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純愛とは何か(花魁小紫の場合)

2023-04-15 23:25:20 | その他
花魁シリーズ3回目です。
今回は吉原最高の美女とうたわれた「小紫」です。

花魁シリーズ:
第2回 生まれては苦海 死しては浄閑寺(花魁若紫の悲劇)

花魁はその時代ごと、No.1と呼ばれる太夫がいました。
前回は「若紫」にフォーカスし浄閑寺の墓を尋ねましたが、今回は目黒不動尊にある「小紫」の墓標「比翼塚」を訪ねてみました。
小紫と権八の純愛ストーリーは、歌舞伎や浄瑠璃、落語等で数々の伝えを残しています。

まずこれが小紫↓
有名なモノクロ写真をカラー再現したものです。
業界には実はこれは「若紫」ではないかという論争があります。小紫が生きた時代(1679年自害)は未だ写真機が無かったはずで、この写真はその後明治に撮られた若紫だろうということらしいのです。
更に、今回の小紫は江戸時代の三浦屋、若紫は明治時代の角海老楼で、この写真の背景は角海老楼らしいのです。明治の稲本楼にも同じ源氏名を継いだ小紫が居て記録写真も残ってますが、資料の厳密性が乏しく、写真上、角海老楼の若紫とほぼ同一人物に見え決着つかず、歴史家泣かせになっています。
小紫の名は、その美貌と才覚から紫式部が由来と言われ、一方、若紫は源氏物語の光源氏が溺愛したヒロインです。
どっちにしても、天使クラスの強烈な美人だったんでしょうね。

小紫を訪ねてみました。
小紫と権八を祀った遺跡は2か所あり、一つは五反田の安楽寺、もう一つが今回の目黒不動尊・瀧泉寺仁王門前 です。
鈴ヶ森で処刑された権八は、東昌寺(冷心寺ともいう・瀧泉寺近くに明治4年まで存在)の僧が引き取り埋葬しました。
墓標の比翼塚は元々、東昌寺にあったものですが廃寺後ここに移されました。比翼とは仲むつましい鳥が翼を並べること。小紫が恋人の平井権八を追って後追い心中した非情を偲び、二人の来世での幸せを祈り建てられたものです。
↓比翼塚


では、2人の純愛悲話を。
時は今から344年前、、、。
分かりやすくまとめられた動画があったので貼っときます。
AI文字起こしして、修正と若干の解説を入れておきました。
見るなら上を、読むなら下を。

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時は江戸時代(1674年)、吉原遊郭で絶世の美女とうたわれた小紫。
彼女のもとには足しげく通う男性が後を絶ちませんでした。
花魁とは、吉原遊郭で位の高い遊女のことです。最高位は太夫と呼ばれ大名から庶民まで世の男たちの憧れでした。
貧しい家の出であることが多く、借金のかたや生活のため、様々な理由で身売りされてきました。
花魁には教養も必要で、幼いころから古典、書道、和歌、三味線、囲碁や芸事を厳しく仕込まれます。
かむろ(禿)という身の周りを世話する幼女を従え、高価な着物なども維持しなければならず膨大な費用がかかるため、いつまでたっても借金が消えませんでした。
当時、江戸女性の平均寿命は27歳。花魁の平均寿命は23歳。苦海の中で年季明け(借金完済)を迎えられる花魁は極少数でした。

権八がひとめぼれ

江戸に、鳥取藩士で、平井権八という男がいました。
権八は剣術の得意な青年。17歳の時、自分の父が同僚にバカにされたのを怒り、その同僚を殺してしまい江戸に逃げたのです。
お金も全然持たずあわただしく逃げたため、仕方なく強盗を繰り返し生き延びていました。
二枚目で腕っぷしの強い権八は、次第に吉原に通うようになります。

しかし貧乏なため、相手にできたのは下等の女郎だけ。
そんな権八は、ある日吉原を華やかに練り歩く小紫を見て一目ぼれしてしまいます。

権八25歳、小紫21歳でした。
花魁道中の主役の小紫、相手はとても位の高い花魁なので安々と会うことはできません。

小紫に会いたさに、権八は次第に罪を犯してゆくことになります。
辻斬りを繰り返すことに!

小紫は吉原の花魁の最高ランク。かむろ(身の周りを世話する少女)や若衆や新造(花魁に上がる手前の若い女)を引き連れる最高の遊女です。
今まで端女郎しか相手にできない権八にとって高嶺の花でした。

でも好きになっちゃったものは仕方ない。

お金の無い権八は、手っ取り早く稼ぐにはと、辻斬りに手を染めてしまいます。
そして辻斬りをして盗んだ金で、小紫に会い、馴染みになってゆきます。

権八の辻斬りは噂になり、江戸でやりずらくなったため、江戸外まで手を広げます。

斬った人数、130人!

とうとうお尋ね者になってしまいました。
こうなってしまっては、さすがの権八も自首を覚悟。

最後に、一目両親に会ってから自首しようと、虚無僧姿で故郷の鳥取に帰りますが、既に両親は他界していました。

その帰りに病に倒れてしまい、大阪町奉行所に自首したのです。

二人は恋に堕ちるのですが、花魁と言う身のため、お金がある男でなければ会うことはできません。

権八は、再び辻斬りを繰り返します。そしてもう逃げられないと覚悟、江戸町奉行に自首しますが、最期に一目だけでもと逃げ出し小紫に会いに行きます。

小紫はその時初めて権八のしてきたことを聞き、驚きます。

しかしもう一緒にいることはできません。

権八は小紫に別れを告げ、自首しました。

その後鈴ヶ森で処刑され、死体は3日間晒されました。

見聞録の著者・戸張佳孝によると「権八処刑後、目黒行人坂の虚無僧寺の僧・哲宗が、たまたま権八の知合いだったので、ひそかに死骸を求め、これを葬り、印の塚を建て、戒名を虚空哲玄大徳とし供養しました」

