは「何かが存在したり行われたりする所」、つまり存在と活動を前提にして成り立っている概念です。場所には自然があり、事物(artifact)があり、人(他者と自分)が存在します。わたしたちは、さまざまな活動をとおして場所と関わり、相互に影響し合いながら生き、学び、人として成長していきます。わたしたちの生存の基盤である場所という概念を軸にして、生きる力としての学習力を高める学校と学校図書館のありようを見なおそうというのが、この勉強会の趣旨です。関心のある方は、上記アドレスにメールでご連絡ください。

 

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コリン・ウィルソンはオカルティズムの代弁者ではなく、新しい「知」の伝道者だった

2013年12月15日 | マミム・メモ

 

 『アウトサイダー』や『オカルト』など、多くの著作で知られるイギリスの小説家で評論家でもあるコリン・ウィルソンさんが今月5日、82歳で亡くなった。ぼくよりちょうど10歳年上だ。
 30歳前後だった頃、「意識の進化(あるいは拡大)」をテーマとする彼の作品に興味をもって読んでいたぼくにとって、とりわけ印象深かったのは『賢者の石』(中村保男訳、創元推理文庫、1971)だった。SF小説ではあるが、主体と客体が統合されたダイナミックな実在を「直感」する意識のありようを求める姿勢に魅かれた。そして、小説の中で展開される著名な作曲家や指揮者に対する批評を読んで、ぼくの音楽に対する意識は大きく変わった。それまで敬遠していたブルックナーやマーラーを好んで聞くようになり、フルトヴェングラーのレコードもいろいろ買ってみた。
 1988年の秋、40歳代後半になったぼくがサンフランシスコ近郊に一年間滞在していたとき、よく出入りしていたCIIS (カリフォルニア統合学大学院California Institute of Integral Studies)でコリン・ウィルソンの講演とワークショップがあることを知り、懐かしい思いで参加した。
 その時のメモを帰国後に『甲南英語通信4』(1991)に寄稿していたのを探し出すことができたので、在りし日のコリン・ウィルソンさんを偲んで、ここに採録し、ぼくなりの哀悼の意を表わしたいと思います。(表記や字句を若干変更してあります)

☆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆

 等身大のコリン・ウィルソンは、でっぱったお腹からずりおちそうなズボンのために、どこかしまらない感じをうける英国紳士だった。楽天的でウィットに富んだ語り口と、中学時代にリンガフォンのレコードで聞いた懐かしいブリティッシュ・イングリッシュの響きにのって展開される合理的な論理。こうした彼の風貌と語りは、知的満足感と親近感と安堵感をあたえてくれはしたが、期待していた「超常」や「神秘」とはほど遠い感じがした。
 1988年10月10日と11日の二日間、サンフランシスコのCIIS (カリフォルニア統合学大学院California Institute of Integral Studies)で延べ11時間以上におよんだ講演とワークショップで、コリン・ウィルソンは、とかく東洋思想の範疇に押し込められがちな意識の問題を西洋の言葉でわかりやすく語った。
 これまでの彼の著作になかった目新しいことの一つは、その日はまだ出版されていなかった"Beyond the Occult”(Carroll & Graf, 1989、邦訳『超オカルト』)でおこなったように意識のレベルを8つに分けて説明したこと。1.夢の中の意識、2.夢から覚めたときの意識、3.退屈な日常的な意識、4.何かものごとに打ち込んでいるときの意識、5.春の朝の気分が浮き浮きするときの意識(至高体験peak experience)、6.至高体験が持続している状態、7.時間と空間を超えて知識やイメージがリアリティをもつ状態(アーノルド・トインビーに歴史のリアリティをあたえたと『オカルト』で説明しているFaculty Xが働いている状態)、8.主観と客観の区別がつかず「自分」がなくなる状態(グルジェフやウスペンスキーがとりあげた意識。cf. Ouspensky “A New Model of the Universe”、邦訳『新しい宇宙像』)
 これら8つのレベルは順を追って段階的に達するものではなく、われわれは意図せずにいろんな意識の状態を経験している。もしも、何もかもがお互いに絡み合って時間と空間を超えてつながっているという高いレベルの意識を人々が意識的に経験するようになれば、大衆が文字を使えるようになって以来の大きな意識革命を人類は経験することになるだろうと、ウィルソンは熱っぽく語った。これらの意識の状態は右脳と左脳の関係によって生じるので、意識状態を高いレベルに保つには左脳の仕事に明かりを灯し、それにリアリティをあたえる右脳の働きを活発にすること。それには、ライヒ式の呼吸法とユングのアクティブ・イマジネーション(Active Imagination)を組み合わせた簡単な方法を毎晩寝る前の短い時間試みるのがいいと勧めた。
 手にもったペンとか顔の筋肉とかに強く意識を集中して息をいっぱい吸い込み、吐くときはエネルギーをからだの隅々にまで(とくに生殖器に)行きわたらせるように”out, down, through”と声に出して言い聞かせながらやる。これを繰り返して、しだいにからだをリラックスさせ、眠ってしまいそうになるところでアクティブ・イマジネーションをはじめる。ワークショップでは、いくつもの扉を開けながら暗いところや明るいところ、あるいはエレベーターでいろんな階の部屋へ行くイメージと、からだがどんどん上の方に浮いて宇宙の彼方まで行ってしまうイメージを使った。ぼくは、後の浮かぶイメージがとても気持ちがよかった。呼吸については、息を吐くごとにからだが溶けてゆき、からだ全体に気が充満してくる感じだった。
 ウィルソンは、左脳の「意志」によって右脳の働きに「集中」することを強調して、大げさな感じを受けたが、何気ないことばやふと思ったことが右脳に影響をあたえることや、アブラハム・マズローの学生たちが至高体験について思ったり話したりしただけで常にそれを経験できるようになった(“The Essential Colin Wilson” p.252, 264)ことなど、いろんな事例がウィルソンの著作には紹介されているので、それらを上手く利用する手もあるだろう。

