丸顔おばさんのブログ

すべての問題は「心」に通ず。
リンドウの花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」「正義」「誠実」

死について

2022-07-29 10:01:16 | 心の解放シリーズ
みなさんのつぶやきをみているうちに、私も落ち着いてきた。


そう。
4回目、5回目となるといよいよ危ない気がするんで、
ダメもとでもう一度言おうかなとも思うんだけど、たいてい無理だろう。
本人が気が付き始めたら、すきあらば、と思うんだけど、
そう思いすぎると、それが相手に対する支配になってしまって、争いになるんだよな。



共感コメントが多く、わたしも激しくうなづいてしまった。
そして、
覚悟されている方もいる。そうなるよな。


病院の院長が、メディアも買収済みで、アメリカCDCが「効果がない」と認めたって警鐘をならしているではないか。

すばらしい。もっと言ってくれー--。


私の親は、いわゆる毒親だ。
子どもを支配し、支配しか知らず、自分の感情が死んでいる。

従わなければという思いが強いと、そうなる。
従わなければならないとき、自分の感情は邪魔だ。だから抑圧する。
長年にわたり抑圧していれば、ついには感情を感じなくなる。
こうして自分自身を支配しているから、そのうっぷんをこどもに向けて晴らそうとする。
これが虐待だ。精神的、肉体的。
自分自身を愛せないから、こどもも愛せない。
こうして強いものには卑屈に従い、弱いものは支配するようになる。

これが支配や虐待やいじめをする人の心のおおざっぱなからくりだ。

愛の関わりを教わったことがなく、自分への愛情不足に陥って、他人も支配。
気合と根性でやるやり方しか知らない。

本当は、感情のままにやって大丈夫だし、それが成功への近道だし、同時に引きこもり脱出への道だ。
最近は自分の五感を磨いて表現することで成功している天才が増えてきている。
それはユーチューブのお料理番組などにもいる。
いっぱい稼いでいる証である金の盾が画面に見えている。
こうやって戦わないで、自分を楽しく表現して、みんなに支持されて豊かになる方法もある。
誰のことも押しのけていないし、そこに勝ち負けはない。
でも毒親は、競争で勝って成功したり、我慢して金をかせぐやり方しか知らない。
そうするようにこどもをせきたてる。

結果、崩壊しているだろう。こどもも家庭も、自分の幸せも。
今、幸せでないなら、未来も幸せでない。
我慢や戦いの末に幸せが待っているなんて幻想であっただろう。

話を戻す。

感情を感じなければ、
権力が暴走して姥捨て山みたいなことをしていることなど、まず気が付かない。
そんな権力に無条件に従わなければ、従うものだと思っているわけだし。

上記、共感コメントのみなさんの親御さんが毒親かどうかはわからない。
でもご自分の感情よりも、従うことを優先されていることは言えるのではないだろうか?
ご自分の感情を「感じて」、それからそれを「信じる」ことができないと、まず、無理だ。
テレビや国の言うことよりも、自分の感覚、感情を優先して感じて信じられないと。
これは多くの人にとってハードルが高いだろう。
多くの人は「信じる」ことはおろか、自分を「感じる」こともなく、テレビを無条件で信じる。
従うことが好きならば、あのワクチンを喜んで打つだろう。

そして自分の身になにもおこらなければ、なんの疑問も持たずその親にも打たせるだろう。
これは、あいつらが仕組んだ現代版姥捨て山だと私は思う。

私は親にはリスク情報は伝えた。
(コロナ始まってすぐの2020年から、けっこうしつこく、権力の暴走が始まりましたよ~、うっかりしてるとコロナよりたぶんワクチンで死にまっせと言ってきた)

しかし親は接種した。いまのところ、無事、生きている。

自分は伝えることで、この姥捨て山に加担しなかった。
上記共感ツイートのみなさんも加担しなかった。

伝えるべきは伝えた。
そして最終的に本人が決めて、その責任もご本人がとることとなる。

ご自分の感情を感じて、それからそれを信じることができた。
さらにそれを大事な人たちに伝え、そこに加担しないでいられた。
さらに相手を尊重して押し付けることもしなかった。

よくやった。自分をほめてやってください。

というわけで、まずは感情を感じられないと、人は簡単に悪魔になる。
ここをあいつらが利用する。
だからこんな世の中になっている。

もちろん現実的に打たないと介護施設にいられないとか、そういうこともあるかもしれない。
施設で集団接種が始まったら、じゃあうちもってなって、


施設に入っている方が打たないでいられるのかどうか、私にはわからない。

しかし少なくとも法律は、強制ではないわけだ。


愛の関わりを知らない毒親は、その人もまた親から愛の関わりを教えてもらえなかったということだ。支配されて育ったということだ。

つまり私の先祖たちは代々そんなかかわりをしてきた。

そして、罪悪感を感じることのない姥捨て山がはびこる現代社会となっている。
罪悪感なく自覚なく、支配されたことへの仕返しをすることになる。
こういう機会が訪れてしまうんだ。
無意識に押し込めた傷ついた感情は、叶ってしまう。

おばさんには見えている。
年老いた感情の死んだ親の意識深くに眠らせている、若いころの子どものころの傷ついた感情が。

なんでこうなるんだ!と言うけれど、無意識の視点から見れば、起きていることは、一切の矛盾なくつじつまが合うものなんだ。

つまり、あなたの願いが叶っている。つねに。

こどもの精神と人生を、一生懸命養いながら、破壊した件も。
これもいい息子、娘として親のいいつけどおり従って生きたけどダメでしたと、
罪悪感を感じることなく家を滅ぼし、仕返しするという無意識の願いを、
巧みにかなえている。

