■「鞍馬山法筵寺」始末記
法筵寺は元越中吉岡庄(後の五位庄)赤丸村に在り、「川人山 鞍馬寺」と称し、その昔、京都の鞍馬寺を勧請したと伝える鞍馬寺(アンバイジ)七坊の内の一坊で、開基は宗良親王の随身の医師であったと伝え、『薬王』という薬を処方したと伝える。「薬王」については「礪波史」(和田文次郎著、明治32年発行)に鞍馬氏の販売広告が掲載されている。南北朝時代の戦乱の中で、寺侍の浜木三郎佐衞門の所領地の福岡町の一歩二歩に移ったが、赤丸城主中山氏により数回に亘り、焼き討ちされたと伝える。(※「福岡町史」)
「法筵寺」は浄土真宗が北陸に広がった時代に、元真言宗の法筵寺が一向宗に改宗した時の住持「峰筵」の名から法筵寺になった。「福岡町史」に拠れば一向宗になった時に本尊を井波の瑞泉寺へ納めたとしている。これは調べるとどうも脚色が加えられている様だ。
瑞泉寺宝物殿には平安期に造られたと云う富山県指定文化財の「阿弥陀如来立像」が保管されているが、瑞泉寺では「客仏」と呼び、瑞泉寺の話に拠れば、約五〇年前に小矢部市の山本氏から寄贈を受けたと云う。山本氏に確認した所、山本氏の父が近くの寺院の長持ちに入っていたバラバラの仏像を修復して自宅に祀っていたが、瑞泉寺から「この仏像は後小松天皇縁の仏像と見られ、在家で祀る仏像では無い。」との説明を聞いて「井波瑞泉寺」に寄贈したと云う。後小松天皇と言えばトンチで有名な一休さん(一休禅師)の父で有り、足利義満の近臣として有名な蜷川新右エ門の所領の富山市蜷川に最勝寺を創建した瑞泉二代亀阜和尚が赤丸村の浅井神社で五位庄赤丸在住の藤原直家が父の十三回忌(明応四年十一月十六日、一四九五年)、十七回忌(明応八年十一月十六日、一四九九年)を営んだと記録している。これを「光厳東海和尚録」と云うがこの記録は「富山県史」にも記載されている。この藤原直家は興福寺の「大乗院寺社雑事記」を調べたところ、当時、能登を支配していた畠山氏の一族で、畠山義就の子の畠山修羅の命日と一致する事から畠山義就の嫡男畠山修羅(一四六八年~一四八三年)の子で幼い頃興福寺の宗徒の古市(藤原)胤栄に預けられた子供と見られる。
★この時期に「越中五位庄」は「室町幕府第三代将軍足利義満」により義満が創建した「相国寺」(※「鹿苑寺金閣寺」は塔頭寺院)に寄進されており、この後も足利家菩提寺の等持院~~等持寺に「五位庄」の半分が寄進される等、室町幕府、足利家と繋がりの強い荘園であった。この頃、「川人山鞍馬寺」「赤丸浅井神社」は足利家や家臣の畠山氏とも密接であったと思われる。因みに両部神道では「神前読経」と言われた神前で御経を読み上げる習慣があった。又、赤丸浅井神社には神前で歌を奉納する「法楽」が在り、「相国寺」の僧で連歌の「宗祇」が「五位庄」に一年近く滞在したと言う。
■「井波瑞泉寺」では、「この仏像は福岡町史に載る様に、赤丸に在ったと伝える法筵寺の仏像であるとする説に賛同するが、足に法筵寺の墨書が有るという事実は無い」と云う。山本氏に拠れば、「この仏像が某寺院に伝わる前は老女が保管していた仏である」と云う。元鞍馬寺の寺侍の家系で長年法筵寺の総代をされていた某氏に拠れば、「五〇年ほど前であれば法筵寺の鞍馬可寿子住職が選挙に立候補された時代である」と云う。昭和21年、戦後初の衆議院議員選挙が行われて鞍馬可寿子氏(新日本婦人党)が38人中紅一点立候補して落選、昭和23年、戦後第二回の富山県知事選挙が行われ、5人が立候補した。その中に鞍馬可寿子氏(35才・僧侶)が福岡町から再度、無所属で立候補している。その時には選挙資金作りに相当苦心されていたと云う。瑞泉寺にこの仏像を寄進された山本氏の御子息にヒアリングして調査した所、この仏像は元々はあるお婆さんが所有していたが南砺市金戸一〇七(城端駅より歩十七分)の「專徳寺」という寺に移りこの寺で長持ちの中でバラバラになって保管されていたが、後に山本氏が自費で修復して瑞泉寺に寄贈されたと云う。鞍馬氏が立候補されたのは35才であるが当時、住職が亡くなり鞍馬可寿子氏が住職を継いでいた頃で有り、「福岡町史」にもこの仏が川人山鞍馬寺の本尊であると記載される事からこの経過には違いがなさそうである。
法筵寺の持仏にはもう一つの「阿弥陀如来立像」があり、この仏像は鎌倉期の仏像と伝えられている。この仏像は、鞍馬住職が亡くなった後、寺坊の維持が困難になった為、法筵寺から先祖が婿入りしていた縁で福岡小学校隣地の林照寺(福岡町大野)に預けられた。
他に、法筵寺寺宝で県内最古の仏教画「釈迦十六善神像三幅」※高岡市指定有形文化財 は、法筵寺と付き合いが有った当時の福岡町の学芸員を介して「福岡町歴史民俗資料館」に寄贈された。これは後醍醐天皇第八皇子宗良親王所縁の仏画として伝わっている。
法筵寺は二十一世博文師が昭和五十九年に亡くなった後、可寿子師が住職の資格を取り維持していたが、二十二世可寿子師は平成十六年に亡くなり、寺は無住となる。敷地内には宗良親王の随身であった先祖の墓と伝える石積みと五輪塔が残っている。(五輪塔は鎌倉~室町時代に盛んに作られたとされる。)