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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

木曽路『夜明け前』覚え書

2021年06月09日 15時20分52秒 | 読書・文学
塩尻で急行から乗り継いだ名古屋行きの普通列車が、日出塩の駅を過ぎる頃から、車窓の景色は徐々に変化をみせ、いかにも木曽路に入ったという感じがある。
汽車の右側に沿って奈良井川が流れ、木曽の谷底を貫いている。
奈良井川が複雑に蛇行し、くびれて中洲になったところが水田になっていて、そこで働く人の檜木笠が、波打つ穂かげに見え隠れする。

すなわちこの桜沢の碑から新茶屋にある碑までの約80キロの区間を、江戸日本橋から京都三条大橋まで、その間69の宿場を継いで走る中山道の中でも特に「木曽路」あるいは「木曽街道」と呼ぶのである。

木曽路に入って最初の宿場が贄川(にえかわ)だ。

日出塩、贄川、平沢、奈良井の各村は、いずれも川沿いのわずかな谷底の平坦地に、へばりつくようにかたまっている。山々は村を挟み撃ちにするかのように、両側から鋭く滑り込み、中央西線はその一方の山の肩に沿って走る。かつての宿場、あるいは村なども、深い木曽谷のそこに、木曽川に抱かれひっそりと沈んでいる。
山と川と村と、それらがしっくりと溶け込んでいるのである。木曽路はどこを歩いても、深い山のさざめきと、川の瀬音に満ちている。

木曽路は桜沢から馬籠(まごめ)まで、途中11の宿場を挟んで、それを木曽11宿という。
11宿はさらに3つに分けられ、馬籠、妻籠(つまご)、三留野、野尻を下四宿といい、須原、上松(あげまつ)、福島を中三宿、宮ノ越、薮原、奈良井、贄川を上四宿という。
そのうちいまでは馬籠と妻籠の二宿だけが、昔ながらの旧木曽街道沿いにあり、他は国鉄中央西線に沿って連なり、汽車の停車駅にもなっている。

だから贄川から三留野(南木曽)まで、昔は二泊三日かかって歩いていた道のりを、いまでは汽車に乗ったまま、2時間あまりで通ることができる。しかし、木曽路はやっぱり歩いてみなければ、その本当の味はわからない。『夜明け前』の世界に入ろうとするなら、なおさらのことである。

奈良井と薮原の境界にあるのは鳥居峠である。
往時は木曽路を歩くには、どうしてもこの峠を越えねばならなかった。
鳥居峠の峠越えは、諏訪に入っての和田峠と共に、木曽路でも難所の1つであった。

『夜明け前』には次のように描かれている。
『鳥居峠はこの福島木曽の関所から宮ノ越、薮原を越したところにある。風は冷たくても、日はかんかん照りつけた。前途の遠さは曲がりくねった坂道に行き悩んだ時よりも、反ってその高い峠の上に御嶽遥拝所などを見つけた時にあった。そこは木曽川の上流とも別れて行くところだ。
「寿平次さん、江戸から横須賀まで何里とか言ひましたね。」
「16里さ。わたしは道中記でそれを調べておいた」
「江戸までの里数を入れると、99里ですか」
「まあ、ざっと100里というものでせう」
「まだこれから先に木曽二宿もあるし。江戸は遠いなし」
こんな言葉をかはしながら、3人とも日暮れ前の途を急いで、やがてその峠を降りた」

ある者ははるけき東方の空を見て、改めて前途の旅の険しさに身を震い、しばし別離の哀愁に目を濡らしたことに違いない。町人、百姓から武士、大名、奥女中に至るまで、抱く思いに大差はないはずだ。

海抜1,415mの鳥居峠は、太平洋と日本海の分水嶺になっている。
太平洋側の権兵衛峠から発した奈良井川が日出塩を出て間もなく、北流して犀川となり、千曲川と合流してやがて信濃川となる。

薮原はその昔には「合の宿」として栄えた宿場である。
大きな宿場と宿場との間にある中間的な宿場のことである。
旅人の宿泊そのももに供するよりも、むしろ小休憩の場として利用される。
「お六櫛」;ツゲの木で作られた古風な梳き櫛。
お六櫛工房 0264362488
〒399-6201 長野県木曽郡木祖村薮原1260−1

島崎藤村が彼の小説に題名をつける時、それを『夜明け前』とするか、『森林』とするかでずいぶん迷ったということを夫人静子が、彼女の著書『藤村の思ひ出』の中に書いている。

