ことばと学びと学校図書館etc.をめぐる足立正治の気まぐれなブログ

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COVID-19パンデミックが 私たちに問いかけるもの LIBRARIANS’ FORUM 2020のご案内

2020年05月17日 | 知のアフォーダンス

 

 

 行動範囲の縮小、活動の中止・延期・・・自粛生活が続く中でストレスをため込んでおられないでしょうか。

 仕事の仕方や生活様式の変化による混乱とあせり、先が見えない、確かなことが見えないことによる不安の増大にイライラを募らせてはおられないでしょうか。

 こういうときは、自分が置かれている状況を受けとめ、気持ちに余裕をもって生きることが大事ですね。

 そこで、下記の要領で LIBRARIANS’ FORUM 2020 (online)を開催する運びになりました。主として学校図書館とかかわっておられる皆さんと一緒に、いつもとは違った視点で自分たちの置かれている状況を見つめなおしてみようという試みです。図書館の利用者など、日ごろから図書館に関心を持っておられる一般の皆さんのエントリーも歓迎です。リモート会議に慣れているかいないか、うまく発表できるかどうかといったことにこだわらずに楽しみましょう。
 たとえば、読み聞かせや詩の朗読、歌や楽器の演奏、ご自身の絵などをコメントやメッセージを添えてご披露していただけませんか。
 
 
テーマ「COVID-19パンデミックが 私たちに問いかけるもの」
 
 COVID-19パンデミックによって自粛生活を余儀なくされ、これまでの私たちの生活習慣や社会と文化のありようが問いなおされようとしています。そんな状況の中で、私たちがそれぞれに置かれている場で感じていることや考えていること、伝えたいメッセージなどを共有する機会を設けたいと思います。表現の仕方・伝え方は自由です。単なる報告や発表ではなく、語り、朗読、詩、絵画、音楽、身体表現といった、さまざまな形でその人なりの思いを伝え、受けとめ、お互いを触発しあえるような楽しいコミュニケーションの場になればいいと考えています。

 前編と後編に分けて、以下の2日で実施いたします。

前編 2020年5月23日(土)13:30-15:30

後編 2020年5月30日(土)13:30-15:30

 プログラムは決まり次第、公開いたします。

呼びかけ人  足立 正治 中村百合子

 
 つきましては、発表していただける方(約10名)を募集しています。また、一般参加の方も事前の申し込みが必要です。下記のページからお申し込みください。
 
《お知らせいただきたい内容》
  1. お名前

  2. ご連絡先(メールアドレス)

  3. 発表タイトル

  4. 発表形態と要旨(100字以内)

  5. ご希望の長さ(20分以内で設定可能)

  6. 発表希望日

     

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ともだち

2019年04月06日 | マミム・メモ

 

(いくつかの偶然が重なり、ふとしたことがきっかけとなって、なかなか更新できなかったブログを久しぶりに書きました。こんな夜中に…)

毎年、お花見の頃なると思い出す詩がある。「ともだち」と題するこの短い詩を作者の秋山基夫さんが朗読するのを最後に聞いたのは8年前のことだ。つい先日も秋山さんが自作詩を朗読するのを聞く機会があったが、この詩は読まれなかった。

      ともだち

   桜の枝にランタンを吊るし

   輪になってお酒をのんで

   この明るさをよろこびあおう

   どうせ暗い道を散っていくのだ

  ‐詩集「桜の枝に」秋山基夫(1992)より

この詩を聞くといつもよみがえってくるのは、楽しいひとときを過ごした仲間と別れて夜道をそれぞれの場所へともどっていくときの、あの温もりと侘しさがないまぜになった感じだ。そして考える。ともだちと宴を楽しんだあと、「散っていく」わたしは「暗い道」を通って、どこへいくのか?

ひとりになったわたしは自分の場所に帰り、自分の問題を自分で引き受けて生きるほかないだろう。しだいに衰えていく身体と知力、思い通りに動けないことへの苛立ちや喪失の悲しみといった負の感情をも受け入れながら自分らしさを失わないでどう生きるか。いまのわたしにとっては老いと孤独にどう向き合うかが大きな課題だ。そんなことを考えていた矢先に、偶然、2年前にわたしが投稿したツイートに「いいね」をつけてリツイートしてくださった方がある。すっかり忘れていたけれど、メイ・サートンの日記のことだ!

