読書とピアノを弾くことは、何か共通点があるのか?
と聞かれたら、
「それは、作者との対話です」
と、答えるでしょう。
絵を見ることも、おそらく演劇などを見ることも、「対話」であり「体験」なのだと思います。
不器用でも、「なにか」がある演奏。
それは、曲から何かしらを感じ取り、音として表現されているということだと思います。
もう少し進めば、曲の構成、転調や和声の移り変わり、リズム、伴奏形の動きや変化、メロディーの動きや装飾される音たち・・・
そういったあらゆることから、作者との対話が始まります。
本当に細やかな、繊細な世界です。
作曲や楽理、歴史観や作曲者の人生観、その時置かれていた状況など、多くのことを学ぶほどに、作曲者との対話は深まります。
では、読書は・・・?
よく、同じ作品も、読む時期や年齢によって、様々な受け止め方の段階があると言われますよね。
前に読んだ時と、少し違う感想を持った。
など。。
やはり、自分が体験し、考え感じていたことが、「読む」・・と言う行為に、力を与えているのではないでしょうか?
本を読みながら、
「うん!そうそう!」
「へ~そうなの?」
「なんでかなぁ~」
「それはないでしょ~」
「なーるほど!」
皆さんも、いろいろ思いますよね。
これって対話の始まりですよね。
「私も同感!」
「いやいや、そうは思わないわ」
から、自分の考え方や感じ方が、はっきりして来たりして、振り返ったり、確認作業が出来たり、
「そういう考え方もあるんだ!」
と、感動したり。。
絵本、童話、児童文学、小説、、
こういったジャンルは、圧倒的に「体験」が主でしょう。
村上春樹の本をお借りして読むと、そこにはシュルレアリズムのような絵画的な世界観の中で、少し戸惑いつつも冷静に感じ思考して、あちらの世界とこちらの世界をすり合わせながら、その中で触れたり感じたりしつつ、調和のような折り合いをつけて、現実世界をよりよく生きる・・・そんな世界観かなぁ・・・と感じていますが、村上ファンの方、そんなとらえ方ではダメでしょうかね~
ついこの間・・・そう、ひと月ぐらい前に知ったのですが、「小説」というのは「小人(しょうじん)の説」という意味らしいですね。
最近ハマっている、小林秀雄が言っていました。
もう、敬称を付ける以上の存在なので、何かの固有名詞化しています~
文学について語っていたのですが、ロマン派以降は「駄作」が増えた・・と・・・
「告白」が始まった。
自分の人生はこうで・・・とか・・云々・・
こういうことは、フランスの思想家、ジャン・ジャック・ルソーから始まったのだそうです。
「エミール」「社会契約論」などで、中学生でも知っている有名な学者。
もーちろん、読んだことなどありません~
で、このblogでもご紹介したことはありますが、彼は音楽家でもあったんです。
子供の時に練習する、フランスの練習曲集「ピアノの練習ABC」の最後から何番目かに、
「3つの音による歌」
という右手はたった3音、左手はちょっと音が多くてしかも静かに弾かないといけないから、ちとムズカシイ・・・と言う曲やら、
「むすんでひらいて」(オペラの中の曲)
など、私たちにも意外におなじみの作品があったりするのですが。。
この方、壮年期には実に立派なことを書き、立派な仕事をした方なのですが、人生の最後の最後で、道徳的にはどうなんだ???
というようなことをやらかしたり、書き綴ったりしているのです。
これが、「告白」
おそらく彼は、「人間って何なんだ」「よりよく生きるとは、立派なことを並べたてることなのか」「人が生きるとはもっと生々しく壮絶なものなのではないか」
いろいろ自問自答するところがあったのではないかと思います。
ピーカンの晴ればかりの人生なんてあり得ない。
とよく言いますが、そんな絵にかいたような、ご立派な人生なんてあり得ないし、人というものはそんなものじゃないと言いたかったのかも知れませんね。
そして、「告白」が始まると、言い訳したり、自分が自分が・・・という「客観性」を欠いた作品も増えるわけで、それを小林秀雄は「駄作」と言っているのです。
なぜ「客観性」が必要なのか?
それは、読者が自分の心の「鏡」として、自分の体験を映せないから。
全く個人的なことでも、そこに「客観性」があることで、「私も同じ感覚を持っている」と、読者が感じたり思ったりできるのです。
これは「演奏」もしかり。
あまりにも、私が私が、、という演奏、、つまり、ナルシスト、、のようなものに出くわすと、ウンザリしてしまう。
その「告白」は、言い訳だったり、自己中心的になり過ぎて、「鏡」にはなり得ないから。
「自己批判」の目を失うと、もはや「芸術作品」からは遠ざかり、お手軽で安っぽい「駄作」になってしまうのだと。。
では、小さい子たちの演奏はどうなのでしょう。
これはもう、「味わう」「感じる」世界だと言えるでしょう。
ここに、どこかから仕入れた「わざとらしさ」「ものまね」は禁物です
その子が心から感じている世界観が表れているかどうか・・・これがポイントでしょう。
そこから、「感じる」・・にプラスして、「思考する」・・ことが、少しずつ深まってゆきます。
こうして、幼い時に始めたことが、10年(6~7年)もすれば、「客観性」を持ったものになり、1人称から3人称へと変換してゆく・・・それが理想だと思います。
ですから、「型」のようなものにはめて、「方法論」・・・つまりhow-toで、どうやったらいいですか?
・・・の姿勢を続けていても、絶対に音楽的自立は無いし、それは他のあらゆることで言えているはずです。
なので、不器用でいいから、
「自分で感じ考える」
これに尽きると思います。
教師とは道案内人でしょう。
先に生まれた人・・・ですから。
「教えることは寄り添うこと」
本当に、河合先生のおっしゃることが沁みます。
ぁ・・・
で・・・読書とピアノを弾くこと・・・
ご理解いただけたでしょうか??
「対話」であり「体験」であること。
独りよがりなナルシストにならず、自己批判の目と耳を持ち、「客観性」を忘れないこと。
「一人称」だった幼い時の感覚から「三人称」にまで、育てること。
これ学術論文でも、同じだと思います。
でも、人まねをしていると、「一人称」にすらなりません。
ここが大事なところかな??
あちゃ~
名文ならぬ「迷文」・・・迷惑のメイ、迷うのメイ・・・ですなぁ・・
では~~
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