類人猿からわかれ、二足歩行を開始した人類は、極寒のシベリア、アメリカ大陸最南端、太平洋の孤島へと、未知なる環境へ積極的に乗り出した。なぜ移動は可能だったのか? 人類の壮大な移動の軌跡を最新の研究成果でたどる。
リンネが命名した「知恵あるヒト」=ホモ・サピエンス
「動くヒト」=モビリタス
人類700万年と三度のターニングポイント
森から草原へ動いた猿人、
ユーラシア大陸を切り拓いた原人・旧人の「アウト・オブ・アフリカ」
今日の世界への道を敷いた新人ホモ・サピエンスの「アウト・オブ・アフリカ」
猿人の切り拓いた世界(700万~200万円前)
直立姿勢で二足歩行
木に登って樹上の食べ物を採りながら地上では二本足で歩く
ハイエナ・ハゲタカなどのスカベンジャー(腐肉食動物)
アウストラロピテクス・ガルヒ(250万年前)・・・ガルフ猿人
自前の石器作りに成功したのが、ガルフ猿人であり、ハビリス
~~原人・旧モビリタス、アフリカの外へ動く~~
~原人(200~50万年前)、旧人(80~3万年前)の切り拓いた世界~
ネアンデルタール(20~3万年前)
イスラエル・ウベイディア遺跡
グルジア・ドマニシ遺跡
スペイン・アタプエルカ遺跡群
インドネシア・ジャワ島・サンギラン遺跡
「新人アフリカ単一起源説」
エチオピア・ヘルト遺跡・オモ・キビシュ遺跡
旧石器革命・・・道具箱の中身
猿人ガルヒ・ハビリス・@250~
原人エレクトス@160~
旧ネアンデルタール@20~
新人クロマニョン@5=
剥片剥離→石刃(せきじん)剥離
特定の目的のために、特殊な形式の道具
新人の道具の中身、格段に多彩に・・・「もの作り」
入植先の資源環境
ウマ・アカシカ・バイソン・・・ネアンデルタールとクロマニョン両者に共通する三大獲物
クロマニョンではマンモス・ウサギはまた重要なメニューだった・・・道具箱の機能性の高さ
行動の発達→脳の進化→頭蓋骨の拡大・変形
「脳の形態変化」
ジャワ原人・北京原人・フローレス原人@180
氷河期・・・海水面最大120m低下
シベリアの森林地帯タイガ、マンモスの化石発見、当時は草原
スンダランド、マレー半島
最初のアジア人は、基本的にヒマラヤ山脈の南を通ってやってきた。
ボルネオ島・ニア洞窟
4万5千年前~数千年
植物の灰汁抜き技術・・・そのままでは食べれない植物の加工
オーストリアのマンゴ湖遺跡
火葬・儀礼活動
シベリア・ヤナRHS遺跡
アラスカ経由でアメリカ大陸へ移動
関東地方の遺跡から、伊豆七島の神津島原産の黒曜石が利用されている、わざわざ海を渡って石を採取していた。
体温を一定に保つ哺乳類の場合、寒冷地のほうが体格は大きくなる傾向・・・ベルグマンの法則
シベリアに生息する動物は体格が大きく、肉の量が多く、長期保存可能
厳しい寒さに耐えられる衣服と住居があれば、狩猟がしやすい場所
ローレンタイド氷床
コルディアラ氷床
コロラド・デント遺跡
クローヴィス文化
マンモスは南米では発見されていない
1996年、ペルーの標高5000mの山頂から、凍結してミイラ化した少女の遺体発見
500年前に頭部を殴打され死亡。
1999年にはアルゼンチンの標高6700mの山頂から三体の凍結ミイラ
15歳の少女、7歳の少年、6歳の少女
インカ帝国の上流階級では、子供が生贄として選ばれることはたいへんな名誉であり
貴族の子弟のうちでもホクロや傷が一つもない、特に美しい子供が首都クスコに集められ、
1年にも及ぶ長い儀式を経て、アンデス山脈の頂まで移動し、神に捧げられた。
注目したのは頭髪
死の直前1年から2年ほどの暮らしぶりがテープレコーダーのように記録されている
