ケニチのブログ

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僕が肉を食べない理由

2021-01-17 | その他
 私は春から生物のからだを食うのをやめました――.「ビジテリアン」としての宮沢賢治の,よく知られた手紙の一文だが,やはり読むたびドキッとする.ここでの生物とは,もちろん牛や豚などの動物のことで,日ごろ人々が肉を食べることの本来の意味を,賢治ならではの率直さでよく言い当てている.農業と創作を通して,世界を一連の有機的な繋がりと捉え,そこへほとんど同化するように生き,そして死んでいった作家である.

 僕が食肉を段階的にやめるようになってから,そろそろ3年になる.とはいっても厳格なものではなく,たまにふと食べたくなって食べることもあるし,会食など社交の場では,気にせず何でも食べる.また,鶏卵や魚については,やめていない.何ともいい加減なやり方であるが,食生活はあくまで楽しく快適に送りたいという考えもあり,むやみに禁止事項やルールを作らないようにしているのだ.肉を食べるか食べないか,というごく私的な選択を,いちいち周囲に表明するのが,僕の趣味ではないということもある.

 もともとは,動物が好きで,殺される彼らのことを想像すると,食べられないという単純な理由で始めたのだが,今もそれが最大のモチヴェーションである.もう少しちゃんと言うと,「自分で殺せないと思う相手を食べない」ということである.たとえば,自分が極度の空腹で,目の前にいる牛の頭を叩いて殺し,その肉を貪らねば餓死する,という状況を想像してみると,それでもやはり,足がすくんでできないと思うのだ.そうだとすれば,絶対にできないその厄介な仕事を,他の誰かに押し付けておいて,自分は美味しい肉だけもらってきて食べる,というのはアンフェアだろう.映画『ブタがいた教室(「映画「ブタがいた教室」/2020-10-01」)』の劇中,学校で飼い育てたブタを食べるかという議論のなかで,ある児童から発せられた,食べたいと思うなら,自分で殺して解体して,それから食べてください,という訴えは,極論ではあるが真っ当な発想であり,誰にとっても耳の痛いものだ.

 食肉の是非を問うたび,「じゃあ植物は殺していいのか」との論点が登場するように,結局,僕たちは何がしかの生命を犠牲にしなくては,食事をすることができない.それを当たり前のことだと開き直って何でも食べる,ということもできるし,いや,どこで線を引くかという問題なのであり,自分は野菜と豆だけ食べよう,とか,ケモノはやめておこう,ということもできる.食べるけれど,殺された生き物に思いを馳せるというのも,無意味ではない.何が正しいというのではなく,自身の食という営みをどう捉えるのか,個々人が判断する以外にないのである.もっとも,世の中には果実しか口にしないという人たちがいて,何物をも殺さずに食事するという清らかな生き方も,じゅうぶん可能な一つの選択肢であることを実証している.

 前述のブタの映画を観ながら,改めて思い出したのが,僕が小学校時代に経験した,「鯉のから揚げ事件」である.校内の観察池(現代ふうに言えばビオトープ)で飼っていた鯉が,夜間に誰かのいたずらに遭い,胴体に木の枝切れが貫通した状態で発見されたことがあった.鯉は瀕死の重傷であったが,別の水槽に移し手当したところ,何とか生き延びてくれた.その顛末を見守った全校に,鯉の生命力への驚きと歓声が流れ,一件落着と見えた数日後のできごとである.スペシャル・メニューと題して給食に出された珍しい一品が,鯉のから揚げだったのだ.それが,自分たちの飼っているのとは別の鯉だというのは分かっているが,いかにもタイミングが悪すぎる.僕たちは食卓を前に絶句し,涙ながらにから揚げを完食したのである.誰が意図したのでもない,偶然の「食育」の機会となったわけだが,あのときのショックと,ショックのなかに味わった,から揚げがすごく美味かったことは,今も級友たちと会うと,時おり話題に上る.


外部リンク:
『宮沢賢治の菜食思想』 - ねこのひるねブログ 本のこと (2015.11.28)
http://nekohiru2014.blog.fc2.com/blog-entry-103.html
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