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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

戦火のシンフォニー   レニングラード封鎖345日目の真実

2020年09月18日 11時21分03秒 | 読書・戦争兵器
極限状況下、芸術は何の役に立つのか? 1942年、ドイツ軍に包囲されたレニングラードで砲爆、飢餓、極寒と闘いながらショスタコーヴィチの交響曲第七番を演奏したオーケストラの、驚愕と感動の記録。


レニングラード→サンクトペテルブルグ

ショスタコーヴィチへの脅威

1回目は1936年1月28日の党機関紙「プラウダ」に載った匿名の論文で、
彼のオペラ「ムツェンスク群のマクベス夫人」が「音楽の代わりの支離滅裂」と批判されたときである。
1932年末に発表したこのオペラは、ソビエト・オペラ史上類を見ないほどの大成功を収めていた。
それが突然批判されたのだ。
プラウダ紙上の匿名の記事は党の意見、すなわちスターリンの意志であることは常識だった。
そのスターリンは1月26日のボリショイ公演を観に来ていたが、途中で帰ってしまった。
「プラウダ」紙上で公に「人民の敵」のレッテルを貼られたのだ。
しかもプラウダ批判は、2月6日に再び彼のバレイ「明るい小川」が「バレイの偽善」と非難された。
文学、芸術界にも「形式主義批判キャンペーン」の嵐が吹き荒れ、文化人が片っ端から標的にされてえいた。
「若手作曲家の頂点に輝く星」だった29歳のショスタコーヴィチは、一転して奈落の底に突き落とされたのだ。
この時、強力な救いの手を差し延べてくれたのが、トゥハチェフスキー元帥だった。
恐怖と絶望に打ちのめされたショスタコーヴィチに心からの同情を寄せ、スターリンに嘆願書を書いてくれた。
ショスタコーヴィチ自身も起死回生を懸けて、自己批判の姿勢を示す「交響曲第五番」の作曲に取りかかった。

2回目の脅威は、その作曲途中の1937年6月に襲ってきた。
彼を窮地から救ってくれたトゥハチェフスキー元帥が突然逮捕され、6月12日、銃殺刑に処されたのだ。

この年の11月21日にレニングラード・フィルと新進指揮者ムラヴィンスキー(34歳)が行った
「交響曲第五番」初演の圧倒的成功により、彼は芸術問題委員会から「改悛の情明らか」と認められ、
名誉回復を果たした。その後は党からも優遇され、ようやく安定した生活を送れるようになったのだった。

レニングラードは国の歴史の上で最も重要な都市だった。
建都は1703年。ロシアの近代化を目指した名君ピョートル大帝が、フィンランド湾に面した広大な湿地帯を開拓して
要塞や宮殿等を配し、ここを自分の守護聖人ペテロにつなんで、聖(サンクト)ペテルブルグと命名した。
1812年には首都モスクワからこちらに移すと共に、貴族たちを強制移住させた。
ペテルブルグは2世紀にわたり「貴族の都」として栄えた。
しかしその裏では、貴族階級に搾取され続けてきた大多数の国民の不満が、極限にまで高まっていたのである。

革命の発端は1905年1月に起きた「血の日曜日事件」(第一次ロシア革命)だった。
皇帝ニコライ二世が軍隊の無差別発砲で解散させた事件で、雪の冬宮前広場を血に染めた。
このときは政府軍が民衆を鎮圧した。
革命家レーニンが、革命軍を組織して臨時政府を倒し(10月革命)、ソビエト政権を樹立した。
レーニンは首都をモスクワに戻した。

熾烈な権力闘争に勝ってレーニンの後継者の地位に就いたスターリンは、
工業化と農業集団化を強力に推し進めた。
最高指導者ジダーノフは、工場に軍需生産への切り替えと、24時間操業を命じた。
労働者には一日、14~18時間労働を課した。
ナチス・ドイツの大軍を迎え撃つには、戦闘機、戦車、装甲車、大砲、火炎放射器、手榴弾、地雷等を
製造しなくてはならなかったのだ。
女性や老人は、一日8時間の塹壕掘りと防空壕造りに動因された。

