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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

よくわかる新田次郎 山を描ききった作家の肖像

2021年06月14日 14時00分07秒 | 読書・登山


第1章 わたしと新田次郎
第2章 素顔の新田次郎
第3章 山と新田次郎
第4章 原作者・新田次郎
第5章 発掘。「山と溪谷」初出作品
第6章 新田次郎を感じる山旅
資料編

私は長野県諏訪市角間新田の生まれである。
新田生まれの次男坊だから新田次郎というペンネームをつけた。
本名;藤原寛人

ダケカンバという木は同種の群生を好み、他の樹木と混生するのは嫌いらしいが、どういうものか、シラビソの木とか仲良く共存しているのが面白い。

私の生まれる前に物好きな父が、レルヒのスキー術を高田まで見に行って来た後、大工に作らせたものだった。わたしの履いている明治時代のものと大変な相違のあることを感じた。

二かかえもあるような赤松の大木があって、マツタケがよく採れる山だったが、戦時中木造船の材料にあるという理由で供出を強要され、一本残らず切り倒したため今は雑木林になっていた。

火山、アルビノ、ダッチワイフ 石川直樹
はじめて読んだ新田次郎の著書は『八甲田山死の彷徨』だった。
高校生の頃だったと思う。

ぼくが改めて取り上げたいのは佳作ともいうべき「昭和新山」ほかの短編である。
文春文庫の『昭和新山』には、表題作の他に「氷葬」「まぼろしの白熊」
「雪呼び地蔵」「月下美人」「日向灘」といった短編が収録されている。

「まぼろしの白熊」、僕の好きな掌編の1つである。
これは、新潟の山奥に出没した真っ白いツキノワグマの話だった。

自分のなかで最も印象に残っている物語は「氷葬」である。
これは、日本の南極観測隊に持ち込まれたダッチワイフの話だった。
滑稽な話でありながら、新田さんの真面目な語り口によって、逆に面白みが増す。
日本のダッチワイフの発祥が、南極観測隊にあったと知ったのは、この「氷葬」を読んだからに他ならない。

日本から初の南極観測隊が結成される段になって、1つの問題が浮上する。
禁欲の生活が1年も続けば、隊員たちの気がふれてしまうのではないか、という懸念だった。

「保湿洗浄式人体模型」という呼び名を使っている。
その人形について正式に隊の決済がおりると、義足屋に人形制作の話が持ち込まれ、見積もりを出してもらうことになった。ところが、想定していた予算ではまったく足りず、結局は人形の両手両足をなくし、さらに「恥丘に密植させるべき人毛をブタの毛に変更」したというのだ。

新田さんが小説のテーマに選んだ極限のストーリーは、時代が変わっても色褪せないものばかりである。世界は面白い、そう心から思わせてくれる数々の新田作品は、これからも読み継がれるべき書物の1つだと確信している。

昭和47年(1972)3月、富士山で大きな遭難事件があった。
台風なみの暴風雨により御殿場2.5合目付近で大雪崩が発生、24人が犠牲になった。類をみない大規模な遭難であった。
連合赤軍のアジトが丹沢で見つかったのが1月初め。
榛名山南面のリンチ遺体発掘現場

『春富士遭難』『新雪なだれ』
富士山では雪崩のことを雪汁という。
その雪汁が押し出して、小屋をつぶし谷を埋め、森林までおし倒したことがある。
無線電信講習卒の測候技師であり、富士山頂観測所に6年間勤務した新田次郎は、「雪汁」の実態、またその恐るべき威力をよく知っていた。

54歳で気象庁を退職し、14年後に亡くなるまでフルタイムの作家として執筆を続けていた。
20代の6年間、富士山頂観測所で勤務している。

2009年夏。新田の小説『剱岳<点の記>』は映画化された。
この本の取材のために、新田は64歳で剱岳に登った。

新田さんは、白馬山頂に50貫(明治時代に 1貫 = 正確に3.75キログラム(kg) と定義されたもの;190キロ)もの花崗岩の風景指示盤を運ぶ富士山の強力を主人公にした『強力伝』で直木賞を受賞された。

「一番上の風景指示盤になっているのが20貫、真中が50貫、下のが30貫くらいあるんですよ。あれを一人で背負いあげたんですから、大変な強力ですよ」

『遥かなるケンブリッジーー一数学者のイギリス』藤原正彦

『流れる星は生きている』藤原てい

山は本来、不毛の地であり、悪天候をもたらし、交通を遮断し、人間に悪害しかあたえない地表の突起にすぎなかった。人間を寄せ付けない拒絶的な山は、信仰の対象として、「下界」から隔離されていた。これが登山の対象とされて、人間が関わるようになってから、山は文化を生んだ。新田次郎の作品もその文化の収穫である。

登山は無償の行為と言われる。
生命の危険を冒して山に登ったところで、なんの得もない。
登山にはレフェリーもギャラーもいない。

植村直己
「もうひとつは日本の最北の稚内から鹿児島までを実際に自分の足で歩いてみたんです。この間は3,000キロあるんですね。これを52日かけて、実家に寄ったとき、一日休養しただけで、歩いてみたわけです。一日平均60キロですが、漠然と3,000キロとはこういうものだという自分の感覚を得ることができました。それともう一つはいま自分の体だと100キロ、200キロとはどういうものなのか、何日で歩けるか、そういうことが実際にわかりました」


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