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「神保長誠」は、明応2年(1493年)室町幕府弟10代将軍足利義材を越中に迎え、「越中国放生津」でせ越中の足利政権の臨時政権を支えた。
▼徳川幕臣となった「神保長職」の子孫が住んだ「神田神保町」
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●越中に展開した二つの『神保氏』⇒『寛政重修諸家譜』に拠ると、越中に展開した神保氏には渡来系で秦の始皇帝の末裔とされる「秦氏」の系統の「惟宗氏」から派生した『神保長誠ナガノブ』の系統と、桓さ武平家由来の「平姓良文流」の『神保氏張』の二つの系統が在る。しかし、系図を見ると、「寛政重修諸家譜」には『神保長誠』の祖先の「神保山城守」は「橘氏系神保氏」と記されており、長誠系は当初は橘氏系を名乗ったが、後には惟宗姓を名乗っている。
■『長誠系』の「神保氏」は、神保長誠を祖先とする「神保茂政系統」と、更に『神保三郎重利』の嫡男、二男、三男、四男の系統に分かれている。初代の「越中宮崎城城主神保山城守」は「橘氏系」とされているが、その子供達は「惟宗系」と註釈が付けられている。
■惟宗系神保氏は子孫が大きく拡がった為に、非常に難解だったが、神保茂政系は豊臣秀吉に従って6000石、関ヶ原で徳川に従って1000石の加増を受けて計7000石の大身の旗本で在った。
一方、神保長誠の子供の神保三郎重利の二男は日光山の家康廟を管理したりして多摩地区に900石の知行を受けて、その子供の長治の代には江戸城近くの神田に屋敷地を拝領している。この系統は幕府の軍奉行も行って、幕末にはその子孫の「神保伯耆守」の屋敷地自体が軍の施設になっていた様だ。この敷地は明治五年に新しく地番が設けられて、後の神田神保町の元になった町づくりが行われ、それが、現在の「本の町」の「神田」の原点になっている。
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