ETV特集 コリン・ウィルソン 立花隆~未知への対話~(2009)
Colin Wilson - Beyond the Occult 1/5 
Colin Wilson - Beyond the Occult 2/5
Colin Wilson - Beyond the Occult 3/5
Colin Wilson - Beyond the Occult 4/5
Colin Wilson - Beyond the Occult 5/5

The Essential - Colin Wilson

賢者の石 (創元推理文庫 641-1)
コリン・ウィルソン
東京創元社

Beyond the Occult
Colin Wilson
Carroll & Graf Pub
新しい宇宙像〈上〉
ウスペンスキー
コスモスライブラリー

 

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ありのままがいちばん。(心身一如の生き方を求めて)

2013年02月10日 | マミム・メモ

 

 月一回のペースで受けている整体操法の日、指導者の先生にお辞儀をして、うつぶせになる。先生は、わたしの背中に手を当てて、ササッと背骨を探る。
「最近、ご飯がおいしいですか?」
「ええ、それでつい食べ過ぎてしまいます」
「分かっていればいいでしょう」
 過食によって余計なものをからだにため込んで、さまざまな病気を引き起こす原因をつくっているのはわたしだ。食べ過ぎる原因はいろいろある。見た目や匂いをかいで美味しそうだと感じる。惰性や観念で食べる。からだが鈍っていて満腹感が得られないこともあるし、満たされない心を紛らわすために食べることもある。それを、からだが要求していると勘違いしている。目や頭ではなく、からだが美味しいと感じるから食べるようにしよう。それは健全な生命維持活動だが、この「美味しい」という快感と満足感を求めて、また過剰に食べてしまう。いやはや・・・
 「過食」は、現代人の病理をもっとも端的に言い表しているのではないか。過剰になるのは、食べる場合だけではない。やりすぎたり言い過ぎたりして後悔することがよくある。エネルギーが満ちて意欲があるから過剰な言動をしてしまうので、そのことを自覚できているなら大丈夫だ。欲求を「我慢」するのではない。生きる営みのなかでやってしまう過剰を過剰と認識していればよろしい。整体指導室で、先生がわたしのからだに触れて、そのメッセージを観察しながらおこなわれる上記のような少ない言葉のやりとりの意味を、わたしはそんなふうに広げて解釈する。そうすると頭の中にもやもやしたものが残らず、すっきりする。
 
整体指導と潜在意識教育を編み出した野口晴哉先生を知って講習を受け、整体生活を心がけるようになってから、ずいぶん年月が経つ。

 今月の4日の明け方早くのことだった。ふと目を覚まして、ラジオのスイッチを入れたら、NHKのラジオ深夜便の「心の時代明日へのことば」の途中で、話の脈絡はつかめなかったが、聞こえてきた声に思わず聞き入ってしまった。女性の声であったが、息の継ぎ方、間の取り方などが野口晴哉先生によく似ていた。インタビューアーが語りかける「天谷さん」という人の名前は初耳だったが、ときおり「野口先生」という名前が気になって、最後まで聞き続けた。番組の終わりに、声の主は天谷保子さんという整体指導者で、昨年、ご自身の人生を綴ったご本を出されたことを知った。驚いたことに『ぐりとぐら』などで有名な児童文学作家の中川李枝子さんが、かつて保母さんだったことは知っていたが、それが天谷さんの保育園だったという。
 さっそく『ありのままがいちばん。』(天谷保子著、WAVE出版、2012.11)を買って、一気に読んだ。

ありのままがいちばん。
クリエーター情報なし
WAVE出版

「第1章 いつだって明日を見ている」は、中川李恵子さんと保育園をやっておられた頃の話。
「第2章 からだを使いきって生きる」は、野口晴哉との出会い、整体の基本的な概念の紹介。
「第3章 でこぼこだけど一本道」は、天谷さんご自身の人生をみわたす。
単なる技術論やマニュアル的な手順の記述に陥らずに整体の神髄ともいえる基本的な考え方が、やさしいことばで分かりやすく語られている。すべてを説明しようとせず、あとは実際に指導を受けることを勧めておられるのもいい。読後は、腹の底からあたたかい感動に包まれた。野口先生亡き後は整体協会の講習会に出たことは一度もなかったわたしは、その後、これほど見事に整体の精神を語ったことばを聞いたこともなかったし、こんな本を読んだこともなかった。以下、脈絡なく、わたしの心に響いたことばを列挙しておく。

・子どもの興味には理由があります。けれども、それがなぜかなんて考えることはしません。子どもが無心でやっているときは、こころやからだが望むからそうしているのでしょう。
 
私たちは、子どもが言葉にできない衝動につき動かされているときは、きっと何がしかの力が育っていると信じて、少し離れて見守っていました。(p.43)

・子どもへの心配の多くは、お母さんの偏った見方がつくり出しているもの、または、あれもこれもすぐにできるようになってほしいという、お母さんの期待の反映。「できない」の裏側にできることがたくさんあるのですから大丈夫です。(p.45)

・整体では自然治癒力を大切にしていますから、からだの欲求を信じるようにと指導していますが、それはからだがある程度整っていることが前提での話です。(p.84)

・からだの成長も何かを習得するときも、決してなだらかなラインを描くわけではなく、階段状に上がっていく場合がほとんどなのです。(p.90)

・私は、風邪をひいた、熱が上がったといってすぐにクスリで症状を止めるのはあまり賛成しません。成長や上達に向かうからだの働きを無理に抑えることになるからです。(p.92)

