赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🔹 【 越中石黒氏の考察】⇒【源平盛衰記】に見られる【六道太郎光景】の素性は【赤丸浅井城城主石黒光景】か?

2021-02-08 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸







▼「源平盛衰記安宅川合戦図」(歌川国芳作)には、木舟城主「石黒光弘」が矢を受けて落馬した場面が描かれている。「安宅川」は加賀温泉近くを流れる河川。

●「源平盛衰記」に、加賀の藤原氏頭領林氏の「林六郎光明」と共に戦った武将に、『六道太郎光景』と言う名前が見られる。
「越中石黒系図」に拠れば、加賀林氏とも縁組をしていた「木舟城城主石黒光弘」は「赤丸浅井城城主石黒光景」の子供で在る。







■【源平盛衰記】の[六道太郎光景]は「赤丸浅井城城主 石黒光景」か?し
🔻「鎌倉時代」に石黒氏は【二上庄】を知行されていた。
(※「鎌倉遺文」)

🔻「越中吉岡庄(赤丸村他)」の「浅井城」は利波臣以来、越中石黒氏の居城で在った。(※「富山県西礪波郡紀要」)

🔻赤丸浅井城の「石黒光景」は源平の戦いで活躍した「石黒光弘」の父親に当たる。(※「越中石黒系図」)










■小矢部川河口の村に、六渡寺村(六道寺村)が在り、「源平盛衰記」の「義経奥州下り」には、「義経主従」は「赤丸浅井神社」の前に在った「二位の渡し」から「如意の舟下り」(六渡寺川舟下り)で、伏木河口の「六渡寺村」の渡し場に降り立ったとされる。又、源平盛衰記では、「木曽義仲」が倶利伽羅山に進軍する前には「六渡寺」に集結した事が記載される。「角川日本地名大辞典」には、【「六渡寺」は平安末期から見られ、寿永二年の項には「木曽義仲が六道寺の国府に着いた」とされ、木曽義仲は大軍を一旦、六道寺に集結させて、後白河上皇の庄園「越中吉岡庄」を迂回して高岡市の「般若野」を経由して小矢部市の「埴生護国八幡宮」に軍を進めたとされる。
この小矢部川河口の地域には、嘗て、古代に「六道寺」と言う古刹が在った事から、「六道寺村」(六渡寺村)に成ったと言う。







■【六道寺村】と【越中石黒氏】
「高岡史料」には、現在の高岡市街地は「往古、石黒一族の鴨島七郎の領地で在った」事が記され、「射水郡史」には、高岡市牧野の地は「石黒氏の牧野太郎二が統治した」事が書かれている。
又、福光町の「吉江村の昔と今う」では、現在の高岡市高田島は「石黒一族の高田孫兵衛の所領」で在ったとされる。
鎌倉時代には現在の高岡市街地から二上山にに至る地域は「二上庄」と呼ばれ、地頭として「石黒弥三郎」が統治した事が「久能木文書」に記載されており、執権の北条経時に呼び出された記録が在る。
「源平盛衰記」には【六道太郎光景】と云う武将が、記載されるが、【六道氏】と言うのはこの辺りの国人領主には見られない。「源平盛衰記」では、「木舟城城主石黒光弘」は「小松の安宅川合戦で矢傷を受けて、回復した後に倶利伽羅山の戦いで活躍した事」が記されている。系図では「石黒光弘」が加賀の林氏と縁組した事等が記されているが、同時期に戦った父親の「石黒光景」としては具体的な記載がない。
「赤丸浅井神社」の前で、小矢部川と庄川が合流していた鎌倉時代には、「木舟城」の脇を通過していた「唐又川」が赤丸浅井神社前に流れ込んでいた様だ。(※「蓑のしずく」)
従って、「木舟城」は、元々、「石黒光景」の居城の「赤丸浅井城」の出城で在ったと見られ、赤丸村に在った「川人山鞍馬寺」と密接な「京都の貴船神社」を「木舟城」の鎮守としたものと見られる。
「木舟城古今誌」には、木舟周辺の地域は「越中吉岡庄」の地頭「吉岡成佐」が、開発したと記載されるが、この人物は「吉岡成佐の不法事件」として鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」にも記載される有名な事件だ。
「保元の乱」で勝利した「後白河上皇」は、元々、藤原摂関家「藤原頼長」の庄園で在ったこの庄園を、自らの「後院領」に組み込み、その収入を「蓮華王院三十三間堂」に寄進したが、源頼朝が義経探索の名目で「吉岡庄」に配置した地頭の「成佐」は、その収穫を「後院」へ納付しなかった。怒った「後白河上皇」は、側近の吉田経房卿を通じて頼朝に抗議文を送り付け、頼朝は直ちに「成佐」を交替させている。
この「吉岡成佐」が、福岡町大滝地区を開発したと「木舟城古今城」には記されている。この事は、元々、木舟城は赤丸浅井城の出城で在った事を示している。



■石黒氏の傍流として射水郡二上庄(鎌倉期、庄域に二墓保[二塚保 フタツカホ ]を含む )の地頭として鎌倉幕府に訴えを起こした「石黒弥三郎」の訴状に対する執権北条経時からの呼び出し状が残されており、射水郡二上庄は鎌倉時代に石黒氏が地頭であったことが判る。
【二上荘の記載】(角川日本地名大辞典)
『※「関東御教書」寛元二年十二月二十四日 ⇒ 当荘雑掌より申し出された問注について幕府は、当荘預所と石黒弥三郎との参決を命じている。(久能木文書/大日本史料)』

■これ等の事から、仏教に心酔していた石黒氏が所有した小矢部川河口に「六道寺」を建てて、自らも「六道太郎光景」と名乗ったものと考えられる。
「越中石黒氏」は、東大寺大仏建立の際に「米五千石」を寄進して越中の国司待遇に成った「利波臣志留志」 の後裔とされており、その持城は仏教に絡んだ「如意城」と呼ばれ、又、名古屋で開いた領地は「如意郷」と呼ばれた。
「六道」とは、仏教用語で、「天道」、「人間道」、「修羅道」は三善趣(三善道)といい、「畜生道」、「餓鬼道」、「地獄道」は三悪趣(三悪道)と云う。



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