そういう力が人間にはある。
マイナスにここまで見事にかなえられるんだから、
プラスに行くことを覚えたらどんなにかすごいんだろうねといつも思っている。

先祖代々の支配のパターンも、もはやゲームオーバーという感じだ。
陰極まって陽となるから、ついに極まったなという感じだ。

自分の感情を感じて、そしてそれを信じて大事にできる人は、
接種をしたくなければしないと意思を言えたり
それが無理でもほかの手立てを考えるとか、いろんな発想が思いつくだろう。
なぜなら、そういう方は自分を愛することを知っているから、周りの人とも関係がいい。大変なときに協力しあうことができるから、そういう前提でいれば選択肢もどんどん広がっていく。

毒親家庭はこどもとだけでなく、ほかの人とも支配関係だ。
だから、あまり人間関係がよくない。
これだと本当に大変なときに周囲の人と協力しあえない。
他に選択肢がないとなって、嫌な人や場所に無理に従わなければならないとなりがちだ。
自分の思い込みと違うものは目に入らないしな。
楽な世界や選択肢があっても目に入らない。苦労に慣れているから。

こういうふうに自分の現実を自分自身がつくっている。
こうやって自分の意識どおりに世界をつくっていく。

そういうわけなので、戦いや支配から降りて、感情を感じて、そのまま表現できるようになると、人とも心がかよい、協力しあえるから安全確保にもつながるんだ。


わたし自身は、若いとき精神疾患のような状態になったこともあったけれど、今は元気に復活してしまった。
わたしはなんでも研究するのが好きだから、自分のそんな精神状態と徹底的に向き合い、研究した。
それで、心のカラクリが少し、わかった。
破滅するカラクリがわかったならば、復活するには反対のことをすればいいだけだ。
病んだからこそわかった。転んでもタダじゃ起きないタイプだ。

自分はいいんだけど、私の兄弟が親の犠牲になっている。

自分の子どもを内面から破壊しておいて、ワクチンのリスクを伝えても打ち、そのうち死ぬとする。
自分のしたことの責任を果たさずに。

ここがどうしても許せないとずっと思っていた。

でも、よく考えれば、親が死ぬことで、兄弟は不安定になり混乱するだろうけど、やっとそんな親から解放されるともいえる。

支配のやり方しか知らない、そんな自分自身と向き合う気もない親は、
死んでくれないと、子は支配から解放されない。

根本的な解決がしたければ、父・母・子・それぞれに取り組むことがある。

なのにそれを指摘すると怒る。すべてこどもにせいにする。自分のしてきたことを棚に上げて。

ということは、まだまだ、そうしていたいということだ。
おそらく今回の人生はそうやって終えたい可能性大だ。

まだ、自分と向き合う強さがない。

自分が責められているようで耐えられない。

高齢になって、いまさら生き方やり方を変えるなんてまずできない。

心の奥深くに眠らせている傷ついた感情がそうさせる。
その感情が納得しない。悔しさや憎しみは、仕返しを実現したいはずだ。
(こんなふうに苦しい感情を無視して眠らせていれば人格的にも向上できないわけだ。
だから感情をコントロールしなければとか、感情を抑えるようなことを言ってる専門家や先生は、心の仕組みを本当はわかっていないと私は思う)

私のように親から離れて復活までできる子はいい。
そうできない子もたくさんいる。

親が死んでくれたほうが兄弟は助かるかもしれない、なんて不謹慎か?

でも、自分の果たすべき責任もはたせない親であっても、
お迎えが来てたら逝ったらよろしいし、
長生きしたとしてもそれはそれでいいし、
あなたの自由にしてくれたらいいからねって思ってあげられたなら、それは愛ではないか?

これは、心から相手の選択を認めている。

みんなのツイートを見てて、そういう発想の転換が私に起こった。

死ぬときは、死んでいいのさって。

陰極まって陽となるかもしれないから。

おまえらの破壊してくれたことは、残されたできる人たちでなんとかしていく。
それは早死にしても長生きしてもいっしょだと気づいた。


よく考えれば、私は小さいころ、父が祖父に対して「死ぬのは許さん」とやっているのを見ていたのだった。

祖父は体が悪いのに酒をやめなかったから。酒を隠したり、ケンカしたりしていた。

そして破天荒に、最期は事業の責任も父に押し付けるように、亡くなった。

こんなふうに「責任を果たさずに果てるのはゆるさん」と先祖代々やっている。

悪いけど、おばさんは、お先に卒業したぞ。

おまえら、いつ逝ってくれてもかまわんからなw(このブログを読んでいるらしい)

こんなふうに自分ができていないことは、親もできていなかったりする。

そこを克服できたとき、親を超えることができる。

こういう取り組みを一人一人がしなけりゃ、家も滅びるわけだ。

マイナスが深化していくわけだから。

いい・悪いを排して、無意識(感情)の視点からニュートラルに、何が起きているか見る。
「死」がマイナスで悲しくダメなこととしか思えないと、そういう見方ができないんだな。

決めつけや常識は邪魔なんだ。


苦しい方の心の立て直しをすることが急務だ。
私の兄弟に限らず、全国的にそういう状態だ。

だれかの死によって状況が変わることがチャンスとなることもある。
早く死ねといいたいわけではない。
自然のなりゆきで、大丈夫。
いい・悪いを頭で決めすぎて苦しまなくていいってことだ。

こうしてお役目を終えて、お迎えが来たら、私だって逝くわけだ。だれだって。

できれば生きている間はあいつらの悪魔の策謀に利用されるのではなく、
そこから多くの人を助けることのほうに命を使いたいではないか?


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