赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴 【義経記の二位の渡し】「勧進帳 」に登場する「二位の渡し」の真実の場所とは? ⇒「延喜式内社 赤丸浅井神社」を創建されたと伝わる文武天皇の「二宮」(※聖武天皇の弟)の「石川朝臣広成」の事!!

2021-04-12 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■「後白河上皇」の「後院領 越中吉岡庄」(※南北朝末期から「五位庄」)






■古代の小矢部川は富山県西砺波郡の西山の麓を通り、「後白河上皇の後院領 越中吉岡庄(後の五位庄)」の「延喜式内社赤丸浅井神社」前で小矢部川と庄川が合流していた。
≪🔽上皇の庄園「後院領」はその後、「後いの庄」、「御位庄」、「ごいのしょう」、「おいのしょう」、「五位庄」と変化し、室町時代の「足利義満」の時代には明確に「五位庄」となっている。
⇒(※「兵範記」、「東寺百合文書」、「万山編年精要」、「相国考記」)≫

この地点から川幅が広く成って小矢部川河口の六渡寺村迄続き、日本海に至る。この川幅が広く成った部分を「射水川」、「六渡寺川」と呼び、赤丸浅井神社前の「二位の渡し」から「六渡寺の渡し」迄の舟下りルートを「六渡寺川舟渡し」(※「如意の渡し」)と呼んだ。歌舞伎等の「勧進帳」の場面は正にこの赤丸浅井神社前の「二位の渡し」での事件で在る。
(※現在は西山の麓を離れて小矢部川が流れており、加賀藩時代は「五位の渡し」と呼ばれた。)


■「小矢部川古図」(※「福岡町史」井波町所蔵絵図)




■「近世の五位庄」(※「中世城舘調査報告書」福岡町教育委員会)









■「加賀藩参勤交替道中絵図」に記される「五位の渡し」


■昭和時代迄続いた「五位の渡し」(※二位の渡し)




■昭和時代迄続いた「笹舟」に拠る「川渡し」イメージ(※「葛飾北斎筆」)










■「延喜式内社五位庄53ケ村総社赤丸浅井神社」の由緒に「元正天皇の二宮御創建」と記載される事について加賀藩の郷土史家の森田柿園すら「元正天皇は女帝にして子無し」としている。しかし、最近は「続日本紀」の研究等が進みいろいろな研究成果が発表されている。文武天皇は若くして崩御され、その皇子は幼かった。文武天皇には藤原不比等の娘の宮子夫人との間に首皇子(オビトオウジ)が、石川刀子娘(イシカワノトジノイラツメ)との間に石川朝臣広成がいた。文武天皇が707年に崩御されると藤原不比等は孫の首皇子を天皇にすべく石川刀子娘と紀竈門娘(キノカマドノイラツメ)の二人の嬪(ビン)を和銅6年(713年)に「嬪と名乗らざらしむ」として皇室から追放している。石川朝臣広成は元正天皇の勅により「親王」とされたが、臣下として扱われた。首皇子が成長する迄の間、祖母の元明天皇、伯母の元正天皇が親代わりとなった。文武天皇には正式な妃がいなかった為、皇統譜上では元正天皇が文武天皇の妃として扱われたと云う。石川朝臣広成は臣下とされた時、母方の蘇我氏の家系の「石川」を名乗った。広成は天平年間の740年頃は兄の聖武天皇[大宝元年(701年)ー天平勝宝8年5月2日崩御(756年6月4日]に従って恭仁京に赴任し、天平15年(743年)に内舎人、天平宝字2年(758年)8月1日に従五位下(越階)、天平宝字4年(760年)2月11日には「高円朝臣広世」と賜姓されている。(※「続日本紀」)
(※徳川家康所蔵、尾張徳川家伝来の「続日本紀」には【高円朝臣広成と賜姓された」事が記される。「高円朝臣広世」と賜姓されたとする「姓氏録」が突然、「高円朝臣広世」と記載している為に、「この人物は別人」である等と学者や歴史家は主張してきたが、昔の毛筆、崩し時の読み違いとも考えられる。)


