●「加賀の一向一揆」と「越中石黒氏」、「加賀富樫氏」⇒「富樫記」に見られる人間の悲哀!!
越中「五位庄」の「石堤長光寺」を中心として一向一揆衆が集決して、石黒氏、中山氏と続いた「赤丸浅井城」には一揆の首領「下間和泉」が入ったと云う。(※「越中志徴」)
⇒「下間頼龍の赤丸志徒への志納銀受取り状」が遺されている。
(※富山県立公文書館)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/38/1ffc3f36bb4eedc875c525dc711d562c.jpg)
■「越中五位庄」は「足利義満」により、室の「業子 ナリコ」の追善料として義満創建の「相国寺」に寄進された。「業子」は藤原氏の日野氏で在り、浄土真宗を開いた「親鸞」も日野氏で在り、一族で在った。
(※「越中五位庄」が足利家菩提寺の相国寺、等持寺、等持院の庄園となっていた時に、蓮如の弟子27人の内、7人が足利将軍家政所で越中蜷川氏の一族でもある「伊勢氏」で在ったと云う。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/2c/aa2a618db2fbf20336de59fef33c1c79.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/bb/467ab400e342d821f3a42511e03c963b.jpg)
(※「中世城館調査報告書」福岡町教育委員会)
■「加賀一向一揆」
蓮如は文明6年(1474年)~文明7年(1475年)迄「吉崎御坊」に滞在した。蓮如は親鸞の後継として北陸での布教に注力して、当初は守護富樫政親とも良好で守護家の富樫幸千代を倒す事にも協力した。蓮如は守護の保護を受ける事を期待したが逆に政親は本願寺門徒の勢いに恐れを為して文明7年には門徒の弾圧を開始した。その為に蓮如は「吉崎御坊」を退去し加賀の一向衆門徒は越中に逃れた。
しかし、越中では富樫氏と同族の砺波郡の石黒光義が富樫政親と結び門徒の弾圧を開始した。文明13年(1481年)には越中でも一向一揆が発生し、石黒光義は戦死した。この時に越中の一向衆は「五位庄」に集結したと云う。
富樫政親は加賀の一国支配を目指し、将軍家の支援を期待して9代将軍足利義尚の方針に従って近江の六角高頼の遠征に従軍したが、戦費の負担に不満を持つ国人領主達が越中から帰った門徒と共に反逆する。その結果、国人衆は長享2年(1488年)、富樫政親の代わりに一族の富樫泰高を守護に擁立して金沢市郊外の高尾城で政親を攻め滅ぼした。(長享の一揆)。之に対して将軍足利義尚は一向一揆の討伐を考えたが、突然の義尚の死で中止され、以後は加賀は正に「一向衆の持てる国」と成り、国人層は衰退して本願寺による加賀・越中の支配が行われる事になった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/46/9ae0fe6dcddbc53c9b05f33df2defbff.jpg)
■「富樫記」に見る「富樫政親の最後」
「富樫記」に因れば、浄土真宗の内には「高田本山派」と「本願寺派」が在るが、この両派の紛争に介入した富樫氏が「高田本山派」に有利な裁定をした為に、本願寺門徒衆の抗議活動が激化したとされる。富樫政親は反乱軍に攻められて、「金沢市の郊外で加賀の松任近くの高尾城」に籠城する。しかし、多勢に無勢で次第に追い詰められた富樫政親は女、子供の助命を敵将に要請して、敵将は紳士的にそれを受け入れて丁重に配所に送り届けた。それを確認した政親は、家臣と共に今生の名残の宴を催して、遂には腹を十文字に割捌いて最後を迎え、家臣が城全体に火を掛けて、一族郎党は城中で自刃した。
「富樫記」は哀調を帯びた戦記物で、「人の哀れ」 を歌い上げ、随所に武将の歌等を盛り込んでいる。「太平記」や「平家物語」にも似て、富樫政親の最後を克明に記述している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/af/b27f5c650ee88aca2e141034a7afb81b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/bb/a4d3622eb678ee20f15b1929ca52bfb2.jpg)
■富山県南砺市の浄土真宗「井波瑞泉寺」と赤丸村「川人山鞍馬寺」=(※「赤丸浅井神社」の別当寺)
