赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🌅 「室町幕府将軍足利義持」は「越中五位庄」の半分を足利家菩提寺『等持院』に寄進した !!

2021-04-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■『越中吉岡庄』は南北朝末期に『五位庄』と成り、室町幕府の直轄地になった。




■「応永22年(1415年)1 0月16日 室町幕府将軍足利義持は越中五位庄の半分を足利家菩提寺の『等持院』に寄進した。」
(※「大日本史料」等持院常住記録)→東京大学資料編纂所大日本史料DB




■「三代将軍足利義満」によって『相国寺(金閣寺)』に寄進された「越中五位庄」は、「足利義持」によってその半分が足利家菩提寺の『等持院』に寄進された。その後の記録を見ると、残りの半分は同じく足利家菩提寺の『等持寺』に寄進された様だ。








■「五位庄」と「吉岡庄」
「五位庄」は、南北朝時代まで「越中吉岡庄」と呼ばれていた。「赤丸浅井神社」は「五位庄総社」とされ、その中核の神社で在った。五位庄は広大な範囲で有り、加賀藩士富田景周が書き記したと伝わる「加越能三州地理志稿」に拠れば、江戸時代の「五位庄」は「四日市、柴野、十日市、江道、境、山川、廣谷、勝木原、澤川、淵ケ谷、田名原、小野、六郎谷、花野(花尾)、栃谷、上栃谷、西明寺、上向田(鍛冶町・田ノ子・上野)、下向田、土屋、山岸、鳥倉、西、高畠、加茂、馬場、三日市(荒田町・大野島・大野)、赤丸(谷内・次兵衛島)、舞谷、石堤(谷内・六日市)、麻生谷、東石堤、渡、内島(池田・新屋敷)、蜂ケ島、大源寺、福田六家、六家、樋詰、柴野内島、立野町、中保、駒方、駒方新、小竹、下開発、上開発、今市、宮野腰、三ケ、後正寺、須田、壹歩貮歩(二歩)、下老子、笹川(荒又・出来野)、高田島(荒又・出来野)、福岡、四十萬、稗島、下蓑、荒屋敷、土田新、以上 五十七村属五位庄」が五位庄で在ったとされる。

■「五位庄」は福岡町加茂の「超願寺文書」に拠ると、「西五位」、「東五位」に分かれており、現在では「西五位」、「東五位」は小矢部川を挟んで「西」「東」に成っている。しかし、足利幕府の統治した室町時代の「畠山文書」に拠ると、「延喜式内社赤丸浅井神社」の在る「赤丸村」の小矢部川西側と高岡市内島、池田等の小矢部川東側は「五位庄西庄」と呼ばれ、庄川東側の「般若野庄」には「五位庄東庄」が含まれたとされる事から公卿の勧修寺家領の「般若野庄」は庄川を挟んだ西側も含んでいたと見られる。

■南北朝時代の「越中統治絵図」(※「畠山文書」)


■「東寺百合文書」には「般若野庄」に「五位の東庄」を含んだ事が記されている。


■「延喜式内社赤丸浅井神社周辺の史跡」


■加賀藩時代の「西五位」・「東五位」の各地区には赤丸村は含まれていない。


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