・小手先で生きるのではなく、からだ全部を使って生ききりましょう。腰が決まると気持ちが安定して、不安も少なくなります。不安がなくなれば人生をもっともっと楽しめると思います。(p.96)

・悩みをおおらかに受け止める(p.97)

・自分ひとりでなんとかしようとせず、つらいことを話し合える人と会い、不調があれば整体に行くなどして、人の手をどんどん借りましょう。(p.104)

・だれにでも「甘えられる人」「甘えられる場所」が必要です。自分のつらい部分、弱い部分をさらけ出すだけで、からだもずいぶんよい方へ動きます。(p.111)

・周りの人たちが「からだに悪いからもっと食べなさい」と強いたところで、食べられるものではありません。正すべきことは食べることではなくて、背骨をゆるめること。もっと言うならば、「泣いていいのよ」とこころをゆるめてあげることです。(p.112)

・「からだの自然な現象を抑えない」(p.114)

・大人にはこらえる場面が多々ありますから、解放する相手、場所、方法をもって「上手に出す」ようにするといいでしょう。(p.114)

・(「活元運動」とは)からだの歪みや偏りを元に戻そうとする無意識の運動。(転んだときなどに咄嗟に手をつく、頭を抱えるなど)(p.115)

・私は(野口)先生の言葉通りにメモをとらずにぼんやり聴いていたので、全部覚えたという意識もなく、普段は忘れていることもたくさんあります。ところが、何十年も経った今でも、その知識が必要なときにパッと思い出されて、自分でも驚くことがあります。(p.121)

・(「一息四脈」について。一分間ずつ測って)具合が悪くていつもより息が早くなっていても、脈が比例してついていっていれば問題ありません。からだの治癒力が極端に弱まっている場合は、このバランスが崩れますので注意が必要です。(p.130)

・からだの不調とはそうして積み上げられたがれきの重なりのようなものです。がんなどの深刻な病気も突然かかるわけでなく、小さな疲れや偏りの積み重ねでなってしまうもの。整体とは、そうした重なりを一つひとつ上から取り除いていく作業です。(p.141)

・(「意欲の中断」とは)人は一心にやろうと思っていたことを強引に遮断されたときに、ショック状態に陥り、からだがかたまってしまいます。(p.141)

・大人であっても、言葉によって縛られることが多々あります。言葉はときとして呪縛となるということを、心のどこかに留めておきたいと思います。(p.143)

・(「健康」とは)病気=不健康ではなく、たとえ病気にかかっても健康な人ならば自分で治すことができます。私はその力がちゃんと働く状態を「健康」というのではないかと思うのです。そういう意味では、私はいつも自分のからだを信頼していますから、私にとっての健康法は「からだが望むことをする」という以外ないのです。(p.149)

・私は何かを見て、欲しいと思うことが少ないように思います。見たことがないもの、自分の中から生まれたものだけを描いているのです。だから、描いたものに出会えたとき、描いたことができる機会がきたときにパッとチャンスをつかめるし、心底満足できるのだと思います。(p.155)

・(「全生」という生き方を基本にして)社会の変化にも目を向けながら対応していくことが、真の意味で(野口先生の整体を)「受け継ぐ」ということなのあろうと思います。(p.159)

・痛みとは「生」の証し。生きる力があるから痛いのです。からだの痛みもこころの痛みもつらいものですが、そういうときこそ「自分にはまだ力がある」と思っていいのだと私は思います。(p.164)

・生と死は一つの線上にあるものです。(p.166)

・からだとこころを整えて「生きる質」を上げることが大切です。(p.168)

・(介護されている人は)ずっと介護をしていた人の体力の限界、事情の限界がきたときに、すっと逝ってしまうのです。(p.175)

・(「未練症状」とは)本人にその意識がなくても病気を利用してラクな方に流れてしまうことをいいます。(p.177)

・「どこかにきっと自由な世界がある」・・・たいした根拠があるわけでもなく、また「自由を勝ち取るぞ」というような闘争的な考えでもなく、空想に近いようなふんわりした思い・・・(p.178)

・ふと気がつくと自分の人生の大事な選択はすべて自分が決めるという、真の自由を得ていました。(p.179)

・自分の奥には想像できないほど大きな力をもった本来の自分がいるのですから、その自分を信じればいいのです。(p.180)

・ときとして不足は意欲となります。不足に不満や不安をもつとおかしなことになりますが、不足を不足として受け入れることができれば、あとは足りる方へがんばるのみです。(p.183)

・失敗してもいい。壊れてもいい。そこから芯の強さを培い、少しずつ心地よいものにしていくといい。それが人生の醍醐味です。(p.184)

・今の時代は自分の本質と違うところでがんばる場面が多いように思います。自分の喜びではなく、別なところに価値をおかねばならない環境が、からだによけいな偏りをもたらしているのです。(p.187)

・人生を良い方向へと導くためには、カンを育てることや出会いが大切。からだを整えることの重要性・・・これらは一見するとバラバラのように思われるかもしれませんが、実はすべて一つにつながっています。(p.189)

 

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六回目の巳年(新しい年の始まりに寄せて)

2013年01月01日 | マミム・メモ

 

みなさん、明けまして、おめでとうございます。
わたしは今年、6回目の巳年を迎えました。

遙かなる次の巳年や初み空

老いの加速を切実に感じているいまのわたしにとって、身に染みる句です。歌人の伊藤幸子さんによると(盛岡タイムスWeb News 2012年12月19日)、この句は、昭和4年巳年生まれの小沢昭一さんが72歳を迎えた2001年のタウン誌『うえの』に寄せられた句なのだそうです。「おそらく次の巳年には永の眠りに入っているだろう。それでよい」と。そのことばのとおり昨年の暮れに人生を全うされた小沢昭一さんの足元にも及びませんが、その見事な生きっぷりに触発されて、わたしも周りに元気を振りまきながら悔いのない日々を生きてゆこう!と思っているところです。