敵機の低空飛行を阻止し、照準を合わせにくくする阻塞気球
「静かなるドン」
「開かれた処女地」
「戦艦ポチョムキン」
「体力を消耗するだけの無駄な労働はやめなさい」というナチスのビラ

ショスタコーヴィチは強度の近視で度の強い眼鏡をかけていた。
塹壕掘りや対戦車壕造りには積極的に参加し、毎日泥まみれになって働いた。
スターリンは「大祖国戦争」と名づけた
「国民一丸となって国土を守り、血の最後の一滴まで祖国に捧げよ!」
「このような非常時に音楽は不要だ」
「大砲が鳴るとき、ミューズは黙る」

カムフラージュ・ネット
尖頭に設置

~~ショスタコーヴィチ、交響曲第7番に着手する~~

国内外を問わず、最も有名で、政府にとって最も重要な試算だったのは、いうまでもなくショスタコーヴィチである。
進軍歌「連隊の歌」

合唱曲「人民委員への誓い」
《偉大なる時は来り、スターリンが勝利に導く、彼の命令は絶対だ、勇気を以って激戦に挑め》


バルト三国、リトアニア人、ラドヴィア人、エストニア人たちは
1940年に突如自国をソビエトに併合させたロシア人を嫌い抜いていたので、
ソビエト国民として戦うかわりに喜んでドイツ軍を通過させたのだった。

「臆病風を吹かせて戦線を離脱する兵士は、階級と地位に関係なく野戦軍法会議にかけ、現地で銃殺されるものとする」
「ルガ防衛線」
「敵は城門に迫った!レーニンの町の全市民よ、不屈の精神で戦え。そして敵を根絶せよ」
「お前たちは退却の専門家だ!」
「お前たちはレニングラードの降伏を画策しているのだろう!」
これで万が一、レニングラードが陥落でもしたら・・・
それはジダーノフとヴォロシーロフの死刑を意味していた。

連結駅ムガー・・・全土からレニングラードに入るほぼ全ての列車が通過する、いわば扇の要の部分だった。
ドイツ軍は、この小さな駅がレニングラード包囲の鍵になることを熟知していたのだった。
これによって鉄道を使った疎開も、市への食料輸送も完全に止まった。
1941年8月30日、「レニングラード九百日封鎖」の始まりだった。

「エカテリーナ宮殿」「パーヴェル宮殿」
ラドカ湖

パラシュートに吊るした一トン爆弾も落とされた。
ドイツ軍のビラ・・・
「家屋の暖房用に焼夷弾をお届けします」
「レニングラードが降伏しないのなら、空襲と砲撃による全面的破壊あるのみ」

ショスタコーヴィチは、市当局から幾度も疎開するように言われたが、拒否し続けていた。
彼の住居はアパートの5階にあったので、空襲警報が鳴ると妻と子供たちを中庭の防空壕に行かせ、
自身は部屋に留まって「交響曲第七番」の作曲に没頭していた。

サンクトペテルブルグ「攻防戦博物館」
カエデのエキスをゼリーにしたもので、ビタミンCの代用品として化学者が考え出した食品。

軍港クロンシュタット島

「ドイツ軍が市に突入すればレニングラード放棄もあり得る。
しかし敵の手に軍艦一隻たりとも渡してはならぬ。
その場合は我々の手でバルト艦隊と沿岸施設を爆破する」
お前の権限で全艦長にその命令を出せ」

クズネツォフ提督は、生粋の海軍軍人として、バルト艦隊を家族同様に愛する人間として、
艦長たちに自沈を命じることなど到底できなかった。加えて、スターリンの赤軍粛清をつぶさにみてきた経験から
今スターリンがレニングラード放棄の責任を自分に転嫁しようとしていることにも気付いていた。

