赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

💥💥【衆徳山総持寺の真実】高岡市の歴史観偏向を指弾した【ある贋作物語】と、虎の尾を踏んだ【高岡市史】!!

2021-02-02 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■「国指定重要文化財木造千手観音座像」(※「衆徳山総持寺」高岡市関町 所蔵)





■胎内には「後鳥羽上皇」の法名「金剛位理乗」・「金剛位理卿」が記されている。




■「後醍醐天皇」の庄園「越中吉岡庄」の赤丸村に在ったとされる「衆徳山総持寺」(※赤丸村「城ケ平山」)


■富山県内の著名な歴史学者も引用する「ある贋作物語」


■高岡市中央図書館に「ある贋作物語」と言う隠れた名著が在る。これは「高岡市史」の歴史観の偏向を厳しく追求された高岡市の歯科医師、アララギ派詩人「桜木成一氏」の著作で在り、この一族は高岡インター周辺の「池田地区」を開発した池田市衛門家の一族で在り、この一族は赤丸浅井神社前に屋敷を構えていた源平盛衰紀にも登場する「池田次郎」の末裔と見られる名門一族だ。(※「寿永の内乱論序説」朝香年木著参照)
池田市衛門家は総持寺が(赤丸村から)高岡市関町に動いた時に、寺の用地を寄進して、その後も長く総持寺の大壇那として寺の維持をしてきた一族で、その広大な墓地も総持寺敷地に在ったと云う。代々、寺の掃除等も手伝っていた為に、寺から「千手観音像」が「国宝」に指定された時に、この観音像の胎内仏(千体地蔵か?)の一体を下げ渡されたと云う。
赤丸村では古来から「観音寺」として跡地も在り、「延喜式内社赤丸浅井神社」とも頻繁に交流して、総持寺には赤丸浅井神社の神官を勤めていた「西宝院」の「過去帳」も在ると云う。
(※「越中古文抄」飛見丈繁 著)
この論争は、この千手観音像が国宝に指定された時に「赤丸村に在った」と「国宝概説」に記載された事を、高岡市の歴史家「飛見丈繁氏」が否定して、「石堤村に在った」と書籍で発表した事が背景に在り、更に、その背景には「赤丸浅井神社は石堤浅井神社のもの」と横槍を入れて来た吉田神道で在る高岡関野神社と国吉村月野谷神官の赤丸浅井神社簒奪の試みが在った。その為に、「総持寺は石堤村に在った」とする文書や絵図を月野谷神官が偽造して飛見氏に提供したとして、桜木氏は高岡市に対してその原本の開示を求めたが、一切、開示する事無く紛失したと逃げた事から、正式の「高岡市史」に偽の証拠書類が用いられたのではないかとして、マスコミも含めて大きな議論を呼んだ。月野谷神官が書いた証拠書類の「石堤村の公文書」とされるものは、一人の筆跡で有るにも関わらず村役の署名捺印や拇印が無いもので有り、桜木氏は「指の無い人達が書いた文書」と皮肉を込めて高岡市の姿勢を糾弾された。この桜木氏一族は石堤村長光寺門徒で在ったが、高岡市史は「石堤村長光寺の土地が総持寺の旧地で在る。」と主張して、「吉岡庄の地頭」が開いた寺とも云われる古刹の長光寺の由緒を勝手に否定し、高岡市が「総持寺は石堤村長光寺の場所」と主張した事から、長光寺門徒としても激しく反撃された。



■「高岡市史」には現在も「資料編」が無い。従って、高岡市史が何を根拠に書かれたかは誰も分からなく成った。「高岡市史」の編纂責任者と桜木成一氏とは元々、親友で有り、桜木氏の子息の仲人もされた間柄で在ったが、吉田神道である高岡関野神社の「赤丸浅井神社」簒奪の試みは「総持寺の由緒」に迄、論争が波及した。更に、「飛見丈繁氏」の妹がその時の「総持寺の奥様」で在った事から、「総持寺の身内の飛見丈繁氏の意見」を疑い無く高岡市が採用したものらしい。又、飛見丈繁氏は高岡市選出の県議会議員で有り、赤丸村に元々在った「赤丸浅井神社」・「石黒堤浅井神社」の別当寺の「川人山鞍馬寺」の一坊の「法莚寺」の住職「鞍馬可寿子氏」が県議や富山県知事選に出馬されて、飛見丈繁氏のライバルで在った事も別の原因で在ったとも見られる。
《※池田家に伝えられた「総持寺由緒」は、この時の総持寺え住職に渡したが、秘かに処分されたらしいと赤丸浅井神社に伝わり(※池田氏談)、池田家の墓地もこの時に破却されて寺外に墓地を移したと云う。》