複数の個体で12ヶ月ほど前から「同位体比」が上昇
炭素同位体比の上昇はは、インカ帝国で重用されたトウモロコシを多く食べたこと、
窒素同位体比の上昇は、海産物が上昇したことを示す。
この結果から、もともとはトウモロコシや海産物をあまり食べていない下層階級の子供が、
儀式のために首都ナスカに連れてこられ、支配階級と同じような食生活をしばらく送ったのちに、
山地に送られ犠牲になったと推定、
スペイン人の記録のように貴族の子供だけが生贄にされたわけではない可能性が示された
スタンランド大陸
サフル大陸
驚くべきことに、サフル人は黒曜石のみならず、野生動物も島から島へ運んでいた
狩猟対象の数を増やしていったのである
マヌス島では体重1キロにも満たない小型の「クスクス」や「バンディクート」類を島に運んで食料に
繁殖力が強く、森に放して増やせば森そのものを食料庫として使える
インドネシアでは現在でも狩猟の対象に
オーストロネシア諸語・人
ラピタ文化・土器・・・複雑な幾何学文様
ニア・オゼアニア→リモート・オセアニアへ急速に西方の島々へ移動
ビスマーク諸島から4500キロを450年で一気に移動
ヴァヌアツ・テウマ遺跡。ラピタ人骨の大量発掘
ラピタ文化の人工遺物はかなり豊富で
土器・石斧・シャコ貝斧・黒曜石・刺青用道具・投弾石・石皿・砥石・赤色顔料・骨針
(貝製)丸ノミ・釣り針・装身具
これにイヌ・ブタ・ニワトリの骨も見つかる。
マルケサス・ハワイ・イースター島には西暦800~1000年前後に移動
ニュージーランドへの移動は1250年頃
イラク北部・巨大洞窟・シャニダール
ネアンデルタール人骨のまわりの土壌から発見された大量の花粉化石
花粉は洞窟のまわりに咲いていた花を摘み取って供え葬った証し
実は我々と変わらぬ心の持ち主だったというシナリオが生まれた瞬間
ネアンデルタール人とは、20万~3万年前の中期旧石器時代の旧人。
その人骨第一号は1856年、南ドイツ、ライン川の支流にあるネアンデル渓谷にあった洞窟で偶然発見された
一方、クロマニョン人は後期旧石器時代人で、1868年、南フランス、クロマニョン洞窟で発見された化石を第一号人骨として命名。
「旧人・新人交替劇」=「ネアンデルタール人絶滅説」
~交換劇の経過~
a ムステリアン・タイプの道具箱(ネアンデルタール人)
b オーリナシアン・タイプ(クロマニョン人)
c グラヴェッティアン・タイプ(クロマニョン人)
ムステリアン・タイプの道具箱(ネアンデルタール人)は寒冷期で後退(遺跡数減少)し、
温暖期で繁栄(遺跡数増加)するというパターンを繰り返しながら、3万年前を境にして消滅。
変動する氷河環境に対してネアンデルタール人は道具を変えず、クロマニョン人は変えていった。
彼らクロマニョン人は新たな装備グラヴェッティアン・タイプの道具箱を開発し、
最寒冷期を迎えたヨーローッパ大陸の中に勢力圏を拡大し続けた
道具箱の変化
オーリナシアン・タイプ・4万~2万9000年前
グラヴェッティアン・タイプ・3万~1万9000年前
ソリュートレアン・タイプ・2万1000~1万8000年前
マグダレニアン・タイプ・1万7000~1万2000年前
と新たな道具箱がつぎつぎと考案され、開発されていった。
ネアンデルタール人とクロマニョン人の両社会のあいだに存在した壁
無言の暴力「差別」が、二つの社会を隔てることになり、
それが社会の孤立と弱体化を促し、彼らを終焉に追いやったという「仮説」
紀元前10~8世紀頃、朝鮮半島南部から北部九州に
稲作技術とともに、新しい種類の土器、石器、住居や墓の様式が伝わった。
朝鮮半島に由来する文化要素がまとまって導入されたことは、