市内の橋や施設にダイナマイトを仕掛ける任務は、筋金入りの共産党員に任せられた。
ある可能性に賭けていた。
それは、赤軍が開発した秘密兵器の多砲身ロケット「カチューシャ」の到着である。
それがあれば、敵の市突入を防げるに違いない。

ロシア人女性の愛称である「カチューシャ」
彼らと戦っていたドイツ陸軍の兵士は、この兵器の外観および発射時に鳴り響く音がオルガンに似ていたことから、「スターリンのオルガン」(ドイツ語: Stalinorgel)と呼んだ。
カチューシャは命中精度が不足しているため、防衛施設を狙うのは野砲などに任せて、ロケット弾を敵兵士の頭上に雨のように降らすことで心理的ダメージを与えることに重点が置かれた。

「一時間前、私は新しい大規模な交響曲の第二楽章のスコアを書き終えました。
第三、第四楽章を完成することができた時には、これを交響曲第七番と名付けることになるでしょう」
私の交響曲は完成に近づいています。完成した時は新作とともに再び放送に出ます。
そして私の努力に対する皆さんの親身な評価を待ちます。」

ボグダノフ・ベレゾフスキーの日記より・・・
「交響曲の印象は圧倒的だった。驚くべき作品、「瞬時の創作」の手本とさえ言える。
複雑で大規模な形式を用いて、今起きていることを伝えていた。
とりわけ第一楽章は内容も形式も革新的だった」

苛立ったヒトラーは作戦を変更した
「我々の目標は達成された。レニングラードは封鎖され、あとは絶滅か餓死があるのみ。
軍を再編成して、北方軍集団をモスクワ戦線に切り替えよ」

全市に仕掛けられていた爆破装置は密かに外された。
「クロンシュタットを海底の藻屑にしろ!」

再開したオーケストラの初仕事、同盟国イギリス向けの放送に選んだ作品は
チャイコフスキーの「交響曲第五番」だった。
「腹が減ってずっと力が入らなかったが、楽器を持ったら力が戻ってきた。音楽は最高の食料だ!」
前線の砲兵たちは砲弾にヒトラーやビスマルクやゲーテの顔を描いた紙を貼り付けて敵陣に撃ち込んでいる。

「ドイツ人は時間に厳格だと聞いていたけど、本当だった。
奴らは空襲まできっかり時間を守って、毎晩7時から焼夷弾を降らし始める」

モスクワ・カザンスキー駅
スターリンは地下鉄を単なる交通手段とは考えていなかった。
最初から戦争になった場合の避難所にするつもりで、地下40mの深さまで掘り下げていた。
演説の最後でスターリンが「ドイツに死を!」と叫ぶと、広場は「ウラー!」の大歓声と祝砲の轟きに満たされた。

ドイツ軍のビラ・・・
「風呂に入って身体をよく洗え。それから白い死衣を着て黒パンと塩でも食っておけ。
棺に入って死ぬ準備をしていろ。
11月7日、ドイツ軍は革命記念日の空を爆弾で染めてやる」

「ベルトを締めて戦おう」という言葉は、経済危機や食糧難に見舞われたとき、ロシア人が使う慣用語。
チフヴィン陥落の日、ヒトラーはミュンヘンで絶叫していた。
「レニングラードは早晩陥落する。包囲の環の中で、市民は餓死する運命にある!」

~死のときを刻むメトロノーム~
メトロノームは普段はアンダンテ(歩く速度)だったが、空襲になるとアレグロ(速い速度)に替わった。
市民は一日中ラジオを付けっ放しにしていた。
「レニングラード攻防戦」という映画で必ず冒頭や各編の頭で必ず鳴っているのが、メトロノームの音だった。
世界最大の共同墓地「ピスカリョフ駅墓地」
ここに市民42万人、兵士7万人が眠っている。

