赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🌸🐎🏯 【室町幕府御粮所 五位庄の記録】⇒【空海】所縁の京都の東寺に遺る【百合文書】(教王護国寺)等に遺された【足利義満】の庄園【越中五位庄】の記録!!

2021-04-12 | 富山県高岡市福岡町赤丸村




■加賀藩時代の「越中五位庄」と「東五位」・「西五位」


■加賀本藩4代目「前田綱紀」【享保九年(1724年)5月9日死去】(加賀藩5代藩主前田綱紀)は『松雲公』と呼ばれて歴代藩主の中でも名君とされる。綱紀は父の光高が31歳で夭折された為に若くして3歳で後継とされて藩主に成ったが、加賀藩の産業の発展や文化財の保護にも熱心で、全国に家臣の「書物奉行」を派遣して良書を求めさせ、その対象は朝廷から幕府、公卿、武家、古社寺、蔵書家に迄及んだ。この記録は『松雲公採集遺編類纂』の中に納められて 『尊経閣文庫』(※ 金沢市立図書館)に保管されている。
貞享二年(1685年)、「前田綱紀」は藩財政から公金を支出して『東寺に遺された古文書の一切、二万点』を整理して、「桐凾100凾」を造りその中に納めさせた。これが「百合文書」と呼ばれている。「東寺百合文書」は日本の古文書の中でも特に重要な古文書だが、その保存が東寺の内部で行われていた為に虫食いや汚損が進んだ為、昭和41年秋に京都府は文化財保護の為にこの「東寺文書」を買い上げる事になり、昭和43年に『東寺百合文書94凾』が『京都府立総合資料館』に運び込まれて今日に至る。













■「東寺」の建設責任者だった「藤原伊勢人」は「貴船神社」の祭神の神託で「鞍馬寺」を建立しており、「越中吉岡庄」(※後の五位庄赤丸村鞍馬寺地内)にはこの「鞍馬寺」が勘請されて「川人山鞍馬寺」が建立された。この寺は【五位庄53ケ村惣社 延喜式内社赤丸浅井神社】の別当寺となり、皇室所縁の【門跡寺院聖護院派】として明治維新迄続いた。


■両部神道【川人山鞍馬寺文書】は、「五位庄53ケ村惣社 赤丸浅井神社」の別当寺【鞍馬寺アンバイジ】の由緒を伝える。








◆「加賀藩記録」に残る門跡寺院「聖護院派」の【両部神道川人山鞍馬寺】の文書











■「東寺百合文書」の中には、『越中五位庄』に就いての古文書も遺されており、南北朝末期に『越中吉岡庄』から『越中五位庄』に至る過渡期の貴重な古文書が遺されている。特に、室町幕府第三代将軍「足利義満」は母の「紀良子」(足利月海夫人)が『越中蜷川氏』に連なる事から、特に越中の中でも、「後白河上皇」以来「後院領」として「後醍醐天皇」迄伝領された「越中吉岡庄」→「越中五位庄」に就いて関心を持ち、この庄園を南北朝合一後に、室町幕府の軍糧を調達する「御糧所」と成り、その後自らが創建した『相国寺』に室の【業子】の追善料として寄進している。富山市蜷川村の「蜷川の郷土史」には、足利義満側近で政所代の越中蜷川氏(※「蜷川新右衛門」)が砺波郡を統治したと伝えている。
(※「蜷川新右衛門」は「一休さん」に登場する。この蜷川氏の子孫にキックボクサーの「ムサシ」がいると云う。⇒NHK)



「越中吉岡庄」の時に、この庄園は「後白河上皇」から「後鳥羽上皇」~「後醍醐天皇」迄、皇室領として続いたが、この中で「紀良子」の先祖には「後鳥羽上皇」が見られ、「足利義満」は「宇多天皇子孫」の「後醍醐天皇」にも繋がる「公卿五辻家」に連なる「紀良子」を母として生まれた事から、その点で母の所縁の「後醍醐天皇」の遺領として【五位庄】に関心を示したのだろう。



◆「平清盛」が「源義朝」の妻で在った「常磐御前」に産ませた娘で「源義経」の妹 の『廊御方』を系図から順次追跡すると、『廊御方』の子孫は『越中吉岡庄』の領主の『後醍醐天皇』に繋がっている事が判明した。「後醍醐天皇」は「宇多源氏」の「五辻家」の流れを汲み、「越中吉岡庄」が「後醍醐天皇」の庄園だった南北朝時代に、「後醍醐天皇」が信仰されたと言う大和国宇陀郡の「ヤタガラス神社」とも縁が深いとされる。





◆「室町時代」の「越中統治絵図」⇒【越中】は八郡に分かれて、西山から庄川に至る広大な庄園【五位庄】には「福野町野尻」を含んだ事が記載される。
(※「畠山文書」羽曳野資料叢書、「東寺百合文書」)



■「国立歴史民俗博物館」では、平成28年、この東寺百合文書を調査して、この中に登場する同時代の文書に『おいの庄』、『五位庄』と記載され、何れもが伊勢神宮の費用を負担させる「夫役、棟別銭」に関する資料で在り、しかも、時期が近い為に、この両庄園は同一の庄園と判断して「庄園データーベース」に掲載した。



■「東寺百合文書」











■【相国寺の記録】
「万山編年精要」、「相国考記」、「蔭涼軒日録」
⇒【足利義満】が【五位庄】を【相国寺】の庄園として寄進した。


■「東京大学資料編纂所DB」
⇒「足利義持」は「五位庄」の半分を足利家菩提寺の「等持院」に寄進した。

★足利義持は五位庄の年貢の半分を「等持院」へ寄進し、下地は越中守護「畠山満家」に預け置かれた。「畠山満家」の三回忌は高岡市の「総持寺」が一時期、赤丸村から六渡寺村に動いた時期の【浜総持寺】で執り行われた。(※「尾張国大須観音記録」)








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