数学教師の書斎

自分が一番落ち着く時間、それは書斎の椅子に座って、机に向かう一時です。

日本史のミカタ 

2020-12-30 06:05:43 | 日本史
 日本史の中でも、中世や明治以降の歴史に興味があり、仕事の行き帰りの列車の中での読書タイムでよく読んでいますが、最近では、中世では、本郷和人さんの新書をよく読んでいます。本郷氏は中世が専門で、よくテレビでも拝見していて、親しみやすい歴史学者というイメージで、手軽に手に取ってその新書版を読むようになりました。

 親しみやすい、軽いタイトルに惹かれ、読み始めると、意外に専門用語も多く、高校時代に必死で勉強した山川の教科書の隅々までを思い起こさないといけないようなことになります。読まれた人はどうでしょうか、意外に専門的なこと多いですね。

 近代史では、大正ロマンから戦前の昭和史などに興味があり、保坂正康氏等の著作はジャーナリストの文章で読みやすく、気が付けば何冊か本棚を飾っています。

 本書は国際日本文化研究センター教授の井上章一氏との対談で、対談といっても、いろいろなテーマを設定しての対話形式というべきかもしれません。

 この本書を読むきっかけは、本郷氏のこれまでの著作も読んでいて、親しみがあることのほか、井上氏もこれまでに話題となる著作を執筆されている上に、井上氏の年齢からして、大学時代おそらく同じキャンパスですれ違っていたと思われるからです。更に、井上氏が、工学部出身であり、同じ工学部出身の自分との共通点を見出し、親近感を持ったからです。

 読んでみると、本郷氏の言質に関しては、これまでの著作にみられるものと共通点があり、親しみやすさがあります。更に井上氏の関西弁でのいかにも京大出身者と思える言質にほっとする親近感を感じます。

 本郷氏の言われるように、日本史を学ぶことは、日本人とは何かを考えることになると思います。いつの頃から、少なくとも昔はなかったフレースに「日本人が好き」とか、「日本の技術は素晴らしい」をよく耳にするようになります。私は、何か不安を覚えるようになりました。自ら自画自賛することへの不安。それは、日本、日本人自らへの不安の表れとも言える。自信がなくなってきた表れかと。ちょうどバブルがはじけてからの時期と一致します。

 これって、軍国主義時代の日本に似てきたのでは?軍国主義の時代最も恐れていたのは、軍の日本国民への姿勢であったのでは?防衛力とか、対外的な姿勢ではなく、自国民への姿勢ではなかったのか?今の政治家たちの知性の無さは、そのことに気がついていない言質や行動に表れているように思う。





文系・理系

2020-12-09 16:39:33 | 読書
 この「文系・理系」という言葉は、高校現場や受験現場では常に飛び交う言葉ですが、私が高校生の頃から存在していて、今も当時とニュアンスも変わらない、こんな言葉というかフレーズも珍しいように感じます。

 そして、おそらく一般的には、高校2年生から今は文系理系に分かれた選択科目が登場してくるのですが、ほとんどの進学高校はそうではないでしょうか。
 私の高校時代は、確かに文系理系の選択科目はありましたが、それは高校3年生からで、しかもクラス編成は文理混合のクラス編成でした。当時は1期校・2期校の時代でしたが、その後共通1次、センター試験の時代になり、クラス編成も今のような高校2年生から文理別で、2年生から選択科目が入りようになりました。日本では文理は受験現場からにその起源はあるようですが。

 さて、今年度からは、センター試験から名称が共通試験に変わりました。内容的には、指導要領が変わったのでもないので、名前は変える必要もないのに、英語の民間試験の活用や、国語・数学の記述問題の導入が動き始めて、その後頓挫したものの、名称を含めてそれらの残骸が残った試験名称とも言えます。教育現場、受験現場からは、大きな迷惑以外の何物でもない感じです。

 忖度という言葉の意味が、最近ほど強く意識された時代はこれまでなかったと思います。実は、教育現場では特に義務教育現場では、これまでも、御用学者と言われる教育学部に居座る教育学者が、文科省のあたかも伝達者のような振る舞いを続けていたことは、意外にも現場以外の人には見えてこなかったようです。

 ところが、族議員と言われる政治家が教育の現場でも現れて、民間の教育産業と癒着した構図が現れてきたのも、規制改革の一つの負の遺産とも言えます。

 大学受験に手が伸びる前に、既に小中の学力試験という全国規模のテスト診断を民間の特定の業者は業務委託して、その延長線上に大学入試のセンター試験での英語民間テストの活用につながってきました。名前を変えることで試験の内容も変えるチャンスと考えられたと推察されます。本当にこの国はどうなっていくのかと。ついつい愚痴をこぼしたくなる自分がいます。

 さて、私と同じ時代の青春を送った物理学者と官僚の対談の本を最近ジュンク堂で手に取り、帰りの列車の中で読みました。
 内容は「タコ壷」と称する日本社会の構図を聞き慣れた「文系・理系」というフレーズの切り口で眺めるという内容です。自分たちは、文系理系ともよくできた人間であるという自負がどこかにあって、それをよりどころにした対談とも取れそうな気はしますが、著者たちと同じ時代に青春を送った私から見ると、著者たちの「麻布中高」だけでなく、私の通った地方の公立高校でも同じ校風が存在していたことをこの本を通じて強く思い起こされました。この対談の背景には、次の本の影響もあると考えられます。
この本は、科学史・社会史・思想史を「文系・理系」というフレーズで色分けしながら眺め直した感がします。

 前者の本を読みながら、読者は、そんな切り口を自らの学びや職業の経験の中で洗い出すと、意外にも誰しも共感するところが多くあることに気がつく。そして、誰しも経験した自らの学校教育を今だからこそ、振り返ることができるといえるのかもしれない。

 読者が自由に考えられる、振り返ることができる場を提供してもらった気がします。こんな内容をお互いが語れる時間は大切にしたいものです。