「註」これから御紹介するのは浅井神社神官で教員もされていた川人貞良氏の著作の部分である。
[山王村法筵寺の祖先は宗良親王の侍醫であった]
右の証據となる文獻
(其一) 法筵寺旧記
鞍馬寺ハ京都条北鞍馬寺分寺 後醍醐帝第八ノ皇子宗良親王越中川人郷(今ノ赤丸ノ西ノ山ナリ)在居シ玉フ時条北ノ鞍馬寺ヲ分寺シ川人郷ニ轉地ヲ命セラレ一宇建立シテ鞍馬寺ト穪ス眞言宗修験者也(山伏ト云フ)両部神道也 下畧
(其二) 法筵寺寺格昇進ニ付参考書
上畧 往古後醍醐天皇第八之王子越中江御左遷之京都の空なつかしく思召起居被為有之候鞍馬寺と申小堂に而当時も其宮は五位庄庄五十ケ村惣社として修験者坊守仕居候 下畧
(其三)法筵寺由来書を以法筵寺支配之由来申上候
一 私寺先祖七代以前砺波郡赤丸村鞍馬寺末寺眞言宗にて壽慶と申僧寺領に付而当所に居住仕候下略
貞享四年四月晦日
右の証據となる口碑
(其一)法筵寺祖先は宗良親王の侍医であって、その人の処方で作った藥は、藥王である。今も全国へ販賣してゐる。
(其二)法筵寺祖先が宗良親王から拝領したといふ大幅古畫三軸を所藏してゐる。左の通である。
大日如来ノ古仏畫像 壹軸 十六王子古畫像 貳軸
(其三)井波瑞泉寺の本尊彌陀像には「赤丸村鞍馬寺什」とあるが、雲慶の作と見るべきものであると云ふ。法筵寺の本尊も、之に寸分違はないといふ。
右文獻、口碑で法筵寺の祖先は、宗良親王の侍医であったこと、鞍馬寺の分派であること、赤丸村に居住して居たこと。寺領管理の為現地に移ったこと等が知られる。但し本尊が瑞泉寺のものと同一作か否かは専門家の鑑定を要することである。
[愛宕社と愛山家]
愛山家は宗良親王御勸請七社の一つであるといふ愛宕社の神職であったといふ事は前にも書いたが、それは宗良親王の隨臣であったから、愛宕社の奉仕を仰付けられたといふのである。兎に角口碑以上には無いのである。
[加茂社関係の人々]
舞谷村に越後家があった。これは城ケ平の殿様の守本尊加茂宮の神主として越後から来たものである。それで姓を越後と名乗ったのである。祖先が神主であった証據に冠や笏を藏してゐたが、明治三十年頃栃木縣日光に移住した。其の後東京へ出たと云ふ。又、同村に景安家がある。加茂宮の鍵を預る家柄であったと云ふ。景安は鍵安の宛字だと云ふのである。此の二つの傳説は加茂社が宗良親王の御勸請であると云ふこと、宗良親王が越後から御出になったと云ふこと、越後家が越後から来たことを結びつけて、越後家等は宗良親王の隨身でなかったかと云ふのである。
[石川家]
赤丸に在住する石川家は數戸に分かれてゐる。その總本家は庄三郎と云って、赤丸七軒百姓の一に数へられる旧家で、代々家宝として茶釜を傳ヘてゐた。「庄三郎の釜、次右衞門の甕(かめ)」と云ふのは当村旧家の相傳宝物の代表とされたものである。次右衞門も七軒百姓の一である。庄三郎、次右衞門共に宗家は北海道に移住した。 笠置の戰に忠死を遂げた石川義純の子孫が宗良親王の従士として越中に留まり、現に名門として栄えて居るのに思ひ合せて、本村の石川の祖先もその一分派ではないかと推察するのである。
以上は宗良親王関係の赤丸浅井神社に伝わる伝承であるが、著作者は戦前に宮内省が「長慶天皇の御陵」確定の為、赤丸村の調査に来た時の窓口となった方であり、宗良親王塚、総持寺千手観音像等の南朝遺跡の調査を各方面で行われた。その結果、昭和十二年に、現在高岡駅南に在る衆徳山総持寺の千手観音像が国宝に指定された経緯がある。