丸顔おばさんのブログ

すべての問題は「心」に通ず。
リンドウの花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」「正義」「誠実」

きびしくしないほうが幸せになるんだ

2022-05-11 00:29:48 | 心の解放シリーズ
なにげにYouTube動画を見ていて、見終わった後、その動画コメント欄を見ていて、
みなさん、ずいぶんときびしいんだなぁと感じた。
ワクチンを打って、大変な副反応に苦しんでいる方についての動画だった。
「あんなワクチンを打つとは、おろかだ」、みたいなコメントが多くて驚いた。

苦しんでいる方を見たあとに、そう言えるのかぁと。
その被害者の方もコメント欄を見るかもしれない。苦しんでいる人にそういう言葉を言えるのかぁと。

その言葉にはきっといろんな思いが込められているのだろう。
ワクチンの問題を発信するだけで、かなり弾圧されてきたから、みなさんかなり、うっぷんが溜まっているだろうからな。
また、接種の圧力を受けて大変な思いをした人も、そら見たことか、と言いたくなるのかもしれないな。


自分がその動画を見た感想としては、その方の苦しみや絶望や今後の不安や、やり場のない怒りなどを感じて、なんとか少しでも無難になることを祈らずにはいられなかった。

感想は人それぞれでOKだし、どんな考えもOKだし、発信するのもまた自由だ。

でも、それだけ他者に対して厳しいということは、自分自身に対しても厳しいってことなんだ。

人間は、他人に対する態度と自分に対する態度は、同じなんだ。

だから、きびしいコメントを書いた方は、きっと自分自身に対しても、「選択をまちがってはいけないんだ」と、つねに厳しく自分を律しているのだろうなと想像された。
こうして自分自身のことも縛っているだろう。
すると、過去の過ちで自分を責めたり否定したりダメなんだという自己否定が心の奥にあるだろう。
きびしいと、そうなっちゃう。

でもね、
自分の選択の結果、大変なことになったとしても、自分がその結果を経験する。
そういうふうに誰もが自分の選択の責任をとることとなるから、自由なんだ。
苦しむ選択をすれば自分が苦しむことで、責任をとる。
誰も肩代わりできない。

だから選択に関しては、おおらかでよいと思うんだ。

自分が選択したことの責任をとる以上は。
責任から逃げたり、人に押し付けるとトラブルになるのね。
でも自分が選択して、その責任をきちんととる限りは自由なの。
たとえその結果、死んだとしても。(ここがつらいところだ、本人よりも周りの人にとってかな)

すると、自分にも、他人にも、どんなでもいいんだよっておおらかになれると思うんだ。

それが「どんなでも受け入れる」「OKする」ということで、自己肯定感に繋がっていくと思うんだ。

だからそういう意味で、いわゆる「まちがった」選択でも、やりたいならやる自由が誰にでもある。それが、この恐ろしく自由な星、地球だ。

だから、そういう意味で、相手に対してはおおらかにいるのが正解だ。
自分に実害がなければ。
具体的な問題があれば、責任を見極めながら話合う必要があるけど。
おばさんの経験では、
相手がどうしようもなくダメでも「ま、それもあんたの自由だからね」と認めてあげると、相手もなんだかうれしそう。
そして勝手に経験して勝手に学んでいる。失敗もしているw
だから転んでも立ち上がる強さが人にはあるんだ。
とくに、自分のした選択であれば。周りが適切に相手の選択を尊重していれば。

逆に、相手の選択を否定して、変えさせようと、もっと言ってやらねばと思っていると、相手はホントにもっとダメになっていくってのがあるんだ。

そして、
他人を否定したり責める人は自分のことも責めてるんだ。

じつは自分を厳しく否定的に見ている。

正しい・まちがってるで、厳しい人、真面目な人は。

この状態のとき、心で感じていない。
頭で、思考で判断して、いい、悪いを決めている。
(それが冒頭のコメントだ。感じてないからきついことが言えるってのもあるだろう)