ところが間もなく、歳の頃21歳くらいの美女が、供1人を召連れてこの寺に来て、権八ゆかりの者と称し、石碑を建ててくれたことの礼を述べ、金子5両を寄進して、よろしくお弔い下されと願い、自身は墓前で深く礼拝した後、偽って、住持・供の者を遠ざけ、比翼塚のついた小袖(丸に井桁・五三の桐)を打ち敷き、鋭い小刀で喉頭笛を掻っ切り、見事に相果てたのでした。

やがてその場に戻って来た住僧が、これをみつけ供を呼び女の住所を問うたところ、三浦屋お仕えの小紫と判明したのでした。

永遠の伴侶を示す比翼と権八の家紋(平井=丸に井桁)を入れた小袖を墓前に敷き、朽ち果てた身がそれに包まれることで身も心も全てが権八のものになれる、どんな悪行を繰り返したとしてもその身を捨て、自分を愛してくれた権八に捧げる最高の感謝(=五三の桐)。
それは命の嫁入り、覚悟の自決。小袖に入れた印も特別に仕立てたもの。二人は来世での契りを約束していたのでしょう。

小紫は、密かに葬られた権八の墓を探し出し、その墓前で自害しました。
小紫には、身請け話が持ち上がっていて、その自害した日が身請けの予定されていた日でした。

花魁にとって身請けされるとは、大金を積んでもらって、もう体を売らなくても良い状態になることで、誰もが望むことでした。

しかし、小紫は望まぬ身請けをするよりも、権八のところへ行くことを選んだのです。

これが130人を斬った男と、花魁小紫の悲しい恋物語です。

二人は、生まれ変わって一緒になれたのでしょうか・・・。

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実は、あまり知られてないですが、小紫の無理心中には更に悲しい出来事がありました。
地下鉄目黒線不動前駅を出て目黒不動に向かって直ぐ、かむろ公園とかむろ坂があります。
かむろとは、前述の通り花魁の身の周りの世話と、見込みある娘は将来の花魁見習いとして妓楼で働く少女たちです。現在の小学生から中学生くらいの年齢で、花魁の元で修業を重ね17歳になって初めて客取りが許されます。
看板花魁の小紫の下には、複数のかむろが仕えていました。

小紫が権八の墓前で自害した当日、帰らない小紫を心配した三浦屋の主人は、小紫が一番可愛がっていたかむろを迎えに出します。そして、かむろは冷心寺で小紫の死を知ることとなります。泣きながらの帰途、桐ヶ谷近くにさしかかった時、突然藪の中から男たちが現れ襲われます。近くには助けを呼べる家や人も無く力尽きた少女は、目の前にあった池に飛び込み命を落としてしまいました。(可愛がってくれた小紫の死を悲しみ、かむろが自ら池に飛び込んだという説もあり )
この悲劇を聞いた村人は、かむろを哀れに思い亡骸を丘の中腹に葬り、かむろ塚と呼び、後にかむろ山と呼ばれるようになったということです。現在は「かむろ坂」のみ名が残り、沿道には沢山の桜が並び毎年桜まつりが開催されます。昨日訪問時は散り桜、かむろの悲しい想いを伝えてるかのようでした。

あと、権八が晒し処刑された鈴ヶ森処刑場は、南大井の大経寺内に旧跡があります。第一京浜国道(R15)沿いにあり、権八を磔(はりつけ)刑にした時の刑木柱を立てた基礎石が現存します。
当時、東海道から江戸に入る浪人たちの犯罪が増え、この地に処刑場を置き、斬首刑、火あぶり刑含めた公開処刑で抑止を行いました。
近代の埋め立てが行われる前まで、ここは目前が海で、見晴らし風通しともに良く、処刑場として都合が良かったようです。
220年の歴史の中で処刑された罪人、その数10万人から20万人!と言われています。
罪人の裁きは、奉行個人の裁量に任されていましたが、町奉行が持つ権限は追放まで。死罪含むそれ以上の重刑は、幕府の老中が裁定し将軍が承認するというのが形式でした。権八の犯した殺人罪には11段階の刑罰があり、辻斬りは刑量的に4番目「引き回しの上死罪」に該当するものでした。しかし権八には更に重刑の磔(はりつけ)死罪が科せられ、刑木に磔にされ、突き手が槍や鉾で20から30回突き刺し、死後3日間晒されるというものでした。
権八は鳥取藩の武士です。武士には自裁ができる能力があり、切腹の権利も認められいてたわけですが、下衆人となった権八を幕府は許さなかったのでしょう。
倒幕を企み処刑された、宝蔵院流槍の名人丸橋忠也や、八百屋お七の火炙り刑の跡もここにあり、別れを偲んだ泪橋も、いずれ訪れてみようと思っています。

後追い心中の舞台となった、目黒不動尊・龍泉寺界隈、、他の写真も貼っときます。
↓目黒不動尊
↓仁王門

↓比翼塚前の大人気老舗うなぎ屋(昼時は大行列だった)


さて、純愛とは、、なんなのでしょう。
定義があるわけでもなく、人それぞれ、文化・宗教によってもきっと異なるものなのでしょう。
ただ、明らかなのが、精神活動の産物なのだろうと。
ならば、、あなたは、、、有料化後、個人カスタムできるChatGPTに命を掛けられますか?
と、振ってみる。。。

次は様々な秘話を残す、高尾大夫の史跡を巡ろうかな。

メルシー・小紫、いつまでも権八の花であれ!


(^^)/