娘は中学校を卒業すると、そのほとんどの者が、春日井の紡績工場に、女工となって集団就職する。「盆、暮れ、あとは盲腸にでもなった時でなければ、めったに家へは帰れません」

木曽福島ーー木曽11宿では今昔とも、最も大きな町である。
木曽福島には、興味をそそられるものが3つある。
1つは秘薬「奇応丸」の本舗高瀬家
高瀬家資料館;〒397-0001 長野県木曽郡木曽町福島関町4788
残りは「郷土史資料館」「木曽郷土館」

木曽福島は御嶽山への登山口でもある。
福島からバスで王滝まで行くほうがなにかと便利である。

福島を過ぎると、次が上松である。
ここは景勝の地「寝覚の床」と、芭蕉の「かけはしや命をからむつかづら」で知られる「桟」で有名なところ。

蘭川(あららぎがわ)
十曲峠

中仙道に六十九次の宿場ができて、木曽谷の部分が木曽街道と呼ばれるようになったのは、慶長年代である。中山道は近江の草津追分より江戸まで132里22丁(520キロ)といわれ、東海道より10里長いが、大井川などの川止めのようなことがないため、実際の旅程は東海道に比べてむしろ短かったと言われる。

『お民、来て御覧、けふは恵那山がよく見えますよ、妻籠の方はどうかねえ、木曽川の音が聞こえるかねえ』
『そりゃ馬籠はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます、どうかするとお天気の好い日には、遠い伊吹山まで見えることがありますよ』

島崎正樹翁記念碑;藤村の実父
島崎藤村;本名:島崎春樹
墓;永昌寺

むしろ顎の出るのは、馬籠の玄関口にあたる「車屋の坂」だ。
馬籠の宿場それ自体が急な坂の傾斜の上にあるのだが、中でもわずか数間しかないこの車屋の坂が、もっともきつい。
この坂の途中から眺める恵那山は、馬籠で目にする多くの風景のなかでも、特に美しいと思う景色のひとつだ。

馬籠は『夜明け前』にも書かれてある通り、田畑の間にすら、大きく現れた石を見るようなところである。
波打つ稲穂の中に、頭を突き出しているそれらの眺めは、まるで海に浮かぶ、無数の小島を見るような景観である。

馬籠峠は海抜800m。
信州サンセットポイント100選 正岡子規句碑
「白雲や青葉若葉の三十里」

王滝村;「滝旅館
『御嶽山の麓にあたる傾斜の地勢に倚り、大滝川に臨み、里宮の神職と行者の宿とを兼ねたやうな家』
王滝が1年で最も活気を呈するのは、全国から信者が集まって御嶽詣りの行われる7,8月の夏季である。午後から夕方にかけてのバスで入り込み、村内の旅館で小休止したのち、真夜中の2時前後に、それぞれ皆装束に角杖を持って登山し始めるのである。山頂で御来光を拝み、帰途はそのまま福島へ帰っていく。これがシーズン中は毎日くりかえされるのである。
滝旅館は村内でもひときわ大きい。どの部屋にも御嶽権現の神棚が祀られている。

御嶽神社 王滝口 里宮
御嶽神社遥拝所

諏訪湖から流れ出る天竜川が、辰野を出て飯田の町に入るまで、ずっと車窓の左側に、あるときは離れ、また近づきながら太く細く、様々な変化を織りなして眼を楽しませてくれる。川の対岸、伊那段丘の上に見える山脈は、仙丈岳、北岳、間ノ岳、農鳥岳、塩見岳、東岳、荒川岳、赤石岳、--。いずれも3,000mを超える、南アルプスの峰々である。

中仙道が木曽街道と呼ばれるのは、北は桜沢から、南は馬籠、十曲峠までだ。
落合を過ぎて中津川へ入ると、こんどは美濃路と呼ばれて、中仙道は途中草津追分で東海道に交わり、京都三条大橋へと続く。

下呂から飛騨高山までの益田街道(国道41号線)

「兄さんがこんなことを言ってゐましたよ。半蔵さんも夢の多い人ですって」
「へえ、俺は自分じゃ、夢がすくなさ過ぎると思ふんだが、
夢のない人の生涯ほど味気ないものはない、と俺は思ふんだが」

美濃落合から中山道をたどって来て、十曲峠の頂に立つと、私はいつも『夜明け前』の世界へのめり込んでしまう。

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