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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

津軽 

2020年09月27日 16時41分10秒 | 読書・文学
津島修治というのは、・・・太宰治である

私はその吹き出物を欲情の象徴と考えて眼の先が暗くなるほど恥ずかしかった。
いっそ死んでやったらと思うことさえあった。

額が狭いから頭がこんなに悪いのだと固く信じていたのである。

「自惚れちゃいけないぜ。岩木山が素晴らしく見えるのは、岩木山の周囲に高い山がないからだ。
他の国に行ってみろ。あれくらいの山は、さらにあら。」

青森県の県庁を、弘前市でなく、青森市に持って行かざるを得なかったところに、
青森県の不幸があったとさえ私は思っている。

心頭滅却の修行
武士は食わねど高楊枝
とにかく食べ物の哀訴歎願は、みっともない。
あの点は祖先の遺徳と思うより他はない。
論語・饗応により固辞しがたくとも微醺にして止むべし・・・芭蕉翁の行脚(あんぎゃ)掟。
そうして日常瑣事(さじ)の世俗の雑談ばかりした。
見え透いたまずい虚飾を行っているようで、慙愧(ざんき)赤面するばかりだ。

蟹田浜からあがったばかりの蟹になのであろう。もぎたての果実のように新鮮な軽い味である。

蟹田の山・・・観瀾山(かんらんざん)
"太宰治ファンの必見の地、小説津軽でお花見をした場所です。

この蟹田の海は、ひどく温和そうでそうして水の色も淡く、塩分も薄いように感じられ、磯の香さえほのかである。

この山脈は、全国有数のヒバの産地である。
津軽半島の脊梁をなす梵珠山脈
それこそ鼓腹撃壌の別天地のように思われるだろうが、・・・
憫笑(びんしょう)
高邁)こうまい)

観瀾山(かんらんざん)の桜は、いまが最盛期らしい。静かに、淡く咲いている。
爛漫という形容は、当たっていない。
花弁も薄く透き通るようで、心細く、いまにも雪に洗われて咲いたという感じである。
愚昧なる心から・・・
天衣無縫の不思議な気品に打たれて、
史上まれにみる醜男(ぶおとこ

津軽においては、肉を煮るのに、帆立貝の大きい貝殻を用いていた。
これは先住民族アイヌの遺風ではなかろうかと思われる。
家中のもの一切合財持ち出して饗応しても、
津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかもしれない。

「酒は身を飲み家も飲む」
酸鼻戦慄の状を聞き、
春風駘蕩(たいとう)の美徳もうらやましいものには違いないが、
いたずらに過去の悲惨に歎息(たんそく)せず、
その櫛風沐雨(しっぷううもくう)の伝統を、
その三厩(みんまや)竜飛間の荒涼索寞(さくばく)たるさえ、烈風に抗し、怒涛に屈せず、懸命に一家を支え、
瀟洒(しょうしゃ)たる海港の明るい雰囲気の中に・・・
鬱勃たる

私は、まったく、冷汗三斗の思いであった。

今別には本覚寺という有名なお寺がある。貞伝和尚という偉い坊主がここの住職だった。
今別に来て本覚寺を見なくちゃ恥です。
けれども買ってしまってから、始末に窮した。
二尺の鯛をさげてお寺に行くのは奇怪の図である。私は途方にくれた。
そんなら五つに切りましょうと考えるこの宿の者の無神経が、
癪にさわるやら、うらめしいやら、私は全く地団駄を踏む思いであった。
「しかし、また、愉快じゃないか。
三つに切ったりなどしないように、と言ったら、五つに切った。しゃれている。さあ乾杯。」

あたりの風景は何だか異様に凄くなってきた。凄愴(せいそう)とでもいう感じである。
それは、もはや、風景ではなかった。
風景というものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、
いわば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼われてなついてしまって・・・
この本州北端の海岸では、てんで、風景にも何も、なってやしない。

ここは、本州の極地である。このを過ぎて路はない。あとは海にころげ落ちるばかりだ。
ここは本州の袋小路だ。読者も銘肌(めいき)せよ。
「今夜は、この本州の北端の宿で、ひとつ飲み明かそうじゃないか」
希望に満ちた曙光(しょこう)に似たものを、

奥羽とは、奥州、出羽の併称で、奥州とは陸奥(むつ)州の略称である。
陸奥とは、もと白河、勿来の二関以北の総称であった。
名義は「道の奥」で、略されて「みちのく」となった。

いまのアイヌの祖先は、甚だしく去勢されて、堕落の極めに達しているのに反し、
奥羽のアイヌは、溌剌と独自の文化を誇り・・・

蛙が飛び込み、ああ、余韻嫋々(じょうじょう)、一鳥啼きて山さらに静かなりとはこのことだ、
「古池や蛙飛び込む水の音」
そう思ってこの句を見直すと、わるくない。いい句だ。

