赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷🔹 【 安永五年(※1777年)加賀藩侍分限帳】に見られる加賀藩重役『赤丸村給人 長 九郎左衛門』!!

2021-02-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●越中国『五位庄 赤丸村』の給人(知行者)【長 九郎左衛門】の記録!!





■【能登畠山家】の重臣で在った「長 連龍」は、主家の『上杉謙信』が能登七尾城に侵攻して畠山家が滅亡した後に『織田信長』に仕えて畠山家を再興した。『織田信長』の亡き後は『前田利家』に仕え、『前田利家』を軍政両面で支え、生涯41回の合戦に参加して豪勇として知られた。
高岡市の「守山城城主 神保氏張」は、この時に滅んだ「能登畠山家」から守山城の神保家に養子に入り、その兄弟は上杉謙信の養子に成って「上杉」を名乗り、母親は上杉謙信の家臣北条氏(キタジョウ)の妻に成っている。「神保氏張」は「織田信長」の妹を妻にして、織田家に臣従していたが、一時期、越中の石黒、寺崎氏等と共に「上杉謙信」の家臣として家臣名簿にも登載されると、織田信長の妹と離縁させられ、信長の妹は家臣の「稲葉貞通」の妻として再嫁した。

■「織田信長」の家臣の「佐々成政」が越中に侵攻すると、「神保氏張」は再び織田軍の「佐々成政」に従軍して、能登に侵攻した「前田利家」と共に加賀、越中、能登を占領した。しかし、「織田信長」が京都の本能寺で「明智光秀」に暗殺されると、織田家の後継を巡って、「豊臣秀吉」・「前田利家」と「佐々成政」の争いに成り、能登畠山家の遺臣「長氏」は「前田利家」に従い、高岡市守山城の「神保氏張」は高岡市柴野城「寺島牛介」、赤丸城「中山直治」と共に「能登末森城」の「前田利家」軍と戦った。しかし、「豊臣秀吉」が越中に侵攻すると「佐々成政」は降伏し、成政が後に九州肥後に転封された時には氏張も肥後に動いたが、成政が秀吉に失政の責任を問われて切腹すると、「神保氏張」は「徳川家康」の家臣に成り、徳川家の旗本に取り立てられた。
一方、「前田利家」の家臣に成った「長 九郎左衛門」は33000石を知行され、その内の280石ばかりを越中の赤丸村で知行された。この時に、柴野城の「寺島牛介」は「前田利家」の家臣に成って、その一族も赤丸村に知行されている。

■「安永五年(※1777年)加賀藩侍分限帳」には、「長 九郎左衛門」の記録が見られる。






















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