赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷🔹越中「荊波神社」研究⇒「東大寺庄園越中国礪波郡杵名蛭村墾田地図」と「利波臣志留志」「石黒氏」!!

2021-02-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
▼「小矢部市から高岡市迄の小矢部川古絵図」


■「東大寺庄園越中国礪波郡杵名蛭村墾田地図」の検討 ❗❗








「福田荊波神社」の旧地と推定される「イバラの宮跡地」の写真と「十禅師社」の「地蔵菩薩の板後背」(※高岡市 池田家 蔵)



■「東大寺庄園越中国礪波郡杵名蛭村墾田地図」の中にこの庄園の隣地には 「荊原里」と記載され、「荊原」については辞書に拠れば「バラハラ」と呼びこの地名は埼玉県にもある。


又、「延喜式神名帳」に拠れば、越中国三十四座の内、礪波郡七座の中には「高瀬神社、長岡神社、林神社、荊波神社、比売神社、雄神神社、浅井神社」の七社が在り、特に「荊波神社」については、小矢部市臼谷、小矢部市薮波、小矢部市蟹谷、砺波市、高岡市福田と何れも「荊波」としてそこにある神社を「式内社」としている。この中で小矢部市薮波は合併して「薮波」となったので、後日に名付けられた様だが、他の四ヶ所は何れも式内社として讓らない。しかしこの何れもが「ウバラジンジャ」と称している。何故「波」を「はら」としているのか? 「延喜式神名帳」の解説では「ウバラのヤブナミ」とされたり、集英社版「延喜式 上」の「神名帳」では「ヤブナミジンジャ」と記載している。「ウバラのヤブナミ」を採用すると、「杵名蛭村墾田地図」に「荊原里」の記載が在り、この神社は福田の「荊波神社」を指していると見られるが、集英社版の「ウバラジンジャ」を採用すると、やはり「福田荊波神社」を指す事になる。
小矢部市の残る臼谷、蟹谷、砺波市の「荊波神社」は、祭神を「利波臣の祖先の日子刺肩別命」を祭神としているが、只一つ福田の「荊波神社」は祭神を高岡市の延喜式内社の「二上射水神社」と同じ「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」を祭神としている。




■ここで少し「荊波」について検討すると、「荊」は【刺・棘】のある木で在り、処罰を受ける時の初期段階が「徒刑」である。「徒」は「ズ」とも呼ぶが、本来は「ト」と呼ぶ。杖打ちの刑は「荊」の木が使用される。そこでいつしか、「徒」と「荊」が同じ意味に使用されたのではないか?
そうすれば「荊波」は「トナミ」・「礪波」と繋がってくる。⇒(※「荊罰」)
この考え方に拠れば、「利波臣の祖先の日子刺肩別命」を祭神とする神社は「利波臣の祖」を祀る神社で在り、朝廷が「延喜式内社」として定めた神社とは異なるのではないだろうか?

■そもそも「礪」は「磨く」事と「はげむ。力いっぱいつとめる。つとめはげむ。」と言う意味が有る。当初、「利波臣」と呼ばれた一族が開いた地域は「利波郡」と言われたが、後には「礪波郡」とも呼ばれていた。単なる宛字に拠る変更だろうか?
「今昔物語」「宇治拾遺物語」に「留志長者教」と言う古いお経の話しが載っている。当初、欲張りだった「留志長者」が佛様に諭されて「何でも人に与えられる布施を知った人になった物語」である。仏教の伝道者として著名な三蔵法師はその名を「 三蔵法師菩提流支 ボダイルシ」(「菩提留支」とも記載)と呼ばれた。「留志」は高僧では「流支」と記載されるが、何れも「仏教の修業をした人」を云う。「利波臣志留志」が越中各地に庄園を開発して、東大寺大仏造営の時に「米五千石」(現在では三億円近く)を寄進して、初めて利波臣の中から「外従五位下」になり、「礪波郡司」から「国司の員外介」と言う貴族となり、従五位下に叙せられた。これは、仏教に帰依して「お布施」の心で多額の「米五千石」を寄進したと云うだけではなく、正に礪波郡の庄園開発でも各方面で「努力した成果」で在った。この事から当初、利波臣の先祖が賜った「利波評 トナミコオリ」を「努力」を意味する「礪波郡」と改名したものか?

