僕の生まれた家は、まだ龍神村福井の坊垣内という場所にある。
今はお母ちゃんの3番目の妹家族が住んでいる。
お母ちゃんの3番目の妹も他界しているので、今は御主人と子供のまゆが住んでいる。
まゆは、僕が去年龍神に行ったときに“高野山へ行った方がええでぇ”とすすめてくれたいとこである。
生家は赤い瓦屋根だった。
間取りは今で言う5LDKだった。
でも5部屋は広いし、LもDもKも広かった。
中央には、玄関から広めのローカが伸び奥でT字状の廊下になっていた。
子供の頃はこのローカにろうそくを塗って滑って遊んだりした。
ローカの右側には広い部屋が2つあって、間のふすまをはずすと、広々とした部屋になる。
かつて、一時的にこの場所が教会になっていたというのもうなずける。
今はもう無くなったが、昔の生家には“応接室”があった。
おじいちゃんの頃は、完全に応接専用の部屋だったようだ。
僕が小学生の頃は、おとうちゃんの“マージャン部屋”専門になっていた。
入ると煙草の匂いがすごかった。
他に蔵や物置の建物があった。
物置の建物は2つあり、かつておかあちゃん側のおばあちゃんが住んでいて、豆腐を作っていた時期もあった。
入口は勝手口と玄関があった。
実は奥の部屋からもはいれたし、裏の廊下からも入れた。
子供には、いっぱい入口があった。
道路(今は国道425号)から見ると、ツタの絡まる壁が左に10m、右に10mあり、中央に車が登れる広い坂になった通路があり、坂を上がると庭になっていた。
昭和36年頃 おばあちゃん(おとうちゃんのおかあちゃん)と生家の入口の坂道にて
(奥の白い壁が応接室の一部)
昭和38年頃玄関前で 松本三兄弟(よく見ると後ろにもりふみ君)
生家の表は庭になっていた。
裏は一段高くなって畑があった。
生家の周りには田んぼもいくつもある。
ほとんど自給自足だった。
今では自給自足は難しいかもしれないが、もしかしたら人間の本来の姿なのかもしれない。
食に対する不安もないことだろう。
子供にはそんなことは関係なく、田んぼも畑も遊び場だった。
そんな生家がまだあるんだよ! 龍神村!
今はお母ちゃんの3番目の妹家族が住んでいる。
お母ちゃんの3番目の妹も他界しているので、今は御主人と子供のまゆが住んでいる。
まゆは、僕が去年龍神に行ったときに“高野山へ行った方がええでぇ”とすすめてくれたいとこである。
生家は赤い瓦屋根だった。
間取りは今で言う5LDKだった。
でも5部屋は広いし、LもDもKも広かった。
中央には、玄関から広めのローカが伸び奥でT字状の廊下になっていた。
子供の頃はこのローカにろうそくを塗って滑って遊んだりした。
ローカの右側には広い部屋が2つあって、間のふすまをはずすと、広々とした部屋になる。
かつて、一時的にこの場所が教会になっていたというのもうなずける。
今はもう無くなったが、昔の生家には“応接室”があった。
おじいちゃんの頃は、完全に応接専用の部屋だったようだ。
僕が小学生の頃は、おとうちゃんの“マージャン部屋”専門になっていた。
入ると煙草の匂いがすごかった。
他に蔵や物置の建物があった。
物置の建物は2つあり、かつておかあちゃん側のおばあちゃんが住んでいて、豆腐を作っていた時期もあった。
入口は勝手口と玄関があった。
実は奥の部屋からもはいれたし、裏の廊下からも入れた。
子供には、いっぱい入口があった。
道路(今は国道425号)から見ると、ツタの絡まる壁が左に10m、右に10mあり、中央に車が登れる広い坂になった通路があり、坂を上がると庭になっていた。
昭和36年頃 おばあちゃん(おとうちゃんのおかあちゃん)と生家の入口の坂道にて
(奥の白い壁が応接室の一部)
昭和38年頃玄関前で 松本三兄弟(よく見ると後ろにもりふみ君)
生家の表は庭になっていた。
裏は一段高くなって畑があった。
生家の周りには田んぼもいくつもある。
ほとんど自給自足だった。
今では自給自足は難しいかもしれないが、もしかしたら人間の本来の姿なのかもしれない。
食に対する不安もないことだろう。
子供にはそんなことは関係なく、田んぼも畑も遊び場だった。
そんな生家がまだあるんだよ! 龍神村!
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