






越中吉岡庄(赤丸村領)三日市の『鍛冶屋町島』に宇多刀工が栄えたと伝わる。

NHK大河ドラマ『真田丸』に登場する「小山田左兵衛尉信茂」(天文9年?~天正10年3月24日) は甲斐の武田信玄の24将の一人で、その中でも「弓矢の御談合衆の七人衆」と呼ばれて信玄に軍略を進言できる重臣で在った。小山田氏は都留郡を支配した名族で武田家の一門衆(御親類衆)の待遇を受けた名族で、中津森に館を構えて都留郡を支配した豪族であった。勝頼の時には、武田信豊と共に武田氏を支えたが、武田勝頼の滅亡後、織田軍に捕らわれ、主君を裏切った不忠者として甲斐善光寺で一族共々処刑された。小山田氏は坂東八平氏の中の秩父平氏の血を引くとされる。その祖母が武田信縄の娘で武田信虎の妹で在った事から信玄の従甥に当たる一族で武田一族とされる。
小山田信茂の祖父「小山田越中守信有」、父は「小山田出羽守信有」で「小山田信茂」は越前守を名乗り、武田信玄が上杉謙信に対抗して越中、加賀、越前の一向一揆と提携して北陸に暗躍した時に武田信玄の知恵袋としてこの一族は活躍したらしいが、元々は一国の領主だが戦国の定めとして常に武田の家臣として行動する様になったが、実際には北条からも知行されていたとも云われる。武田24将の中には真田氏も入っているが、真田氏と同様に絶えず周辺の強大な戦国大名と集合離散を繰り返して、縁組や家族を人質に出して生き延びる苦しい状況が続いた様だ。武田勝頼の戦況が不利になっていた時にも小山田信茂は母親を勝頼に人質として取られていたが、勝頼を自領に避難させる事を提案して油断をさせ、そのスキに母親を奪い返して、勝頼を裏切った。勝頼は四面楚歌となって自害して果てた。この行動に織田信長は怒って小山田信茂の殺害を命じたとされる。しかし、これにも裏の事情が有り、織田信長の腹違いの妹(織田信秀の娘)は苗木勘太郎の室となっていたが、この娘を織田信長が自分の養女とした上で武田勝頼の室にした経過がある。言わば武田勝頼は織田信長の娘婿で在った為に、小山田信茂の卑怯な振舞いが赦せなかったと見える。
(※浅井長政・柴田勝家の室となったお市の方や越中守山城の神保氏張の室も織田信秀の娘で信長の腹違いの妹で在った。)
この小山田信茂の所持した太刀は有名な「赤雲の太刀」と呼ばれ、独特の赤い網目を施した拵えがしてあった。この太刀は祖父の越中守信有が使用した様で、後には小山田信茂が帯刀したらしい。武田24将の図に描かれた小山田信茂像にもこの太刀が書かれている。束は白の鮫皮で巻かれ、その太刀は越中吉岡庄(赤丸村領)三日市に始めて宇多刀工の工房を開いたとされる「宇多国光」の銘が刻まれた数少ない太刀が使用されていた。この太刀は長く宮城県の愛好家に保管されていた様だが、近年、市場で売却されて久しぶりに日の目を見ている。







『www.nipponto.co.jp』参照
『源平盛衰記』に見える木曽義仲軍団の「小山田有重」