1912年にベルギーに生まれ、幼時に家族に連れられてアメリカに亡命した作家であり、詩人にしてエッセイストでもあるメイ・サートンは、三冊の日記を出版していている。
ニューイングランドでの生活をつづった『独り居の日記』(武田尚子訳)は メー・サートンが58歳の時に書かれた。

独り居の日記【新装版】
武田 尚子
みすず書房

メイン州の海辺に引っ越したメイ・サートンは70歳の誕生日を迎えた日から一年間にわたって『70歳の日記』(幾島幸子訳)を書いた。

70歳の日記
幾島幸子
みすず書房

そして、1994年8月1日(月)で終わる82歳の日記(中村輝子訳)を書き終えてまもなく、メイ・サートンは病床に伏し、やがて83歳でその生涯を終える。

82歳の日記
中村 輝子
みすず書房

三冊の日記は、いずれもみすず書房から翻訳出版されていて、わが国でも評判が高い。書かれた年代に応じて日々の生活のなかでつきつけられるさまざまな問題と向き合って自分らしく生きていく日常をつづった文章は、いい翻訳者をえて、美しく、読みやすい。そのためか、日記を読んで、高齢になってからのメイ・サートンの生き方に憧れる女性も多いと聞く。もちろん、ぼくのような老爺も大いにインスパイアされる。

メイ・サートンに倣って、世間の価値観におもねることなく、ひたすら自分らしく生きようと思う。それには、他人の目を気にせず、他者の評価に一喜一憂しないで、ひとりでいる時間を十分に確保することが必要だ。出会いと離別がくりかえされ、他者との過剰な関りに苛まれることの多い人生にあって、自分をととのえ自分を取り戻すために、自然と触れ合い自然とともにある自分を発見するために、また他者から受けた影響を自分の裡で熟成し、成長につなげるためにも、ひとりでいる時間が必要だ。家族やともだちはもちろん、何らかの形で関わりをもつことになった他者といい時間を過ごすことが自分を育んでくれることは言うまでもない。これから先、いろんな人のお世話にならないことも多くなるだろう。だからこそ、他者に過剰に寄りかからず、適度な距離感を維持しつづけることが必要だ。偏屈な奴だと思われてもいい。どうせ散っていくのだ。

ちなみに、詩集『桜の枝に』秋山基夫 (1992)には、ほかにも「この世」「雪」など、ぼくの好きないい詩がある。関心のある方は、このブログをご覧になってみてください。

「詩集『桜の枝に』秋山基夫 (1992)より」asianimprovのアジア系アメリカ雑記帖

 

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あけましておめでとうございます

2019年01月03日 | マミム・メモ

 

 

実り多い年になりそうな予感がします

新年の抱負

あけましておめでとうございます。 
昨年、12月31日の朝、いつものように眼鏡のレンズを拭こうとしたら、突然、チタンの針金でできたフレームがホロホロとくずれてしまった。前夜まで普段のとおりに使用し、つい先日も手入れと調整をしてもらったばかりだというのに、なんともあっけないこわれ方だ。しかも、よりによって大晦日の朝に…。
行きつけの眼鏡屋に駆け込んで新しいフレームをつくってもらったが、こんなふうにこわれたのは金属疲労によるのだという。そのとき、ふと心をよぎった思いは、自分の人生もこんな終わり方ができたらいいだろうなということだった。さっきまで元気にしていたのに、ふとしたきっかけでホロホロと崩れるように人生を終われれば最高だ。
一夜明けて、新年の抱負はおのずからはっきりとしてきた。いつか、いのちの火が消える、その瞬間まで、日々の仕事も学びも、出会いも別れも、友人や愛しい人との交わりも、そして異質な隣人や敵意ある人と関わるときも…、自分の想いを大切にしながら、ひたすら生きる。これまでにやってきたことに、つねに新鮮な気持ちで取り組む。

当面は、これまでにご縁のあった人たちと一緒に、以下のことに集中することにします。
朗読(朗読を始めて2年になりますが、今年も、いろんなジャンルの作品にチャレンジして、声による表現の可能性を追及します。活字になった文章を声に出して表現しようとするときに、黙読するだけでは得られない新たな発見があり、読みが深まっていきます)
読書会(ジョン・デューイの著作を読み進めています。昨年末に『民主主義と教育』を読み終えたので、今年は『経験としての芸術』を読み始めます)
学校図書館勉強会「探究的な学びと学校図書館」(アメリカ・スクールライブラリアン協会(AASL)が2007年に発表した「21世紀の学習者の基準」*をわが国の学校現場で実践する方策を考えています。とりわけ、探究の基盤となるクリティカル・シンキングの指導と、探究の過程と成果を共有するための論文の指導について検討します)
*「21世紀の学習者の基準」
1.疑問をもって調べ、批判的に考えて、知識を得る。2.結論を導き出し、情報にもとづいて意思決定をし、知識を新しい場面に適用して、新たな知識を生み出す。3.知識を共有し、倫理的・生産的に民主主義社会に参加する。4.人間的で美的な成長を追求する。