私はこの旅行で、さまざまな方面からこの津軽富士を眺めたが、弘前から見るといかにも重くどっしりして、
岩木山はやはり弘前のものかもしれないと思う一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかった。西海岸から見た山容は、まるで駄目である。崩れてしまって、もはや美人の面影はない。

十三湖
「津軽大小の河水、およそ十有三の派流、この地に落合ひて大湖となる。しかも各河川固有の色を失はず。」
と「十三往来」に記され、もっとも深いところでも3mくらいのものだという。

溜池の端に、「鹿ノ子滝」という、この地方の名所がある。

木造駅に着いた。ここは、私の父が生まれた土地なのである。
このように山容が美しく見えるところからは、お米と美人が産出するという伝説があるとか。
「そうだろうとも。さあさ、飲みなさい。木造に来て遠慮することはない。実に、よく来た。」
「深浦へ?何しに?」
右の窓に「大戸瀬の希勝」が展開する。
この辺の岩石は「角稜質凝灰岩」とかいうものだそうで、江戸時代末期にお化けみたいに海上に露出して、
数百人の宴会を海浜において催すことが出来るほどのお座敷になったので、これを千畳敷と名づけ
丸く窪んで海水を湛え、これを「盃沼」と称する・・・
津軽の不幸な宿命は、ここにはない。
津軽特有の「要領の悪さ」は、もはやこの辺にはない。

深浦・・・吾妻浜の奇巌、弁天島、行合岬など一とおり海岸の名勝がそろっている
しずかな町だ。
町のはずれに、円覚寺の仁王門がある。この寺の薬師堂は、国宝に指定せられているという。
私は立ち上がって町の郵便局へ行き、葉書を一枚買って、東京の留守宅へ短いたよりを書いた。
部屋は汚いが、お膳の上には鯛と鮑の二種類の材料でいろいろに料理されたものが豊富に載せられてある。
鯛と鮑がこの港の特産品のようである。
意外にも小綺麗な料亭であった。
「深浦の名所は何です?」
「観音さん?あ、円覚寺のことを、観音さんと言うのか。そう。」


私はその広い部屋でひとりでお酒を飲み、深浦港の燈台の灯を眺め、さらに大いに旅愁を深めたばかりで宿へ帰った。
「この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の肴にはいいものです」
塩辛は、おいしいものだった。実に、いいものだった。

鯵ヶ沢。私は、深浦からの帰りに、この古い港町に立ち寄った。
ここの鯵の話はちっとも聞かず、ただ、ハタハタだけが有名であった。
まぁ、海の鮎とでも思っていただいたら大過ないのではあるまいか。
妙によどんだ甘酸っぱい匂いのする町である。
今の時代には珍しく「やすんで行きせえ」など言って道を通る人に呼びかけている。
ちょうどお昼だったので、私は、そのおそばやの一軒にはいって、休ませてもらった。
おそばに焼き魚が二皿ついて、四十銭であった。
おそばのおつゆも、まずくなかった。
それにしても、この町は長い。
町の中心というものがないのである。

大川の土手の陰に、林檎畑があって、白い粉っぽい花が満開である。
私は林檎の花を見ると、おしろいの匂いを感じる。

いいところは後廻しという、自制をひそかにたのしむ趣味が私にある。
津軽鉄道の終点「津軽中里駅」に着いて、それから小泊行きのバスに乗って約二時間。

ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園という踏切番の小屋くらいの小さな駅に着いて、
金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、
そんな駅はないと言われ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言い、駅員に30分も調べさせ、
とうとう芦野公園の切符をせしめたという昔の逸事を思い出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると・・・

その真っ白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。
こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例がないに違いない。
金木町長は、こんどまた上野駅で、もっと大声で、芦野公園と叫んでもいいと思った。

バスは、かなり込んでいた。私は小泊まで約二時間、立ったままであった。
やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。
浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。
人に捨てられた孤独の水たまりである。
流れる雲も飛ぶ鳥も、この湖の面には写らぬというような感じだ。

私は小泊に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。
この北は、山を越えてすぐ東海岸の竜飛である。
この村の築港だけは、村に不似合いなくらいに立派である。

無憂無風の安堵感

小泊小学校
砂山(霊園)

「修治だ、と言われて、あれ、と思ったら、それから、口がきけなくなった。運動会も何も見えなくなった。
三十年近く、たけはお前に逢いたくて「、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮らしていたのを、
こんなにちゃんと大人になって、はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと、・・・」








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