一向一揆の越中の拠点となっていた「井波瑞泉寺」の本堂隣の宝物殿の中央には大きな富山県文化財「木造阿弥陀如来像」が祀られている。これは、元々、赤丸村に在った「川人山鞍馬寺」の本尊で、この寺は後小松天皇の頃、足利室町幕府統治の時に「五位庄」が足利家菩提寺の「相国寺」、「等持寺」、「等持院」の庄園と成り、鞍馬寺が一向宗に改宗した為に、赤丸浅井城城主中山氏に追われて福岡町一歩二歩に逃れ、その後、明治に入り廃仏毀釈の動き等で寺院が衰退。住職が亡くなった後に困窮して城端町の金戸専徳寺に売り渡された。この寺の長持ちに在った仏像を小矢部市の山口さんがこれを引き取り、修復して井波瑞泉寺に寄贈された。「福岡町史」にはこの仏像の足に「鞍馬寺什」と墨書されていたと記載される。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/33/250a310966dbca2a977ed8442f6de481.jpg)
■【蓮如上人の戸惑い】(※「妙楽寺 文書」)
「蓮如上人御一代記」には「加州一揆の御迷惑」として、「仏法は大慈大悲の御恩・哀れみを教えているが、門徒としては思い通りにならない事もあるだろうが、人の身はなかなか御しがたいもの」として一向宗門徒に暴走に対して自制を促していた。しかし、「室町幕府の足利義尚将軍」《※応仁の乱の時に擁立された。在職は[文明5年(1473年)~ 1489年]》 からは、「加州1国の一揆門徒を庇うな」との命令が蓮如に下され、『加州に住む門徒を手放す事は身を切られるよりも悲しく、しかも何も知らない女の信徒迄が巻き込まれている事は迷惑な事で、門徒が殺害されたりする事は仏法を理解した人を失う事になり悲しい事だ』と嘆いている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/e6/08f08c9067b08eefce9616282083ca0a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/3a/ca307e196ce4fad535ad1f7f6d981eb3.jpg)
越中「五位庄」の「石堤長光寺」を中心として一向一揆衆が集決して、石黒氏、中山氏と続いた「赤丸浅井城」には一揆の首領「下間和泉」が入ったと云う。(※「越中志徴」)
⇒「下間頼龍の赤丸志徒への志納銀受取り状」が遺されている。
(※富山県立公文書館)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/38/1ffc3f36bb4eedc875c525dc711d562c.jpg)
■「越中五位庄」は「足利義満」により、室の「業子 ナリコ」の追善料として義満創建の「相国寺」に寄進された。「業子」は藤原氏の日野氏で在り、浄土真宗を開いた「親鸞」も日野氏で在り、一族で在った。
(※「越中五位庄」が足利家菩提寺の相国寺、等持寺、等持院の庄園となっていた時に、蓮如の弟子27人の内、7人が足利将軍家政所で越中蜷川氏の一族でもある「伊勢氏」で在ったと云う。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/2c/aa2a618db2fbf20336de59fef33c1c79.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/bb/467ab400e342d821f3a42511e03c963b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/1e/2cc7e9410cf7988ce4f55e37f6f79736.jpg)
■「加賀一向一揆」
蓮如は文明6年(1474年)~文明7年(1475年)迄「吉崎御坊」に滞在した。蓮如は親鸞の後継として北陸での布教に注力して、当初は守護富樫政親とも良好で守護家の富樫幸千代を倒す事にも協力した。蓮如は守護の保護を受ける事を期待したが逆に政親は本願寺門徒の勢いに恐れを為して文明7年には門徒の弾圧を開始した。その為に蓮如は「吉崎御坊」を退去し加賀の一向衆門徒は越中に逃れた。
しかし、越中では富樫氏と同族の砺波郡の石黒光義が富樫政親と結び門徒の弾圧を開始した。文明13年(1481年)には越中でも一向一揆が発生し、石黒光義は戦死した。この時に越中の一向衆は「五位庄」に集結したと云う。