■これ等の事情から「桜木氏」は「高岡市史」を「ある贋作物語」と評し、「偽作 高岡市史」の真実を告発された。しかし、「高岡市教育委員会」はこの「偽作 高岡市史」を現在もバイブルにして、「総持寺は石堤村に在った」と発表し続けており、公的な「高岡市史」を受けて、富山県の著名な歴史学者も挙って「石堤浅井神社は延喜式内社の論社で在る。」とか、「総持寺が赤丸村に在ったと云う説と石堤村に在ったと言う説が在る。」等と両論並記して逃げており、学者としてはあるまじき態度を取る者が依然として続いている。その学者達は「五位庄の前身の吉岡庄が後白河上皇以来の後院領で、一時期は上賀茂神社、下鴨神社の庄園と成り、室町時代には足利義満が相国寺の庄園として寄進した」と云う根本的な歴史事実も調べずに、又、「川人山鞍馬寺」が門跡寺院聖護院の末寺で在り、この「聖護院」は江戸時代に二度も皇居として使用された事、歴代加賀藩主が「赤丸浅井神社」を信仰されていた事等も知らずに、デマや推測を根拠にして「両論並記」の論陣を張っており、その意見を、更に、高岡市教育委員会が踏襲して官学共同の論陣を張っている。ここに【偽作 高岡市史】の根深い問題が在る。
(※「高岡市には1600年以前の歴史は無い」とする高岡市教育委員会の偏見に満ちた思想も大きな原因だ。⇒高岡市御車山会館館長の意見参照)

(※「国立歴史民俗博物館」は当方からの古文書等の歴史史料を参照して「越中吉岡庄」・「越中五位庄」の歴史を確認して、「吉岡庄は高岡市福岡町域」と確定して国の庄園データーベースで公開している。具体的な古文書、論拠についてはこのブログの各編に記載している。)













■赤丸村舞谷の旧家に遺された古絵図ー「総持寺下」の記載と観音寺旧跡の絵図



■氷見丈繁氏の著作(部分)


■上「石堤浅井神社神官作成の絵図」ー石堤長光寺の敷地が総持寺の旧地と記載している。
下「赤丸浅井神社神官西宝院家族の総持寺に遺る過去帳」( ※ 氷見丈繁氏所有資料)



■加賀藩第13代前田斎泰公の真筆と赤丸浅井神社の掲額



■加賀藩森田柿園文庫所蔵の「赤丸浅井神社絵図」


■高岡市のあいの風鉄道高岡駅南に古刹の「衆徳山総持寺」が有る。そこには昭和12年に国宝に指定された「千手観音像」が安置されている。

「国宝概説」昭和12年5月25日国宝指定
木像千手観音座像(本堂安置)一躯
像内ニ正平八年卯月三日金剛位
禅恵、仏師幸加竝ニ頼真等ノ銘アリ
富山県高岡市関
総持寺
像高ニ尺四寸四分
寄木造、玉眼嵌入、漆箔。像内腹背及ビ首柄、膝裏等ニ左記ノ銘ガアル。是ニヨレバ正平八年仏師幸賀竝ニ頼真ノ手ニ成リ、四月三日ニ納置セラレタモノデ、銘文中ニアル金剛位禅恵ハ河内金剛寺ノ学頭禅恵法印デアラウ。総持寺ハ慶長年間今ノ高岡市ニ移転以前ハ西砺波郡赤丸村ノ地ニ在ッタ。梨花集ニ興国三月宗良親王ハ諸国転戦ノ後越中国ニ赴カレ、名古浦ニ駐リ給フコトガ見エル。赤丸ハ庄川沿岸ニ位シ、名古浦(モト気比神宮ノ神領ナルガ、転々シテ当時ハ後醍醐天皇御管領トナル)ニ遠クナク、南朝方ノ策源地デアッタ関係上、王事ニ盡セル禅恵モ亦当地ニ来リシコトカト思ハレ、而カモ金剛寺所蔵ノ仏中ニ禅恵ノ筆録多イノニモ拘ラズ、本像銘記ノ正平八年ニハ記載スルモノヲ存シナイコトハコノ間ノ消息ヲ物語ルノデアラウ。即チ本像ハ製作年代モ知ラレ、ソノ造像銘記ハ北越地方ニ於ケル南朝ノ動静ヲ窺フベキ資料トシテソノ価値ヲ認ムベキデアラウ。

