赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔘南朝【 後醍醐天皇】の忠臣 「 越中石黒氏」と「福田荘」!!

2021-02-08 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■富山県高岡市の郊外に、古くからの庄園「福田庄」が在った。小矢部市保存の富山県で最も古いとされる図面と照合すると、この庄園の隣地には「東大寺庄園杵名蛭庄」が在ったと推定でき、そこには、「石黒上里」・「石黒中里」が在った事が図面に記されている。



・図面では「荊原里」と記載される位置が「福田庄」の旧の位置と推定される。

・「国立歴史民俗博物館」はその「庄園データーベース」に【高岡市立野周辺】の地域を【東大寺庄園杵名蛭庄】の位置に比定している。







■越中砺波郡に福田郷があった。藩政時代、この加賀藩領福田郷の内、元禄3年畑直し新開として追加開発され、この時の新開高として61石で村立された。畑直新開とは畑を農地に変えて開発する事で、小矢部川河川周辺の原野の鷹狩の場所を農地として開発する事をお鷹野新開と呼んだ。この辺りは一面が畑として利用されていたものらしい。元禄14年には持ち高4石余の百姓が1軒あったのみで、残高は赤丸村、竹村、佐野村の百姓8人で所有されていた。加賀藩時代の「福田郷」は8村で、佐野(石名瀬)、辻、蔵野町、北島、石塚、荒見崎、福田新、本保を含んでいた。(※「角川日本地名大辞典」)
この時期、周辺の立野、赤丸、石堤、高田島、渡、福田六家、六家、麻生谷、内島等の55ケ村は「五位庄」に含まれていた。(※「越登賀三州志」富田景州 加賀藩蔵書) 
★しかし、現在、福田神社は隣接の立野町の町中に立地している。当時の福田郷は立野村の一部も含んでいたものか?

■現在、高岡市福田には「延喜式内社荊原神社」があり、当地に鎮座される前は何処に在ったかは明らかでは無いとされている。しかし、耕地整理前の状況からすると、この神社は隣接の池田・東石堤村地内に在った開発領主池田氏の持ち宮の「イバラの宮」を移設したものとみられる。この池田氏の子孫の高岡市細池の自宅の庭先には、現在も「イバラの宮の遺品」とされる「地蔵菩薩の板後背」と「旧地の写真」が遺されている。この写真を調査すると、東石堤村(石堤村の小矢部川対岸にある石堤村の飛び地だと云う。)の小さな八幡社の周辺に、写真と似た小さい森があり、その森には「野バラ」が繁茂して白い小さな花を咲かせていた。この辺は昭和初期に区画整理をした時に農地に変わり、旧地主には「イバラの宮」が移される事を事後に連絡した為に、慌てて現地に赴いた時には解体されており、その地に遺された「地蔵菩薩の板後背」だけを自宅の庭に移設したと云う。移設前の「イバラの宮?」は高岡市史に拠れば、【「荊原神社」の祭神は両部神道の時に比叡山七社の内の「十禅師社」で在った】とされる。この「十禅師社」 の御神体は「地蔵菩薩」で在ったと云う。



※【十禅師社】: 比叡山に祀られる 日吉(ヒエ)山王七社権現の一つ。瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を権現とみる。国常立尊(クニトコタチノミコト)から数えて第10の神に当たり、地蔵菩薩の垂迹神とされる。 日本の独特の考え方の「本地垂述説」という考え方では、神仏の一体性の関係を説く。 この「神仏習合」思想に於いては、神は仏が日本の衆生を救済する為に仮の姿で現れたものとする。
⇒ 高岡市の二上山山麓の二上射水神社に祀られている「二上神」の祭神「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」は「射水国造」の祖神とされる。


■越中石黒氏は「福光城」、「木舟城」、「赤丸浅井城」等の礪波郡を拠点として、東大寺大仏造営で米5000石、荘園100町歩を寄進した(※「東大寺要録」)仏道に志した皇族系の「利波臣」一族で、承久の乱では後鳥羽上皇に従い、倶利伽羅の源平の戦いでは源氏の木曽義仲に従い、南北朝時代は後醍醐天皇の第八皇子を迎えて大いに南朝の為に戦った忠義の一族として名高い。石黒氏は藤原氏を祖とする系統と、この利波臣系の系統を引き継ぎ、加賀の林氏、富樫氏や越中の井口氏も同族とされ、石黒氏分流としての石黒氏、庶流として福田、泉、福光、高楯、中村、太美、野尻や向田、千石、水巻、鴨島、吉田、宮崎、南保、入善等の武士団を生んだ中世越中の大族である。
(※「石黒氏の歴史の研究」石黒秀雄)