 ところで、「巳年」は「蛇年」とも呼ばれているので、わたしは子どもの頃から、てっきり「巳」は「蛇」をあらわすと思い込んでいて、この二つが結びつけられた根拠は定かでないと知ったのは、ごく最近のことでした。文字の成り立ちから言えば、「巳」は「包」の内側の部分と同じです。「包」は、子宮が胎児をつつむさまを表しているので「巳」はその胎児を表すということになります。そして十二支でいう「巳年」は、植物が成長して種子ができはじめる時期のことを言うのだそうです。(語源由来辞典

 巳年は、五行思想では木・火・土・金・水のうちの火、陰陽思想では陽がきわまって転じた陰とされています。また、仏教では、巳年生まれの守護仏は、普賢菩薩。知恵の文殊菩薩とともに釈迦をささえ(釈迦三尊)、大いなる慈悲をあたえてくれるとされています。

 年の始めに、大いなる慈悲に包まれて生かされている自分をあらためて見つめ直しているところです。

 

 

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息を整えて、全体に向き合うとき(『時の余白に』の書評を読んで)

2012年07月02日 | マミム・メモ

  

 日曜日の朝、何気なく開いた朝日新聞(2012.7.1)の「読書」欄に掲載されていた書評が目に留まった。『時の余白に』(みすず書房)という本のタイトルが私に何かを訴えているような気がしたのである。現役を退いてから自分が自由に使える時間はたっぷりあるはずなのに、それを「余白」と感じたことはなかった。自分に残された時間は少ない。その時間は何か意味のあることに使わなくてはいけない。そんな脅迫観念のようなものにとらわれていた私にとって、暇な時間を持て余すことはあっても、それは何らかの行為で埋め尽くさなくてはならないものだった。

 加えて、このところ政治の動きから片時も目が離せない日々が続いている。とりわけ、大飯原発の再稼働、消費税増税、検察官による取り調べ報告書ねつ造、米軍基地へのオスプレイ配備など、国民の生存や生活を脅かしかねない重大な問題にたいして発言し行動する人々。そんな動きを無視するかのように次々と下される政府の理不尽な決定や対応に怒りを感じ、国民の声が政治に反映されない、膠着したシステムにもどかしい思いがつのる。いま何かしなくてはいけない。

 書評を読んだ。哲学者で大阪大学の総長もつとめられた鷲田清一さん(大谷大学教授)の短い文章は、定年を前にした新聞記者がつづった美術批評の世界へと導いてくれる。「いまはそんな現下の問題とは無縁のことを悠長に考えているときじゃないだろう。現実から目をそむけてはいけない」と一人の私がいう。「いや、待ちたまえ。そんな今だからこそ、見つめ直さなくてはならない、とても大切なことが書いてある」と、もう一人の私。そして、そこには、深い息をし、丹田に力が漲り、ガチガチになった頭がすっと軽くなっている自分がいた。

 以下は、その書評である。

骨太の主張 謙虚な語り口で

 美術へのまなざしにはもっと広がりがあってよいとおもう。「芸術的価値」の高い作品を前にしてかしこまるのも結構だ。地域や施設でのワークショップという、生活意識の傍らにアートを溶かし込むというのも大きな意味があろう。けれども美術が、社会の趨勢(すうせい)にひっかかりを感じて、どうしても譲れないところがあるという、距(へだ)たりの感覚を失ったら、それはもう財宝か商品でしかなくなる。

 この本には、読売新聞で月1回連載されてきた長めの美術コラムが収められている。いずれも日々のくらしのなかでふと感じた違和から書き起こし、そういえばこんな展覧会があった……というふうに、人びとのまなざしを、時代からしずかに身を退(ひ)く美術家、独立独歩を貫く作家の仕事のほうへ案内する、そんな構成になっている。

 定年を前にして仲間が用意してくれた、この、紙面の番外地とでもいうべき場所で、のほほんとした語り口で、じつに骨太の主張をしている。いまの新聞がややもすれば見失いがちな「冷静」と「歯止め」を、この一身でつないでおこうという使命感が、です・ます調の謙虚な語り口に滲(にじ)みでている。「漫然と全体に向き合うこと」が許されない現下の社会では、「『ついていく』だの『取り残される』だのは、さっさと卒業することです」。「どうぞ深呼吸を」というふうに。

 著者が抑えた声で口にする違和感の断片を星座のようにつないでゆくと、熊谷守一や池田龍雄、早川俊二、谷川晃一らちょっと地味な作家にこと寄せた、著者の矜持(きょうじ)が浮かび上がってくる。身の丈、落ち着き、思慮深さ、待つこと、削(そ)ぎ落とすことといった、人の〈品位〉とでも言うべきものだ。この退きのなかにこそ「感覚をとぎすます道場」があると言わんばかりに。

 読みすすむうち、不思議なことに、こちらの息もすこしずつ整っていった。

(以上、時の余白に 芥川喜好〈著〉:朝日新聞デジタルより)

芥川喜好『時の余白に』 | トピックス : みすず書房

時の余白に
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みすず書房

 

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白磁の人

2012年06月15日 | マミム・メモ

 

 楽しみにしていた映画「道~白磁の人」 を公開初日の9日に見に行った。林業技師として朝鮮半島の荒れた山林を生き返らせた浅川巧の生涯を描いた高橋伴明監督の作品である。江宮隆之著『白磁の人』(河出書房新社、1997)にもとづいて林民雄が脚本を書いた。