しかし、この「国宝概説」に何故か高岡市の県議・歯科医師の郷土史家氷見丈繁氏が高岡市石堤村浅井神社清水神主が提供したとされる廃仏毀釈後の明治四年の資料を根拠に反論をして「国宝概説」の【赤丸村ノ地ニ在ッタ】と記載される部分を勝手に改竄して【石堤に在った】と「国宝概説」を訂正して本を発行した。
(※「月野谷村清水神主に石堤地内の総持寺持ち宮の水の宮の祭祀を依頼した文書」を根拠に総持寺は石堤に在ったと主張した。総持寺の持ち宮は赤丸村の浅井神社裏にも「熊野社」が在り、明らかに調査不足である。)
又、当時、高岡市史の編纂は和田一郎氏が一人編纂に当っていた様だが、和田氏は政治的な配慮からこの見解を採用して、「高岡市史」に反映して「総持寺元石堤説」を主張している。
(※「神楽米の覚え」という「山川村与四右衛門の向かいに総持寺の土地が在り、ここからの年貢を石堤浅井神社に奉納するとする文書」を和田氏は根拠としている。しかし、山川村は石堤の相当奥山に在り、主張する石堤長光寺の場所とも相当かけ離れた場所である。しかし、和田氏は高岡市史の別の章では「国宝概説」を取り上げて「赤丸ニ在ッタ」とする部分は認めている。全く支離滅裂で有る。「高岡市史」は地元の石堤村が大正6年に発行した「石堤村史」[※高岡市中央図書館蔵書]さえも調査せずに独断で編纂された事が解る。又、赤丸村と石堤村は歴史的に一体の時期も長く、石堤役場の責任者が赤丸村の皆月家で在ったリ、石堤小学校もこの皆月家の私塾が発展したもので、その後、赤丸小学校と石堤小学校が分離された事すら、高岡市教育委員会はご存じ無いのだろうか?加賀藩時代にも行政区が一緒の時期が在り、石堤村との一部は赤丸村出身の池田家が開発し、石堤村の大澤神社は今も赤丸浅井神社が奉仕している。
(※池田市右衛門は元赤丸村の大百姓で肝煎を勤めたが所払いに会い国吉の四十九村に移り、後に細池に移った旧家で、赤丸村肝煎の奥田五右衛門の兄・奥田、桜木家の総本家に当たリ、旧屋敷は赤丸浅井神社の門前の五右衛門屋敷の場所。赤丸村舞谷の旧総持寺跡の周辺は「池田島 イケンダジマ」と現在も山林図に残る。この池田家が所有した高岡市の土地を総持寺移転の時に寄進し、池田家の墓所も総持寺敷地内に在ったが、ある時に無断でこの墓所が破壊されて池田家は総代も辞めさせられたと云う。このクーデターは総持寺に妹を嫁がせた氷見丈繁氏の圧力による様で、そのお詫びで在ったのか、池田家には国宝千手観音の鎌倉期の胎内仏が密かに贈られた様だ。現在も総持寺由緒は「石堤説」を取り続け、高岡市も「国宝概説」の否定はしないが、「石堤説」を取り続けると云う奇妙な状況が続いている。