■「保元の乱以降、後白河上皇から後醍醐天皇迄続いた後院領の越中吉岡庄」は南北朝末期に「五位庄」と成り、室町時代には足利義満が「相国寺」(※「鹿苑寺金閣」)に寄進した後も足利家菩提寺「等持院」・「等持寺」の庄園として伝領した。砺波郡福野から現在後も高岡市二上山麓迄拡がっていた「五位庄」は、足利将軍家側近の「越中蜷川氏」(※蜷川新右エ門等)が統治したと言う。(※「蜷川の郷土史」・「蜷川家文書」・「東寺百合文書」)











■「聖武天皇・石川朝臣広成系図」


■「聖武天皇勅願所 越中五位庄 五位荘神社」(※富山県高岡市旧赤丸村領高田島)
(※「延喜式内社赤丸浅井神社」神官が奉仕する聖武天皇所縁の五位荘神社)



■「養老律令 継嗣令」では臣籍に降下した天皇の兄弟、その子は「親王」として処遇された。



■「万葉集」には「石川朝臣広成の歌」が三首掲載されている。
「石川朝臣広成」は「大伴家持」と共に「恭仁京」へ「内舎人」として赴任している。

「万葉集」に見られる「石川朝臣広成」の歌三首
①【家人に恋ひ過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば(万4-696)】
◇泉の里; 山城国相楽郡、泉川(今の木津川)流域の地。恭仁京の地。
内舎人として恭仁京に単身赴任していた時、平城京に残して来た家族を思いやる歌。恭仁京遷都は天平十二年(740年)。
②【妻恋ひに鹿か鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく(万8-1600)】
◇万葉集巻八の配列から天平十五年(743年)秋の作と見られ、恭仁京での作らしい。内舎人は天皇に近侍して警備などに従事した役職で、大伴家持も恭仁京で内舎人だった様だ。
③【めづらしき君が家なる花すすき穂に出づる秋の過ぐらく惜しも(万8-1601)】
◇なかなか逢いに行けないきみの家の穂を出したススキの様に秋の過ぎて行くのは惜しいもの。


■この「高円 タカマド」は奈良の春日山に並び、大文字焼きで有名な「高円山」の在る一帯で有り、兄の聖武天皇が狩りを楽しんだり、別荘を構えたりした場所である。第47代天皇の淳仁天皇[在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日)ー天平宝字8年10月9日(764年11月6日)]は、敢えて聖武天皇が亡くなった直後に、弟の広成に聖武天皇のお気に入りの地にちなんだ「高円朝臣」と賜姓している。その後、「高円朝臣広世」は天平宝字4年(760年)2月20日に文部少輔を拝命。天平宝字5年(761年)5月9日には摂津亮。10月1日には尾張守。天平宝字6年(762年)4月1日に山背守。天平宝字8年(764年)正月7日には従五位上。正月21日には播磨守となり、神護景雲2年(768年)2月18日に周防守。神護景雲3年(769年)6月9日に伊予守。宝亀元年(770年)10月26日には正五位下に序せられた。
[※「石川朝臣広成(高円朝臣広世)」は藤原仲麻呂政権下や称徳(孝謙)天皇、淳仁天皇、光仁天皇下で活躍し、万葉集にも三首が掲載されている。]
この経歴からすると石川朝臣広成が越中に赴任した経歴は無いが、同族の左大臣石川朝臣豊成の庄園が高岡郊外の東大寺庄園越中鹿田荘の隣接地に在った事がこの図面に記載されており、石川朝臣豊人等数人が越中国司として着任している事から、何らかの根拠が在ったものと見られる。又、赤丸浅井神社の奥の院の背後の神域に赤丸浅井神社神官の川人一族と石川一族だけの古い墓地が残されており、神社域内に代々石川一族が屋敷を構えている等、石川家と赤丸浅井神社との特殊な関係が窺われる。しかも、延喜式記載の神社の由緒として717年創建と伝え、1300年近くもこの由緒を伝え続けている歴史は大変重いものがある。(※「浅井神社三社記」参照)







■越中国司として「石川氏」が着任している!!




■「赤丸浅井城」には元正天皇の二宮「石川朝臣広成」が在城されたと言う。(※「肯搆泉達録」)


■「延喜式内社赤丸浅井神社」の神域の「浅井谷」には、現在も「石川家」と「浅井神社川人家」の墓所が在り、周辺は石川家の所有地で在った。




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