数学教師の書斎

自分が一番落ち着く時間、それは書斎の椅子に座って、机に向かう一時です。

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2022-02-07 19:59:55 | 卓球
 最初の赴任高校は,とにかく通勤が大変で,今から思えば,若かったからこそできたものの,通勤費が8万円もかかるだけでなく,朝は6時前に家を出て,帰宅時間は夜の9時半で,土曜も午後は卓球部の練習で,日曜は練習試合か公式戦なので,休みはありませんでした.実は,長男が生まれた日も朝から家内を病院へ連れていき,その足で,練習試合でした.今では家内につきっきりで出産に立ち会うのが亭主の務めのようですが.当時は何とも思いませんでしたが,今この話をしても信じてもらえそうにありませんね.
 最初の赴任高校は5年で転勤になり,今度は家から車で1時間ほどの津工業高校でした.卓球が強く,その関係での転勤だったかもしれませんが,私としては数学でもっとエネルギーを使いたい希望がありましたが,今から思えば,工業高校の経験も自分にとっては貴重な経験になりました.授業が終われば,数学の課外授業とかはないので,卓球部の練習に直行でした.その年は夏から練習場である武道場が建て替え工事になり,近くの百五銀行の体育館を借りての練習になりました.そういえば,今年の全日本の男子シングルスで優勝した戸上選手の胸には百五銀行のワッペンが貼ってありましたが,気が付いていた人もいるでしょうね.昔から百五銀行は卓球へのサポートで有名でしたし,最近では東京オリンピックの柔道の日本代表の原沢選手も百五銀行の所属でした.

 学校の練習場と違って,銀行の体育館は冷房が効いていて,暑さに参ることはなく,知らないうちに十分な練習が詰めていたのかもしれません.当時,日本チャンピオンだった斎藤清選手も一度練習を見に来てくださって,感動したことがありました.

 当時は三重高校が強くて,春のインターハイ予選では優勝できずに,2位になるのがやっとでした.秋の新人戦も戦力的には,三重高校にかなわないので,何とか食らいついていければという気持ちで,選手と一緒に汗を流したことが思い出されます.総監督の方が,県の協会の理事長でもあり,その年に全日本の社会人選手権が三重県で開催されるので,多忙になり,実質,私が選手の指導をしていました.

 1年生を主体にダブルスを確実にとるような戦術で,迎えた団体決勝,下馬評では不利でしたが,個人戦でもランキングに入ってない選手が県の個人戦1位の相手のエースに勝つなどして,予想を覆して優勝することができました.秋から冬にかけての個人戦でもほとんど優勝して,冬の全日本選手権のジュニアにも県代表として出場する選手が出てきて,冬の駒沢屋内体育館に初めて足を運んだことも懐かしく思い出されます.
 
 この最初の年は,建築科の1年生の担任でしたが,40人のうち10人以上が女子で,意外な印象を受けました.自分も普通科の高校の出身なので,工業高校独特の雰囲気はある意味新鮮でもありましたし,印象深く感じました.学力的にもトップクラスの生徒は地元の国立の三重大学に合格していきましたし,2年に1回の割合で名古屋大学にも合格する生徒がいる,そんな雰囲気でした.(続く)


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