 1891年に山梨県で生まれた浅川巧は、1914年に23歳で母や兄(伯教)のいる朝鮮半島に渡って朝鮮総督府農商工部山林課に就職、同僚の職員チョンリムとともに多くの山林を緑化復元に取り組む。当時の朝鮮半島は日本統治下にあったが、浅川は朝鮮語を覚えるなどして自分から進んで現地の人々に溶け込もうとする。だが、さまざまな差別と弾圧を受けていた朝鮮の人々は日本人にたいして心を許すことはなかった。朝鮮独立運動が高まるなか、日常生活で普通に用いられていた白磁に魅かれ、無名の職人が作った朝鮮工藝の美しさを高く評価した浅川は、1924年、柳宗悦らとともに朝鮮民族美術館を設立する。自らの信条にしたがって朝鮮の人々と共に生き、その山林と文化を守った浅川に多くの人が感銘を受け、白磁のような人と讃えた。1931年、肺炎のために41歳の若さで亡くなった浅川の葬儀には、その死を悼む朝鮮の人々がつめかけ、競ってその棺を担いだといわれる。1931年、今からほぼ80年前のことである。彼のお墓は今もソウル市忘憂里(マンウリ)の共同墓地にある。

 映画を見て、あらためて浅川巧の純粋さと民族を超えた友情の深さに打たれた。だが、それだけで終わってはいけないと思った。政治によって否応なく引き裂かれた民族どうしの人間的なつながりという重い課題を自ら引き受けた浅川巧の生き方。そこには、政治体制、芸術(生活に根ざした美的感性)、自然との共生といったテーマが、一つの軸でつながって相互に関連しあう問題として提起されている。

 

 山梨県北杜市高根にある「浅川伯教・巧兄弟記念資料館」を私が最初に訪れたのは、2006年のことだった。そこで、ふと目に留まった椙村彩著『日韓交流のさきがけ 浅川巧』(揺藍社、2004)という本を手に取ったことが、浅川巧についてもっと知りたいと思うきっかけになった。中学生だった椙村さんが、母校の高根西小学校の先輩である浅川巧について、文献だけでなく実際に韓国を訪問して足跡をたどって書いた自由研究のレポートが出版されたもので、永六輔さんも推薦文を書いておられる。ひとりの中学生をここまでひきつけた浅川巧の魅力とは何か? それを探りたくて『白磁の人』や高崎宗司著『朝鮮の土となった日本人―浅川巧の生涯』(草風館、増補三版2002)などを読んだ。

(資料館のある高根ふれあい交流センターで浅川巧シンポジウムが行われると聞いて、なんとか参加したいと思っていたが、6月13日から配布された360人分の整理券が当日のうちに定員に達し、終了したそうだ。残念!)

  日韓交流のさきがけ-浅川巧
クリエーター情報なし
揺籃社
白磁の人 (河出文庫)
クリエーター情報なし
河出書房新社
朝鮮の土となった日本人―浅川巧の生涯
クリエーター情報なし
草風館

前に書いたブログ記事「中学生の著書」

 

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フリージャーナリスト・日隅一雄さんの死を悼む

2012年06月13日 | マミム・メモ

  

 フリーのジャーナリストで市民派弁護士として知られる日隅一雄さんが、昨夜(2012年6月12日午後8時28分)に亡くなった。死因は、昨年5月に余命半年と告知されていた末期胆のう癌による腹膜炎だった。新聞記者だった日隅さんは、かねてから市民の立場に立って公権力とそれにおもねるマスコミの在り方を批判し、弁護士としても多くの住民訴訟に関わって権力に立ち向かう住民を支援してこられた。とりわけ3.11の福島原発事故が起こってからは独立ジャーナリストとして政府や東電の責任を追及してこられた。私が日隅さんのことを知ったのは昨年の3.11以後のこと、編集長をつとめておられたNews for the People in Japan(NPJ)と個人ブログ「情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)日隅一雄」を通してであった

 日隅さんの活動を知って1年ほどにしかならないが、余命を惜しむかのように精力的な活動を続けられ、救急車で病院に運ばれる直前まで一貫してジャーナリズムの可視化とネット上の情報流通促進に取り組み、市民と立場から権力に立ち向かい真実を問いつづけてこられた日隅さんに強く心を打たれる。共著書のある木野龍逸さんによれば、「日隅さんは、日曜日に講演、火曜日の朝に急変で病院に入り、半日後には亡くなるという早業で、ある意味では本望だったのかもしれないと思います。病院に入って活動できなくなるのを嫌がっていたので」という。まさに気骨あるジャーナリストとしての人生を全うされた

 日隅さんの最後のブログ記事「消費税増税報道が官僚らによって振り付けられていると思う決定的理由!」だった。

 最後のツイートは「原発再稼働、国会事故調の東電・官僚への肩入れ、消費税の増税…。清志郎が生きていれば、若者がもっと関心を持ってくれたはずなのに…。正面突破してきた野田の地元で落選運動を、誰か展開してほしい」だったそうだ。

 そして、最後のメールは、11日の月曜日に事務所の先輩、山口広弁護士に宛てた「Re: 東電値上に係る公聴会」だったという。

 だが、こうした切り口の鋭さにもかかわらず、ネット動画に登場する日隅さんは「闘病」という印象とはほど遠く、いつも肩肘を張らず、人なつっこい笑顔を見せておられた。私は、その飄々とした風貌と語り口に魅かれた。

 私は、このブログでも3月7日の自分の誕生日の記事をはじめ、数回にわたって日隅さんの活動と著書の一端を紹介させていただきました。著書とブログを通じてではありますが、3.11以後、マスコミやジャーナリズムについて実に多くのことを学ばせてくださった日隅一雄さんは、私にとって暗黒の海を照らす灯台のような存在だした。ここに、あらためて心からの敬意と深い哀悼の意を表し、ご冥福を祈りたいと思います。