■「高岡市史」は池田市右衛門は石堤の住民で有力者であった事が総持寺石堤旧跡説の根拠の一つとしているが、池田市右衛門の旧屋敷は赤丸浅井神社の門前に在り、現在もそこには弟の五右衛門の屋敷が残っている。「高岡市史」は根拠にもならない事を根拠として市史を作成しており、推定、未調査の事を「史実」として記載している。「総持寺の千手観音像の胎内名の調査と称する部分」は歴史書としては更に配列や記載内容迄変えたデタラメに近いものだ。昭和39年の富山県教育委員会の調査記録には胎内名の詳細が記載されている。高岡市史は昭和27年から9期も市長を務めた堀健二市長の時代に発行されたが、第3.5代堀二作氏や第12代堀豊氏等の堀氏についてはわざとらしく「後醍醐天皇の皇子宗良親王を新湊の高木城に迎えた石黒重之の後裔」である事を紹介し、元赤丸小学校訓導から伏木小学校長を経て高岡市助役を3期も務め、第11代目高岡市長に就任した早苗西蔵氏の時代が如何にひどく堀豊氏の時代の政治が如何に優れていたかを説明する為に市史の約80ページも使う等、堀健二市長への配慮は行き届いている。高岡市の鴨島町は石黒一族の鴨島七郎の所領であった事は「高岡史料」にも記載されているが、高岡市史では堀氏のこの部分だけ石黒氏について触れている。この市史は堀市長の文書をつけて昭和34年9月には受領書を徴収して高岡市教育委員会から有力者や関係先に贈答されている。これ等の事からこの高岡市史は明らかに政治的な思惑を背景にしている事が窺われる。)

■【石堤村は1953年(昭和28年)高岡市と合併。赤丸村は1954年(昭和29年)福岡町と合併、2005年(平成17年)福岡町と高岡市が合併。合併の時に赤丸村では高岡市、福岡町の何れと合併するかで、高岡市と福岡町の間の激しい綱引きが展開され、赤丸村では逮捕者を出す事件迄発生した。この影響から高岡市は石堤側を持ち上げ、福岡町と合併した赤丸村を叩く雰囲気が背景には在ったと見られる。「高岡市史」が意図的に赤丸村を叩こうとした政治的な意図が在り、市史の各所に赤丸村を否定する部分が見られる。(例:宗良親王の七の社の歌。浅井神社、極楽寺由緒等の部分では赤丸を取り上げてわざわざ否定している。「極楽寺由緒」には「五位庄極楽谷の創建」[※「赤丸城ケ平の奥に極楽谷在り」]を記載しているが高岡市史は調べずに「取るに足らない」と否定。赤丸浅井神社の由緒の「元正帝二宮創建」についても「女帝で子無し」として「この由緒は取るに足らない」と否定。皇統譜上では元正帝は兄文武天皇の「妃」に擬されて聖武天皇の母とされている。又、聖武天皇には腹違いの弟石川朝臣広成がいたというのも最近の研究で明らかになっている。各所に調査不足と個人的な意思が入っており、私的な著作を公費を使って「高岡市史」として発行した事は妥当では無い。)



高岡市史の上、中、下巻は昭和34年、38年、44年に発行されているが、その作為性の為に現在も「資料編」は発行されていない。この高岡市史の資料編は高岡市史の検証が行われた後でなければ、嘘の傍証を固めるだけの資料になる。地域の対立を煽る歴史書は百害在って一利無し。改めて「高岡市史」は編纂し直す必要が有る。《※昭和12年総持寺千手観音像は国宝指定を受ける。昭和37年氷見丈繁氏が国宝概説を否定する論文を発表》】