人づてに伝わったのではなく、ある程度の人の移動が伴っていたことをうかがわせる。
リンネが命名した「知恵あるヒト」=ホモ・サピエンス
「動くヒト」=モビリタス
人類700万年と三度のターニングポイント
森から草原へ動いた猿人、
ユーラシア大陸を切り拓いた原人・旧人の「アウト・オブ・アフリカ」
今日の世界への道を敷いた新人ホモ・サピエンスの「アウト・オブ・アフリカ」
猿人の切り拓いた世界(700万~200万円前)
直立姿勢で二足歩行
木に登って樹上の食べ物を採りながら地上では二本足で歩く
ハイエナ・ハゲタカなどのスカベンジャー(腐肉食動物)
アウストラロピテクス・ガルヒ(250万年前)・・・ガルフ猿人
自前の石器作りに成功したのが、ガルフ猿人であり、ハビリス
~~原人・旧モビリタス、アフリカの外へ動く~~
~原人(200~50万年前)、旧人(80~3万年前)の切り拓いた世界~
ネアンデルタール(20~3万年前)
イスラエル・ウベイディア遺跡
グルジア・ドマニシ遺跡
スペイン・アタプエルカ遺跡群
インドネシア・ジャワ島・サンギラン遺跡
「新人アフリカ単一起源説」
エチオピア・ヘルト遺跡・オモ・キビシュ遺跡
旧石器革命・・・道具箱の中身
猿人ガルヒ・ハビリス・@250~
原人エレクトス@160~
旧ネアンデルタール@20~
新人クロマニョン@5=
剥片剥離→石刃(せきじん)剥離
特定の目的のために、特殊な形式の道具
新人の道具の中身、格段に多彩に・・・「もの作り」
入植先の資源環境
ウマ・アカシカ・バイソン・・・ネアンデルタールとクロマニョン両者に共通する三大獲物
クロマニョンではマンモス・ウサギはまた重要なメニューだった・・・道具箱の機能性の高さ
行動の発達→脳の進化→頭蓋骨の拡大・変形
「脳の形態変化」
ジャワ原人・北京原人・フローレス原人@180
氷河期・・・海水面最大120m低下
シベリアの森林地帯タイガ、マンモスの化石発見、当時は草原
スンダランド、マレー半島
最初のアジア人は、基本的にヒマラヤ山脈の南を通ってやってきた。
ボルネオ島・ニア洞窟
4万5千年前~数千年
植物の灰汁抜き技術・・・そのままでは食べれない植物の加工
オーストリアのマンゴ湖遺跡
火葬・儀礼活動
シベリア・ヤナRHS遺跡
アラスカ経由でアメリカ大陸へ移動
関東地方の遺跡から、伊豆七島の神津島原産の黒曜石が利用されている、わざわざ海を渡って石を採取していた。
体温を一定に保つ哺乳類の場合、寒冷地のほうが体格は大きくなる傾向・・・ベルグマンの法則
シベリアに生息する動物は体格が大きく、肉の量が多く、長期保存可能
厳しい寒さに耐えられる衣服と住居があれば、狩猟がしやすい場所
ローレンタイド氷床
コルディアラ氷床
コロラド・デント遺跡
クローヴィス文化
マンモスは南米では発見されていない
1996年、ペルーの標高5000mの山頂から、凍結してミイラ化した少女の遺体発見
500年前に頭部を殴打され死亡。
1999年にはアルゼンチンの標高6700mの山頂から三体の凍結ミイラ
15歳の少女、7歳の少年、6歳の少女
インカ帝国の上流階級では、子供が生贄として選ばれることはたいへんな名誉であり
貴族の子弟のうちでもホクロや傷が一つもない、特に美しい子供が首都クスコに集められ、
1年にも及ぶ長い儀式を経て、アンデス山脈の頂まで移動し、神に捧げられた。
注目したのは頭髪
死の直前1年から2年ほどの暮らしぶりがテープレコーダーのように記録されている
複数の個体で12ヶ月ほど前から「同位体比」が上昇
炭素同位体比の上昇はは、インカ帝国で重用されたトウモロコシを多く食べたこと、
