数学教師の書斎

自分が一番落ち着く時間、それは書斎の椅子に座って、机に向かう一時です。

アインシュタイン来日100年

2022-02-18 14:33:12 | 読書
 朝日新聞の昨日の朝刊にアインシュタイン来日100年の記事が載っていました。100年前というフレーズは、2018年の時、100年前のスペイン風邪のことでよく耳にしたフレーズです。

 第1次大戦が終わり、大正時代の日本では、大正ロマンとか言われる時代でもありましたが、学術や文学など知的なものに対する世間の関心も強くなってきた時代ですね。アインシュタインが来日した時の日本の反響は、後にビートルズが来日した時のような騒ぎだったとか。その様子が描かれている本として、本棚にあるのが下の本です。
今から20年ほど前に出版された本ですが、80周年記念で出版されたが、100周年ではこの種の本は出版されないのだろうか。そこには知的なものに対する日本人の感覚が退化しているとさえ思えてしまう。少しページを捲ってみると


こうしてみると、日本各地を訪問していることがわかる。しかも各地ですごい歓迎を受けているのが伺える。

 1922年(大正11年)11月17日に神戸に到着して、その後43日間全国を回ったことになっている。当時、アインシュタインは43歳であった。この本はさしずめ、アインシュタインの日本での写真集ともいうべき本で、貴重な手紙や講演録や写真が収められていて、その内容に関しても貴重な本とも思えます。

 特に印象的な記事に関しては、アインシュタインが京都大学を訪問した際に、学生代表として、祝辞を述べた学生代表の荒木俊馬(としま)のドイツ語はアインシュタインから完璧なドイツ語と賞賛されたところで、当時の京大生の語学の素晴らしさが伺える。ちなみに、この荒木俊馬は当時物理を専攻する学生でのちに物理学者になり、京都産業大学の創設者になる人物であり、私が学生時代にまだご存命で、当時の京都産業大学の総長でもあった記憶があります。そういえば、当時の京都産業大学には、数学者の岡潔もおられていたようでした。友人の京都産業大学の学生がその講義を受けていたとか。もっとも数学ではなく、随筆に書かれていたような内容の講義だったようです。これを聞いて自然科学系の単位がもらえたそうです。岡潔はアインシュタインが来日した時は、京都帝国大学の理学部の物理学科で学んでいて、上記の荒木との関係がありそうです。岡潔は次の年に数学科へ転科したそうです。
岡潔は私が高校時代にその随筆「春宵十話」を角川文庫で読んだ記憶がありますが、数学者が書いた随筆であることと、厚くない文庫本だからかもしれませんが、今は光文社文庫から出版されています。


実はこのアインシュタインの日本に招待したのは、当時の日本の出版社の改造社でした。改造社は「円本」時代を作り上げ、大正・昭和初期に日本の文人・思想家がこぞって執筆した雑誌「改造」を主宰した山本実彦の創設した出版社であった。当時、岩波と双璧をなすと言われた改造社であり、その文化の担い手としての役割をアインシュタインの来日という形で果たしたと言えよう。

 その改造社に関しては、下の本に詳しい。

 
 

卓球,数学,卓球 2

2022-02-07 19:59:55 | 卓球
 最初の赴任高校は,とにかく通勤が大変で,今から思えば,若かったからこそできたものの,通勤費が8万円もかかるだけでなく,朝は6時前に家を出て,帰宅時間は夜の9時半で,土曜も午後は卓球部の練習で,日曜は練習試合か公式戦なので,休みはありませんでした.実は,長男が生まれた日も朝から家内を病院へ連れていき,その足で,練習試合でした.今では家内につきっきりで出産に立ち会うのが亭主の務めのようですが.当時は何とも思いませんでしたが,今この話をしても信じてもらえそうにありませんね.
 最初の赴任高校は5年で転勤になり,今度は家から車で1時間ほどの津工業高校でした.卓球が強く,その関係での転勤だったかもしれませんが,私としては数学でもっとエネルギーを使いたい希望がありましたが,今から思えば,工業高校の経験も自分にとっては貴重な経験になりました.授業が終われば,数学の課外授業とかはないので,卓球部の練習に直行でした.その年は夏から練習場である武道場が建て替え工事になり,近くの百五銀行の体育館を借りての練習になりました.そういえば,今年の全日本の男子シングルスで優勝した戸上選手の胸には百五銀行のワッペンが貼ってありましたが,気が付いていた人もいるでしょうね.昔から百五銀行は卓球へのサポートで有名でしたし,最近では東京オリンピックの柔道の日本代表の原沢選手も百五銀行の所属でした.

 学校の練習場と違って,銀行の体育館は冷房が効いていて,暑さに参ることはなく,知らないうちに十分な練習が詰めていたのかもしれません.当時,日本チャンピオンだった斎藤清選手も一度練習を見に来てくださって,感動したことがありました.

 当時は三重高校が強くて,春のインターハイ予選では優勝できずに,2位になるのがやっとでした.秋の新人戦も戦力的には,三重高校にかなわないので,何とか食らいついていければという気持ちで,選手と一緒に汗を流したことが思い出されます.総監督の方が,県の協会の理事長でもあり,その年に全日本の社会人選手権が三重県で開催されるので,多忙になり,実質,私が選手の指導をしていました.

 1年生を主体にダブルスを確実にとるような戦術で,迎えた団体決勝,下馬評では不利でしたが,個人戦でもランキングに入ってない選手が県の個人戦1位の相手のエースに勝つなどして,予想を覆して優勝することができました.秋から冬にかけての個人戦でもほとんど優勝して,冬の全日本選手権のジュニアにも県代表として出場する選手が出てきて,冬の駒沢屋内体育館に初めて足を運んだことも懐かしく思い出されます.
 
 この最初の年は,建築科の1年生の担任でしたが,40人のうち10人以上が女子で,意外な印象を受けました.自分も普通科の高校の出身なので,工業高校独特の雰囲気はある意味新鮮でもありましたし,印象深く感じました.学力的にもトップクラスの生徒は地元の国立の三重大学に合格していきましたし,2年に1回の割合で名古屋大学にも合格する生徒がいる,そんな雰囲気でした.(続く)