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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

氷葬  新田次郎/著

2021年06月26日 14時49分32秒 | 読書・文学
南極大陸の昭和基地で見る真夏の太陽は、なにかしら物憂げに見えた。
水蒸気の厚いベールを通して見る眠そうな表情をした太陽であり、なんとなく遠慮がちに地表上を彷徨する太陽であった。少なくとも熱気を感じる太陽ではなく、やんわりと氷雪に降り注ぐ光は、やがてやって来る、太陽のない冬の南極大陸を暗示するものがなしさが潜んでいるようだった。

南極の夏は12月、1月、2月の3ヶ月であった。
この間はほとんど一日中明るかった。
太陽は地表上を来る日も来る日も休むことなくぐるぐる廻った。
夏の太陽は地表線上を這うように廻るので、太陽が創り出す影は途方もなく長かった。
そしてその長い影もまた太陽とともに、ぐるぐると廻った。

「はじめて参加した者は、夏の間にできる限り基地の周辺を歩いておくこと」
というのが、越冬隊長が新しく越冬隊に参加した隊員に指示した要目の1つであった。
基地の周辺の地形を体得しておくことは、越冬隊員の必修課目であった。

「隊長、女が死んでいます」
「その女は眼を開いていたろう、ぱっちりと。それは人形だよ、北の方だよ」
「中世の領主は、その細君を館の北側の居室に置いた。だから、奥方のことを通称北の方と呼んでいた」
「そうだ、あの人形は等身大の女の身体をしているのだ」
「あの人形の正式の名称は、保湿洗浄式人体模型第一号というのだ」
「南極観測開始に当たって、愚かなる、多くの人間が創り出したセックスに対する恐怖の幻影だよ」
「実体はあっても結局は幻影として終わったのだ」

日本学術振興会南極地域観測後援特別委員会という、日本始まって以来の長ったらしい名称は、この壮挙に、一般国民の浄財を得ようという、云わば寄付金受付所であった。

第一次南極観測隊の隊長として選ばれた青柳直之助は43歳であった。
地球物理学者としてその名は日本よりも海外において知られていた。

「南極の嵐だとか、病気だとかいう危険を言っているのではない。
おれが言うのは、女が居ないということの危険性を言っているのだ。
禁欲生活というものはおそろしいものだ。
きみはなによりも先に、女の代用品としてなにを持っていくべきか考えるのだな。
それが隊長として一番大事な仕事だと思う」
南極にセックスを持ち込むと考えただけで悪寒が走った。

「隊長、越冬隊員のセックスについてはどのような準備をしているかね」
笑いを浮かべるような不謹慎な委員はひとりもいなかった。

「セックスを処理するには非常に精巧にできたものがあるそうではないか。
それを持っていったらどうか」
「性の問題は怖ろしいものだ。おれは戦争中、おおぜいの若い兵隊を扱って充分そのことを味わわされた」
「今度のアメリカ南極観測隊は、電気仕掛けのダッチワイフを用意しているそうだ。
その設計図を見た人の話によると、人体並みの体温を保ち、声まで発するそうである」
しかしその話を追求していくと、それは結局噂に過ぎないことがわかった。

3つの首の髪型がそれぞれ違うのに顔かたちは同じであった。
2体だから合計5つの首になった。
人形が、裸にされた。
人形の恥部に密植された黒ブタの毛はあまりに毒々しかった。
笠部八郎兵衛は薬缶にわかした湯を、人形の臀部の栓を抜いてそそぎ込んで置いて、人形をもとどおりにして、腿のつけ根しかない人形の「そこ」を開いて見せようとした。
「もういい」
青柳直之助は顔をそむけた。
そのとき彼は、いかにしてこの人形を南極に持っていかないようにするかを考えていた。

南極へ持っていったダッチワイフは隊員たちに嫌われて宗谷に積んで持って帰る途中、水葬にした。

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