赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🔷🔹【越中刀工宇多】と富山県西部の【鉄の生産】⇒小矢部川水系の 富山県南砺市福光町【医王山】の「金・銀鉱山」と「硫砒鉄鉱 鉱山」!!

2021-02-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●富山県では、奈良時代には「砂鉄」から「鉄」の生産が行われたと言われ、古い時代には多くの松炭の火力で砂鉄を溶かす方法で、石積の上に土で固めた「たたら」で生産されたと云う。



■徳川時代には高炉が開発されて、生産性が高められた。



■嘗て、高岡市福岡町赤丸周辺に広がって居た南朝の後醍醐天皇の庄園で在った「越中吉岡庄」に工房を構えたと言う「宇多国光一派」は、小矢部川水系沿いに広がって、福野町安居寺には宇多国次が、小矢部市には宇多国房等が展開していたとも伝わり、これ等の宇多刀工は南北朝時代から江戸時代迄、作刀したと云う。「相州正宗」の弟子の佐伯則重等は「明るい地金」の様だが、それに対して「宇多刀」は「黒ずんだ地金」を使用した様で在る。
とすれば、この小矢部川水系には古い製鉄施設の「たたら」の施設が在った可能性は高い。小矢部川はその上流は「刀利村」等を通過して医王山から流れ出る谷川の水を寄せて流れている。小矢部川には古くから多くの砂鉄が流れており、磁石を砂浜に転がすと多くの砂鉄が集められる。
















■金沢市と隣接する福光町の小矢部川上流には、嘗て、「刀利村」と云う村が在ったが、昭和33年に着工した「刀利ダム」によって湖底に沈んだ。加賀藩時代には「煙硝」を製造し、又、「煙硝」の大産地で在った五箇山と金沢を結ぶ「煙硝の道」の中継地でも在った。
この村は、白山を開いた「泰澄大師」が修験道を伝えた山岳修験道の拠点として、多くの古寺が在ったと言う「医王山」の山並に連なっており、「医王山」やその奥の「刀利村」には「金山」等の「金」を冠する地名が各所に在って、この「刀利村」は【嘗て、刀鍛冶が流れ住んだ】ので「刀利村」と名付けたのではないかとか言われた様だが、地元には「刀鍛冶」が居たと言う歴史は残っていない様だ。








■しかし、刀利村には加賀藩時代に「金・銀・鉄・鉛」等の鉱山が開かれ、又、この医王山山系に産する「硫砒鉄鉱」は「鉄」と「砒素」を含み、「砒素」は劇薬で在るだけでなく、嘗ては「梅毒」の薬や殺虫剤等の薬用にも使用されたが、恐らく山岳修験道で「薬」や不老長寿の薬として利用された可能性も在る。嘗ては砒素については無害とされて様々に利用されたらしい。「硫砒鉄鉱」は光沢の在る金属として産し、自然では安定だが熱すると「砒素」と「鉄」を生じる。
「泰澄」は当時の「元正天皇」が病気の時に、多くの藥石を献上したと言われ、小矢部川下流の「延喜式内社赤丸浅井神社」の敷地に建てられた僧庵で「元正天皇」の健康を祈って祭祀を執り行ったと伝わる。

【※「延喜式内社赤丸浅井神社」は「文武天皇」の二宮で、「聖武天皇」の弟に当たる「石川朝臣広成」(※「続日本紀」・「万葉集」)の創建と伝えられ、「元正天皇」はこの二人の皇子の「母親代わり」をされた女帝で在り、若くして亡くなられた「文武天皇」の姉に当たる。因みに、この神社の祭神は皇室八神の「高皇産霊神」を祀っている。「赤丸浅井神社」の境内に在った門跡寺院聖護院派の「川人山鞍馬寺」は当初、「行基」や「泰澄」等に所縁の在る寺院として創設されたと伝えられる。】
・《門跡寺院とは、歴代の天皇の皇子が門跡として出家された寺院の事》

■正に、「医王山」からは、多くの「薬草」や多くの「鉱物」が採れており、白山修験道はこれ等の多くの金属や砒素等の化学物質等を資金にしていたと見られる。「空海」が修行した高野山周辺は、莫大な「水銀」を産して、塗料の「丹」(※赤色)や、大仏造営の金メッキに水銀が大量に使用されたと言われ、医王山でも、実は、これ等の鉱物や植物資源が貴重な資金源で在ったと見られる。












・古代の製鉄では、自然の山を崩し、川に大量に「土砂」として流して、下流の流れの緩い場所に集まった「砂鉄」を集めたと云う。地図には「砂流」等の地名や「金山」等の地名が見られる。


■1986年に富山市で開かれた「たたら研究会」のシンポジウム「北陸の鉄生産」で、富山県埋蔵文化財センターの関清氏は 「富山県のたたら史跡は多くが富山県東部で発見されており、西部では増山城遺跡の高岡市寄りに在る《砺波市高沢島Ⅱ遺跡》だけで発見されている」とされ、「今後は西部でも発掘される可能性が高い」とされている。因みに、「高沢島遺跡」は下流で小矢部川と合流している「庄川」の流域になる。
砺波市の教育委員会の発掘記録によると、「増山城」の麓に在る「高沢島遺跡」には、城の山裾を囲む様に四ケ所の「たたら遺構」が見られ、その周辺には多くの炭焼施設が点在している。「たたら」には、膨大な火力の強力な「松炭」を必要としたから、「たたら遺構」の近くに炭焼施設が在る事は自然な事だ。この「たたら遺構」が、「桃井直常」が「南北朝時代」に居城とした「増山城」の山裾に集中している事から、この一帯が巨大な軍事基地で在った事を窺わせる。「桃井直常」は高岡市の守山城も居城としたと云われ、南北朝時代に守山城や赤丸浅井城が在った「越中吉岡庄」、「二上庄」等に 「越中刀工 宇多派」が工房を構えていた事は、この辺りに武器を必要とする武士集団が居た事とも密接で在ると見られる。高岡市の国吉村、赤丸村、小矢部市、南砺市等の小矢部川水系に沿って「宇多刀工」が展開していた事は、小矢部川水系の福光町、南砺市、砺波市、小矢部市、赤丸村、国吉村等に南朝軍の桃井直常が展開していた事とも密接と見られる。



■これ等の事項から想定すると、「刀利村」の「刀利」は、正に「日本刀生産の資源を提供した地域」と云う意味であり、嘗て、加賀藩時代にも刀利村には「小物成」として、【鍛冶炭役】、【山役】、【炭竃二枚役】が課せられたと言う。
(※「加越能文庫」角川日本地名大辞典)
「日本刀」の原料の玉鋼を生産する為には大掛かりな「たたら」の施設を造る必要や、一町歩の松山の「松炭」を必要として、更に、鍛刀の時には「松炭30俵」や完成刀剣の重量の倍の「玉鋼」が必要とされると云う。正にこの小矢部川上流の「刀利村」は、刀剣を作刀する為の「玉鋼」や大量の「松炭」を生産していたものと見られ、嘗ての刀利村の住民は福光町の郷土誌の「ねんりん」で、近年は「松山」が無くなったと記載されている。

■「越中刀工 宇多派」の初代「宇多国光」の太刀



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