ことばと学びと学校図書館etc.をめぐる足立正治の気まぐれなブログ

社会を正気に保つ学びとは? powered by masaharu's own brand of life style!

「5月23日の小さな希望」(議会が小出裕章・後藤政志・石橋克彦・孫正義の意見を聞いた日の記録)

2011年12月10日 | メディア

 にほんブログ村 教育ブログへ人気ブログランキングへ

小出裕章・後藤政志・石橋克彦・孫正義『意見陳述 2011523日参議院行政監視委員会会議録』(亜紀書房)127日に出版された。

意見陳述――2011年5月23日参議院行政監視委員会会議録
クリエーター情報なし
亜紀書房

 2011523日、末松信介委員長が議長をつとめる参議院行政監視委員会は、「原発事故と行政監視システムの在り方」について4人の参考人から意見を聴取した。小出裕章さんは原子力工学者として、後藤政志さんは元原子炉格納容器設計者として、石橋克彦さんは地震学者として事故前から原子力の危険を警告してきた人たちであり、孫正義さんは実業家として原発に代わる再生可能エネルギーによる発電を推進しようとしておられる。

 

「取り返しのつかない事態に至ってしまった311日から二カ月を超した時点ではあっても、何故この人たちは原子力の危険を警告してきたのか、あるいは、なぜ原子力以外のエネルギー選択肢を提案するのか、議会としてはおそらく初めて正面から意見を聞く。そのことには、大きな現実の意味があった」(中尾ハジメさんの「523日の小さな希望‐まえがきにかえて」)

 

しかし、その内容を取り上げたマスメディアはほとんどなかった。委員会の様子はインターネットで中継され、今も参議院インターネット審議中継で閲覧することができる。だが、大きな意味をもつ委員会が開かれたことさえ知らないで、ネットにアクセスして行政監視委員会の記録を探しあて、約3時間23分にも及ぶこの日の映像を見た人はどれくらいいるのだろう? 容易にネットにアクセスできない人もまだまだ多い現状では、その記録が本として出版されて書店に並び、図書館に配架されることには大きな意義がある。より多くの人の目にとまるようになったというだけではない。この本を手にした人が、マスメディアが重要な現実的問題から私たちの目をそらせていたことに気づくことが大切なのである。本書に寄せた523日の小さな希望‐まえがきにかえて」のなかで、中尾ハジメさんは次のように書いている。

 

「(この行政監視委員会が開かれたのと)同じ523日、衆議院では東日本大震災復興特別委員会があり、福島第一での、ありもしなかった海水注入中断の責任を追及するという、まったくおろかとしか言いようのない質疑なるものが行われていた。安倍晋三議員発信のメールマガジンに端を発する、官邸の指示による海水注入中断こそは初期対応の重大な誤りであるという、まことしやかな主張に、国民を代表しているはずの人々が、見るからに勇んで飛びついたのである。そして新聞は、この馬鹿馬鹿しくも狡猾な「管おろし」のための一幕を、ただ垂れ流すために、大きな紙面をさき、この国の言論は、人々がこうむる原発災害の現実にも、原発の内在的危険の本質にも、エネルギー経済危機解決の道筋にも、まったく近づくことはなく、遠ざかるばかりだったのだ」(pp.3-4)

 

私たちは、メディアを介さないで何かを知ることはできない。だが、報道にいたるプロセスやマスメディアの制約に気づかないまま、新聞やテレビの記事や映像を読み解き、情報の正確さを求めても、マスメディアが用意した囲いの外にはでられない。ニュースを追って現実に起きている事態に向き合おうとしない私たちの心性の落とし穴について、中尾ハジメさんは『スリーマイル島』(野草社、1981でも次のように警告している。

 

「私たちの報道こそ,私たちの思考に阻止的にはたらいている力だ,と考えることは,はやとちり,飛躍といわれるかもしれない。が,報道こそくせものだということを,諸刃の剣だということを忘れずに強調しておきたい。

簡単なことだ,くどくどいうまでもない。私が現地につくまで聞いたことと聞かなかったこと,そして現地で聞いたことと聞かなかったこと,そこにはあまりにも歴然とした差がある。ことこの出来事についていえば,私たちが報道によって世界を測っているかぎり,私たちは世界に適合していないということがわかる。ようするに私たちはうかつだったのだ,という答えも無邪気にすぎるだろう。

いや報道と現地の差は,抽象的で要約されていることと具体的で詳細であることの差ではないのか,と一般論に説明をもとめる人がいるかもしれない。私たちは個別なことがらの詳細をただ収集し,その分量に鼻の穴をひろげるだけが能ではなく,そこから原理をひきだし方針をたどるという心づよい特性があるゆえに,この反論は一応もっともなのだ。しかし,これはやはり大うそである。

単純にいって,そこから原理をひきだすはずの具体的な,なまの混沌にも,その詳細にも,私たちの報道はむかいあわなかった,というべきだ。おそらくは最良の記者たちでさえ,彼らがむかいあったのは事態そのものではなく,技術陣の物理的危機への対応,識者のコメントだった。それ以外どういう取材があるというのだろうか,と疑わせるほど事態は,そのなりたちも,処理のされかたも,平均的人間からすでに疎遠なのだ。そう,記者がそのなかへとニュースをもって帰る人びとの側に,ニュースにではなく事態にむかいあおうとする意志がはたらいていないとき,この間接的取材の閉鎖回路は自動的に完全になるということも,つけくわえておかなくてはならない」(Ⅹ)

 にほんブログ村 教育ブログへ人気ブログランキングへ

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 読書という場の不自由さや制... | トップ | 異質な「他者」との関係を築... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

メディア」カテゴリの最新記事