■国家が示した官報とも云うべき内容の【国宝概説】に記されている「高岡市に在る総持寺の歴史」を高岡市が否定するという珍事である。高岡市極楽寺の「越中宮奉賛会」は、この南朝の牙城「赤丸村」がその昔、「吉岡庄」・「五位庄」で在ったと昭和19年発行の「宗良親王」で発表している。しかし、高岡市教育委員会は昭和58年発行の「高岡の文化財」で又々、高岡市文化財審議会会長の和田一郎氏指導に拠り「吉岡庄・五位庄は石堤である」という清水神主のちんぷんかんぷんな解釈の上に「総持寺は元石堤に在った」として主張、高岡市と福岡町が合併した後の平成21年発行の開町400年記念誌「高岡市の文化財」で更に「総持寺は元石堤に在った」と主張している。ここまで検証すると「高岡市史」という「高岡市の歴史のバイブル」が新興宗教の教義にも思われてくる。そこには「歴史の検証」の姿勢は皆無で、単に「行政」という権力を背景にした「妄想」と「独断」しか見受けられない。「歴史研究」にとってはやってはならない「捏造」をやってしまった訳だ。しかも、高岡市には今や之が真実かどうか確認する意図さえ無く、疑問点の多い総持寺仏像の再調査を申し入れた所、「学会で論議されて誤りが確認されたら考える」と回答している。(※高岡市教育委員会文化財課よりのメール回答)

■「石堤浅井神社」は元々両部神道・三社権現「川人山鞍馬寺」の摂社で在ったが、天皇家の伊勢神道、白河神道の「神祇官」に対抗して、「神祇管領長上」と名乗った「京都吉田神社」は徳川幕府と組み両部神道から神社を分離して唯一神道を目指した。石堤浅井神社の神官は元々「吉田」で在ったが、後に「清水」と改名している。「石堤浅井神社」と「舞谷八幡宮」は「延喜式内社赤丸浅井神社」の摂社だが、両部神道「聖護院派」(本山派)山伏の「赤丸浅井神社」からの分離を進める為、「石堤浅井神社」は「五位庄総社」・「延喜式内社」を名乗り、「川人山鞍馬寺」を「宮掃除人」として加賀藩に報告する等して独立を目指した。徳川は豊臣が鋳造した「方広寺」の鐘の「国家安康 君臣豊楽 」の文字が徳川を呪詛するとして豊臣を攻めて滅ぼした。「方広寺」は聖護院と密接で、秀吉は聖護院道澄を方広寺大仏殿住持に任命している。聖護院派の資料に拠ると、徳川幕府は聖護院派山伏を豊臣恩顧の寺院として圧迫を続け、吉田神道と連携したと云う。明治に入り、廃仏毀釈、両部神道の廃止を受けて、「赤丸浅井神社)の別当の西宝院は還俗して川人他治馬と名乗り、「石堤浅井神社」は国家神道に沿って勢いを増した。その為に、「赤丸浅井神社」の歴史を「石堤浅井神社」の歴史に取り込む動きが活発化し、石堤浅井神社の清水神官や石堤村の豪農の一部が盛んに絵図や文書を作成して実力者の氷見丈繁氏や高岡市史編纂担当の和田一郎氏に提供していた事が資料から解る。加賀藩は徳川の動きも知りながら、門跡寺院聖護院の立場も尊重した様で、数回の赤丸と石堤の浅井神社の争いには赤丸浅井神社に軍配を上げ、加賀藩第13代前田斎泰は「赤丸浅井神社」に「浅井神社」の書を与えている。これが現在の赤丸浅井神社の掲額となっている。「高岡市史」は「この動きが赤丸浅井神社の圧力に拠るもの」として石堤被害者の立場を主張している。
(※「石堤村氏神出入り書類」金沢市立玉川図書館所蔵 参照)

🔽「吉田神道」は徳川幕府が制定した「神社禰宜諸法度」に基づき、白河神道の「神祇官」の権限を簒奪して、全国の神社の神官の任命や衣装の色の指定等を行い、幕府の手先として天皇家の伊勢神道を圧迫したと云う。「加賀藩」で在った高岡市の「吉田神道高岡関野神社」の神官「関氏」は、この勢いに乗じて天皇家と密接な「門跡寺院聖護院派川人山鞍馬寺」(※「延喜式内社赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷村八幡宮」を加えて「川人山三社」と呼ばれ、「鞍馬寺」はその別当で在った。)から「石堤浅井神社」を簒奪して、「吉田神道関野神社」の配下にすべく、「国吉村月野谷神官清水家」を手先として強引に「石堤浅井神社」へ吉田神道の祭具を持込み、元々在った赤丸浅井神社の仏像等を打ち捨てたと云う。皇室ゆかりの「聖護院本山」や「加賀藩寺社奉行」は、この「蛮行」に対して、「吉田神道の祭具の撤去と退去」を命じて「月野谷神主の敗訴」を通告している。(※「金沢市立図書館蔵」)
「歴史」を唱える者が「歴史の史実」を確認せずに独断と偏見で記載された「高岡市史」に「歴史書」の認定を与えてはならない。

