赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🏯 【歴史の真実】ー「義経記」に見られる富山県高岡市福岡町赤丸の石黒氏居城「如意城」(赤丸浅井城)! !

2021-02-14 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■「浅井城」の鎮守社「赤丸浅井神社」に掲げられる「源義経」、「弁慶」の掲額


■「赤丸浅井神社、赤丸浅井城」の古絵図(※「森田柿園文庫」石川県立図書館所蔵)
「赤丸浅井神社」に隣接する「赤丸浅井城」は「聖武天皇の弟の「石川朝臣広成」の居城で在ったと富山県の最古の通史とされる「肯搆泉達録」に記される。










🔻「越中吉岡庄(赤丸村)」の地頭が不法を働き、「後白河上皇」から「源頼朝」がお叱りを受ける。(※「吾妻鏡」、「富山県史」)










🔻「義経記」で「弁慶」が「義経」を打躇した「勧進帳」のシーンが展開された「赤丸浅井神社」、「赤丸浅井城」=「如意の城」の前の「二位の渡し」






🔻「室町幕府越中守護畠山持国」の記載が在る「赤丸浅井城」(※「畠山文書」羽曳野市資料叢書)


🔻「赤丸浅井城城主 中山直治文書」(※天正時代)
➡「佐々成政」の軍として「能登末森の戦い」に参戦して「前田利家」と戦った。(※「敦賀市立博物館所蔵文書」)








■富山県高岡市の名勝「雨晴海岸の女岩」と黄金色の日の出 !
後のシルエットは「立山連邦」
手前の海岸沿いに在る岩(シルエット部分)は、【「源義経」、「弁慶」主従が雨宿りをした岩】と地元民が伝えた【義経岩】。➡【義経記】では、小矢部川対岸の「六渡寺の渡し」で下船しており、雨宿りの為に再び舟で対岸に渡り、相当の距離を氷見市に向かって歩いたとは信じ難い。これも「判官贔屓」の故の創作と見られる。この辺りから能登には、義経主従が立ち寄ったとする地域、伝説が多い。いずれも「義経記」にあやかって地元民が創作した物語と見られる。能登には源義経の妾の父親で平家の武将の「平重盛」が源平の戦いに敗れて、流罪になっていたと言う。又、小矢部川河口から少し上流の「国吉名」には、「平家物語」でも名高い「越中前司(越中の前の国司)平盛俊」が屋敷を構えて、越中・能登を統治したと「国吉小史」は伝えている。
(写真は2016.02.12の朝の「女岩」)
※ 富山県高岡市雨晴

早朝には沢山の観光客が訪れて賑わう「雨晴海岸」の「女岩」と「義経岩」 ❗

🔻【義経・弁慶主従が進んだ「二位の渡し」から「六渡寺渡し」迄の「如意の渡し」と言う舟下りルート】













■赤丸浅井神社記録
東大寺大仏造営の時に「米五千石」を寄進した「利波臣志留志」の末裔「石黒氏」の居城「赤丸浅井城」の鎮守社『赤丸浅井神社』!



■「利波臣志留志米五千石寄進」を伝える「東大寺上院修中過去帳」
「続日本紀」では、「米三千石、庄園 100町歩」を寄進したと記載される。

(※「東大寺お水取り行事ー3月」で毎年読み上げられる「結縁過去帳」の写本。)
⇒(※2016年2月6日からの「東大寺お水取り特別展」に元本が初公開された。




■「東大寺お水取り特別展」図録より⇒「東大寺上院修中過去帳」





■石黒氏は一部が尾張に逃れて「長谷川」と名乗り、「如意郷」を開き「如意城」を築いている。⇒「赤丸浅井城」(※五位の城)は「如意の城」(※「義経記」小学館版、岩波書店版の解説参照)





■赤丸浅井神社の往時の写真(※「富山県西礪波郡紀要」)

「源義経像」


■「延喜式内社 赤丸浅井神社」の掲額「義経八艘飛び」「義経 弁慶像」等
















■「赤丸浅井神社古墟図」(石川県立図書館 蔵)


「朝床に聞けばはるけし射水川
朝こぎしつつ唄う舟人」
大伴家持


■「赤丸浅井城」に南北朝時代に「越中吉岡庄の所有者ー後醍醐天皇」の皇子「宗良親王」が在城されたと伝わる。(※「宗良親王像」越中石黒家所蔵の肖像画)


■「宗良親王」江川直美氏 画(※浜松市在住の漫画作家)