でも、そんなに心を殺してがんばって厳しくしても、
残念ながら、物事は、「いい悪い」「正しいかどうか」で決まっていくわけではないんだ。

自分が本当はどうしたいと思っているか、こっちが叶う
これを自分の「本当の目的」と呼ぼう。

頭では、「こうするべき、これが正しい」と思っていても、
本心では感情のレベルでやりたくなければ、「やりたくない」が叶っていく。
やらなくていい状況を自分自身がつくる。
この場合「やりたくない」ってのが自分の本心、「本当の目的」なわけだ。
本当は働きたくないけど、仕事行かなきゃとか。そういうの。

こういった、心とアタマの差が大きくなっていくと、マイナスの事態を起こして、問題を起こしてやらなくていい状況をつくるんだ。

例えばトラブルを起こしたり、病気になったり、、、

だから、感情のレベルで本当はどうしたいと思っているか、これが本当の目的で、こっちが叶う。

だから、正しい・まちがってるでジャッジして自分や他人を支配しでも、無駄だ。
本当の目的の方が叶うから。

そういう意味でも、思考が強すぎるのは危ないんだ。頭と心のギャップが大きくなる一方だから。

思考を止める、そして五感や自分の満足のほうを主にする。感情を主に感じている。リラックスして。(緊張してるとできないの)
こういうふうにしていると、だんだん頭と心のギャップが小さくなっていく。
このモードのほうが人生がプラスに、順調に幸せになっていくの。
感じることのなかに幸せがあるから。
そしてそれを叶えるためにどうしようか?って発想して、すこしずつ叶えて、形にしていく。
それなのに、心がどんどん感じられないようになっていってる私たちなんだ。

でも、そんなふうに夢を叶えている人もいる。
お料理動画を出している方で、すばらしい方をみかけた。
本当に料理が好きで、人に教えるのも、喜んでもらうのも、心からうれしいっていうのが伝わるの。
だからレシピもカンタンなんだけど、随所にプロのちょっとしたコツがちりばめられていてとても丁寧だ。
それも本人がつらくがんばっているのではなく、幸せで好きだからやっているのが伝わるんだ。
我慢して、他人との競争に勝って夢を叶えるっていうのとは全然違う。
そういう人も増えてきている。
同じYouTube動画でも、天国も地獄も、両方同時に存在しているのだなぁと思った。

おばさんは、健康にうるさいタチなので、味の素を使っているのが気になった。
それから野菜を10分くらい水につけて食感をシャキッとさせるというのがあったんだけど、栄養が逃げるってのもある。
そこも、心の栄養も大事だから、バランスでやってみてくださいねとお話していた。

そうなんだよ。バランス!心の栄養。なかなか深いではないか。。。

この世の物はすべて、100%いいとか100%悪いとか、そういうものは、たぶんない。

どう見ても毒にしか見えないものでも、それを必要として、それでバランスをとっている人もいる。

たばことか酒もそうだろう。甘い物とか。心のバランスと体のバランス。

なんでもバランスが崩れると問題が出てくる。

そう言う意味では、たとえ体にいいものをとっていても、バランスが崩れることはあるんだ。
おばさんは、菜食していたときに感じた。
菜食で気持ちがいい間はOKだけど、不調が出てきたら、ちょっと見直した方がいいってことだ。
だから絶対的にこれが正解というのは、ない。人それぞれ、体は違う。

あとデトックスも、重金属など出すことが大切といわれ、それはそのとおりなんだと思うけど、必要なミネラルまでもデトックスされてしまい不足することもある。

だからなんでも程なんだよなぁと最近、思う。
これは自分自身にしかわからない。自分の体感を感じてあげることでしかわからないだろう。

あぁ、絶対的な正しい・間違ってるはないって話だったね。
菜食でバランスを崩した人と、たばこ・酒をやっていてもバランスがとれていて元気な人、
いったい、どっちが正しいんですか?って話、する意味がないだろう?

だから絶対的な正しい・間違ってるなんて、人間の思考が作り出したまぼろしで、
ほんとうは、世界はもっとおおらかにできている。
自分にとって、どうか?どう感じるか?だけしかないだろう。
答えはひとそれぞれ違うはずだ。

ワクチンも、私自身はおそろしくて打てないけど、
他人にとってどうかは、人それぞれだ。
結果が悪かったとしても、心を守っていた可能性もある。
社会的立場を守ることを優先したかった、とか人それぞれだ。