※「吉田神道裁許状」の事例




■総持寺の観音像の国宝指定については、当時の一流とされた学者や宮内省、文部省が頻繁に赤丸村を調査して国宝に指定している。その経過は当時の新聞にも克明に報道されている。又、この「異変」について高岡市の歯科医師で総持寺の門徒総代を長年勤めた池田家の家系の桜木成一氏は「ある贋作物語」を発行して、「総持寺は赤丸村舞谷に在った事」を証明して激しく反論されている。
(※「治承・寿永の内乱論序説」浅香年木著 に拠るとこの池田氏は木曽義仲を小矢部市の埴生護国八幡宮に案内した池田次郎の系統ではないかと考えられる。小矢部、赤丸、立野、氷見には池田と云う地名が遺されている。)
(※「高岡市史」を主に一人で編纂された和田一郎氏は桜木成一氏のご子息の仲人もされる位に親交があったが、「高岡市史」が余りにも独断と政治的な偏見により編纂された為に激しく修正を求められたが、修正される事はなかった。)

■赤丸の向野新村の一部は石堤の助九郎が開発し、助九郎屋敷も向野に在った記録が「杉野家文書」に遺されている。更に、石堤村と赤丸村は古くから縁組みも盛んで、両村に親族を持つ家系も多い。高岡市の作為的な歴史の捏造は本来、一体で発展してきた赤丸と石堤を分断し、両村の対立を煽った。過去には、「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」の氏子が相撲神事を巡り血を流して争い、警察が介入し、両村の村長が誓約書を交わす事態に発展し、長く両村にしこりを遺している。「高岡市史」はこの火薬庫にいたずらに火をつけて赤丸村住民の信仰とプライドをズタズタに切り裂いた。高岡市の意図的な歴史偽造は集落の分断という歴史的な大罪を犯した事すら高岡市の幹部はご存じ無い。桜木成一氏が池田家の親族で、それ迄総持寺を護持してきた池田家が墓所迄追い払われ、其れまでの歴史一切を打ち消されて、挙げ句の果てに「総持寺は石堤に在った」等と高岡市が妄言を吹聴した事で桜木氏の怒りは頂点に達した様である。)

■この一件は、具体的には両部神道の「川人山鞍馬寺」の別当「西宝院」・「赤丸浅井神社」と「吉田神道」に属した「末社石堤浅井神社」との争いが背景に在った様で、「石堤浅井神社」の清水神主は「総持寺は元石堤の長光寺の敷地に在った」と主張して、総持寺の持ち宮「水の宮」が石堤に在ったから、「総持寺の旧地は石堤である」とした。しかし、桜木家は石堤長光寺の門徒で有り、調査しても名門の長光寺の敷地に総持寺が在ったと云う歴史もなく全くのデマだと云う。長光寺は一時期、盗賊に襲われ花尾村に避難した事は在るが、一向一揆の時にも浄土真宗の牙城になった名門で有り、この地に真言宗総持寺が在ったとは聞いた事が無い。(※古書には長光寺の開基は「吉岡庄の地頭で在った」と記載される位に歴史は古い。)

