■「総持寺」の慶派仏師「幸賀 作」の「千手観音像」
■「河内金剛寺」は【後白河上皇】と【鳥羽法王の娘の八條女院】の祈願寺として「女人高野山」と呼ばれた。又、「越中吉岡庄」と同様に、「河内金剛寺領」、「河内勧心寺」は共に「後白河上皇」の庄園
で在った。(※「日本庄園史大辞典」吉川弘文館)
■この寺は「聖武天皇」の勅願により「僧行基」が天平年間に草創しその後、「空海」が修行して霊跡と成り、「後白河上皇」は高野山から丹生高野の両明神を勘請して鎮守護法の神とされて伽藍の整備を進められ、東寺から本尊仏舎利を奉納され、寺号を「金剛寺」とされた。その後に河内の武将「源貞弘」は山野、田畑を寄進して寺の財政を安定させた。この「源貞弘」は源平の倶利伽羅合戦で死亡している。次いで、「後白河上皇」の「皇子守覚法王親王」の支配と成り、その時にこの寺は仁和寺末と成り、九条家の祈願寺と成った。
その後も「後鳥羽院」の中宮で九条家の「宣秋門院」の帰依を受けて、更にその後は、大覚寺統の「亀山法王」、「後二条」、「後宇多」、「昭慶門院」、「昭訓門院」と伝えられ、「後醍醐天皇」迄伝来した。
(※「越中吉岡庄」(文治三年三月成立)、「河内金剛寺領」(建久二年四月成立)、「河内勧心寺領」(治承三年八月成立)は「後白河上皇領」して見える。「越中吉岡庄」は大覚寺統に伝来して「後醍醐天皇」の時代迄「蓮華王領庄園」として伝領した事が「東大寺文書」から窺い知れる。
《「日本庄園史大辞典」吉川弘文館》)
■後醍醐天皇の真言宗の師の「東寺長者文観」と後醍醐天皇は東寺の仏舎利五粒を金剛寺住職の持仏に施入して、その仏像をその時の金剛寺学頭「禅恵」は正平八年に越中吉岡庄赤丸村の総持寺に伝えたとされる。
(※「越中総持寺に伝えられた千手観音像」の胎内に「正平八年御入り」の記載が在る。)
この翌年には、南朝の後村上天皇は北朝の天皇を拉致して金剛寺に入り、一時期には南北朝両朝の天皇が行在所に成った稀有な寺院で在る。金剛寺にはこの地域の武将で南朝の武将として戦った「楠正成」の武具等が奉納されている。
■「河内金剛寺」は【後白河上皇】と【鳥羽法王の娘の八條女院】の祈願寺として「女人高野山」と呼ばれた。又、「越中吉岡庄」と同様に、「河内金剛寺領」、「河内勧心寺」は共に「後白河上皇」の庄園
で在った。(※「日本庄園史大辞典」吉川弘文館)
■この寺は「聖武天皇」の勅願により「僧行基」が天平年間に草創しその後、「空海」が修行して霊跡と成り、「後白河上皇」は高野山から丹生高野の両明神を勘請して鎮守護法の神とされて伽藍の整備を進められ、東寺から本尊仏舎利を奉納され、寺号を「金剛寺」とされた。その後に河内の武将「源貞弘」は山野、田畑を寄進して寺の財政を安定させた。この「源貞弘」は源平の倶利伽羅合戦で死亡している。次いで、「後白河上皇」の「皇子守覚法王親王」の支配と成り、その時にこの寺は仁和寺末と成り、九条家の祈願寺と成った。
その後も「後鳥羽院」の中宮で九条家の「宣秋門院」の帰依を受けて、更にその後は、大覚寺統の「亀山法王」、「後二条」、「後宇多」、「昭慶門院」、「昭訓門院」と伝えられ、「後醍醐天皇」迄伝来した。
(※「越中吉岡庄」(文治三年三月成立)、「河内金剛寺領」(建久二年四月成立)、「河内勧心寺領」(治承三年八月成立)は「後白河上皇領」して見える。「越中吉岡庄」は大覚寺統に伝来して「後醍醐天皇」の時代迄「蓮華王領庄園」として伝領した事が「東大寺文書」から窺い知れる。
《「日本庄園史大辞典」吉川弘文館》)
■後醍醐天皇の真言宗の師の「東寺長者文観」と後醍醐天皇は東寺の仏舎利五粒を金剛寺住職の持仏に施入して、その仏像をその時の金剛寺学頭「禅恵」は正平八年に越中吉岡庄赤丸村の総持寺に伝えたとされる。
(※「越中総持寺に伝えられた千手観音像」の胎内に「正平八年御入り」の記載が在る。)
この翌年には、南朝の後村上天皇は北朝の天皇を拉致して金剛寺に入り、一時期には南北朝両朝の天皇が行在所に成った稀有な寺院で在る。金剛寺にはこの地域の武将で南朝の武将として戦った「楠正成」の武具等が奉納されている。