■「東大寺庄園越中国礪波郡杵名蛭村墾田地図」は奈良国立博物館や学会等では「射水郡東大寺くぼ田庄」(高岡市十二町島)の隣接に立地しており、砺波市に近い位置を想定されている。
しかし、この絵図には「速川」や「石黒川」「杵名蛭川」の記載や「石黒上里」「石黒中里」の記載が在り、この中では「速川」に注目すると、古地図では「ソウ川」「早川」と記載され、現在は立野地域を流れる「祖父川」となっている様だ。この位置も古代からの変遷があるだろうが、今一つの手掛かりは立野周辺に「八幡神社」が多く点在している事だ。「八幡神社」が東大寺庄園に残るのは、東大寺大仏の守護神として九州の「宇佐八幡宮」を勧請した為と見られる。こう見て来ると、この「杵名蛭村墾田地」は、学会で云われている位置よりももう少し小矢部川寄りの「立野地域」や能越道インターチェンジ周辺の「池田地域」、更には「高田島地区」辺りも含む位置ではなかったかと考えられる。古代の小矢部川は現在よりももっと西寄りの西山の麓を流れていた事が赤丸浅井神社等に伝わっており、現在の小矢部川の位置よりも相当山寄りを流れていたのだ。
・平成28年、国立歴史民俗博物館の「庄園データーベース」には、現地資料等を確認の上、その比定地に「高岡市立野付近」を追加して頂いた。
(※学会の諸氏はこの事を御存じない為に位置的には相当ズレたと見られる。)
又、高岡市立野の隣接の高田島地区はその昔は「赤丸村領高田島」で在り、この地域には「延喜式内社赤丸浅井神社」の神官が47代にも亘り神官を勤められた「五位荘神社」が在り、この神社由緒には「聖武天皇勅願社」と伝えられ、この地域は石黒一族の高田氏が統治したと「福光町吉江村誌ー吉江の昔」に記載されている。「赤丸浅井城」は「利波臣の子孫の石黒氏」が居城にしたと伝わり、その域内の高田島地区は石黒一族の「高田孫兵衛」が統治した。(※「吉江の昔と今」福光町)
又、「越中二上庄」の現在の高岡市域は「二上庄地頭石黒氏」が統治した事が【鎌倉遺文六四二二】の「関東御教書」に「石黒弥三郎宛北条経時よりの書状ー寛元二年」に記載されている。現在の高岡市域は二上庄で在った事からこの地域は石黒氏が地頭で在った事が解る。



■「東大寺庄園越中国礪波郡杵名蛭村墾田地図」には「石黒上里」「石黒中里」の記載が在り、この庄園の隣接地に「荊原里」が記載されている。こう見て来ると、この里は「石黒氏」との何等かの繋がりが推測でき、この「荊原里」には「荊波神社」が在ったと見られるが、この神社の祭神は「富山県神社誌」に拠ると、 石黒氏が地頭で在った「延喜式内社二上射水神社」の祭神と同じ「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」(両部神道では本地仏として地蔵菩薩が当てられる。)を祭神としている。何故この神社の祭神は他の「荊波神社」が祭神としている利波臣の祖先の「日子刺肩別命」ではないのか? 恐らくは、この「杵名蛭村」は福光の「石黒庄」とも繋がる石黒氏所縁の最も古い庄園だったのではないのか? 後世に建てられた「荊波神社」が「日子刺肩別命」を祭神としているのは、「利波臣」が全盛を極めた時期に建てられたからではないか? そうすれば「福田の荊波神社」以外の神社は、元々「利波臣」の氏神で在り、皇室の祖先の神々を祀った「延喜式内社」とは異なる事になる。しかし、それにしても、この「杵名蛭村」と「石黒氏」との決定的な繋がりは何なのだろうか?
この「福田庄」は比叡山の流れで、後白河上皇が創建された蓮華王院と三十三間堂を束ねた「妙法院」の庄園で在り、この時に福田庄の「荊波神社」の祭神に比叡山の「十禅師社」の「地蔵菩薩」がもたらされたらしい。隣接する「越中吉岡庄」も、元々、藤原摂関家長者の「藤原頼長」の庄園で在ったが、「保元の乱」で勝利した「後白河上皇」の「後院領」となった庄園であり、この礪波郡の一帯は「後白河上皇」により古くから影響を受けた地域で在った事が分かっている。この庄園は「後醍醐天皇」の皇子の「宗良親王」が妙法院の院主の時には南朝の影響を受けたと見られるが、「宗良親王」が南朝支援の為に還俗されて、越中に入られた興国三年にはこの庄園は北朝の親王が続いて妙法院院主となられており、北朝の影響下に在ったものと見られる。

■更に「鎌倉遺文 巻39」には、「後院領越中吉岡庄」(石黒氏の居城の赤丸浅井城を中心とした。)の所有者で在った後醍醐天皇が「石黒郷太海郷の大納言法印」に勅令を下した事が掲載されたおり、石黒郷と後醍醐天皇の関係が伺い知られる。当然、後醍醐天皇を支援して、宗良親王を牧野、赤丸浅井城、木舟城に迎えた石黒氏はこの時には当然、石黒郷の地頭で在った事が推察できる。これ等の事から、鎌倉時代の越中呉西地区に於ける石黒氏の権勢を窺い知る事ができる。




※(註釈)「天気所候也」⇒「天皇の御意向である。」の意味で、天皇の綸旨に使用される慣用句。








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