窒素同位体比の上昇は、海産物が上昇したことを示す。
この結果から、もともとはトウモロコシや海産物をあまり食べていない下層階級の子供が、
儀式のために首都ナスカに連れてこられ、支配階級と同じような食生活をしばらく送ったのちに、
山地に送られ犠牲になったと推定、
スペイン人の記録のように貴族の子供だけが生贄にされたわけではない可能性が示された
スタンランド大陸
サフル大陸
驚くべきことに、サフル人は黒曜石のみならず、野生動物も島から島へ運んでいた
狩猟対象の数を増やしていったのである
マヌス島では体重1キロにも満たない小型の「クスクス」や「バンディクート」類を島に運んで食料に
繁殖力が強く、森に放して増やせば森そのものを食料庫として使える
インドネシアでは現在でも狩猟の対象に
オーストロネシア諸語・人
ラピタ文化・土器・・・複雑な幾何学文様
ニア・オゼアニア→リモート・オセアニアへ急速に西方の島々へ移動
ビスマーク諸島から4500キロを450年で一気に移動
ヴァヌアツ・テウマ遺跡。ラピタ人骨の大量発掘
ラピタ文化の人工遺物はかなり豊富で
土器・石斧・シャコ貝斧・黒曜石・刺青用道具・投弾石・石皿・砥石・赤色顔料・骨針
(貝製)丸ノミ・釣り針・装身具
これにイヌ・ブタ・ニワトリの骨も見つかる。
マルケサス・ハワイ・イースター島には西暦800~1000年前後に移動
ニュージーランドへの移動は1250年頃
イラク北部・巨大洞窟・シャニダール
ネアンデルタール人骨のまわりの土壌から発見された大量の花粉化石
花粉は洞窟のまわりに咲いていた花を摘み取って供え葬った証し
実は我々と変わらぬ心の持ち主だったというシナリオが生まれた瞬間
ネアンデルタール人とは、20万~3万年前の中期旧石器時代の旧人。
その人骨第一号は1856年、南ドイツ、ライン川の支流にあるネアンデル渓谷にあった洞窟で偶然発見された
一方、クロマニョン人は後期旧石器時代人で、1868年、南フランス、クロマニョン洞窟で発見された化石を第一号人骨として命名。
「旧人・新人交替劇」=「ネアンデルタール人絶滅説」
~交換劇の経過~
a ムステリアン・タイプの道具箱(ネアンデルタール人)
b オーリナシアン・タイプ(クロマニョン人)
c グラヴェッティアン・タイプ(クロマニョン人)
ムステリアン・タイプの道具箱(ネアンデルタール人)は寒冷期で後退(遺跡数減少)し、
温暖期で繁栄(遺跡数増加)するというパターンを繰り返しながら、3万年前を境にして消滅。
変動する氷河環境に対してネアンデルタール人は道具を変えず、クロマニョン人は変えていった。
彼らクロマニョン人は新たな装備グラヴェッティアン・タイプの道具箱を開発し、
最寒冷期を迎えたヨーローッパ大陸の中に勢力圏を拡大し続けた
道具箱の変化
オーリナシアン・タイプ・4万~2万9000年前
グラヴェッティアン・タイプ・3万~1万9000年前
ソリュートレアン・タイプ・2万1000~1万8000年前
マグダレニアン・タイプ・1万7000~1万2000年前
と新たな道具箱がつぎつぎと考案され、開発されていった。
ネアンデルタール人とクロマニョン人の両社会のあいだに存在した壁
無言の暴力「差別」が、二つの社会を隔てることになり、
それが社会の孤立と弱体化を促し、彼らを終焉に追いやったという「仮説」
紀元前10~8世紀頃、朝鮮半島南部から北部九州に
稲作技術とともに、新しい種類の土器、石器、住居や墓の様式が伝わった。
朝鮮半島に由来する文化要素がまとまって導入されたことは、
人づてに伝わったのではなく、ある程度の人の移動が伴っていたことをうかがわせる。