 

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「権狐」を読む ー 時代性・地域性・語り手の復権を

2018年10月17日 | マミム・メモ

 

台風の季節も過ぎて、このところ、めっきり秋めいてきましたね。
今回は、少し前にフェイスブックに投稿した内容をもう少し詳しく書いたものを、久しぶりにブログに掲載することにしました。

秋のお話しといえば、「ごん狐」がよく知られていますね。
子どもたちに読んであげる機会も多いのではないでしょうか。
いたずら好きの子ぎつね「ごん」が、自らの行動を振り返り、反省を繰り返しながら一人前の大人として成長していくお話かと思いきや…思いがけない衝撃の結末が待っているという、お馴染みの作品ですが、内容に違和感があって、ぼくは、どうも好きになれませんでした。
周知のとおり、一般に流布され、教科書にも掲載されている「ごん狐」は、新見南吉が「紅い鳥」に投稿した「権狐」を、鈴木三重吉が近代文芸の作品として洗練された表現に書き換えて掲載したとされています。以前からそのことが気になっていたので、先日、近くの図書館に行ったときにたまたま目についた『校訂新見南吉全集』(大日本図書)の第10巻を借りてきて、「スパルタノート」に掲載されている原作を読んでみました。
すると、冒頭に茂助じいさんの人となりや筆者との関係など、物語の展開に直接的に関係がないと思われることが詳しく書かれていたり、「背戸口」や「ちがや」といった、今の子どもたちに馴染みのない風物も出てきて、たしかに、書き直された「ごん狐」のほうが子どもたちにも読みやすくなっていることが分かります。でも、その一方で、ぼくが「ごん狐」で腑に落ちなかった個所については、原作に書かれていなかったり、別の言い回しになっていて、ずいぶん違った印象を受けます。それに、書き言葉としては冗長と思われる文体も、これを口承という視点でとらえると、つまり目の前の聴き手に語っている場面を想定すると、かえって自然で、生きてくるようにも思えます。

そこで、ここでは「ごん狐」で違和感のあった個所をいくつか取り上げて、原作の「権狐」と比べてみようと思います。(一般に流布されている書き換えられた「ごん狐」は、青空文庫に掲載されています)

まず、兵十が捕った魚を川に捨てて逃げてきたごんが、首に巻き付いた「うなぎの頭をかみくだ」いてはずしたとか(一)、魚屋から盗んだいわしを兵十の家に投げ入れたごんが「うなぎのつぐないに」いいことをしたと思った(三)などといった表現は原作「権狐」には出てません。「うなぎの頭をかみくだ」かなくても鰻を首からはずすことはできたかもしれないのに、どうして、わざわざ原作にない内容を付け加えたのでしょう? 同じように、原作の権狐は、ただ、ばくぜんと「何か好い事をした様に思へ」ただけなのに、あえて「つぐない」をしたいと思ってやったように書き換える必要はあったのでしょうか。たしかに、ごんの気持ちは明確に伝わってきます。あいまいな表現を具体的でイメージしやすい表現に書き換えることで、めりはりのついた分かりやすい作品になっています。でも、それは、原作に対して、あくまでも一つの解釈にすぎません。このように「分かりやすく」するために、読者をひとつの解釈に導いていくのは、ぼくには「余計なお世話」のように思えます。
他にも、原作の「権狐」が兵十の家に栗や「きのこ」をもっていった個所は、「ごん狐」では「まつたけ」に書き換えられていて、(今のぼくたちから見ると)なにか特別に価値のあるものをもっていったような印象を受けますが、「栗ばかりではなく、きの子や、薪を」もっていった権狐の気持ちは、少し違うように思います。
また、その栗や「まつたけ」をごんがもっていってやっているのに、兵十が神様にお礼を言うなんて「おれは、ひきあわないなあ」(「ごん狐」)と思う場面も、原作では「権狐は、神様がうらめしくなりました」となっています。ここも、権狐は引き合うか引き合わないかといった損得勘定をしたとは言い切れないでしょう。もしかしたら、何もしていないのにお礼を言ってもらえる神様がうらやましくて嫉妬したのかもしれません。
さらに、ごんが最後に栗をもって兵十の家を訪れた場面では、「物置」で縄をなっていた兵十が気づいて、わざわざ「納屋」にかけてあった火縄銃をとってきて火をつけた(「ごん狐」)のは、いかにも不自然ではないでしょうか。兵十がもとから「納屋」で縄をなっていた原作のほうが、すんなりと納得できます。そして、きわめつけは、兵十に撃たれたごんが、「お前だったのか…、いつも栗をくれたのは」と気づかれて、「ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました」(「ごん狐」)という箇所です。原作は「ぐったりとなったまま、うれしくなりました」となっています。このときの権狐の気持ちについては、いろいろ考えさせられ、議論を生むところでしょうが、むしろ、それゆえに、ただ「うなづきました」とするよりも、権狐の心情にさまざまな想像を巡らせ、多様で深い読みを促されて、ぼくは好きです。