■源義経の奥州下りを描いている「義経記」は後の世に書かれた物語だから歴史検証には何の役にも立たないという学者がいる。この意見は学者の本分の「真実の追及」を初めから放棄した意見だ。しかし、その物語は当時の時代背景や地理等を詳細に記載しており、全く土地勘の無い人が書いたとは思われない。赤丸浅井神社の由緒に「元正天皇の二宮御創建」と記載されているが、歴史を知らない学者は「元正天皇は女帝で子が無く、この説は間違い!」と決めつけている学者も居る。だが、元正天皇が聖武天皇の親代わりで有り、聖武天皇には藤原不比等の陰謀で臣籍に降下させられ、内舎人という役職に落とされた石川朝臣広成という腹違いの弟がいた事を知る人は少ない。この人物については、「日本書紀」にも登場し、後には「高円朝臣広世」と賜姓され、万葉集にも3首が掲載されている歌人でもある。元正天皇は文武天皇が若くして夭折された為に、その子が成人するまで親代わりとなった女帝で有る。
その赤丸浅井神社の前には往時、小矢部川と庄川が合流していた「阿古ヶ淵」という広大な難所が有り、そこに流れ着いたのが赤丸浅井神社の御神体で有ると伝わる。赤丸浅井神社の御神体は御創建の700年代から奥ノ院深くに鎮座され、神官すら目に触れた事が無いと云う。ここは昔から「ねか川人駅」と呼ばれる古代道の駅で有り、ここには伝馬や武器が保管されていた事が「延喜式」に出てくる。古くから赤丸の地は川の合流点というだけでなく、山越えで石川県の能登にも繋がる戦略上の要衝で有った。
「義経記」では「如意の城を舟に召して----」と記載され、「二位の渡しより舟に乗らんとして--」義経と弁慶が関守から尋問された為、弁慶はその疑いを晴らす為に泣く泣く義経を扇子で打擲して難を逃れた事が記載されている。
歴史家は赤丸浅井神社が「元正帝二宮の御創建」という歴史を持つ事や、二位の渡しからの舟下りルートの「六渡寺川舟下り」というものがあった事を知らない。庄川と小矢部川が合流して巨大な河川になり、伏木港の河口迄続いた部分を「射水川」「六渡寺川」と呼んだ事も知らない。この図面は「福岡町史」にも掲載されており、根拠はハッキリしている。
では、この「如意の城」とはどこの城を指すかという事になる。加賀藩の郷土史家の森田柿園は「越中志徴」で、赤丸浅井神社の由緒に出てくる「二宮」についても否定して、この「如意城」は伏木の「古國府城」だろうとしている。
しかし、同じ加賀藩には南北朝期の後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王について記載された「宗良親王紀事」や「浪合記」等の著作も残されている。それに拠ると、戦いに敗れた石黒氏の一部は奥州に逃れ、後には尾張(名古屋市)に移りへ長谷川大炊助重行と名乗って東北から「石釜神社」を招聘し、「如意郷」を開き、「如意城」を構えた事が記載されている。
又、越中吉岡庄(後の五位庄)の元領主の藤原摂関家長者「藤原頼長「が「後白河上皇」に追討された「保元の乱」について記載された「保元物語」では、その時味方した「崇徳上皇」が逃れた山を「如意が嶽」(大文字山)と呼ぶと云う。「保元の乱」は後白河上皇に平清盛、源義朝が味方して、摂関家長者左大臣藤原頼長と崇徳上皇側と争った戦争だが、現在も大文字山には「大」の迎え火、送り火が焚かれる事から仏教と密接な山で有る。現在も五位庄赤丸村には「観音寺遺跡」が残されており、この山にはその昔、現在の高岡駅南に在る「衆徳山総持寺 別名 観音寺」が在ったと云う。この山裾は先述の「阿古ケ淵」の至近距離であり、「鍛冶屋町島」という「宇多刀工」が工房を構えたと伝わる場所も在る。「如意」とは仏法を示し、仏が手に持ち、あるいは寺院の欄干等の飾り金具にもみられる「如意宝珠」を意味する。石黒氏の末裔が「如意城」と名付けた城を居城としていた事から、先祖の「利波志留志」が東大寺大仏造営に多額の寄付をしていた事との関連も考えられる。赤丸浅井城は同じく石黒氏の居城であったと云うから、この「如意の城」は「赤丸浅井城」の事であり、「衆徳山総持寺」についての伝承に拠れば、義経の奥州下りの時には既にこの寺は「越中吉岡庄」に在ったと地元に伝わる。赤丸浅井城の向かって右には「赤丸浅井神社」が、左には豪壮な「総持寺」が在ったとすれば、この「如意の城」とは「赤丸浅井城」と考えて良いだろう。ちなみにこの「二位の渡し」は近年まで「五位の渡し」と呼び、官制の渡し場として小矢部川の現在の五位橋上流に存続していた。
(※「如意の城」とは「五位の城」の事⇒⇒「義経記」岩波書店版、小学館版)
最近は学者もこの考えに賛成する人達が増えたが、依然として「歌舞伎勧進帳」の舞台は石川県小松市の「安宅の関」での事件として認知されている。世の中の「歴史認識」がかくもズレていても、文部科学省は「歌舞伎勧進帳」の舞台は未だに石川県小松市の「安宅の関」での事件として教えているから「無知」な官僚の恐ろしさがお解りだろう!!






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