■石黒氏直系としては
鎮守府将軍藤原利仁ーー光景(赤丸浅井城在城「※赤丸名勝誌」)ー太郎光弘(赤丸浅井城在城)ー二郎光時・三郎光泰(承久の乱で後鳥羽上皇に加担)ー重光ー光忠ー重孝ー重定(越中木船城主任宗良親王)ー重行(長谷川大炊助・住尾州味鋺郷アジマゴウ)
として名古屋の「如意郷」で「如意城」を築いた長谷川大炊助重行の系統を正統とする系図(※「諸系譜」国立国会図書館)がある。

■石黒氏の傍流として射水郡二上庄の地頭として鎌倉幕府に訴えを起こした「石黒弥三郎」の訴状に対する執権北条経時からの呼び出し状が残されており、射水郡二上庄は鎌倉時代に石黒氏が地頭であったことが判る。又、石黒氏が後醍醐天皇の皇子宗良親王を射水市の牧野に迎えたと云われ、隣接の高岡市鴨島は石黒一族の鴨島七郎の所領であり、高田島は同族の高田孫兵衛の所領であったと伝え(※「福光町吉江村の昔」)る所から、鎌倉時代には海岸から高岡にかけての射水郡も石黒氏の勢力下にあったものと見られる。しかも、古く立野、高田島辺りも東大寺杵蛭村荘園図を精査するとこの辺りに比定され、この図面の中には「石黒上里・石黒中里」という地名が記載れており、古くからこの辺りに石黒氏が展開していた事が推定されるのだ。

■福田庄は南北朝期には比叡山の妙法院領であった為、還俗される前に妙法院座主をされていた宗良親王は越中へ入られた時に先ず頼られたのは福田庄であったと「高岡市史」は云う。しかし、南朝方の宗良親王が還俗された後は北朝方の後伏見院の皇子の亮性法親王が座主となられ、その後妙法院はずっと北朝系の座主になる。又、角川日本地名大辞典に拠れば、「華頂要略」の記載に、建暦3年2月に天台座主慈円が後鳥羽上皇の皇子の朝仁親王[第八皇子、道覚法親王(ドウカクホウシンノウ)、元久元年(1204年) - 建長2年1月11日(1250年2月13日)は、鎌倉時代前期から中期にかけての天台宗の僧。父は後鳥羽天皇。母は尾張局。]に譲進した寺領の中に福田庄の名が有り、その後妙法院領になったらしく、康永3年(興国5年)7月に妙法院が焼き討ちされた為、寺領権の証明を役所に求めた書類に越中国福田庄が寺領である事を求める亮性法親王の名前が見られ、この荘園が円実法眼の私領ー浄仁比丘尼ー公性僧正ー尊教僧正ー実静僧正ー亮性法親王と伝授されたいきさつが記載されている。(※「角川日本地名大辞典」)
(●上記に拠れば、慈円が元所有していた越中国福田庄の隣接地の赤丸浅井神社を中心とした「越中吉岡庄」の所有者は慈円の叔父の藤原摂関家長者の藤原頼長の庄園で在った。吉岡庄が後鳥羽上皇に伝領した時には福田庄は後鳥羽上皇の皇子の朝仁に伝領している。)

■この記載に拠れば尊澄法親王(宗良親王) の福田庄所有の記録は無い。宗良親王が地権を所有して越中に入っている筈が無いのだ。興国3年、宗良親王は牧野に入られその時の歌が遺されているが、牧野には当時親王が隠れ住み随臣の多くの家臣も住めるだけの施設は在ったかが疑問であり、その時の宿舎は仮のものではなかったか?牧野には牧野寺という古い寺が昔在ったと伝わる所から、そこに入られたのでは無いだろうか?急に牧野に来られてもお迎えする施設が無い。黒木の館(丸太で組んだ粗末な館)を造ったと云われるが、少なくとも家を建てるには数か月はかかるだろう。赤丸村にも親王屋敷跡と言われる場所があり、赤丸浅井城に滞在された時の寝所とされる。又、赤丸村の極楽谷には現在、高岡市に移っている極楽寺が二百数十年間在ったと伝わる。この極楽寺は宗良親王の創建と伝わり、極楽寺には親王の遺作が遺されていると云う。これ等の施設でも短期間に建設するのは難しい。(※「極楽寺由緒」越中宮極楽寺作成)