こうしてみると、ぼくが「ごん狐」が好きになれなかったのは、おせっかいな書き換えのせいではないかと思えてきます。分かりやすい表現にして子どもたちに興味をもってもらおうという意図は分かりますが、あえて原作にないものを付け加えて、一つの解釈に誘導するのではなく、子どもたちが権狐の複雑な心情に寄り添って、それぞれに想像力を働かせて多様な読みができるようにしておきたいというのが、ぼくの想いです。

というわけで、ぼくは、けっして一般に流布して定着している修正版の「ごん狐」を否定するわけではありませんが、新見南吉の原作「権狐」のほうを読み語る試みも、もっと行われるといいなと思った次第です。いずれにしても、このお話しを読み語るときのポイントは、中山という山里の秋の風情と権狐の心の動きを描き分けることで、どこまで聴き手の心に豊かな世界を創出できるかに尽きるでしょう。チャレンジする値打ちはありそうです。

追伸:
参考までに、「権狐」から「ごん狐」への改変の経緯を詳細に分析し、その意義を考察した論文がある。
新見南吉「権狐」論―「権狐」から「ごん狐」へ―(木村功)
掲載誌 岡山大学教育学部研究集録 / 岡山大学教育学部学術研究委員会 編 (通号 111) 1999.07 p.1~10

 この論文によると、改変の要点は、時代性・地域性の削除、語句の平易化、「語り手」の消去、「贖罪」の強調であり、それによって、現在、一般に流布している「ごん狐」は、口承の影響を残す新見南吉の「権狐」を、鈴木三重吉が近代的な物語性をもった文字テクストへと変換させたものである。その結果、「ごん狐」は、鈴木三重吉の意識とは別に、全国規模の出版網をとおして流通性を高め、不特定多数の読者によって物語が広く消費されることに貢献したという。これは、出版資本主義の趨勢の帰結するところであり、1904年に標準語が東京中流社会の言語であると規定されたことと相まって、共通性・普遍性を指向する「国語」の標準を保持する近代文芸テクストとして、新しい小国民の創出に関わったという。

 わたしは、この論旨に同意するとともに、こうして原作とは異なる価値をもつ作品へと改変された「ごん狐」が、いまだに新見南吉・作とされているところに、わたしは違和感を覚えるのである。正確には、「新見南吉・原作、鈴木三重吉・改編」と表示されるべきであろう。その上で、わたしは、あえて、地域性の削除、語句の平易化、「語り手」の消去、「贖罪」の強調とは異なる価値観をもつ、口承文芸としての「権狐」を、あらためて評価しなおし、「近代的な物語性をもった文字テクスト」である「ごん狐」とともに読み継いでいこうというのが、わたしの提案である。

  

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ジョン・デューイをどう読み、どう活かすか(3月の学校図書館自主講座へのお誘い)

2018年03月11日 | 「学び」を考える

  

 学校図書館に関わるメンバーが2015年から京都の町屋に集まってジョン・デューイの著作を読み合っている読書会の報告をします。これまでに読んできた『学校と社会』『経験と教育』『思考の方法』『論理学-探究の方法』『民主主義と教育』、さらに昨年翻訳刊行されたばかりの『デューイ・スクール―シカゴ大学実験学校:1896年~1903年』などをめぐって、それぞれのメンバーがジョン・デューイをどう読んだかを語り、日々の私たちの実践や、現代の教育課題にどのような示唆を得ることができるかを話し合います。
 読書会は、ひきつづき4月以降も『民主主義と教育』の下巻と『経験としての芸術』を読み進める予定です。