TBS報道の魂「バッヂとペンと~日隅一雄の闘い」(6月17日深夜01:20~01:50) TBSは自らが「マスゴミ」と呼ばれないために、ジャーナリズムの在り方を問いつづけてきた日隅さんの遺志をどのように受けとめようとしているのだろうか?(系列各局の放送日時はこちらを参照)

【主な著書】

『マスコミはなぜ「マスゴミ」と呼ばれるのか』現代人文社、2008)

マスコミはなぜ「マスゴミ」と呼ばれるのか(補訂版)? 権力に縛られたメディアのシステムを俯瞰する
クリエーター情報なし
現代人文社

『検証 福島原発事故・記者会見 東電・政府は何を隠したのか』(木野龍逸さんとの共著、岩波書店、2012)

検証 福島原発事故・記者会見――東電・政府は何を隠したのか
クリエーター情報なし
岩波書店

『「主権者」は誰か』(岩波書店、2012)

「主権者」は誰か――原発事故から考える (岩波ブックレット)
クリエーター情報なし
岩波書店

  

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見えるということ

2012年06月10日 | マミム・メモ

  

 白内障で両眼を受けてから間もなく2週間になる。これといった自覚症状もなく順調に回復しているようだ。老人にはありふれた、リスクの低い手術らしいが、手術を決意するまでにはかなりの時間がかかった。もう、この年齢では進行しないと思っていた視力が1年以上前から急激に落ちていった。反射防止の眼鏡をかけていても、まぶしい。今年に入って受けた健康診断で、黒目が小さくて眼圧が測れないので専門医に行くように勧められたのがきっかけだった。医師から「生活に不便だったら手術を考えてもいいでしょう」といわれたとき、残り少ない人生を、これからどういう生きていくかを問われているように感じた。遠い風景はもちろん手元の文字も面と向かって話している相手の顔も滲んでみえる状況は、他の身体機能と裡から湧き上がってくる意欲にくらべて、きわめてバランスが悪く、日々の活動や思考も制限されている。そこに「緑内障の疑いもありますね」という医師の言葉が追い打ちをかけた。「近視」と「視野狭窄」って、最近の自分の言動を象徴的に言い当てていないか。それが、これからも進行するのを放置したくないと思った。

 軽い手術で2泊3日の病院生活は、ある意味で快適だった。頭をやすめ、ゆったりとした規則正しい生活を送る状況に自らをおく。質素な病院食は美味ではないが、栄養バランスはとれている。それで物足りなければ、コンビニはもちろん、おしゃれなカフェやレストランもある。移転して間もない真新しい神戸市民病院には、一人でくつろいだり人と話ができるスペースが、あちこちに設けてある。(こうした設備は、もちろん入院患者だけでなく、すべての来院者に開放されていて、これまでも検査に来たついでにホールで行われていたミニコンサートを楽しんで帰ることもあった)

 手術をしたからといって視力が完全に回復したわけではない。読み書きがしやすいように比較的短い距離で焦点が合うようにしてもらったので、遠方の風景はぼやけたままだ。それでも、多少の不便を我慢すれば眼鏡をかけないまま外出できるようになった。世界はこんなにも大きく色鮮やかだったのか! 裸眼で見るモノや活字は、これまで見慣れていたのより一回り以上も大きかった。色彩感覚にも変化があった。これまで私を虜にしていた緑のグラデーションが後退し、青系統の色、とりわけコバルトブルーが強烈に飛び込んでくる。気がつくと、普段使いの洋食器の大半がコバルトブルーで、いつも利用するJRの駅前には淡路島と明石海峡大橋を望む海と空が広がっていた。

 
(画像をクリックしてください)

 退院するとき、ずっと気になっていたことを医師に尋ねてみた。「この手術で視力はどこまで回復しますか?」返ってきた答えは単純明快だった。「視力は、その人の見る力なので、同じ手術をしても人によって異なります」。なるほど、1.0とか1.2といった数値は指標であって視力そのものではないということか。私が気にしていたことは、「学力」は「学ぶ力」なのに、指標にすぎない成績(点数)にこだわるのに似ている。火事場の馬鹿力の喩えを引き合いに出すまでもなく、人の「力」は諸条件によって常に変動することを私たちは経験的に知っているではないか。

 退院後はじめての講義で学生から「メガネのない先生はなんだかヘン」の声。自分でもそう思う。見慣れていないからだけではない。子どもの頃から眼鏡に合わせて自分の顔がつくられてきたのだろう。

 こうしてさまざまなことに気付かされた術後の2週間だったが、退院のときには新鮮だった風景も自分の顔も、しだいにありふれたものになろうとしている。それでも1日4回の点眼のときや就寝前には、きまって片手を目の近くにもっていって眼鏡を外すしぐさをしてしまう。

【追記】

 自分の視力の話を書いているうちに、ふと、首相には、いま、この国がどんなふうに見えているのだろう? と思った。8日に行われた記者会見で野田総理は稼働停止中の原発について「国民の生活を守るために再稼働を」と訴えたが、その内容は、まるで「再稼働が必要だ」という題で書いた作文だった。「電力が足りない」「原発は安い」といった不確かな情報、40年も繰り返されてきた「安全」という言葉も空虚に響く。理屈は何とでもつけられるが、福島で起こっていることは大飯やその他の場所では起こらない(起こさない)と、どうして断言できるのか。国論が二分されているわけではない。多くのアンケート結果やメディアの論調をみても、いま再稼働に踏み切るのは反対あるいは慎重であるべきという意見が大半をしめる。記者会見で訴えるべきは、中長期的なエネルギー政策の方向を明らかにして、国民とともに眼前の不安と苦境を克服していこうという気概ではなかったか。