■常識的には、石黒氏の居城であった赤丸浅井城か、木船城に立ち寄られ、当面は城中で仮住まいをされたと考える方が筋が通る。周辺には北朝勢力も侵入していた事が想定され、無防備で浜に仮小屋を建てて住まわれたというのは信じがたい。当時の海岸近くの地図を見れば、「越の潟」と言う湖が大きく広がり沼地が広がる周辺は無防備で危険極まり無いと思われる。(✳下記の想定絵図参照)しかも高岡市史が主張する様に敵方、北朝勢力の「福田庄を先ず頼られた」というのは高岡市史がお得意とする「我田引水」であり、創作に過ぎないと思われる。しかも石黒氏はガチガチの南朝勢力である。石黒氏が警護して地理不安内な宗良親王を危険な敵方の場所に案内したという事は考えられない事だ。「角川日本地名大辞典」の記載を参照すれば福田庄のこの周辺は江戸期に開発される迄大して人家も無い原野だった事が推定され、妙法院領の荘園とは云え、現在の集落を考えるのは大間違いであろう。昔の庄園は米の生産だけでなく、古い庄園では麻や雑穀の生産の他、燃料とする柴木や肥料とする草、屋根材の葦や茅の生産等も生産されていた。昔の肥料は雑草の堆肥を多く使い、雑草を舟等で運んで売買されていた。この辺りに展開したと思われる「東大寺杵名蛭庄の図面」には「柴木、芝」等を生産していた事が記載されている。

★宗良親王が越中に入られたのは興国三年(計算すると31才になる。)で、北朝の光明天皇の時代である。この時期には妙法院領福田庄も北朝の影響下に在ったものと考えられる。

■現在高岡市博労町に在る「越中宮極楽寺」には熊野社が祀られており、高岡の曳山祭では出発前に町の役員が必ず陣羽織・陣笠姿で拝礼に立ち寄る習慣がある。最近、大阪で発見した初期の古い「極楽寺由緒」には、この高岡曳車には「宗良親王の御座車の一部と伝わる部品」が使用されているからだと伝えている。(一般的にはこの曳車は豊臣秀吉が後陽成天皇をお迎えした時のものとされているが、この天皇は北朝の天皇であり、明治天皇も現在の天皇も北朝系の天皇であり、時の天皇に憚ったものか? 明治維新の時に、明治政府は三種の神器を携えて即位した南朝の天皇が正統であると帝国議会で議決しており、明治天皇もこれに同意された背景から、極楽寺由緒にも南朝顕彰の意図が遺されたものだろうか?極楽寺は南朝の宗良親王の御創建された寺であり、南朝顕彰は当然の事であったのだろう。)
★この時期に富山県では南朝勢力であった赤丸村の「親王塚」や南砺市福野町の安居寺の「長慶天皇の塚」とされていた史跡等が全国で政府、宮内庁、学者により調査され、長慶天皇の実在が確認されて、長慶天皇は初めて南朝の天皇として宮内庁の天皇系譜「皇統譜」に加えられ、第98代の天皇として認められた。



(※「歴代妙法院座主」・部分
●尊澄法親王(宗良親王) (南朝:大覚寺統)【1311年(応長元年)生 - 1385年9月14日亡(元中2年/至徳2年8月10日)?】 後醍醐天皇皇子。母藤原為世女贈従三位為子。還俗宗良。二品〔諸門跡譜作一品〕。天台座主。護持僧。【嘉暦2年(1325年(正中2年)妙法院門跡を継承(14才)。続いて1330年(元徳2年)には天台座主(19才)に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。同三年(1333年)天台座主に復帰。後に還俗して宗良親王となり、南朝の為に各地を転戦し、興国3年(1342年)には越後寺泊から舟で越中に入られたとされる。(31才)】

●亮性法親王(1318-1363) (北朝:持明院統) 後伏見院皇子。天台座主。護持僧。
●堯仁法親王(北朝) 後光厳院皇子。母勘解由小路兼綱女仲子(崇賢門院。実石清水八幡宮祠官紀〔善法寺〕通清女。号梅町殿)。一品。天台座主。護持僧。
●堯性法親王 (北朝) 後光厳院皇子。応安4/建徳2(1371)年生。嘉慶2/元中5年正月26日(ユリウス暦:1388年3月5日)自害。 )

★光厳天皇(北朝1代目 :1331年10月22日-1333年7月7日 (正和2年7月9日<1313年8月1日> - 正平19年7月7日<1364年8月5日>)
★光明天皇(北朝2代目):1336年9月20日(建武3年<延元元年>8月15日)- 1348年11月18日(貞和4年<正平3年>10月27日)
★崇光天皇(北朝3代目):1348年11月18日(貞和4年<正平3年>10月27日) - 1351年11月26日(観応2年<正平6年>11月7日)
★ 後光厳天皇(北朝4代目):1352年9月25日(文和元年<正平8年>8月17日) - 1371年4月9日(応安4年<建徳2年>3月23日)

(興国) 元年    2年  3年     4年   5年    6年   7年     ⇔【南朝使用の年号】
(西暦) 1340年   1341年  1342年 1343年    1344年    1345年   1346年
(北朝) 暦応3年  暦応4年 康永元年  康永2年 康永3年  貞和元年   貞和2年

■古代の小矢部川・庄川の河口には「越の潟」が大きく広がり、現在程の平地は少なく、河川の湿地帯が広がっていた事が推定される。ここで大きな軍隊を動かす事は出来ただろうか?


■「古事記」に於ける「利波臣」


■「福井県史」の「利波臣」と「射水臣」。



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