■桜木成一氏はこの様に細部に亘り調査し、大阪河内金剛寺の古文書も踏査して、激しく「歴史の捏造」を批判されたが、高岡市はだんまりを決め込み、現在も何等動く気配も無い。この「千手観音像」はその後、法律が変わり、現在は「国指定重要文化財」に指定替えされたが、依然として胎内名や「奉納仏舎利」の記載等の細部の調査もされず「お蔵入り」になったままである。理由はこの千手観音像は国指定の文化財だからと云う。と言いながら、一方では「高岡市史」では検証もせず国の「国宝概説」に反する論理を展開し続けている。
一時期は国宝にも成り、現在は唯一、「国指定重要文化財」にもなっている高岡市関町総持寺の「木造千手観音座像」について、当方から直接、訪問を重ねて高岡市教育委員会文化財課に正確な再調査を申し入れたが、「貴方が詳しく調べているから改めて調べる必要は無い。そこ迄熱心なら自分が学会で発表して、学会が認められたら高岡市が考える。」と関心も示さずに慇懃無礼な門前払いの文書を追ってメールで回答してきた。「歴史のまちづくり」を標榜する高岡市教育委員会の役人は正に権力者のみにへらへらする「面従腹背」の官僚そのもので、市民や真実には一瞥もしない。これが高岡市の青少年を教育する「教育委員会」の実態で在り、「1600年以前に高岡市の歴史は無い」と云う前田家のみを信仰する高岡市教育委員会の歴史的偏向と市民に真実を隠蔽し続ける高岡市教育委員会の実態で在り、先に発行された「開町400年誌」でも改めて「総持寺は元々、高岡市石堤村に在った。」と記載して市民に頒布して偽の歴史を広報し続けている。ここ迄来ると、最早、確信犯で在り、意図的に歴史を歪曲して「全てが前田利家に繋がる」とする高岡市の歴史観を何としても守ろうとする強い意思を感じる。
最近、「高岡市教育委員会文化財課」の関係者で、「高岡市御車山会館」の館長様 から、「高岡市には前田家が開町した1600年以前の歴史は存在せず、在ってはならない。」と新興宗教の教祖様の様な言葉を投げつけられた。正に高岡市の歴史観は狂っている。高岡市に真実の歴史は無く、曾ての加賀藩恩顧の有力者達の偽造と強弁だけで成り立った「歴史」しか無い。とは云うものの、反面、真剣に「加賀藩治世」の高岡市の歴史を教育委員会は調べもせずに、高岡市の【高岡】は「鳳凰鳴けり高き岡に」と言う詩経の一説から名付けられたと広報しているが、「その根拠資料を示せ」と追及した所、「何も根拠資料は無い」と告白している。全てがこの調子で、誰が唱えたかも分からない「お茶間」の話を「真実で在る」として広報する等「高岡市の歴史」については全てを疑ってかかる必要がある。

■この論義に関心を示した郷土史家の「三輪国治氏」は「桜木成一氏」や「池田与三吉氏」にも面談して事実確認をされ、富山県立図書館に膨大な「三輪国治文庫」として遺された。更に河内金剛寺の古文書も実地調査された様で、貴重な河内金剛寺の古文書の写しも保管されている。しかし、発行には至らなかったらしく、手書きの草稿も多い。今となっては貴重な資料である。高岡市も市史の編纂の時にこれくらいは調査しておれば、迷走する事もなかったと思う。
しかし、高岡市教育委員会はその一方で赤丸村舞谷の総持寺の旧地の「舞谷観音堂遺跡」を発掘調査をして、「総持寺の旧地は赤丸村舞谷」とした調査報告書も発行している。と云う事は、総持寺は赤丸村に在ったが観音像は石堤に在ったと云う事にもなる。かくも高岡市教育委員会は今も独断に満ちた「高岡市史」に振り回されて迷走を続けている。「教育の本山」の教育委員会がこの有り様で、調査も研究もこの町には縁遠いのか? 形式と権威と権力にがんじがらめに縛られた高岡市政が停滞しているうちに、隣県の金沢市や富山県内の富山市等は情報公開・民主化と観光化をどんどん進めて、近代的な町づくりが既に完了しつつある。人口が毎年1000人も減り続ける町は明らかに停滞、退化している都市という事だ。
(※「ある贋作物語」桜木成一著、「三輪国治文庫」富山県県立図書館蔵書 参照)


●「郷土史家飛見武繁」によって、「総持寺は元赤丸村に在った」と記載される【国宝概説】を「石堤村に在った」と改竄された。(※高岡市中央図書館所蔵)








■【近年の「衆徳山総持寺」の研究文献】


■「杉崎喜英氏の総持寺に関する研究論文」






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