日時:3月18日(日)13:20―16:30

場所神戸市勤労会館 4階 会議室409 JR三ノ宮駅から東へ徒歩5分

語られる予定のテーマ
・『学校と社会』をどう読み、どう活かすか
・デューイの実験学校-学校の組織・構成員・評価など
・学校図書館学を学ぶ際にデューイをどう活かすか
・思考と表現、学習と教養、教育と学力
・思考の諸相-デューイのいくつかのキーワード再確認
・探究型学習とデューイ~論文指導における課題~
『経験と教育』をどう読み、どう活かすか
リフレクションについて

読書会のメンバー
足立正治(元甲南高等学校・中学校)、天野由貴(椙山女学園)、家城清美(元同志社女子中高)、梶木尚美(大阪教育大学附属池田高等学校)、中津井浩子(甲南高等学校・中学校)、平井むつみ(滋賀文教短期大学)、嶺坂尚(啓明学院中高)、山本敬子(小林聖心女子学院中高)

参加費は、500円です。

参加申込は、参加を希望される日と、氏名、所属、連絡先を明記の上、下記にメールで申し込んでください。holisticslinfo#gmail.com(#を@になおして送信してください)

  なお、当日は、この3月に出版されたばかりの『学校図書館はカラフルな学びの場』(松田ユリ子著、ぺりかん社、1500円プ+税)を著者割引(2割引き)でお求めいただくことができます。購入希望の方は、参加申し込みのメールに、その旨を書き添えておいていただけると有難いです。

学校図書館はカラフルな学びの場 (なるにはBOOKS)
 
ぺりかん社

 松田ユリ子さんは、神奈川県の学校司書として数多くの生徒たちや教師たちと関わって、学校図書館をかれらの学びと成長を促す場所とすべく、多彩な実践を重ねてこられましたが、その様子が本書にはイキイキと描かれています。それは、まさにジョン・デューイが『学校と社会』の中で描いた学校の中の図書室のすがたを、現代のわが国の学校において顕現させた一つの試みといえるでしょう。さまざまな立場から、なんらかのかたちで学校図書館に関わるわたしたちも、それぞれの学校や生徒や教師にとって欠くことのできない場所として、学校図書館の多彩な実践を生みだすヒントと勇気を本書から得ることができるでしょう。
「図書室は、子どもたちのさまざまな経験、さまざまな問題、さまざまな疑問、子どもたちが発見してきたいろいろな具体的な事実をもち込んでくる場所となるだろう。そこでは、以上のようなことについて議論がなされるとき、その議論の対象となるそれらのうえに新しい光が投げかけられるが、とりわけ他者の経験からくる新しい光、集結された世界の叡智-それは図書室に象徴されているものであるが―というものからの新しい光が、投げかけられる場所である」(ジョン・デューイ著・市村尚久訳『学校と社会・子どものカリキュラム』講談社学術文庫、1998、pp.151-152)

 

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HERE COMES EVERYBODY (HCE From Finnegans Wake by James Joyce)

いま、ここに生きているあなたと私は、これまでに生きたすべての人、いま生きているすべての人、これまでに起きたすべての事象、いま起きているすべての事象とつながっていることを忘れずにいたいと思います。そんな私が気まぐれに書き綴ったメッセージをお読みくださって、何かを感じたり、考えたり、行動してみようと思われたら、コメントを書いてくださるか、個人的にメッセージを送ってくだされば嬉しいです。

正気に生きる知恵

すべてがつながり、複雑に絡み合った世界(環境)にあって、できるだけ混乱を避け、問題状況を適切に打開し、思考の袋小路に迷い込まずに正気で生きていくためには、問題の背景や文脈に目を向け、新たな情報を取り入れながら、結果が及ぼす影響にも想像力を働かせて、考え、行動することが大切です。そのために私は、世界(環境)を認識し、価値判断をし、世界(環境)に働きかけるための拠り所(媒介)としている言葉や記号、感じたり考えたりしていることを「現地の位置関係を表す地図」にたとえて、次の3つの基本を忘れないように心がけています。 ・地図は現地ではない。 (言葉や記号やモデルはそれが表わそうとしている、そのものではない。私が感じたり考えたりしているのは世界そのものではない。私が見ている世界は私の心の内にあるものの反映ではないか。) ・地図は現地のすべてを表すわけではない。 (地図や記号やモデルでは表わされていないものがある。私が感じたり考えたりしていることから漏れ落ちているものがある。) ・地図の地図を作ることができる。 (言葉や記号やモデルについて、私が感じたり考えたりしていることについて考えたり語ったりできる。)