富樫政親は加賀の一国支配を目指し、将軍家の支援を期待して9代将軍足利義尚の方針に従って近江の六角高頼の遠征に従軍したが、戦費の負担に不満を持つ国人領主達が越中から帰った門徒と共に反逆する。その結果、国人衆は長享2年(1488年)、富樫政親の代わりに一族の富樫泰高を守護に擁立して金沢市郊外の高尾城で政親を攻め滅ぼした。(長享の一揆)。之に対して将軍足利義尚は一向一揆の討伐を考えたが、突然の義尚の死で中止され、以後は加賀は正に「一向衆の持てる国」と成り、国人層は衰退して本願寺による加賀・越中の支配が行われる事になった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/46/9ae0fe6dcddbc53c9b05f33df2defbff.jpg)
■「富樫記」に見る「富樫政親の最後」
「富樫記」に因れば、浄土真宗の内には「高田本山派」と「本願寺派」が在るが、この両派の紛争に介入した富樫氏が「高田本山派」に有利な裁定をした為に、本願寺門徒衆の抗議活動が激化したとされる。富樫政親は反乱軍に攻められて、「金沢市の郊外で加賀の松任近くの高尾城」に籠城する。しかし、多勢に無勢で次第に追い詰められた富樫政親は女、子供の助命を敵将に要請して、敵将は紳士的にそれを受け入れて丁重に配所に送り届けた。それを確認した政親は、家臣と共に今生の名残の宴を催して、遂には腹を十文字に割捌いて最後を迎え、家臣が城全体に火を掛けて、一族郎党は城中で自刃した。
「富樫記」は哀調を帯びた戦記物で、「人の哀れ」 を歌い上げ、随所に武将の歌等を盛り込んでいる。「太平記」や「平家物語」にも似て、富樫政親の最後を克明に記述している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/af/b27f5c650ee88aca2e141034a7afb81b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/bb/a4d3622eb678ee20f15b1929ca52bfb2.jpg)
■富山県南砺市の浄土真宗「井波瑞泉寺」と赤丸村「川人山鞍馬寺」=(※「赤丸浅井神社」の別当寺)
一向一揆の越中の拠点となっていた「井波瑞泉寺」の本堂隣の宝物殿の中央には大きな富山県文化財「木造阿弥陀如来像」が祀られている。これは、元々、赤丸村に在った「川人山鞍馬寺」の本尊で、この寺は後小松天皇の頃、足利室町幕府統治の時に「五位庄」が足利家菩提寺の「相国寺」、「等持寺」、「等持院」の庄園と成り、鞍馬寺が一向宗に改宗した為に、赤丸浅井城城主中山氏に追われて福岡町一歩二歩に逃れ、その後、明治に入り廃仏毀釈の動き等で寺院が衰退。住職が亡くなった後に困窮して城端町の金戸専徳寺に売り渡された。この寺の長持ちに在った仏像を小矢部市の山口さんがこれを引き取り、修復して井波瑞泉寺に寄贈された。「福岡町史」にはこの仏像の足に「鞍馬寺什」と墨書されていたと記載される。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/33/250a310966dbca2a977ed8442f6de481.jpg)
■【蓮如上人の戸惑い】(※「妙楽寺 文書」)
「蓮如上人御一代記」には「加州一揆の御迷惑」として、「仏法は大慈大悲の御恩・哀れみを教えているが、門徒としては思い通りにならない事もあるだろうが、人の身はなかなか御しがたいもの」として一向宗門徒に暴走に対して自制を促していた。しかし、「室町幕府の足利義尚将軍」《※応仁の乱の時に擁立された。在職は[文明5年(1473年)~ 1489年]》 からは、「加州1国の一揆門徒を庇うな」との命令が蓮如に下され、『加州に住む門徒を手放す事は身を切られるよりも悲しく、しかも何も知らない女の信徒迄が巻き込まれている事は迷惑な事で、門徒が殺害されたりする事は仏法を理解した人を失う事になり悲しい事だ』と嘆いている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/e6/08f08c9067b08eefce9616282083ca0a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/3a/ca307e196ce4fad535ad1f7f6d981eb3.jpg)