部屋を開けたら、人の肉や内臓や血がいっぱい入った大鍋がいくつも見つかった。
肉のひどい臭いを嗅いで、死ぬかと思った。
町で人肉食がはびこっていることは公然の秘密だった。
放置された凍死体から、胸や尻の肉を切り取り、持ち帰って密かに食べた。
通りにはバラバラになった死体が散乱した。
死んだ夫の死体の一部をスープにして、飢えた子供たちに食べさせた母親もいた。
飢えで気が変になり、自分の子を食べてしまった母親も一人ならずいた。
人肉は1942年1月に最高潮に達し、人肉をマトンや馬肉と偽って売る犯罪組織も横行した。

ラドガ湖は欧州最大の湖である。「命の道」博物館
1月には重量32トンのT34戦車も氷上を渡ったと記録されている。

ベートーヴェン「運命」
チャイコフシキー「交響曲第五番」「第六番 悲愴」
「ジダーノフだ。君らは何でこんな陰気な雰囲気を作っている!何か音楽をやらんか!」
レニングラード最高権力者ジダーノフ、彼の一言は、ここではスターリンの一言に等しい。

交響曲第七番、クイビシェフ初演・・・1942/3/5
トルストイは第七番を「ファシズムに対するロシア民族の戦いと勝利」と解説した。
「私はこの交響曲第七番をファシズムに対する我々の闘争と、来るべき勝利と、そして私の故郷レニングラードに捧げます」

「楽器でも栄養失調になるんだわ。でも治療できるでしょう」

「ショスタコーヴィチの作品はどれもとても難しい。
今のオーケストラの状態で、新たに勉強してやって行くのは無理だと思います」
「この交響曲を初演することは、町が生き続け、負けないためにも必要です。
オーケストラの楽団員は音楽兵士です。戦う精神を捨ててはいけません。」
「新作を指揮するとき、スコアの研究にも増して大切なのは、作曲者の意見を聞くことです。
それが今は不可能です。音符をどう解釈すればよいのかわからないし、
テンポ一つ取っても謎です。何もわからないままでは、指揮はできません」
「この交響曲はきっと我々の不屈の戦いと、未来の姿を描いているに違いありません。
それをレニングラード市民に届けるのは、あなたと我々の使命です。」

何より野菜、特にビタミンCga不足していた。
化学者たちは樅の木や松の木の葉を煮詰めてビタンCを抽出していた。

届いたスコアは大型の暗い装丁で、4冊あった。
しかし、届いたのは総譜のみで、パート譜は、付いていなかった。

~~交響曲第七番 レニングラード初演
「何もかも足りない!この交響曲のオーケストラ編成は、ラジオ・シンフォニーの可能性を著しく超えている。」
演奏のためには、オーケストラのメンバーを最大限増やさなくてはならないだろう
一同が目にしたのは、3管編成を基本にクラリネットが4本、
金管に至っては通常の倍の数、
ホルン4+4、トランペット3+3、トロンボーン3+3、
打楽器群とハープ2、ピアノ1、弦5部、という巨大編成だった。
倍増した金管は、1群と2群に分けられ、2群は第一楽章と第四楽章で圧倒的なクライマックスを築くために使われていた。
オーケストラ全体で最低でも80名は必要だ。

「たかが音楽をやるために前線の兵士を戻せと?冗談を言っているのか?」

途中で杖を持った老婦人が壁にもたれて動けなくなっているのを見た。
私が「おばさん、何か手伝いましょうか?」と聞いたら、
その人は弱い声で「おばあさんだなんて、私は19歳です」と答えた。
私はファシストが町をどれだけ傷めつけたかを知った。

「あなたの手にはまだヴァイオリンではなく、機関銃が感じられます」

届いた交響曲第七番のスコアから、直ちにパート譜を起こさなければならなかった。
パート譜とは、全てのパートが縦に何十段も並んでいるスコア(総譜)から、
個々のパートを抜いた楽譜のことで、
管楽器奏者は一人で一冊、弦楽器奏者は二人(1プルト)で一冊のパート譜を見る。

