赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🏯💠【五位庄柴野城城主寺嶋牛介】『佐々成政』の勇将「寺島牛介」と『前田利家』の先導「田畑兵衛」⇒「五位庄」の二人の戦い。

2021-04-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■「佐々成政」と「前田利家」は二人共に織田信長軍の鉄砲奉行を勤め、長篠合戦では方を並べて戦った。しかし、能登を知行された前田利家と越中を知行された佐々成政は主家織田家の後継を巡って対立して、能登末森城で激しく戦った。その時、五位庄沢川村の土豪の「田畑兵衛」は前田利家と通じて、佐々成政軍を案内すると称して故意に山道に誘い込み末森への参戦を遅らせた。この時に兵衛は「前田利家は散々に重税をかけ、賦役を課して苦しめたので、佐々軍を応援する。」と告げたと云う。沢川村の奥地の小野村は越中領と能登領に分かれており、この地を所有した田畑氏が佐々軍を安心させて、マンマと前田軍の策略通り佐々軍を山中に迷わせた。
一方、佐々成政に従って能登末森城を攻めた柴野城の「寺島牛介」は末森の戦いでの鉄砲の腕前を買われて、成政降伏後に加賀藩に仕官している。





■寺島氏は婦負郡の豪族西野氏の後裔で西野隼人(宗慶)は神保氏張に仕え、その子「甚助」は槻尾氏を、次男牛介は「寺島」を、三男左内は出家して越中瀬田に住した。寺島氏は婦負郡寺島(富山市)を出自とする在地領主とする神保氏の家臣一族で在った。永禄五年七月、越中に進攻した上杉謙信と神保長職との合戦の際に寺島牛介は金屋村の戦いで忠節を尽くし長職から「四郎左衛門」の後継職を賜った。後に、牛介は上杉謙信に従って天正五年11月23日、上杉謙信から「越中五位庄」を安堵された。上杉謙信は神保氏と共に一向一揆を攻撃したが、この時に寺島牛介(職定)と兄の小島胤興(甚助)は反上杉の立場を取り真宗勢に合力した。(※同時期に系列の異なる寺島民部左衛門は「蜷川館」や「青柳」「福沢」「宮川」「東岩瀬」等を知行した。又、「猿倉城」には寺島三八郎が居たと云う。)天正十年織田方の柴田、佐々、前田氏は魚津城を攻撃したが、この時に寺島長資は上杉方として籠城したが、同十一年上杉景勝は寺島民部左衛門の東岩瀬を「大関常陸介」に給付した。その後、寺島氏は神保氏張と共に上杉を排除した織田軍の佐々勢に従った。佐々成政は木舟城に佐々平左衛門を入れて、守山城神保氏張、柴野城寺島牛介、赤丸の中山直治を率いて能登末森に前田利家を攻撃する。赤丸村の寺島氏はこの傍系の寺島氏と見られている。
(※「神保氏張」の兄の「小島甚助」は後に「蜷川郷」の寺院で出家した。)

■「田畑兵衛」は「平家の末裔」とされ、田畑家の由緒書には「元祖兵衛の父田畑主水は能登口郡前領主の三宅弾正家秀に仕え、主人に従って討死したが、兵衛は入道して越中の沢川村に移った。天正十二年に佐々成政が能登末森城の奥村助右衛門を攻めた時に佐々軍を山道に迷わせた功績により、扶持を受けて、延宝二年には前田綱紀により山廻り役を命じられた。代々、兵衛を名乗り四代以外は全て山廻り役を勤め、九代の時には高桑兵衛を名乗り、数少ない御扶持人山廻り役に就任した。十代の時には無役御扶持十村役に成った。」とされる。

(※八尾町の田畑家は初代を笹原屋彦治と言い、この家は代々八尾町の年寄役を勤め、富山藩二代藩主前田正甫の母は泰寿院八尾はこの田畑家の出身だと云う。)
(※「富山県姓氏家系大辞典」)

   


最新の画像もっと見る