これはご本人と本音のお話しなければ分からないことだけども、打って大変な状態であっても、その方の目的が叶っている場合もある。
そのおかげで、仕事をやめられる、家族にやっと甘えられる、理不尽な権力にノーを突きつける、など。
我慢をやめて、自分を愛することを始める必要があったのかもしれない。

日ごろから我慢をしない、自分を愛する、自分を優先していいんだ、それが相手を大事にすることに繋がるんだと分かっている人は、頭と心もギャップも小さいから、
こういう厳しい選択をそもそもする必要がなかったりするんだ。
ギャップが大きいほど、激しい人生になっていくんだ。激しいのが好きな人、やりたい人もいるし、それも自由だ。
だからもし、穏やかなのがお好みならば、我慢をやめていくってことなんだ。
ギャップを小さく小さく。なるべく頭と心を一致させて。
そのためには感情を感じて、頭より、こっちを主にしていったほうがいいんだ。

あるいは、亡くなられた方も、よくわからず亡くなってしまったかもしれない。
私自身、前世の記憶がうっすらとあるんだけど、あいつらの起こした戦争に兵士として参加して死んだ経験をしている。

あのときの私は、男としての責任を果たしたかったんだな。
(こういう思いで打つという選択をされた人も、たぶんいらっしゃるだろう)

でも、今だったら、あいつらの謀略に、みずから戦争に加わるなんて、断固しないだろう。
(それがみんなを幸せにしないことを、死んで、学んだのね。私は)

そしてあいつらのブログを書くということを、今、おばちゃんとして、やっているわけだ。

自分が、こういう学びの段階を経て、今があるらしいことを、なんとなくうっすら知っている。
そして、たぶん、みなさんもそうなんだろうと思っているの。
だから、どんな選択もバカだとは思えないの。

こんなふうに、死んだとしても続きがある。
死んだとしても、なんらかの目的が叶えるための段階なのかもしれないんだ。

人間が、最終的に支配からぬけて、対等な愛の関係を学ぶというのが目的であるのなら、
支配者の謀略の犠牲になる経験を選択したい魂もいるだろうと思う。
前世の私のように。

それは本人の感情に焦点をあてて、今までの経験や今かかえている問題などを見ると、そんな魂の目的までなんとなく見えることがある。

だから、バカとか正しいとかまちがってるとかではなく、人間はバカに見えたとしても深いんだ。

ワクチンに関して、いろいろな情報を教えてあげても、打ちたい人は打つという選択をして、そんな相手を見るのがつらかったというお話をたくさん聞いた。
私自身もそういう経験をした。

でも、こういった深い視点から見ると、たとえ死んだとしても、本人の選択というのは、深い意味があることがわかる。バカに見えたとしても。

そこが感じられると、自分にも人にもやさしくなれるんだ。

だってバカに見えても深いし、それで正解だし、OKだから。失敗しても。
自分の選択したことの責任をとれば、OKだから。
他人があれこれ口出ししてくるのは、他人が私の責任の範囲に入ってきてるわけだから、無視でいいし。

自分の選択ではなく、犯罪の被害に遭われた方なども、深い意識の視点から見ると、なにか、あるんだと思うんだ。
理不尽なことがいっぱいある。
本人より周りの人が苦しむ。
ワクチンもそうかもしれないんだけど、
人類の集合意識のなかに、まだまだ犠牲になるのがいいことなんだっていう思い込みがあるなと思うんだ。
すると犠牲になるという経験をして、「自分を犠牲にしても誰も幸せにならないんだ、問題は解決しないんだ」って納得したいのかもしれない。

(それでも少しでも犠牲を減らしたいから、「それは勘違いなのよ」とずっと言っている。支配者が戦争したいとき、こういう思い込み、危険だろう?)

こういう経験をしたい方は、あいつらの謀略に、今回の人生では気づかないという選択をされるかもしれない。
気づかないで従うという経験をしたいのかもしれない。

それは果たして、バカなのだろうか。

そして、そういった他人を責めている状態もまた、経験したいのかもしれない。
うすっぺらくジャッジして批判して、本当は深かったのか、とある日納得するときまで。

みんな、お互い様だ。

最後は、そんなふうにしてきた自分をも愛する、OKする。
相手もまたOKなんだってところに、いつかはみんな行きつくんだ。

あ、これを言ってしまったら、ネタバレか?

ま、経験して腑に落ちないと意味がないからなw




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