 この首相の視界には、自分を取り巻いている官僚と経団連の人たちだけしか入っていないのだろうか。その向こうにいる国民一人一人は遠景にかすんでしまっているらしい。福島の現実をこの国全体の(そして人類全体の)問題と受け止められない想像力の欠如が怖い。

では、これからの日本は、どのような方向に進むべきか。2012年04月19日に放送された、報道ステーション「原発再稼動わたしはこう思う」最終回でのエコノミスト・浜矩子さんの指摘を、あらためてかみしめてみたい。どこか平川克美氏の『移行期的混乱』や『小商いのすすめ』にも通じる話だ)

 

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「この国が平和だと誰が決めたの?」(復帰40年の沖縄から日本を見つめる)

2012年05月21日 | マミム・メモ

  

 日本の安全保障やエネルギー供給を守るために、危険と隣り合わせに生きることを強いられてきた沖縄と福島(に代表される原発立地地域)。一部の地域に負担を負わせ、その代償として巨額のお金を投じることで、結果的に地元の自立を阻んできた。水俣の問題も終わっていない。もののいえない企業城下町。国策によって生み出される差別の構造。オキナワ、ミナマタ、そしてフクシマ。その根っこにあるものは変わっていない。

 一週間前の5月15日、沖縄で政府と県の主催による沖縄復帰40年式典が開かれた。ほぼ予想された型どおりの挨拶がつづくなかで「沖縄が余儀なくされてきた苦難の歴史」を語る上原康助・元沖縄開発庁長官の挨拶は型破りだった。沖縄戦で本土防衛のとりでとして犠牲を強いられたうえ、日米講和条約締結後も日本から分断され、米軍が「銃剣とブルドーザー」で肥沃な田畑を強制接収して広大な米軍基地が構築されたこと、そして、復帰後40年たった現在もなお、沖縄の人々が切望してきた返還とはほど遠い現状にあることを訴える上原さんのことばの一つひとつが胸に深く突き刺さる。

(この、沖縄の多くの人々の率直な気持ちを代弁していたとして喝采を浴びた挨拶の全文をブログ「西表島から、日々のつぶやき・・・」が載せてくださっているので、下に転載させていただく。Ustreamの映像「沖縄復帰40周年記念式典」と合わせて、繰り返し噛みしめたい。(上原さんの挨拶は、40:30頃からです。)

 また、この日の「フォークソング・クロニクル」は、ネーネーズが唄う「平和の琉歌」を取り上げてくださっていたが、「この国が平和だと誰が決めたの?」ではじまる桑田佳祐さんの詩と曲が身に沁みる。以下に「平和の琉歌」の詩と上原康助さんの挨拶の書き起しを合わせて転載させていただきます。

 

【平和の琉歌】 詩・曲:桑田佳祐/、歌:ネーネーズ

この国が平和だと誰が決めたの?

  人の涙も渇かぬうちに

  アメリカの傘の下 夢も見ました

  民を見捨てた戦争(いくさ)の果てに

  蒼いお月様が泣いております

  忘れられないこともあります

  愛を植えましょう この島へ

  傷の癒えない人々へ

  語り継がれてゆくために

 

この国が平和だと誰が決めたの?

  汚れ我が身の罪ほろぼしに

  人として生きるのを何故に拒むの?

  隣り合わせの軍人さんよ

  蒼いお月様が泣いております

  未だ終わらぬ過去があります

  愛を植えましょう この島へ

  歌を忘れぬ人々へ

  いつか花咲くその日まで

 

【上原康助さんの挨拶】 40:30頃からです

 本日は内閣総理大臣、衆参両院議長、最高裁長官、駐日米国大使をはじめ、多数のご来賓ご列席の下に、日本政府と沖縄県による復帰40周年記念式典が盛大に挙行されるにあたり、ごあいさつの機会を与えていただき感慨深いものがあります。

 厳粛な式典にはふさわしくないあいさつになるかもしれませんが、ご容赦願いたいと存じます。

 まず、沖縄が余儀なくされてきた苦難の歴史です。その最たるものは、悲惨な沖縄戦でした。沖縄は戦時中から本土防衛のとりでにされ、捨て石扱いで、常に苦難と犠牲を強いられてきました。67年前の沖縄戦で、一般住民をも巻き込んで地上戦が繰り広げられ、県土は焦土と化し、20万人余の尊い命が失われました。生き延びた住民は虚脱状態の中で米軍の捕虜収容所に放り込まれ、塗炭の苦しみを味わいながら耐え忍んできました。

 その間に日本も敗戦から立ち直って、1952年4月28日、日米講和条約を締結し、独立国としての歩みを踏み出しました。しかし沖縄は日本から分断され、27年の長期にわたって米軍の占領支配下で呻吟(しんぎん)させられてきました。広大な米軍基地が構築されましたが、その主要部は50年代前半に米軍が「銃剣とブルドーザー」で強制接収した肥沃(ひよく)な田畑だったのです。

 民主主義を標榜(ひょうぼう)する米国が理不尽に県民の生存権まで踏みにじるのかと、米軍に対する県民の怒りと不信が激しく燃え広がりました。

 そして次第に、基本的人権が保障される平和憲法下への復帰を目指さねばならない、と県民の意識は高揚していくようになります。

 いま一つ県民の強い願望は、主席公選を実現することでした。米側も県民総体の大きな盛り上がりをこれ以上抑圧できないと見て、68年11月に主席公選が実現しました。

 戦後の教育復興や復帰運動などに指導的役割を果たしてこられた屋良朝苗氏が初の公選主席に当選され、これを契機に日本復帰が具体化します。そして日本政府は70年11月に沖縄の代表を国政に参加させる特別措置を講じました。