交響曲のように大編成で長大な楽譜になると、写譜を専門にするプロでないと手に負えない。
交響曲第七番のチュッティ(全奏)では、スコアの五線は30段近くも並び、
全曲の小節数に至っては2210小節もあった。
必要なパート譜も70冊は下らないだろう。
できたての現代作品となると一から作成しなくてはならなかった。
平時であれば、この仕事は写譜屋と楽譜出版社が行う。
しかし、戦時下の、しかも包囲の町では楽譜主出版は機能していなかった。

残る手段は、手書きのパート譜作りである。
これは高度の集中力と専門性を要する仕事である。
一つ音を書き間違えたり、一つ記号を落としたりしただけで、音は濁り、オーケストラは混乱する。
音符や記号は正確に、同じ大きさで書かないと、演奏者は読み違える。

「ムラヴィンスキーと楽団員は、創造の万能性という域に達している。
私は自分の交響曲が彼らによって演奏されるのを聴きながら感じた歓びを、いつまでも忘れない」

結局アメリカでの第七番の初演権は、ショスタコーヴィチとソビエト政府の意向でトスカニーニに与えられ、
7月19日に彼の指揮、NBC交響楽団の演奏でラジオを通した放送初演が行われた。

演奏時間は指揮者のテンポによってかなり差があるが、全曲は、72~80分。
第一楽章、25~30分
第二楽章、10~12分、
第三楽章、13~18分、
第四楽章、17~19分

第七番は第五と同様、ファシズムについてだけではなく、ソビエト体制、総じて全体主義についても描いた、と
率直に語ってくれました。
これを根拠に、第七番はナチス・ドイツに対する怒りだけではなく、
スターリン体制への抗議も込められた作品だった!という見方が広まった


ラドガ湖の湖底に燃料補給のためのパイプラインと電気ケーブルが敷かれた。

ゲネプロ・・・総練習

トランペット奏者がずっとパワフルに吹き続けたあとで最弱音を出すのは、コントロールが非常に難しいそうだ。
小太鼓に乗った「侵攻のテーマ」
金管2群が「抵抗のテーマ」で決然と立ち向かった。
聴き手は血塗られた悲惨な砲爆撃の町と、兵士たちが倒れていった戦場の情景を眼前に蘇らせ、恐怖と怒りに身震いした。
やがて音楽は、葬送の足取りに乗ってファゴットのソロが奏でる、深い悲しみに満ちたレクイエムに変わった。
ロシアの諺の通り「悪いことのあとには良いことがある」

第二楽章は、激烈な第一楽章とは対照的に、優雅で軽やかな音楽で始まった。
ショスタコーヴィチが述べた「穏やかな悲しみと憂愁が、霧のように包み込んでいる」楽章だった。
第三楽章は「生きる歓びと自然崇拝」
第四楽章では「輝かしい勝利」を描いた。
死屍累々の戦場を思わせる弦とティンパニの暗い導入部に続いて、チェロとコントラバスが決然とした楽句を奏し、
音楽は瞬く間に進軍と決戦のシーンに突入した。
勇敢な兵士たちの死とも恐れぬ戦闘を眼前に見るような激烈な音楽が、猛り狂う管や弦によって華々しく盛大に展開された後、
曲想は次第に戦場で倒れた英雄たちに捧げる厳粛な気高い調べに移っていった。
重厚で悲痛な弦の調べが、英雄たちの死を悼んだ。
最後に、情熱的でドラマティックな勝利の瞬間が訪れた。
2群も加わった金管群の咆哮と、打楽器群の強打と、全オーケストラのfffは「全世界に轟け!」とばかりに鳴り渡り、
そのとてつもない大音響はホールのみならず、フィラモニーの建物全体を揺るがした。













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