赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴📃 「延喜式内社赤丸浅井神社」と聖武天皇の弟【石川朝臣広成】の事 ⇒「元正天皇の二宮」とは?(※「続日本紀」・「新撰姓氏録」)

2021-02-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


















■「延喜式内社赤丸浅井神社」創建の【石川朝臣広成】の素性!!
【石川朝臣広成】の父の「文武天皇」


【石川朝臣広成の系図】


■元正天皇は文武天皇の子供の聖武天皇(首 オビト)の事を宣命では「吾子 アコ」と呼んでいる。文武天皇が若くして亡くなり、二人の皇子は幼少の為、当初は文武の母の元明天皇が政務を司ったがその後は娘の元正天皇に譲位し、幼少の皇子が成長するまで政務を委ねた。即ち、首皇子にとっては叔母が元正天皇であった。首皇子の母の宮子夫人は当時権勢を誇った藤原不比等の娘で、その他にも文武天皇には二人の妃が居た。一人は蘇我氏系の紀竃門娘(紀竃門郎女 キノカマドノイラツメ)、もう一人は蘇我氏の系統の石川刀子娘(石川刀子郎女 イシカワトジノイラツメ)であった。蘇我入鹿が中大兄皇子に殺されて、中大兄皇子に加担した蘇我倉山田石川麻呂が自殺すると、蘇我氏は一挙に勢力を弱め、藤原氏が権勢を恣にする。「大鏡」には興味深い話が載っている。藤原氏が権勢を恣にしたのは、実は、この藤原不比等は天智天皇が女御に産ませた子であり、女御が妊娠した時に藤原鎌足に譲ったもので、「男が生まれたら藤原氏の子として育てよ」と命じたと有り、この子が後に右大臣までになったと記している。藤原不比等は自分の娘宮子が生んだ聖武天皇が即位すると、更にわが娘の光明子を聖武天皇の后とし、その娘は光明皇后となった。
蘇我氏はその後、石川氏と名乗り、左大臣になった石川朝臣豊成は高岡市郊外の東大寺荘園の越中鹿田庄近くに荘園を持っていた事が「東大寺越中鹿田荘図」に表示されている。又、その一族は大伴家持の前後に越中国司にも任命されたが、この時には地方に蘇我氏の勢力が分散された様だ。「石川県」の起りは蘇我氏の末裔石川氏が「石川郡」に繁栄した所から名付けられたようだし、当時の北陸には蘇我氏が相当の勢力を持っていた様だ。

■藤原不比等は我が孫の首皇子を天皇にする為に陰謀を巡らし、文武天皇の側室の紀、石川の二人の嬪の位を剥奪した。(※「続日本紀」)
石川刀子娘(イシカワトジノイラツメ)にも皇子が居たがこの皇子も臣籍に降下させられて石川朝臣広成と賜姓された。石川朝臣広成は舎人という皇室の世話や警備をする官職にされて恭仁京に転勤している。万葉集にはこの石川朝臣広成の句が三首掲載されているが、詳細の経歴は良く判らない。ただ、赤丸浅井神社由緒の「三社記」に拠れば、「元正帝は二人の宮に東西それぞれ33か国を治めさせた」と記載されており、石川氏の勢力が当時の北陸に広がっていた事等から、浅井神社由緒に出て來る「元正帝二宮」は石川朝臣広成しか考えられない。【越中川人山三社記】には「一宮二宮分五畿七道為二省西三十三國者一宮治之東三十三國者二宮有之」とある。







■「続日本紀」には石川刀子娘の廃妃や石川朝臣広成の賜姓等についての短い表現しか無いが、最近の研究で、石川朝臣広成に関する著作も見られる様になった。
「万葉集」に見られる「石川朝臣広成」の歌三首
①【家人に恋ひ過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば(万4-696)】
◇泉の里; 山城国相楽郡、泉川(今の木津川)流域の地。恭仁京の地。
内舎人として恭仁京に単身赴任していた時、平城京に残して来た家族を思いやる歌。恭仁京遷都は天平十二年(740年)。

②【妻恋ひに鹿か鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく(万8-1600)】
◇万葉集巻八の配列から天平十五年(743年)秋の作と見られ、恭仁京での作らしい。内舎人は天皇に近侍して警備などに従事した役職で、大伴家持も恭仁京で内舎人だった様だ。
 
③【めづらしき君が家なる花すすき穂に出づる秋の過ぐらく惜しも(万8-1601)】
◇なかなか逢いに行けないきみの家の穂を出したススキの様に秋の過ぎて行くのは惜しいもの。


最新の画像もっと見る