 国会では沖縄返還協定や復帰に向けた諸法案が審議されました。私が絶対に忘れられず屈辱的だったのは、71年11月17日午後3時過ぎ、まだ審議半ばの沖縄返還協定を自民党が抜き打ち的に強行採決したことでした。しかもその時刻は、屋良主席が復帰にかかわる重要事項をまとめた「建議書」を政府と国会に提出するため上京され、羽田空港に着いたそのときでした。衆議院の第一委員会のあの怒号と混乱に満ちた議場の雰囲気をいまだに忘れることはできません。

 その後も国会は沖縄問題をめぐって緊迫した状況が続きましたが、ついに72年5月15日を迎え、日本復帰が実現したのです。

 しかし、県民が求め続けてきた「核ぬき本土並み、平和憲法下」への復帰どころか、米軍基地に関わる密約や基地の自由使用を米国に担保したものでしかないことが明らかになり、このような欺瞞(ぎまん)に満ちた復帰は到底容認できない、と多くの県民は、72年5月15日の晩、那覇市の与儀公園で大規模な県民大会を持ちました。土砂降りの中での大会だったが、県民の不満と怒りの気持ちは内外に強く訴えることができました。

 沖縄の復帰は復帰時点から県民の熱い思いとは大きくかけ離れたものでしかなかった。沖縄が余儀なくされてきた「戦前・戦中・戦後」の苦難の歴史を決して忘れてはなりません。その根源は残念ながら今も続いているのです。これからの沖縄を背負っていく若い世代の皆さんが、先人たちの幾多の苦労をも参考にがんばってもらいたい。

 さて、復帰40年の節目に沖縄振興特措法も、軍用地転用特措法もかなりよい内容に改定され、双方ともその内容をどう活用していくかです。特に一括交付金などを今後の沖縄の振興発展、離島などへの配慮、人材育成などにどう役立てていくかが注目されます。まさに、沖縄側の「行政的、政治的」知恵と力量も問われることになりましょう。 また、多年の懸案となってきた鉄軌道敷設も、復帰50年までにぜひともメドづけて、県土のバランスある振興発展、交通渋滞の緩和、北部やんばるの特性と活性化に役立ててもらいたいものです。

 最後に野田総理、駐日米大使、両閣下に強く申し上げたい。民主主義社会は世論を尊重することが基本です。なぜ、両政府とも沖縄県民の切実な声をもっと尊重しないのですか。

 米軍普天間飛行場の移設計画が日米間で合意されてから16年余りが経過しました。10年余り経っても実現できないことは、最初からその日米合意に無理があったことを実証しているのです。周知の通り普天間移設計画はますます、混迷をきたしております。今や沖縄県民の立場は、普天間飛行場の県内移設はNOだと、ますます強く大きな広がりを見せております。

 国土のわずか、0.6%しかない沖縄に米軍専用施設の74%も強要されているのです。これは誰が考えても異常です。この沖縄にこれ以上、新しい米軍基地を陸にも海にも、造ることはおやめください。世界一危険と言われている普天間飛行場を一日も早く閉鎖するか、県外移設することです。にもかかわらず、欠陥機と言われているMV22オスプレイを7月にも普天間飛行場に配備されると報道されています。あまりの沖縄蔑視であり、到底容認できるものではありません。

 どうか両政府とも、沖縄県民の切実な声をまともに受け入れてもらいたいのです。また、嘉手納空軍基地以南の五つの基地返還内容、その時期などについて早くも多くの疑問が噴出しております。加えて、日米両政府が去る4月27日に発表した在日米軍再編見直しの共同文書も実現性に乏しく、「目に見える形の沖縄の基地負担軽減」にはほど遠い内容で、またもや、県民を失望させております。

 今こそ日米両政府とも「政治、外交、安全保障」などに対する旧態依然の思考から脱却のため、「真剣かつ英断」を持って発想を大転換して、沖縄の米軍基地の過重負担軽減を断行すべきだと考えます。復帰40周年がその一大転機になることを心底から願って私のあいさつとさせていただきます。ありがとうございました。

2012年5月15日 上原康助

 

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HERE COMES EVERYBODY (HCE From Finnegans Wake by James Joyce)

いま、ここに生きているあなたと私は、これまでに生きたすべての人、いま生きているすべての人、これまでに起きたすべての事象、いま起きているすべての事象とつながっていることを忘れずにいたいと思います。そんな私が気まぐれに書き綴ったメッセージをお読みくださって、何かを感じたり、考えたり、行動してみようと思われたら、コメントを書いてくださるか、個人的にメッセージを送ってくだされば嬉しいです。

正気に生きる知恵

すべてがつながり、複雑に絡み合った世界(環境)にあって、できるだけ混乱を避け、問題状況を適切に打開し、思考の袋小路に迷い込まずに正気で生きていくためには、問題の背景や文脈に目を向け、新たな情報を取り入れながら、結果が及ぼす影響にも想像力を働かせて、考え、行動することが大切です。そのために私は、世界(環境)を認識し、価値判断をし、世界(環境)に働きかけるための拠り所(媒介)としている言葉や記号、感じたり考えたりしていることを「現地の位置関係を表す地図」にたとえて、次の3つの基本を忘れないように心がけています。 ・地図は現地ではない。 (言葉や記号やモデルはそれが表わそうとしている、そのものではない。私が感じたり考えたりしているのは世界そのものではない。私が見ている世界は私の心の内にあるものの反映ではないか。) ・地図は現地のすべてを表すわけではない。 (地図や記号やモデルでは表わされていないものがある。私が感じたり考えたりしていることから漏れ落ちているものがある。) ・地図の地図を作ることができる。 (言葉や記号やモデルについて、私が感じたり考えたりしていることについて考えたり語ったりできる。)